ボリス・グロイス インタビュー

アートに力は内在するか?
インタビュー / アンドリュー・マークル(※メールインタビュー)


Spread from The Blind Man, no. 2 (May 1917).

ART iT 著書『アート・パワー』を英語で出版した2008年から、あまりに重大な8年が過ぎました。この間に起きた数多くの出来事の中には、2008年9月の世界金融危機、オキュパイ運動やティーパーティーなど左右のポピュリズム運動の台頭、ギリシャ債務危機、ブレグジット、アラブの春、ISISの登場、欧州難民危機、ロシアのクリミア編入、中国の近隣諸国領海への侵入、キューバとアメリカ合衆国の国交回復がありました。また、イスラエルやトルコ、ポーランド、インド、日本、そして、アメリカ合衆国と、ナショナリズムや独裁性の強い政権が誕生する傾向も目にしてきました。現在という地点から振り返ったとき、本書に収録した1997年から2007年に執筆した論考はどのように見えますか。

ボリス・グロイス(以下、BG) 本書に収録した論考では、同時期に執筆したほかの数多くの論考と同じく、政治的なものと美学的なものの関係を論じています。近代を通じて、政治は美学化の一途をたどり、現在では政治化された芸術と美学化された政治が公共圏を支配しています。刊行から10年が過ぎた現在も、この支配に変わったことは何もありません。
本書のもうひとつの重要なテーマとして、美術空間におけるヴィデオやフィルムといった新しいメディアの使用法や、インターネット上の芸術の存在がありますが、ここにも本書で描こうとした状況からの根本的な変化は見当たりません。

ART iT 『全体芸術様式スターリン』や『アート・パワー』では、ソビエト連邦とナチス・ドイツのいずれにおいても政治は芸術を囲い込み、スターリンもヒトラーも前衛運動と同じ手法で自分たちのための未来の観客を作り出そうとしていたという説得力のある主張を展開していましたが、私には政治を形づくる芸術の力に対する、あなたの考え方ははっきりしないところもあります。現在の市場主導型のメディア環境の下で、芸術に政治を直接的に形成する力があると思いますか。それとも、それは常に遅れてくる未来の政治へと委ねられるものだと思いますか。

BG 前衛運動は政治的なものを含む公共圏を、その全体性において変えたいと考えていました。今日ではそのような計画に説得力があるとは思えませんが、しかしながら、芸術にはさまざまな政治的な力に積極的に関与できる可能性が依然としてあり、19世紀から20世紀にかけて生み出されたこの種の関与型の芸術は現在もなお制作されている。さらに、芸術は同時代文化の言語、イメージ、メディアの機能を分析する能力を備えており、そうした批評的分析には政治的な側面があります。

ART iT 市場化/民営化にソビエト連邦の共産主義のような全体化への影響力はありますかね。言語やアイディアが商品化される市場に支配された社会で、どうしたら内容/分析や様式/形式を区別し、批評的立場を確立することができるのでしょうか。

BG 美術市場はただの芸術作品の流通のツールに過ぎません。芸術作品の商品化が自動的に作品のメッセージを無効にすることはありません。パンを購入できるという単純な事実が、誰かがパンを食べるのを妨げることはない。同様に、芸術作品を購入することが、批評的なものも含めてそのメッセージを受け取るのを妨げることにはなりません。もちろん、その作品にメッセージがあればですが。
さらに、(美術館や展覧会、インターネットなどの)観客の圧倒的多数は、購入する目的で芸術を見ているのではなく、芸術と観客の出会いの多くは美術市場の外で起きています。


Hikaru Fujii – Installation view of Record of the Bombing (2016), mixed-media installation, in “MOT Annual 2016: Loose Lips Save Ships” at the Museum of Contemporary Art Tokyo. Photo ART iT.

ART iT 世界の多くの地域同様、アジアのほとんどの地域でも現代美術に対する支援の大半が国家的な計画に結びついています。たとえば、日本では地方自治体が「都市再生」という明確な目的のもとに現代美術の芸術祭を推進したり、地域覇権を投影する手段にしばしば「アジア現代美術」という概念が持ち出されたりしています。このようなことは現代美術一般における政治について何を示しているのでしょうか。また、国際的に現代美術が(社会主義リアリズムや伝統絵画などといった)ほかの芸術の形式を圧倒してきたのはどうしてなのでしょうか。

BG 現代美術は20世紀初頭の前衛美術を受け継いでいます。20世紀初頭の前衛美術は産業文明や同時代のコミュニケーション手段などに関連した国際的かつ普遍的な芸術をつくるために、あらゆる国家主義的な伝統を壊そうと考えていました。現代美術は国際主義的な芸術でもある。いかなる国家主義的な芸術や地域固有の芸術よりも成功したのはそういうわけです。もちろん、現代美術は美術市場に利用されるように、地域や国家の権力に利用されるかもしれませんが、だからといって、その国際的な特徴が変わることはありません。

ART iT とはいえ、誰もが等しく国際的というわけにはいきませんよね。ヴェネツィア・ビエンナーレやドクメンタのような現代美術の境界を規定するような主要な展覧会を頭に浮かべたとき、(その年のアーティスティックディレクターによって、その数は異なれど)ある地域出身のアーティストに暗黙のもとに割り振られた枠があるという結論に達するのではないでしょうか。もしくは、国際という言葉にもかかわらず、展覧会がせいぜい地域限定的なものになってしまったり、シャルジャ・ビエンナーレや毎年恒例のマーチ・ミーティングの成功に見られるように、少なくとも、新たな場所に国際的な対話を持ち込むための資金が必要になるでしょう。投影/願望としての国際性と表象の域での国際性との分裂について、どのように考えたらよいでしょうか。

BG 各国の現代美術への制度的な支援や一般的な人気に違いがあるのは間違いなく、これは西欧諸国にも言えます。現代美術への支援を得るのは困難な仕事です。シャルジャのように個別の戦略が必要な場合もあるし、近年のメキシコや中国のように社会政治的な重圧が現代美術への新しい関心に繋がることもある。ほかには、国家主義的な伝統の名の下に未だに現代美術が拒絶される国もある。とはいえ、国際性や普遍主義は現代美術の本質的な特徴で、その拡散と成功に関する統計データとは関係がないとするのが大事です。

ART iT 日本の場合はどうでしょうか。日本では民営化や、アメリカ合衆国流の支援や資金調達システム(これ自体にも問題がありますが)がないことによって、現在、公立の美術館は収入源をチケットの売り上げに依存しています。その結果、多くの集客が見込めるファッションや建築、アニメに関連付けた展覧会が毎年開かれ、現代美術の展覧会はその中にひとつかふたつ添えられているだけ。どうしてもやりたい企画の財源のためにブロックバスター展を開催するのだと正当化する人もいるけれど、しかし、消費者としての観客を伴う美術館の商品化は展示の内容やそれが発信するメッセージにも影響を及ぼしています。

BG 私が現代のポスト前衛美術の国際的な特徴について語るときには以下のようなことを指しています。現代のポスト前衛美術の重要な源流のひとつは幾何学的抽象で、それは同時代の産業界や産業デザインに対応している。もうひとつは色彩と形の分析です。あらゆるイメージは色彩と形の組み合わせだから、これはいかなる芸術の様式にも当てはまりますね。そして、コラージュ。これはコピー&ペーストを使用するデジタルメディアの現代的使用法に相当する。さらに挙げることもできますが、これで充分ではないでしょうか。
さて、たとえ各国の飛行機やデバイスの生産に違いがあっても、私たちはみな飛行機に乗り、インターネットを利用していますね。日本はさまざまな点で技術先進国ですから、現代美術に対する支援もどこかで成熟してくるのではないでしょうか。古代ギリシャでは芸術は「テクネ(技術)」と呼ばれていましたしね。


Left: Envelope for The Album of Proletarian Art, vol. 2 (Tokyo: Japanese League of Proletarian Artists, 1930), collection of eight color postcard reproductions of selected works from the 3rd Great Proletarian Art Exhibition, 1930. Right: Arai Mitsuko – Dou age (Toss Up), color postcard from Album of Proletarian Art, vol. 2. Below: Spread from Mavo, no. 7 (August 24, 1925), with illustrations of Soviet architecture (left) and print by Tatsuo Toda (right). Photo Kei Okano. All: Collection of the Art Library, Museum of Contemporary Art Tokyo.

ART iT 今日の芸術とイデオロギーの関係についてどのように考えていますか。現代美術に新自由主義的なイデオロギーが反映されていると思いませんか。

BG そうは思いませんね。個人的にはフリードリヒ・ハイエクやアイン・ランドを読むアーティストやキュレーターに会ったことがありません。むしろ、アート・ワールドは非常に異種混淆的で、一般的な世界と比べても際立っています。アート・ワールドは映画やテレビ、スポーツ、広告、デザインなどに比べて小規模だということを忘れるべきではありません。小さいがゆえに、より幅広い観客には受け入れられないような態度や意見、プロジェクトを認めたり、取り入れたりする機会が与えられている。マリネッティはすべての美術館やモニュメントの破壊や世界の「衛生法」としての戦争や女性蔑視を提唱しました。前衛運動のもう一方では、コンスタンティン・メーリニコフが何百人ものための集団睡眠の場所を構想し、睡眠の集団化を求めています。こうしたアイディアはマジョリティに受け入れられることはないので、民主的な政治過程の枠組みにおいて論点になることはありません。ところが、実際には実現不可能だとしても、アート・ワールドでは想像力の可能性としてこれらを受け入れました。それゆえに、新マルクス主義や精神分析から構造主義やポスト構造主義、ドゥルーズや思弁的実在論まで、20世紀後半のあらゆる重要な思想動向はアート・ワールドに学術界の外の観客を見出しました。誰もが新自由主義を否定したら、アート・ワールドはそこで初めて関心を持つかもしれません。

ART iT ある一国の固有の文脈においても国際的な文脈においても、現代美術に蓄積される象徴的意味というものがあると思いますか。たとえば、ヴェネツィア・ビエンナーレに蓄積された象徴的意味のような。

BG いえ、現代美術には蓄積された意味などありません。おそらくはそれが人々の反感を買うのではないでしょうか。現代美術よりも広い経済的、政治的空間は均質的ですからね。普通、各問題に対する意見は異なっても、世間には重要なものと重要ではないものに対する共通の理解があります。しかし、あらゆる芸術的実践は何が重要で何が重要でないかに対するそれぞれ固有の評価軸を持っている。個別の芸術的プロジェクトがまさに独自性を持っているのです。アート・ワールドには内在的な統一性や共通するメッセージもなければ、共通の判断基準といったものさえありません。相互に似てもいない多数の集団で構成されているのです。各集団はゆるい繋がりを持ち、その内部構造は堅固なものではなく、絶えず変化しています。
遠く離れたところから見ない限り、大規模な展覧会も統一された光景を表すことはありません。あなたが個々の芸術的立場に本当に興味を持ちはじめたら、たとえ同じ空間に配置されていたとしても、実際にはそれらの立場が両立しないものだという結論にすぐに達するのではないでしょうか。さらに、キュレーターにもそれぞれの態度があるから、あなたの挙げたヴェネツィア・ビエンナーレという例をとっても、各回でまったく異なるものになるでしょう。この異種混淆性はもどかしいかもしれませんが、それを否定しても意味がありません。

ART iT 新しさに対する「遅さ」というレトリックについてどう考えていますか。そこから浮かび上がってくる「多元的近代(multiple modernities)」や「同時代性(contemporaneity)」といった概念は生産的なものでしょうか。それとも、そうした考えは近代のリアリティを隠蔽してわかりにくいものにしてしまうのでしょうか。

BG 今日のアーティストはグローバルな同時代的風景におけるオリジナリティや認識可能性に比べると、新しさや遅さに関して、歴史的な文脈における自分たちの立ち位置にそれほど関心がないように見えます。私たちはGoogleの時代に生きていて、過去と現在はクリックひとつで同期したり分離したりします。だから、アーティストは自分自身のやり方を見つけるために、ほかのアーティストがやっていることに目を向けている。ですが、私が既に言ったように過去もまた同時代にあり、今、ここで利用できるということで、過去に戻ることができるというわけではありません。

ART iT 「遅さ」について遡及的に考えることはありますか。事実、「亜流」とともに、「遅さ」も近代美術/現代美術とその周縁に境界線を引くための主要な修辞的装置のひとつでした。そして、「遅さ」という概念は今日もなお「周縁」の両側である程度内在化されています。おそらく、世界各地の数多くのアーティストやキュレーター、リサーチャーが忘れられた歴史を掘り起こし、現在に取り戻すことに関心を向けるのはこれと関係しているのではないでしょうか。この「時間のずれ」が何らかの形で「いまここのこと」や同時代性に対する私たちの感覚を特徴付けていると思いませんか。

BG ええ。たしかにアーティストは相対的に知られていないような、人目につかないような領域にインスピレーションを求めています。そのような領域は過去にも見出すことができますが、しかし、同時代の文脈でそれらを使うことは、「本来」の意味を変えてしまうことになります。意味がただひとつしかないとすればですが。つまり、大英博物館にあるファラオのミイラは、エジプトのピラミッドに収められていたものと同じではないということです。

ART iT では、インターネットは時間を均一化していると思いますか。また、現代美術の地平についてどのように考えていますか。

BG 事実、インターネットは非常に断片化していて、それぞれがまったく異なるサイトを見ています。関心が細分化しているわけですね。インターネットの登場によって、報道機関やテレビが作り上げていた共通の地平を伴った一元的な公共空間が無効となり、今ではニュースさえも個人化してしまいました。


Above: Alfred Barr – “Torpedo” diagram, 1941. The Museum of Modern Art, New York. Below: Yukinori Yanagi – Absolute Dud (2016), installation view in “Wandering Position” at BankArt 1929, Yokohama, 2016. Photo ART iT.

ART iT 「平等な美的権利の論理」という論考で触れていましたが、芸術作品の自立性との関係の中で美術館はどのような役割を担っているのでしょうか。芸術作品の自立性は美術館に付随しているのでしょうか、それとも、必ずしも美術館とは関係がないのでしょうか。

BG 芸術作品が真に自立するということは絶対にありません。それは常に生産と受容の文脈に依存しています。美術館は芸術の需要の仕組みに関して多様な試みに挑むことができるし、事実、いろんな試みを行なっている。そして、現代美術館は常設コレクションの場所というよりも、展覧会を変えていくための舞台ではないでしょうか。

ART iT しかし、自立という概念を否定してしまったら、「表現の自由」の場とみなされている美術館や美術制度一般の正当性はどうなってしまうのでしょうか。

BG 美術館を通じて、同時代のアーティストは個別の時間から一定の距離をとることができます。美術館では作品を過去の文脈に置くことで、それと同時に未来の世代にも呼びかけることになる。それによって、アーティストは現在という牢獄から自由になり、その牢獄を超えて考える機会を獲得します。

ART iT 美術館が検閲の対象、もしくは、表現の統制の別の形式に陥ってしまう場合にはどうなるのでしょうか。

BG それは常に起こりうる、いや、実際のところ頻繁に起きているのではないでしょうか。今日有効な可能性として、メディア、とりわけインターネットを使った抗議運動があります。インターネットはいかなる美術館の検閲も避けながら、芸術を公共的なものにする可能性を開くのです。


Above: 1,000-Yen Note Trial: Catalogue of Seized Works (Modified) (Tokyo: 1,000-Yen Note Incident Round-Table Conference, 1967), poster, front and back. Below: 1,000-Yen Note Incident Round-Table Conference – The Great Courtroom Exposition 1: Men’s All Catalogue by Nakanishi Natsuyuki (1966/94), documentation of presentation of art works in defence of Genpei Akasegawa in his 1,000-yen note counterfeiting trial, Tokyo District Court, 1966.

ART iT これは思考実験になりますが、遥か彼方にいる人が初めて「芸術」という概念に出会うとき、そこには反芸術などなく、ただ、芸術、とりわけ、連綿と続いてきた西洋美術の伝統しか見えないかもしれない。さらに、もしそれが、あらゆるものすべてが聖なるものだというアニミズムの思想を持つ人であれば、おそらく、反芸術にとって本質的な、聖なるものと邪なるものの対立関係は、西洋的な価値に準じることで獲得されるべきものであって、それ自体が単純に「芸術」を定義するものなのではないだろうか、と。つまり、現代美術という「テクネ(技術)」には固有の文化的要素があります。それは反芸術/現代美術の普遍的本質に何らかの影響を与えることがあるのでしょうか。

BG そうですね。伝統に抗議し、伝統を打ち破ることで認められる伝統というものがあることを忘れてはいけません。しかし、ここにもうひとつ興味深い問題があります。西洋美術の伝統は知らないけれど、自分の国、たとえば日本の伝統は知っているという人物を想定してみましょう。そして、この人物は伝統を打ち破ろうと決断し、根本的に異なる方法で芸術を行なうとする。この決断の帰結は西洋と似たようなものになるでしょうか。あらゆる憶測上の問題と同じく、この問題もまたいかなる証拠をもってしても答えられません。ですが、伝統を破壊するという結果がまったく異なるものになるのも想像しがたい。それから、ほかのやり方に切り替えることなく芸術的な伝統を打ち破るということは、1)形式的な方法で分析し、2)非芸術の領域に移行することを意味している。こうしたことが西洋的な伝統の文脈において起きていたのであり、想像するに、ほかのいかなる伝統の文脈においても起きていたのではないでしょうか。言い換えれば、伝統がそれぞれ異なったとしても、それを打ち破ることはどこか似ているのではないか、と。つまり、それぞれ違った生き方をしたとしても、人はみな同じように死ぬのだ、と。

ART iT 現在、世界各地で普遍的な思考を露骨に拒否する形で勢力を増してきた国粋主義的政治の復活を目にしますが、たとえば、日本の与党も絶対的、普遍的な権利というより、「日本の文化的背景」内での個人の権利を再定義する憲法改正を目指しています。普遍主義の展望についてどのように考えていますか。また、どんなものが普遍主義を再考するための起点になりうるのでしょうか。

BG 日本、ロシア、中国などの文化的固有性を主張する人々も、同じテクノロジーを利用し、同じ車を運転し、同じコンピュータを使っています。誰も国際基準の技術ではなく、特定の文化アイデンティティで製造された飛行機に乗ることはありません。ナショナリズムが増長しているというのは事実です。しかし、それは各国が経済的に競争しあう世界に私たちが生きているからです。サッカーみたいなものですよ。サッカーの普遍性とは何か。それはボールそれ自体ですね。

ART iT 最後に、「アート・パワー」という本のタイトルを解剖してみませんか。芸術はいかに解放と「エリート」との間でネゴシエーションを行ない、ヘゲモニーと差異の間でネゴシエーションを行なうのでしょうか。

BG エリート、規範、ヘゲモニーという概念は、芸術圏に既に属しているある一連のイメージ、ナラティブ、慣習を示しています。解放や差異についても同じことがいえるでしょう。差異もまた常にある種のイメージやナラティブを通じて認識されている。現在、芸術は差異の徴候を魅力的かつ価値あるものとして示し、伝統的な「エリートの徴候」を時代遅れでかっこよくないものに示すことに貢献することができます。規範と逸脱の対立と同様に、エリートと解放の対立も流動的なものです。このような対立する言葉は絶えずその関係が変わり続けます。この過程にこそ、芸術は重要な役割、おそらく先導的な役割すら果たすことができるのではないでしょうか。

(協力:ボリス・グロイス日本招聘プロジェクト実行委員会)

ボリス・グロイス|Boris Groys
哲学者、美術理論家、批評家。1947年に旧東ドイツ時代の東ベルリンに生まれ、冷戦下のソビエト連邦で育つ。レニングラード大学(現サンクトペテルブルク大学)で哲学、数学、論理学を学ぶ。在学中にレニングラード、モスクワの非公式の文化芸術活動に従事し、さまざまな媒体で執筆活動を展開した。(「モスクワ・コンセプチュアリズム」という言葉を1979年に初めて使用。)西ドイツに拠点を移し、92年にミュンスター大学で博士号を取得。以降、複数の大学で教鞭を執り、現在はニューヨーク大学ロシア・スラヴ学グローバル特別教授と、カールスルーエ造形大学特別研究員を務めている。『The Total Art of Stalinism』(1992/日本語版は『全体芸術様式スターリン』として2000年に現代思潮新社から刊行)、『Art Power』(2008)、『The Communist Postscript』(2010)、『Going Public』(2010)、『Introduction to Antiphilosophy』(2012)、『In the Flow』(2016)など、数多くの著作を発表。また、第54回ヴェネツィア・ビエンナーレではロシア館のキュレーター、2012年の第9回上海ビエンナーレの共同キュレーターを務めるなど、多数の展覧会企画にも関わっている。

ボリス・グロイス『アート・パワー』(現代企画室、2017)
2016年、ボリス・グロイス日本招聘プロジェクト実行委員会は『アート・パワー』(現代企画室)の翻訳出版にあたり、国立国際美術館、東京大学、東京国立近代美術館の3カ所で来日記念講演を開催した。『アート・パワー』は1997年から2007年の間に、展覧会カタログや美術雑誌などで発表した15本の論考をまとめた批評集。変容しつつある現代社会において、アートがどのような力を持つのかという問いに、「アート・マーケット」「ミュージアム」「キュレーティング」「プロパガンダ」といった、美術制度や政治との関係に焦点を当てながら応答した。
ボリス・グロイス来日記念講演シリーズhttp://groysinjapan.tumblr.com/

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