アブラハム・クルズヴィエイガス インタビュー

滝のそばで – すべては必然として
インタビュー / アンドリュー・マークル


Installation view, “The Water Trilogy 2: Autodefensión Microtonal Obrera Campesina Estudiantil Metabolista Descalza” at Ginza Maison Hermès Le Forum, Tokyo, 2017. Photo © Nacása & Partners Inc., courtesy Fondation d’entreprise Hermès.

I.

ART iT あなたの制作や『水の三部作』の背景となるものについて考えながら、一方に国民国家、近代化、均質化、もう一方に社会組織、土地利用、天然資源へのオルタナティブなアプローチを配した緊張関係におけるひとつの点、「先住民」という言葉に何度も立ち返ることになりました。こうした緊張関係は、政治的、社会的な問題において、南北アメリカおよび世界各地で長年にわたってさまざまな形で姿を現してきました。最近の例をあげれば、アメリカ合衆国ノースダコタ州の石油パイプライン建設に対するスランディングロック・スー族の抗議運動がありますね。こうしたことを考えることは、アートやカルチャーの分野における普遍的な価値と個別的な価値の対立について考えることにも繋がるのではないでしょうか。このようなテーマについて、どのように考えていますか。

アブラハム・クルズヴィエイガス(以下、AC) 『水の三部作』のことを話す上で、「先住民」からはじめるのはとてもいい出発点だと思います。あなたがおっしゃったような問題に対して、アーティストが積極的な態度を示すのは大切なことです。たとえば、スタンディングロック・スー族の抗議運動にも、オスカー・トゥアゾンが積極的に参加しています。『水の三部作』の構想段階から、私はテーマのひとつとしてではなく、現実的な問題として「水」を扱おうと決めていました。つまり、単なるメタファーではなく、今まさに起きている出来事として扱うということですね。

一般的に、アーティストはこれとは逆のアプローチをとることが多い。つまり、政治的な物事をテーマとして扱い、それによってさらなる作品の評価を得るということ。必ずしもアートが政治的でなければならないということではありません。積極的に関わるということは、まず、問題の源泉に働きかけ、行動すること。それは地元で友人や親類に働きかけることでもあり、ただプラカードを持ってデモに出かけるだけでなく、できるだけたくさんの人と問題について話し合うことでもある。もちろんデモも重要です。ただ、それは唯一の方法ではない。

だからと言って、説教くさい作品をつくるつもりはありません。誰かを教育したいわけではないし、アートは誰かに教えるためのものではなく、自分自身のために学ぶものですから。それに、アートはコミュニケーションの道具にはならない。むしろ、正反対です。ほとんどの人には矛盾しているように映るかもしれませんが、私はこうした考え方を好んで受け入れていて、そうでなければ、アートがサービスのひとつになってしまいませんか。また、アートが民族学的視線のカリカチュアに陥ってしまわないことも大切です。どういうことかと言うと、「かわいそうなインディアンたち。土地を失い、環境を壊され、伝統も消えてしまう危機に晒されて……」などという気持ちに陥らないこと。それは彼らの問題で、決して私たちの問題でも、私の問題でもない、というように。

10年以上前にロサンゼルスで個展を開いたとき、出品した彫刻すべてに自然災害や、人間が厄災を外部の力に投影する傾向に関連するタイトルを付けました。あのときすでに「ナマズ」というタイトルの作品もありましたね。ここには「僕じゃない、こいつが津波を引き起こしたんだ」というメンタリティが窺えますね。メキシコの著述家、セルヒオ・ゴンサレス・ロドリゲスはその著書『Campo de guerra(戦場)』(2014)で、メキシコ社会に蔓延する暴力や政治的腐敗、そして、それらが家庭内暴力から麻薬取引や政府にいたる全体にまで、どのように広がっているのかを分析しています。これこそ、真のカタストロフィです。彼はアナモルフォーシス(歪像)のアナロジーとして、ハンス・ホルバインの「大使たち」に描かれた、気品あるふたりの男性の手前に浮かぶ正体不明のものについて書いています。正体不明のそのものの形は、ある角度から見ると頭蓋骨、つまり、「メメント・モリ(死を想え)」として表れてくるのですが。こうして、ロドリゲスは私たち自身も問題の一部なのだと自覚せずに遠巻きに見ているだけでは、社会を変えるなんて、また、水害や暴力、麻薬取引、人身売買、移民問題などを乗り越えるなんて不可能だと述べています。私たちは自分も問題の一部を成していることを受け入れなければなりません。私はその問題である、と。それを受け入れること。私はナマズである。そう、ナマズになるって素敵じゃないですか。私は麻薬取引人であり、破壊者であり、暴力である。私はあなたである、と。

ART iT そのように認識できたら、次の段階や行動はどういったものになりますか。

AC 「次」よりも事前の行動について話しておきましょう。私が学ぶための装置として「水」について考えはじめたきっかけとして、ある具体的な事実があります。私が生まれ育ったメキシコシティのアフスコ周辺は、恒常的な水不足を抱えていました。そこは違法に移り住んでできたコミュニティだったので、電気、ガス、水道といった公共設備や学校、商店といった基本的な権利を獲得するのに長い時間がかかりました。基本的な権利のために争った人々、そのほとんどが女性によって組織されていました。私の母は30代で私を産み、現在74歳。母はそもそも活動家になるつもりはなかったのですが、生き延びるため、そのために必要なあらゆるものに対する切迫感から活動に参加していったそうです。これはドラマではなく、現実の出来事。こうした活動に参加した女性はみな、未だにユーモアに溢れていますね。近年、彼女たちは地元で新しい事業を展開している建設会社が豊富な水源を見つけていたことを暴露しました。その企業は水源を隠したまま、水を下水へと流すパイプをつくり、水源のことが行政にバレないようにしていました。慢性的な水不足に悩む地域で、彼らはきれいな水を捨てようとしていたのです!そこで、彼女たちは抗議に集まり、建設中止のための座り込みを二年間続けました。彼女たちは何度も暴力に晒されたり、連行されたりしましたが、政府は軍隊や警察を使って、住民ではなく建設会社を守っていました。建設会社がこの水は水質が悪いのだと主張してきたときには、抗議運動側の人々はサンプルをメキシコやアメリカ合衆国の大学に持ち込み、飲用可能の裏付けをとりました。ここに参加した70代の女性のグループのほとんどは字が読めないにもかかわらず、抵抗するために自分たちで問題を知るためのセミナーを企画しました。この可能性を秘めた最も美しい道具こそが、学ぶための装置です。というわけで、次の段階は何か、それはあなたであり、自分自身なのです。

とはいえ、私は政治家ではなくアーティストです。だから、自分の道具を使って、混沌としていたり、ふざけていたり、意味のないものをつくり、それらを自分がいる状況に使えるものを探している人々と共有する。アートが普遍的なものであるなんて言おうとしているわけではありません。アートはローカルな物事から生まれてきます。私にとってローカルとは、自分の手元にあるもののこと。そして、私は普遍的ではなく、とてもローカルな存在。それでも私はあなたと問題の源泉を共有できると思っているし、あなたにもそれをわかってもらえると思っています。


Horizontes (Part 1 of 3) (2005), acrylic enamel glossy pink paint and chalk-board green paint on 266 found objects, dimensions variable. Courtesy Abraham Cruzvillegas and kurimanzutto, Mexico City.

ART iT また、先住民は国家の法的枠組みのもとで保護されている権利や資格におけるダブルスタンダードを明らかにしますね。ある人たちが権利や資格を平等に持っていないことに、私たちは何度も気づかされる。国家は「慣習的にはあなたたちの土地なのですが、私たちはここにパイプラインを通さなければならないのです」と安易に口にします。

AC その通り。その態度は、私にはあなたに権利を与えない権利があるというものです。権利は自分自身のもので、自分自身に権利を与えるのであって、与えられるものではありません。私の母は人生を通して自分自身を変えていき、現在は地域のラーニングアソシエーションを運営しています。母は誰かに教えるということはしていませんが、あなたがまさにおっしゃったこと、つまり、自分たちの権利についてコミュニティとともに学んでいます。ほかにも、「NO」という方法など。彼女たちは実際に水源がある場所でミーティングを企画し、アリゾナから来た人々とさまざまな問題について話し合っています。彼女たちとアリゾナの人々ではもちろん抱えている問題は異なりますが、権利という共通点があるし、人間であるということも共通しています。普遍的な問題ではないかもしれないけど、人間の問題としてある。もちろん、物事は決裂することもあります。文化的に実質的な繋がりはないけど、お互いに話し合うことができるなら、決裂もまたいいかもしれません。

ART iT これまでの作品では、ナラティヴや象徴的な要素を意図的に省こうとしてきたと思いますが、『水の三部作』では、水に特別な重要性を与えていますね。

AC そうですね。私は頻繁に自分の考えを変えていて、ひとつのプロジェクトを繰り返すようなことはしません。やると決めたら、常に新しいものをつくる。それはただ単に新しいものをつくるということではなく、学ぶということ。新しいプロジェクトに取り掛かるたびに、ローカルなものから学び、ローカルなものの中で自分自身について学ぼうとしてきました。ご存知の通り、私の主要なコンセプトやプラットフォームのひとつは「自己構築」です。それは、あらゆる新たな必要性から形を変えたり、再構築されたりする仮設のもの。たとえば、「自己破壊」や「自己錯乱」として仮設の形が変わる。学ぶことを通じて絶えず変化しようとする。そして、その過程において、私はプラットフォームとしての「自己構築」というところから、よりナラティヴなアプローチに移行しているところです。とはいえ、この新しいアプローチも私自身のナラティヴというわけではないから、かっちりとしてものではなく、自伝的なものでもありません。自分の経験を素材、または参照や道具として使うけど、自分自身について語るわけでもないし、何か特定のものについて語るわけでもありません。このエルメスのプロジェクトで、ナマズとか中銀カプセルタワーとか、ローカルなものを扱いましたが、決してそうしたもの「について」のプロジェクトではありません。説明臭くなるのは嫌いです。ナラティヴは私をより遠くまで連れていってくれるし、普段は同じ場所を共有していないものたちをいっしょにしてくれる。たとえば、メキシコのウアステカ地方の伝統音楽とナマズ、日本人ではなくアメリカ人のアーティスト、イサム・ノグチ、メキシコやさまざまな場所の日常、そういったものをいっしょにし、このレンゾ・ピアノが設計した美しい建物もいっしょにしてしまう。内側にいると気がつかないかもしれないけど、このプロジェクトにはピアノの存在は不可欠で、建築に応答することで数々の決定を下しました。建築マニアではないけど、環境に抗うのではなく、環境とともに働くことは重要だと思っています。

(協力:銀座メゾンエルメス フォーラム)

アブラハム・クルズヴィエイガス インタビュー(2)

アブラハム・クルズヴィエイガス|Abraham Cruzvillegas
1968年メキシコシティ生まれ。メキシコ国立自治大学で教育学を学ぶとともに、ガブリエル・オロスコの主宰する「Taller de los Viernes(金曜のワークショップ)」(1987-1992)に参加。幼少期を過ごしたメキシコシティ郊外のアフスコに暮らす人々のセルフビルドの手法に影響を受け、「Autoconstrucción(自己構築)」という概念に基づいた、場を解釈し、即興的に制作する手法を展開。80年代後半から90年代にかけて、メキシコシティで起こったコンセプチュアル・アートの潮流の中心的な作家のひとりとして知られる。主な個展に『Empty Lot』(テート・モダン、2015)、『Abraham Cruzvillegas: The Autoconstrucción Suites』(ウォーカー・アート・センター、2013;ハウス・デア・クンスト、2014)など。また、ドクメンタ13(2012)や第50回ヴェネツィア・ビエンナーレ(2003)など数多くの国際展にも参加。2012年には韓国の第5回ヤンヒョン賞を受賞している。日本国内では、2014年に東京のラットホールギャラリーで個展を開催している。
2017年4月から銀座エルメス フォーラムの個展は、クルズヴィエイガスが2017年にパリ、東京、ロッテルダムの三箇所で開催する一連の個展『水の三部作』の第2章にあたり、建築運動「メタボリズム」を代表する中銀カプセルタワービルや、イサム・ノグチのランプやテーブルなどにインスピレーションを得て、紙や木材といった水との深い関わりの中で生まれる資材を用いたインスタレーションなどを発表した。

「水の三部作2」アブラハム・クルズヴィエイガス展
2017年4月21日(金)- 7月2日(日)
銀座メゾンエルメス フォーラム
http://www.hermes.com
展覧会URL:http://www.maisonhermes.jp/ginza/le-forum/archives/405257/

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