第54回ヴェネツィア・ビエンナーレ ドラ・ガルシア(スペイン) インタビュー


From “The Inadequate,” Spanish Pavilion at the 54th Venice Biennale.

1965年スペインのバリャドリッド生まれ、現在はブリュッセルを拠点とするドラ・ガルシアは、ライブアクション、美術館などの公共施設、そしてウェブを駆使してパフォーマンスと傍観との関係性を探る。第54回ヴェネツィア・ビエンナーレのスペイン代表として選ばれており、『The Inadequate』と題した展示を行う。ヴェネツィアのプランについての詳細や、そのプランと美術家としての活動全体との関係性についてART iTが話を聞いた。

インタビュー

ART iT あなたは、筋書きに基づいた行為と即興的な行為との関係性、そして人の行動が置かれた状況によりどのような影響を受けるのかについて考えるプロジェクトで知られています。一国の代表者となるこの状況は、あなたのヴェネツィア・ビエンナーレへのアプローチにどのような影響を及ぼしているのでしょうか? このことは展示の中でも直接言及するのでしょうか?

ドラ・ガルシア(以下、DG) ある国を代表するということはとても不安です。ナショナルパビリオンという形式は明らかに時代遅れだと思っています。その時代錯誤こそがナショナルパビリオンのデフォルトであり、しかし同時に美徳でもあります。そもそもヴェネツィア・ビエンナーレとは恐らく、美術とはあまり関係のないものではないかと思います。現代美術とは短時間かつ大人数で鑑賞するようにできていませんが、ヴェネツィア・ビエンナーレを訪れる人は展示の中を文字通り走り抜けていきます。全てがなんだか滑稽で、それもまた長所でも短所でもあります。だから私はこういった矛盾や不安感を正直に取り扱うプロジェクトを作るように心掛けました。ヴェネツィア・ビエンナーレのために特別に作ったプロジェクトではありますが、多分、そういった場に全くそぐわないものなのではないかと思うので、「The Inadequate」[不適切、不充分]と名付けました。

ART iT ヴェネツィアでスペイン・パビリオンの代表を務めることに決まった頃、あなたは社会と美術におけるマージンについて、レクチャーやセミナー、パフォーマンス、リサーチなどで構成される多角的なプロジェクト『Mad Marginal: antipsychiatry tradition and marginality as artistic position, inspired by the thought and activity of Franco Basaglia』[マッド・マージナル:美術の姿勢としての反精神医学の伝統とマージナリティー——フランコ・バザーリアの思想と活動を基に]を展開していました。ヴェネツィアの展示はあくまでも主流のイベントと見なすべきでしょうか? それとも異端者の居場所もあるのでしょうか? あなた自身もまたマッド・マージナルなのでしょうか?

DG 私自身がマッド・マージナルというわけではなくて、ただその大ファンなだけです。マッド・マージナルである彼らが好きですし、よく一緒にいます。私は一部の美術と一部の美術家が好きだから美術家になりました。そしてこのプロジェクトを含む全てのプロジェクトは彼らと時を過ごすための戦略です。ヴェネツィアは全てだと言えます。先程述べたように、美術よりも交流が重視された主流のイベントであり、しかし同時に関連イベントや取組みもたくさんあるので、どのような考え方や態度で臨んだとしても存在する余地があるのです。それならば、私の案もあってもいいのではないかと思いました。バザーリアはヴェネツィアで生まれましたし、確か亡くなったのもヴェネツィアでした。

ART iT 最近のパフォーマンスのプロジェクトでは例えば『ベガーズ・オペラ』の乞食のフィルチ、コメディアンのレニー・ブルース、俳優のウィリアム・ホールデン、映画監督のジャック・スミスなど、フィクションの登場人物や実在する人物を描写してきました。こういった人物に視線を向けることは、『Inserts in Real Time』シリーズなど過去のプロジェクトに見られるパフォーマンスへの姿勢からの方向転換を意味するのでしょうか?

DG いえ、以前のプロジェクトから継続しています。現実の時間へ組み込むことは当時「日常から殆ど区別できない地味なパフォーマンス」と呼んでいたものですが、地味であったにも関わらず、あるいは地味だったからこそ、もしかしたら常に何か——表現、パフォーマンス、演技、登場人物の出現——が起こっているのではないかと思わせる効果がありました。そこにゆっくりとコメディーおよびユーモアの感覚が現れ、批評の手段としてのコメディー(ブルース、スミス、ブレヒト)という発想と、「Verfremdung」(異化)の発想が、現在のパフォーマンス作品へと導いてくれました。


上: Just Because Everything Is Different It Does Not Mean That Anything Has Changed, Lenny Bruce In Sydney (2008), video HD, 60 min. Collection Centro de Arte Dos de Mayo, CA2M, Móstoles, Madrid. 下: Performance view of Real Artists Don’t Have Teeth (2010). Performer: Jakob Tamm. Courtesy Moderna Museet and Index, Stockholm.

ART iT あなたのプロジェクトの多くは、ご自身のウェブサイトや書籍といった形式の文章を通して詳細に記録されています。また、小説化について何度も言及されています。読者にとっては、例えば「The Glass Wall」の日記はパフォーマンスの中の演技と規範的な行動との曖昧な境界を思わせるかたちで記録とフィクションとの境界をぼかしますが、「The Notebook」から派生したテキストは一種の統合失調症的な文学作品のようにも受け取れます。文章や文学との関係についてお話を聞かせてください。

DG よく本を読みますし、幾人かの作家のファンでもあります。私にとってそれは知的であることとは関係なくて、ただ読むのが楽しいというだけです。短編小説から直接影響を受けた作品はたくさんありますし、「日記」——つまりパフォーマンスの後にくる文章——のアイディアは記録を残すことという常にある問題への解決策として思い浮かびました。カメラや録音機材がそこにあるだけで行動が変わってしまうように、記録を残すという行為はパフォーマンスに影響を及ぼし変えてしまいます。だからそういったものを排除しました。でもそうすると、どのようにして何が起こったか伝えられるものか? そこで日記の形式を思い付いたわけです。多くの場合は私が書いた日記でさえなくて、パフォーマンスを行なった人が書いたものです。でも日記からはフィードバックが発生します。つまり、昨日読んだり書いたりしたことは、今日の物事の在り様や見え方に影響を及ぼすのです。だから日記と小説からは更に脚本とスピーチとのアイディアが生まれ、どんどん演劇の方向に向かっていきました。

ART iT スペイン館での展示は過去の作品とはどのような関係になりそうでしょうか? 過去の作品に基づいたものになるのでしょうか? あるいは別の方向性を考えているのでしょうか?

DG とても自然な展開になると思います。私の作品はどれもなんらかの状況への反応で、それまでに作った作品と新しい状況との間に新たな均衡点を探します。ヴェネツィアの視点に直面したときの最初の反応は恥ずかしさと不安、何かがずれているかのような気持ちでした。だから手持ちのものをその気持に適合させようと試みています。

第54回ヴェネツィア・ビエンナーレ『ILLUMInations』は6月24日から一般公開。会期は11月27日まで。

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ヴェネツィア・ビエンナーレ——ILLUMInations: 第54回国際美術展

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