ラヴ・ディアス インタビュー

すべては映画にたどり着く
インタビュー / アンドリュー・マークル


All images: Lav Diaz – Norte, the End of History (2013). © Raymond Lee & Lav Diaz.

ART iT あなたの作品に繰り返し現れているテーマは、初見ではわかりづらいのですが、「解放」だと考えています。『Century of Birthing』(2011)では、カルト教団がその信者に魂の解放を約束するものの、実際、信者はある種の精神的奴隷になってしまうという現実がある。一方、インテリの写真家はその教団から若い女性を解放しようとして、彼女を犯し、彼女の自我を破壊してしまいます。あなたの作品における「解放」というテーマはどのように描かれてきたのでしょうか。

ラヴ・ディアス(以下、LD) 私たちはみな、自由や解放や贖罪に対する自分自身の捉え方や視座を持っています。解放という問題の真のあり方を知る人などいるのでしょうか。それはすべてその人の文化、背景、歴史次第で、人生をどのように捉えているのかによるでしょう。私は登場人物を劇画調に誇張するのではなく、常に深みを持った登場人物を描きたいと考えています。ひとりの人間の中にも善と悪は共存しているわけで、完璧な人間などいません。出ているのは、私が現実的だと思える人物たちです。あの写真家は自分が女性を解放していると考えるのですが、実際には彼女の解放に対する認識を壊していってしまう。彼はカルト教団の教祖と同じく、倒錯したヴィジョンを抱え、自分が人間らしさを救済しているのだと信じ込んでいます。そこに判断などというものはありません。

ART iT あなたの作品はフィリピンの歴史上の出来事とも強く関係しているのですが、それによって、作品はしばしば歴史の寓話として、少なくとも、歴史への言及という機能を果たしていますよね。

LD そうですね。私の映画はとても寓話的です。各作品は歴史がいかに人間性に影響を及ぼすのか、そして、意識の有無に限らず、その人間性がいかに人間としての我々に影響を及ぼしているのかということに対する言説としてあります。あなたは歴史、つまりは文化的歴史や国家の歴史の帰結であり、好もうが好むまいが、そのような歴史の縮図としてあなたがいるわけです。それは経験に基づいて、課されているものなのです。

ART iT あなたの作品は歴史から逃れる手段も指し示していると言えますか。

LD 私たちは歴史から逃れられません。すべては結果である。ドイツの歴史の展開の果てにヒトラーがいて、それによりヨーロッパが破壊され、世界もまた破壊されたのであり、結果から逃れることはできません。

ART iT ところが『北(ノルテ)—歴史の終わり』のファビアンという登場人物に描かれるファシスト、マルコスの誕生に目を向ければ、観客が自分自身や自分たちの共同体の中にファシストを認識できる可能性が込められており、なんらかの方法でそこに反応しているとは言えないでしょうか。

LD そのような解釈には賛否両論あります。認識しない人もいますし、認識できる人もいる。観客次第ですね。否定的にも肯定的にもとれますが、それはただそこにあるのです。私が観客に伝えているのは、ある出来事がこういう風に始まったという事実で、それは才気あふれる若者が社会を変えようと必死になっているけれども、彼はそれを自分の残忍なやり方で成し遂げたいと考えているということ。そして、その結果として現在の私たちがあるのだということです。フィリピンの暗黒時代はあのようなファシズム的で厳めしい、誇大妄想的な視座から始まりました。ですから、映画は寓話的ですが、現実的でもあるんです。そして、それは今も進行中です。フィリピンの人々がこの作品をそのように解釈し、ほかの国の人々もそう解釈してほしいと願っています。ファシズムは非常に現実的なものです。そして、それは私たちの歴史の一部でもあります。ファシズムはかつて日本を破壊し、ドイツを破壊し、世界をも破壊しました。

ART iT おっしゃる通りあなたの作品は寓話的です。しかし、その一方では論争的なアプローチを避けていますね。

LD 教訓じみたものにしたくないので。だからこそ現実的な登場人物が必要なんです。プロパガンダ映画にはしたくない。アート、とりわけ映画にはプロパガンダの居場所はありません。登場人物を現実的に描くことができれば、あとは対話を提示するだけで観客は理解してくれるでしょう。そうした対話における力学を見せる方がいい。ソクラテスみたいであるべきでしょう。ある具体的な視座を示すのではなく、そういうことを求めています。

ART iT 若き知識人として自分の人生を田舎の学校の教師に捧げたあなたの父親について書かれたものを読んで感銘を受けました。それは私の中で戦後日本の学生運動の理想主義、社会を形作る役割を懸命に果たそうとした人々と結びついたのですが、危険を冒してまで内戦の最中に教育を続けることを選びとったあなたの父親みたいな人々の献身や使命感には感嘆してしまいます。あなたはそんな父親を『北(ノルテ)』のファビアンが持つ「マルコス」的な特徴の表裏を為すものとして考えていましたか。

LD 父は非常に利他的な人でした。彼は絶えず人々を教育することや教育が人生を救うことについて考えていました。悪はすぐそこにあり、今起きていることを判断しないと出来事は悪い方へと向かっていきます。それは今、再び起きていることで、中国はこの地域のあらゆる場所で権力を振るい、北朝鮮はあらゆる人々を恐怖に陥れようとしています。ボタンを押すだけで私たちは全滅し、あらゆるものが破壊される。非常に物騒な時代で、主要国はみな核兵器を手にしています。今日のこの大雪のように、気候に起こっていることでさえも予兆的ですよね。本当に真っ暗です。
まさに今朝、昨日マニラで起きたバス事故で私たちの友人が亡くなったとの知らせを受けましたんです。彼は素晴らしいアクティビストで、俳優で、コメディアンで、政治家で…そんな彼が昨日亡くなってしまいました。無責任が原因でした。バスの運転手の居眠りで事故が起こり、14人が亡くなった。それがすべてです。気をつけなければ、あらゆることは悪い方へと向かってしまう。

ART iT ご友人のことは残念です。しかしながら、あなたは『北(ノルテ)』の中で、既にエリザがバス事故で死んでしまう場面を描いています。

LD この映画のポイントのひとつは、そうしたことがいつでも起こりうるということです。プロデューサーのモイラと私はこの映画の最後に起きたことが、まさにマニラで起きてしまったことに愕然としています。人生とは悲劇的なものです。

ART iT 人生はメロドラマでもあると思いますか。

LD 人生こそがメロドラマです。私たちがこうして話しているのも非常にメロドラマ的です。こうして現実の世界について話していることも。物事は極めて抽象的に扱えますが、人間は結局のところ非常に原始的です。どんなに防ごうとしても、私たちはあらゆるものを感じます。気づかぬうちに物事があなたの胸を打つ。感情は理性に先立ち、私たちは常にそれを逆転させよう、人生を知的なものにしようと試みますが、メロドラマは毎日繰り返される。貧しい男がお金をせがんでくるのを見て、あなたは同情するでしょう。それはまさしくメロドラマです。感情が先に来る。別れ際に手を振っている母親が孤独に見える。それが悲しい。これは非常に現実的なことです。仕事を失った父親がお酒を飲んでいる。友人が中毒にはまっていく。また、自分の国の大統領が国のお金をすべて横領している。これらもすべて悲しいこと。これがメロドラマです。逃れようとしても、これらは非常に現実的なことなのです。そのようにメロドラマを定義しています。リアリティ!それこそが私たちの存在の最も原始的な側面なのです。

ART iT 『Century of Birthing』、『北(ノルテ)』の両作品で強く印象に残ったのは、複数の世界やリアリティが共存していることでした。前者ではシュルレアルな形でそれらの境界線が曖昧になっていき、後者では非常に微妙な形で、ただ単に偶然近所の同じ高利貸しを利用していたために、主要な登場人物たちの人生が変化していく。そこにはつかの間の関係性が生まれ、そこから彼らの世界は異なる方向へと進んでいきます。

LD それが映画なんです。例えば、あなたをカメラでフレーミングすると、フレームの外にはもうひとつの世界が存在する。人生とは映画なんです。私の隣りにいる彼女、それから私の向かい側でコーヒーを飲んでいるあなた、そして、ここに私が座っている。ここからどんどんカメラが離れていくと、私たちはみな同じフレームの中に入り、同じ世界を共有できます。私たちはみな関係している。人生という名の見えない重力を通じて、互いに押したり引いたりしているのです。それは決して明確には説明できない謎なんですが。

ART iT それではあなたにとって、カメラとはどういう存在ですか。

LD 窓ですね。世界全体を映したいと思うのですが、このとても小さなフレームしかないので、広大な宇宙から小さな宇宙をつくりださねばなりません。しかし、あらゆるものは繋がっている。映画とは人生であり、そこに終わりはなく、私は世界全体の内にある非常に具体的なひとつの物語をフレーミングしようとしているだけ。80億の人々がいて、私がその中の3人をフレーミングしても、そこにはまだ80億の物語があって、それらはすべて繋がっている。世界全体を撮影して、それを観ることができたらいいのですが。

ART iT あなたにとって、リアリティとフィクションとの間に違いはありますか。

LD リアリティもフィクションもありません。それがナラティブであれドキュメンタリーであれ、自分たちの物語があるだけです。実際に起きている感覚を掴もうとしているので、たとえそれがフィクションだとしても、それはリアリティだと言える。撮影では通常、長回しのテイクを一度だけ撮ります。細かいカットを繋ぐのは、カメラを動かすことができずに、編集でその部分を繋がねばならないときだけです。 それは加工することなく、できる限り真実に近づこうとしているからで、長回しのテイクによって真実の相貌を掴もうとしているのです。役者がいても変わりません。それは記録された体験です。役者たちもテイクが一回しかないこと、そして、監督の私がそれを後から加工しないことを知っているから、彼らはそのシーンを演じるときに持っているすべてを出さねばならない。
短いカットを繋ぐ、その手法はハリウッドで未だに使われていますが、それは非常に巧みに操作されていて、編集の手の内にあるものだと考えています。

ART iT 恵比寿映像祭の特別上映で行なわれたQ&Aにて、あなたは未だに映画を学んでいるとおっしゃいましたが、初期作品から現在にかけて、あなた自身の実践がどのように展開してきたのか教えていただけますか。

LD 実践は距離を生み出します。それにより、ある地点で自分自身の美学や方法論、フレームワーク、プロセスといったものを振り返ることができます。当然ですが、いわゆるフィルムスクール的なものを撮ることから始めました。カットを繋いだり、パンやティルトを使ったものです。フルショット、ミディアムショット、クローズアップ、カットアウェイとあらゆる撮り方、編集が後で繋ぎ合わせられるものを撮影しました。非常に退屈なものですが、映画製作のありふれた方法です。フレームの構築やそれをどう見るかといったことを説明することはありません。編集に任せ、台本に従うのみ。
従来の方法に対するオルタナティブな方法論やフレームワークをつくりあげるのに苦労しました。私の映画はすべてのシーンがひとつのフレーム内で発生し、編集で早めることができないため、長時間になります。全てのシーンがそのように繋がっているので、作品時間は長くなってしまいますが、実際、それは比較的短い時間だと思うのです。そう、私の映画は実はすごく短い。人生のごく一部を見ているにすぎません。登場人物を追うだけでなく、宇宙全体を取り込みたい。宇宙全体を見て、もうひとつの世界へとフレームを押し込みたいのです。私は3人をひとつのシーンにフレーミングしましたが、そのとき、ほかに80億人もの人々が動いている。映画は私がつくりあげようとしている世界に面した小さな窓なんです。とはいえ、私の文化において、マレーの人々は本当にゆっくり暮らしているんですね。遡ってみると、そこには時間という概念がありませんでした。ただ人生があって、待っている。太陽が上るのを。作物が育つのを。そして、収穫を待つのです。暮らしている場所で起きることに準拠しているのです。

ART iT インターネットの登場、国際映画祭サーキットの存在に伴う今日のグローバリゼーションという状況下において、いわゆるナショナル・シネマと呼ばれているものが持つ可能性についてどのように考えていますか。

LD 監督や登場人物から、いまだにこの映画をフィリピンのものだと同定することは可能でしょう。フィリピン社会が描かれていますし。しかし、あらゆるものがVimeoやYouTubeで見られるとき、ナショナル・シネマをどう定義できるのかわかりません。すべてがグローバル化している。そこでナショナル・シネマはただ監督を同定しているだけです。監督がフィリピン人であればフィリピン映画、監督がアメリカ人なら、それはおそらくアメリカ映画でしょう。しかし、それがどうあれ、それはただ単に映画である。そこにもはや境界線はありません。

ART iT それではインターナショナル・シネマはどうでしょうか。

LD インターナショナル・シネマなどない。あるのは映画だけです。インターナショナルという言葉はとてもばかばかしく、恥ずべきものです。履歴に「国際的[インターナショナル]なアーティスト」と載せる人が必ずいますが、なんですか、あれは。インターナショナルとは何を指しているのか。インドやインドネシア、そのほか、どんなところの小さな村を扱った、いかなる物語であれ、人は常にそれに繋がることができます。それに当てはまる境界線や民族、ジェンダーなどありません。観客に見せる小さな宇宙があり、非常に原始的な側面から知的なものに至るまで、彼らはそれに繋がることができるのです。

ART iT その通りですが、例えば自分が受けた影響について話すとき、タルコフスキーであればほとんど誰もが知っているので、そのまま話すことができますが、リノ・ブロッカに言及すると、それはよりフィリピンの文脈に特化することになります。このように、すべてがインターナショナルであるという限りで、今でも異なる流通範囲というものが存在しますよね。

LD そうですね。インターナショナリズムという概念は以前にも増して境界線として存在していますが、その境界線はすべて破壊されていき、そこにはただひとつの世界、映画があるだけです。おそらくロッテルダム国際映画祭からロッテルダム映画祭に名前を変えるべき。「インターナショナル」なんて捨てちまえ、と。

ART iT ナショナル・シネマという古典的な概念について考えるとき、それはある特定の共同体の関心を統合する使命や目的といった強固な感覚に推進されたものであると考える傾向がありますが、グローバル化している映画に伴う危険は、それが商業化や消費に陥ることではないかと考えているのですが。

LD そうですね。国家というものはブランドになります。大島渚の作品を観るにあたって、まずは日本映画として観る。とはいえ、『愛のコリーダ』(1976)、その中で彼がいかに旧来の日本の制度の価値観を批判しているかを観るのは、ほかの文化にとっても意味があり、私たちはそこに繋がることができる。これはもはや日本映画ではない。それは私たちについての映画であり、人間についての映画なのです。
黒澤明の『羅生門』(1950)を観てみると、真実の相対性に対するこの映画の論争があらゆる社会にとって有効だとわかる。登場人物が日本人で、物語の舞台が日本、監督が日本人だというだけのこと。そこにはもはや境界線も民族もなく、いわゆるナショナル・シネマというものは忘れられるでしょう。
ポスト境界線、ポスト真実、あらゆるものの“ポスト”へと物事を進めていき、あらゆるものを消去していくことで、そこには何も残らなくなり、人間だけ、人生だけが残る。
それは『北(ノルテ)』のファビアンの言葉でもあり、彼があのようなひねくれ者になった理由を説明するものでもあります。彼は酷くねじれているので、自分自身の哲学をよりよき人生の理解へと進めることができなかった。押し付けがましく、自己陶酔している彼は、物事を切り拓けずに生き地獄へと落ちていき、それ故に独裁的な人物になってしまった。彼は開放的になれず、自分の周りに壁をつくっていた。彼が自分のやり方を無理強いしたために、彼の人間性は破壊されたのでしょう。そんな人物はこれまでにもいました。ヒトラー、ムッソリーニ、スターリン、マルコス…。こんなことは二度と受け入れられません。

ラヴ・ディアス|Lav Diaz
1958年ミンダナオ島生まれ。マルコス独裁政権下で触れたリノ・ブロッカの『マニラ・光る爪』(1975)に影響を受けて映画を志す。98年に『バリオ・コンセプシオンの犯人』を監督した後、アメリカ合衆国で殺害されたフィリピン移民の少年の事件の捜査を担当する同じく移民の刑事を追う6時間15分にも及ぶ『ウェスト・サイド・キッド』(2001)や、貧しい農民一家の生活を71年から87年まで描いた10時間43分の『あるフィリピン人家族の創世』(2004)といった長尺作品を発表する。その後も、台風で全滅した村のその後を前半はドキュメンタリー、後半は劇映画として描いた『エンカントスの地の死』(2007)ではヴェネツィア国際映画祭オリゾンティ部門のクロージング作品として上映され、金獅子賞特別表彰を受賞し、翌年、全編白黒の詩的な映像で構成された『メランコリア』(2008)で同映画祭オリゾンティ部門のグランプリを獲得している。
今回、2013年のカンヌ国際映画祭の「ある視点部門」で上映された『北(ノルテ)―歴史の終わり』(2013)が山形国際ドキュメンタリー映画祭と東京国際映画祭の協力のもと、『第6回恵比寿映像祭 トゥルー・カラーズ』(2014年2月7日-2月23日、東京都写真美術館ほか)にて上映された。

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