田中功起 インタビュー

2012年10月19日
中心を決めずに回ってみる
インタビュー/アンドリュー・マークル、良知暁





A Piano Played by Five Pianists at Once (First Attempt) (2012), Video installation, HD video, Two drawings( 24" x 19" each), temporary walls, 57 min. Dimension variable. Created with University Art Galleries, University of California, Irvine. All images: Courtesy of the Artist, Vitamin Creative Space, Guangzhou and Aoyama Meguro, Tokyo.


ART iT 非常に多彩な活動をしている田中さんですが、今回は、主に作品のことについて伺いたいと思います。まずは田中さんの作品の主要なメディウムであるビデオについてどのように考えているのかをお聞きしたいと思います。フィル・コリンズやイェスパー・ユストらは例えて言うなればミュージックビデオを思わせる映像作品、アイザック・ジュリアンらは映画に近い映像作品を制作しています。このように映像作品が多様な形をとっている現在において、田中さんはどのようにビデオのメディアとしての可能性を探究しているのでしょうか。

田中功起(以下、KT)当初、ぼくにとってビデオはまったく未知のメディアでした。大学に入学したばかりの頃は、技術的なことだけでなく、ビデオアートのこともよく知らなかったのですが、知らないことに挑戦することで自分がこれから何をしていきたいのかを確認しようと思っていました。もともとは絵画のクラスに在籍していましたが、ある授業で絵画以外のメディウムを通して、そもそも自分が本当にやりたかったことは何なのかを探すという機会がありました。そのとき、昔、父親が買ったHi8(ハイエイト)で遊んでいたことを思い出して、大学でビデオカメラを借りて、そのカメラを持ちながら山の中を走るなど、ビデオを使って多くのことを試しました。それから既に10年以上が経ち、現在はビデオを当時と同じように捉えているわけではありません。技術的なこともビデオアートの歴史も知ってしまって、当時のようなうぶな気持ちではビデオを見ることもできなくなってますね。
ぼくは今、ビデオを記録に適したメディウムとして捉えています。ビデオは突き放した形での使用が可能で、写真と同じく、自分のプロジェクトを記録する上で一番扱いやすいですね。学生時代や最初期の作品では、「ビデオ作品とは何なのか」「編集とはなにか」「ビデオが展覧会の形式の中でどう扱えるのか」などといったビデオをめぐる形式的問題を考えていましたが、次第にそうしたことは自分の中で解消されていき、どちらかといえば今は自分がやっている活動を記録する裏方のようなものとしてビデオを使っています。ビデオの形式性が全面に出ていた以前の作品からすると、ビデオ自体はぼくの制作の後方の背景のようなものになってしまっているのかもしれない。ただ「記録」の形式的側面にも興味があるので、違うメディウムでプロジェクトのプロセスを記録できる方法があれば、それを試してみたいとも思っています。例えば絵画で屋外でのパフォーマンスのプロセスを記録してみたらどうなるのか、そういったことにも関心があります。
記録の問題を少し最近の作品に絡めてみると、5人のピアニストがどうやって1台のピアノを弾くのかというプロセスを撮影したもの〔「5人のピアニストがひとつのピアノを弾く(最初の試み)」(2012)〕があります。その場でのライブな出来事として経験したものと最終的にぼくがビデオ作品として編集したものはまったく違うものでしょう。言ってみればひとつの出来事をテキストとして書き起こすことに少し似ているかもしれません。そこには必ずズレが生じます。その場で起きたことを映像で記録し、その出来事を自分がどのように見ていたのか、捉えていたのか、ということが編集に反映されてひとつの作品になる。写真によって記録された場合、文字によって書き起こされた場合、録音された場合、映像で記録された場合、すべての場合でひとつの出来事は違った見え方をするはずです。出来事の経験とその記録の経験の差、記録をめぐる諸問題はここのところの興味の対象です。そうしたことに関心が移っているため、おそらくビデオというメディウムの特性を考えること、なにか新しい撮影方法や編集の仕方、新しいビデオアートの側面を見つけ出そうといったことへの興味が薄れているんだと思います。どのようにひとつの出来事を記録し、それを再構成できるのか、物事を言葉で描写するテキストと比べても、ビデオの方がより即物的にそれを試すことができる。あくまで機械の眼を通すからですね。

ART iT 昨年のヨコハマトリエンナーレではビデオを立体的なインスタレーションの内部に入れていましたが、そうすることで何が起きうると考えていますか。

KT ぼくはビデオ作品を展覧会で見ることも、VimeoやYoutubeで見ることも、それぞれ異なる複数の作品の経験のあり方だと考えています。例えば、「9人の美容師でひとりの髪を切る」(2010)「犬にオブジェを見せる」(2010)という別々の文脈で制作した作品を発表するとき、展覧会とYoutubeという二つの場所を考えてみる。そこでは、作品のコンテンツは同じでも場所によって見え方が変わる。美術館でインスタレーションとして見せる場合にはどういう見せ方があるだろうか。インターネット上で、あるいは映画館で見せる場合はどうだろうか。それぞれの場所によって見せ方も変わるはずです。環境に合わせて見せ方を変化させることもあるけれども、作品自体が環境を選ぶ場合もあります。はじまりから終わりまできっちり座って見せる場合がいいものもあるだろうし、出入りが自由な美術館などでのインスタレーションで見せる場合がいいものもあるでしょう。あるいは、インターネット上で見せることにより適した作品をぼくが作ることもあるでしょう。今は自分の持っているコンテンツをいろんな場所で見せて、その違いを確認しているような状態なのかもしれません。
ヨコハマトリエンナーレのインスタレーションでは、美術館の倉庫に眠る備品の構成をメインのアイディアに、ここ2、3年の間にアメリカで制作したビデオや写真も展示しました。いろんな人が会場を訪れるので、なかにはインスタレーションの中のソファに座り、休憩場所としてその場所を捉えていた人もいて、彼らはもしかしたらビデオを見ていなかったかもしれません。しかし、あのインスタレーションの中では、ビデオ作品も全体の一部であり、ほかの美術館備品と平等に扱っています。必ずしもあの場所で見なければいけないものではないかもしれない。同時にVimeoやYoutubeのURLも展示していたので、ビデオ作品が全部見たいという人はそれをメモして家に持ち帰ることも出来ました。あのような国際展の特徴として、観客は一時間もの長さのビデオをなかなか全編見る時間的な余裕がありません。こうした状況には違和感がありますが、全部見ることが目的になって欲しい訳でもありません。たとえビデオ作品の一部だけしか見ていなくとも、そこから得られるもの、あるいはぼくが提供したいと思っているものはそこにあるはずです。ただぼくは、その場で見たい人にも、家に帰ってゆっくり見たい人にも、両方の作品体験に対して開かれていたいと思っています。




a whole museum could be used at once (2011), 5 video works, 18 mono-print on tracing paper, museum’s furniture and leftover. Yokohama Museum of Art, Yokohama Triennale 2011, OUR MAGIC HOUR, Japan.


ART iT 作品の一部だけしか見ていなくても、そこから得るものがあるというのは、初期の作品でループを使っていたことと関係がありますか。

KT どうでしょうか。ループの作品を作っていたあの頃は、マシュー・バーニーに代表されるような、どんどんビデオ作品の時間が長くなり、映画のようになって、ハリウッドに対抗するような雰囲気のものが多く見られました。しかし、初期のビデオアートはもっと安っぽく、簡単で、例えば、ヴィト・アコンチが自分で砂浜に穴を掘ってそのまま埋まっていく「Digging Piece」(1970)のように、アイディアと作品の関係が直結していて、思いついたらすぐにやってみるような形ではじまっていったと思います。美術館に行き、長時間見なければならないというのは、観客が自由に出入りする展覧会という形式にふさわしくないと思っていたので、当時の自分は、作品の一部だけ見ても瞬間的にわかるものを作ろうと考えていました。そうした考えは今でも残っていて、展覧会でビデオを見せる場合は、全編を見る人ばかりではないと思っていて、それでも、そのちょっとしか見ない人にもなにか手渡せるものが作品の中に含まれているような、そんな作品のあり方を目指しているのかもしれません。

ART iT 初期の作品はループ構造を持っていますが、一方でレストランでの調理の様子を撮影した「Each and Every」(2003)では何重もの時間軸が同時に存在しています。もちろん、作品によって異なるとは思いますが、ビデオにおける時間軸、時間性についてどのように考えていますか。

KT 初期の作品はループするものとして作られていて、そこで自己完結しています。でも、最近はあくまでも出来事の記録としてビデオを使っているので、そういう意味でははじまりがあって、終わりがある。とはいえ、ぼくらが普段経験しているものは、実際はもっとだらだらした時間の中にあります。例えば、このインタビューも録音を始めて、止めたところで終わるけれども、それ以前にも以後にもぼくらは生きていて、次に会ったときにまたこの会話は続いていくでしょう。はじまりも終わりもなくて、いろんなものがぐっちゃりくっついていて、だらだらした時間の中にあるのがぼくらの経験なのではないでしょうか。ぐっちゃりしてねばねばした、はじまりも終わりもない経験をいったん取り出して、なにか特殊な状況、ある形式の中に無理矢理押し込めることで、やっとぼくらは自身の経験をなんとか確認することができる。だから時間というものは一直線のリニアなものではなく、パラレルで複雑でこんがらがったものだと思います。そういう時間の捉え方が重要になってきます。以前は、世界の経験は一瞬でわかるはずだと思っていました。ある種のものごとは一瞬のうちにぼくらの前に現れて何か方向を示してくれるはずだと思っていました。しかし、ものごとはどうやらそれほど単純ではなかったし、ぼくらもそれを簡単には認識できない。だから特殊な状況や既存の形式に押し込むことで、複雑な状態にある一定の整理を行なう必要もある。一定の整理がなされた複雑なものを見せるためには分かりやすいタイムラインが必要で、このインタビューと同じで編集する必要もある。複雑でばらばらのものごとは編集によってやっとすっきりした読み物になる。もちろん、そこかしこにぐっちゃりした時間を背景として残しながら。
「Each and Every」は今の活動に繋がる最も重要な作品です。料理人に会う前は、料理に対して、準備、仕込み、調理、盛付けという一直線の時間軸を想定していました。しかし、いざ撮影をはじめると、そんなに分かりやすい順番で彼は仕事をしていませんでした。会話も出来ないまま、ぼくはただ撮影をし、なんの説明もないまま、彼のひたすら自分の仕事に没頭している姿を映し続けました。彼はその狭いキッチンで、なにかの準備していたと思ったら、突然別のものを調理し、それを別の料理人に手渡し、途中までやったものを冷蔵庫に入れ、別の部屋に食材を探しに行き、まな板を洗ったりする。撮影が終わってから話を聞くと、翌日の仕込みだったり、別の料理人への賄いであったり、途中からは別の料理人が調理をする料理があったりと、外から見ても何をしているのかまったくわからないけれど、彼の中では複数のレイヤーが見事に整理されていて、実は順番通りに一直線に進んでいる。そこでは、なんというか、複雑な世界という出来事が彼の動きの中に凝縮されているような気がしました。当初、編集によってひとりの料理人の活動をばらばらに解体しようと思っていました。リニアな料理の流れを複雑なものに変えようという意図が最初にあったのですが、彼の活動はすでに十分すぎるぐらい複雑で、その順番を変える必要はありませんでした。むしろぼくはそこから多くを学びました。最初のビデオの話にも繋がりますが、ビデオに記録することで、些細な、しかし自分が見落としていた世界の複雑な経験が見えるようになった。料理人の活動の中にも、それが含まれている。こうした経験が、ビデオ内部の問題を考えるのではなく、目の前に起きていることから学んでいくという方向に少しずつ向かうきっかけになりましたね。





Top(Left): Moving Still (2000), DVD, color, sound, endless repeat. Top(Right): 123456 (2004), DVD, color, sound, endless repeat. Bottom: each and every (2001), DVD, color, sound, 30 min.


ART iT 初期のループ作品では、行為自体に良い悪いの価値観を与えていないように見受けられます。近年の作品も良い悪いというものはなく、田中さんの言葉でいえば、サンプルみたいな形で、実はサンプルがループしているときのひとつの円を見せているように思えます。そのサンプル的に呈示する部分は通底するものに思えるのですが。

KT そうかもしれませんね。特に良い悪いという価値判断を制作に持ち込まないということをはっきり意識したのが、光州ビエンナーレに参加したときです。その際は立体をたくさん作ったのですが〔「physical test」(2008)〕、ぼくはあまり造形的なセンスがなく、自分が作ったものが良いのか悪いのかまったくわからなかった。ある日作ったものをそのときは良いと思ったけれど、次の日にやっぱりこれはダメだと思ってしまう。でもそれを捨ててしまうのには忍びない。なぜならそれはもう既に生み出されたものなわけです。ぼくの造形センスに対しては良し悪しがあるだろうけど、生み出されたモノ、行為の結果そのものには良し悪しはないはずです。だとしたら、むしろ、良い悪いの判断が出来なくなるくらい複数のものを作り出してしまおうと。そのときは300個くらいの手のひらサイズの立体を作って、良し悪しの判断をしないということを唯一の判断にしました。最近のプロジェクトのアイディアは、ピアノもヘアカットについても、複数回行なうことができるものですよね。原理的にはだれかが勝手にやることもできる。複数回のうちのひとつがそのときの結果なわけで、一回ごとの結果やプロセスに関してはオープンに構えるようにしています。ひとつひとつの試みがその都度、サンプルなわけです。もちろん、参加者個々人には失敗成功という思いはあるかもしれない。でも枠組み自体には失敗も成功もありません。作品を、複数あり得る可能性の、ひとつのサンプルとして捉える考え方が、おそらく「ひとつのことを複数人で行う」という枠組みのみの提案という方向を導き出したのかもしれませんね。そこに自分の考え方が素直に入り込む余地があったのかもしれません。

ART iT ループ構造ではなく、はじまりと終わりがあるビデオ作品は、インスタレーションの一部ではなく、映画館での鑑賞体験のようにそのはじまりから終わりまでをきちんと見せたいという欲求はありますか。

KT それはありますね。実は「5人のピアニストがひとつのピアノを弾く(最初の試み)」に関しては東京の映画館(ユーロスペース)で見せる予定です。最初の展示ではシンプルなプロジェクションとピアニストに与えたテーマとルールのセンテンスを書いたテキストのドローイングで構成しました。しかし、10月にはじまる東京都現代美術館での『MOTアニュアル 風が吹けば桶屋が儲かる(以下、MOTアニュアル)』では、この作品を美術館では展示せず、映画館で二日間だけ上映することに決めました。コンテキストの違う二つの場所での作品の経験の違いを、ぼく自身も確認してみたいと思っています。

ART iT 長時間の映像作品をはじまりから終わりまでをきちんと見せたいという意味では、今の美術館はそのような作品に対応しきれていない場所だと考えているのでしょうか。

KT 美術館が対応しきれていないというよりも、それぞれの場所/環境の特性があるはずなので、せめてアーティストは環境に対して自由に対応してもいいのでは、という提案でもあります。MOTアニュアルでのぼくの活動は、まさにそのいくつかのサンプルの提案という形で進行します。つまりアーティストは必ずしも展覧会という制度に対応した制作だけをするわけではないので。多少慣習に則りつつも、少しはめをはずすこともできるだろうと。なので今回は、基本的に美術館内には作品を展示しません(会場では受付のひとに頼んでその宣言がされるので、それを作品と言うならばひとつだけ作品は美術館内にありますが)。映画館での上映、告知せずに行われる半ばパフォーマンスのようなトークを山手線の電車内で行う、会期中のぼくの活動カレンダーの配布、カタログへの執筆、展覧会の反省会の企画といったことを考えています。展覧会の参加アーティストのひとりであるという立場は最低限確保しつつ、通常は、「展覧会での作品発表」と「その関連企画」として分けられているものごとを反転してみようと思っています。その上でそれぞれのアイディアにとって一番効果的な見せ方/あり方はなにかを考えてみようと。自分がアーティストとしてさまざまな活動をする中で、それぞれの活動に合った環境というものがあり、内容によっては必ずしも美術館という場所が最適ではないこともある、と気づいてきました。展覧会という制度は、アーティストの活動の中のさまざまな形式のひとつです。だからそれだけが目的ではない。MOTアニュアルのようなグループ展で既存の展覧会の枠組みにチャレンジするようなことをやるべきかどうかは迷いましたが、今回に関してはそういう状況を作ってみようと思っています。ART iTで連載している往復書簡「質問する」もこの展覧会の出品作品のひとつとしてリストアップしていて、同展覧会企画担当の西川美穂子さんとやりとりをしています。出品作であるとわかるように、ウェブページには美術館で使用するキャプションを掲載しています。






Top: Physical Test (2008), mixed media; approx 300 objects, 6 tables(1400x700x700mm, each), 6 photographs(1030×1456mm, each) installation at The 7th Gwangju Biennale, Annual Report : A Year in Exhibitions, Korea. Uijae Museum of Korean Art. supported by Gwangju Biennale Foundation. Bottom: Someone's junk is someone else's treasure (2011), HD video, 11 min.


ART iT 以前、往復書簡「質問する」の中で予定調和をどのように回避できるのかというやりとりがありましたが、それについてもう少し聞かせていただけますでしょうか。例えば、ギャラリー空間もアートの枠組みのひとつです。その上で、田中さんはアートの枠組みと世界のそれぞれを行き来する作品を制作していますよね。台北ビエンナーレで見せた「すべてはすべてである」(2006)など、いくつかの作品は日常的なオブジェを新しい、もしくは想定外の使い方で扱っていますが、それはアートの枠組みがあるからこそ見せることが可能なのではないかと思います。

KT 「すべてはすべてである」はモノの使用法を問いかけるという意味で、アートの枠組みの中で見せた方がよりわかりやすい表現かもしれません。しかし人びとは、それらの行為をアートであると認識する前に、ただなにか変わった使い方をしていると捉えていたようです。台北の人びとにとっては普段の生活との延長線上にこの作品が見えていたのかもしれません。
例えば、「誰かのガラクタは、誰かの宝もの」(2011)は、カリフォルニアのパサディナのフリーマーケットのブースを借りて、ヤシの葉を売るというプロジェクトでした。カリフォルニアでは、ヤシの葉はあちこちに落ちている無用なもので、雪かきのように集めて捨てなければいけません。そういうまったく無用なものをフリーマーケットという場所で売ったら、どういう反応があるだろうかと考えて、そこにやってくる一般の人々の反応を記録した映像です。もちろんこのアイディアには背景として美術史があり、関連するドローイングの中でデヴィッド・ハモンズや漫画家のつげ義春を引用しています。とはいえ、フリーマーケットで実際に経験した人たちの反応は様々でした。アートプロジェクトだと思った人もいれば、最近引っ越してきたアジア人がきっとなにかしらの価値があると誤解して、ヤシの葉を売っているのではないかと捉えている人もいたかもしれません。本気なのか冗談なのかわからずに、これはなんなのだろうと。そうしたアートよりも少し大きいカテゴリーにこのプロジェクトは触れていると思います。
先程話した山手線の車内トークのアイディアは、美術館やギャラリーなどに来る観客に対してではなく、たまたま電車に乗り合わせた人びとに向けて行うものです。こうしたオフミュージアムのハプニングは日本でもかつて盛んに行われていました。今回のぼくのプロジェクトは1962年にハイレッドセンターが行った通称「山手線事件」を下敷きにしています。プラットフォームも含む東京を一周する山手線内が彼らのパフォーマンスのステージでした。実際に一周する予定だったようですが、途中の上野駅辺りでみんなばらばらになってしまったそうです。ぼくのプロジェクトでは、美術史家や批評家たちと、山手線を一周する一時間の間、対話をしようというものです。その歴史的な場所で、美術史上重要な「山手線事件」に触れながら。偶然居合わせた乗客はそれがなんであるのかを正確に理解するのは難しいでしょう。すべての対話を聞ける人もいないでしょう。でも美術館の中では出会わない偶然の観客が、電車の中で聞いたぼくらの対話から何かしらのアイディアを持ち帰ることはありえるかもしれない。またその対話は音声で記録を残し、後日、冊子にする予定です。そこで再び、経験の複数化を図ります。偶然電車に居合わせた人が経験したトークの断片と、美術館の中で冊子として読まれたトークの経験はかなり違ったものになるはずです。

ART iT 「誰かのガラクタは、誰かの宝もの」やそうした試みは、アートの枠組みをもう少し世界の方へずらそうとしているのでしょうか。それとも、アートの枠組みから完全に一歩出ようとしているのでしょうか。そもそも、アーティストとして、アートの枠組みから本当に出ることができるのでしょうか。

KT おそらくアーティストがすることはそもそもアートの枠の中に収まってしまうでしょう。でもアートの枠の外に出ることが目的ではないはずです。問題は複数の価値の中を移動することで、それぞれの領域で見過ごされている可能性を見つけ出すことにあると思います。そのために、美術史もその制度も、世界や社会との関係の中でどういう使い方が有効なのかについて考えています。今日はここまで音楽を聴きながらきたのですが、例えばポップソングに対して、これが社会的になにか役立つかどうかと言うことを基本的には問われませんよね。それぞれのものごとにはある一定の役割が与えられている。それが機能する領域も機能しない領域もあるでしょう。おそらくアートもそれが機能する場所と機能しない場所があると思います。とはいえ、そこで賭けられている領域はたぶんかなり広いと思っています。ぼくはアーティストとして、どこかで機能するだろうアートを実践していく。世界に触れるというのも、アートというものがもともと持っている機能のひとつでもあると思う。

ART iT しかし、ギャラリーという場所には、もっと抽象的な意味でアートはある種の何もない空間を出してくれるためにいろんなことが出来るということがあります。何もない空間では、そこに入る瞬間にオレンジを階段に投げてもいいし、その行為に価値があるとされる。世界においては価値のないことだけれども、アートの何もない空間に入った瞬間に価値が生まれる。それと同時にアーティストたちはその何もない空間に入ると、どこか制限されているような気がしてしまう。矛盾しているし、皮肉なことですね。

KT 美術館やギャラリーなどの展示空間があり、それを取り巻くアートの制度がある。確かにそこは何もない自由な空間です。そこではなにをやってもいいはずで、新しい価値を生み出す場かもしれない。一方で、物理的な制約や慣習にがんじがらめのギャラリーや美術館という環境は、少し窮屈かなと感じています。もっと、アーティストの活動と、展覧会という制度の間には未開拓のスペースがある気がしていて、確かに完全に展覧会という制度から外に出てしまうとなにかちょっと違うと思うけど、展覧会という制度よりはアート自体の方がもうちょっと大きなカテゴリーであり、アーティストの活動を展覧会という制度から制限しすぎかな、あるいはアーティスト自身が展覧会という制度に対応しすぎるのかなって思っています。だから活動と展覧会の、その隙間に興味があるのかもしれません。




a haircut by 9 hairdressers at once (second attempt) (2010), HD video, 28 min. Produced by YYZ Artists' Outlet as part of its YYreZidency programme.


ART iT ある時期までの作品には人はほとんど出てきませんが、ヘアカットやピアニストの作品では、人が出てくるだけではなく、なにかの課題をグループで取り組みます。このような変化になにかきっかけはありましたか。

KT そうしたアイディア自体を始めてからまだ二年くらいですが、きっかけになる出来事は2006年のパレ・ド・トーキョーのアーティスト・イン・レジデンス・プログラム「パヴィリオン」での経験です。化粧ブランドのニベアの協賛のもと、そのレジデンスに来ていた10人ほどのアーティストとひとりのキュレーターでひとつのプロジェクトを行うという課題がありました。まだ20代後半から30代前半のアーティストばかりだったので、個々人の野心が強く、アーティストによってはそれをいかに自分のものにするかと考えていたり、はじめから個人のプロジェクトでないために興味を失っていたり、協働ですることを遂行しようとがんばる人もいたり、それぞればらばらの思惑を持っていました。結局、ディスカッションを重ねて、最終的には成功したとは言えないけど、そのプロセス自体がすごく面白かった。プロセスの中でそれぞれの人間性が見えてきたり、ひとつのプロジェクトがどのように立ち上がるのかということがわかったり。参加者の反応や関係の崩壊、そしてその再構築という、このプロジェクトの経験や学びが頭の中に残っていました。それが時間を経て作品の中に活かされてきているのかなと。最初の試みはトロントでの滞在制作でした。トロントはストリートごとに全く違う人種の人びとが住んでいるほど、さまざまな国の出身者であふれかえっている街です。これは先のパレ・ド・トーキョーでの状況に似ていました。複数のバックグラウンドを持つ人びとに声をかけ集まってなにかひとつのことを協働してもらう。でも最初のヘアカットの試みは失敗でした。10人くらいの美容師に声をかけて、みんな参加したいと言っていたけれども、撮影当日は三人しか現れず。そのときはぼくがモデルになって、三人がカットをしましたが、三人だと作業工程が簡単で、課題の難易度が易しかった。なのでサンフランシスコでの二回目は、難易度を上げ、9人で取り組むことにしました。

ART iT しかし、ビデオに出演している人たちに対して、彼らをある種のオブジェとして扱っているようにも見えます。出演者の間にはある種のテンションを感じます。例えば、ある人はこっちの方向へ、また別の人は別の方向へ進もうとする。ピアノの場合は音という形で出てくるためによりわかりやすい。
興味深いと思ったのは、タスクを与えられる人々が普段は個として働くプロフェッショナルであるのに対し、彼らが共同作業の状況に入れられるという、そこの枠組みが面白いと思いました。共同で仲良く進めるというわけではなく、明らかにそこに個のプロフェッショナルだと自負している人々が集まっていることで、明らかにそこにはテンションが見られました。

KT そうですね、個のプロフェッショナルを共同作業という特殊な状況に出会わせることが目的のひとつでもあります。それとは逆に、普段共同作業をやっている人たちは、ひとりでやってもらったら面白いかなとも思っています。普段の自分たちが置かれている状況とは離れた特殊な環境設定をすることで、よりその普段の行為が強調されて見えてくる。
確かにぼくは、参加者を客観的な立場からオブジェとして扱っているのかもしれません。それはある種の実験を観察するような立場にぼくがいるからかもしれません。特殊な状況を作ったあとは、参加者にすべてを委ねてしまう。休憩のタイミングも、また可能性としては途中で撮影をやめることも、参加者に任せています。そこで起きてしまったことを受け入れる。撮影自体も最近はカメラマンに任せているので、その場での進行も撮影もぼくにはコントロールできない状態です。その状態を後方でぼくは見ている。ときには会話が聞こえないこともあり、撮影されたビデオの素材を見てはじめて後から状況がわかることもあります。ピアノの作品については、ぼくは音楽の専門用語をまったく知らなかったので、音楽の素養があるそのときのキュレイター、ジュリ・カーソンが詳しく教えてくれました。編集のプロセスもアドバイスをもらいながら進めていって、結果的に今までの中でも長い映像作品になりましたね。

ART iT しかし、そういう意味で初期の作品、ひとつの扇風機を置いて、トイレットペーパーを用いたものとそこまで違わないのかもしれないと思いました。手を離して撮るという行為と近いですね。

KT そうかもしれません。枠組みさえあれば、仮にピアノの曲が完成しなくても、それでもいい。何かを完成させることは参加者の目的ではあっても、このプロジェクトの目的ではなく、何かを作り上げていく過程そのものが重要です。大学を卒業してすぐのころに作ったトイレットペーパーのビデオ〔「Fly me to the moon」(2001)〕から、その態度は通底しているのかもしれません。トイレットペーパーが飛ぶか飛ばないかはその場の状況次第なわけなので。






Top: Fly me to the moon (2001), DVD, color, sound, endless repeat. Bottom: Everything is Everything (2006), 8 channel HDV transferred to Blu-ray Disc, color, sound, Each film is between 1 and 2 min.


ART iT 見たい状況を作るということに関してはフィクションでありつつ、そこで起きることに関しては記録する立場として後ろにいて、しかも、編集に入っていく過程でもう一度フィクションを作り直すということが、ある種のドキュメンタリーを想起させました。

KT ニューヨーク在住でドキュメンタリー映画を制作している想田和弘さんはフレデリック・ワイズマンのダイレクトシネマの手法でナレーションやテロップなどいっさい入れずに制作をしています。彼の『精神』(2008)という作品では精神病院を映しながら、説明書きが出ないため、そこに映されている人物が患者さんなのか先生(職員)なのかが観ているこちら側にはわからない。つまり判断がこちら側に委ねられているわけです。テロップやナレーションが過剰なテレビ的手法とは真逆のやりかたですね。ぼくの場合、そこまで意識的に「観察映画」を試みているわけではないですが、例えば「5人のピアニストがひとつのピアノを弾く(最初の試み)」は少し近い状態があるかもしれません。参加者は、ジャズ専攻、クラシック専攻、作曲専攻(特に即興音楽)の、三つのジャンルに分かれている人たちですが、5名のバックグラウンドはそれぞれの会話を通してしか明かされません。あるいは「Each and Every」もテレビの手法とはかなり違った撮影/編集方法を採っています。本来、テレビの料理番組であれば材料の説明や調味料の分量など、そこで起きていることをわかりやすく説明しますが、その説明を排しているという意味では、想田さんが採用している「観察映画」の手法にもちょっと近いのかなと思っています。想田さんのドキュメンタリー映画を知ることで、逆に自分のやろうとしていることを確認出来たという側面もありますね。

ART iT ビデオをどのように捉えているかという質問をしましたが、作品からはそこまで映画と共通点があるとは思いません。しかし、テイク、マルチプルテイクスとかその編集の仕方に映画的な手法を使っていますよね。

KT ぼくはアートよりも映画の方をよりたくさん見ているからかもしれません。とくに編集のタイミングは感覚的なものなので、きっと感覚的なものになればなるほど映画の影響がでているのかも。例えば、最初のアイディアやプロジェクトの枠組みを考えるとき、美術史との距離を考えたりする場合は、感覚的なものからは遠ざかりますが、撮影方法や編集の仕方に関してはかなり身体感覚に頼っているところがあると思います。

ART iT オブジェを使うビデオ「すべてはすべてである」を見ていると、日常的な生活において我々が持っているオブジェに対する先入観を壊して、新しい価値を作る行為をしているのだと感じます。プラスチックのコップを握りしめているところを見ると、たしかに気持ち良さそうだというか、誘発されるなにかがあります。普段は日常的な生活においてプラスチックカップに出会うとそれに対する固定観念があるので、水を入れて飲むか、処分するか、洗うか、カップに対する行為の選択肢はそうしたものによって決まっています。

KT 当時、台北ビエンナーレでこの「すべてはすべてである」を観た人から、子供の頃にやっていた行為に近いという感想を聞きました。子供の頃は、初めて使うモノについて、その慣習的な使い方を知らないから、それがどういうものであるのかを身体を使って試していく。つまり、言語的にではなく、とにかく身体的にまずは理解して、モノの利用法に気づいていく過程がある。たぶんこの作品はそれに近いのかもしれません。自分たちがまだモノに対して先入観を持つ前の状態、子どもの頃に身体を使って試していたときの記憶に近づいていく。そういう意味ではまったく新しい方法を探しているわけではなく、既知の感覚を確認する行為に近いのかもしれない。だから、実際の撮影ではもっとたくさんの試みをしたけど、考えすぎたアイディアや狙いすぎのアイディアは、編集のときにカットしてしまいました。モノを前にしてアイディアが思いついてから行為に至るまでの時間が短いものが多く収められています。行為によってはほとんど何もしていないような、ただテーブルを持ち上げて下ろす、といった行為も含まれていますね。意図があるようなないような、確実な判断が自分の中に出来上がる前にひとまずやってしまう。瞬間的な反応、そうした行為の集合体のようなものですね。



田中功起 インタビュー(2)



言及された映像作品リスト(Vimeo&Youtubeへのリンク)
「5人のピアニストがひとつのピアノを弾く(最初の試み)」(2012)
「誰かのガラクタは、誰かの宝もの」(2011)
「9人の美容師でひとりの髪を切る」(2010)
「犬にオブジェを見せる」(2010)
「すべてはすべてである」(2006)
「Each and Every」(2003)




田中功起 インタビュー
中心を決めずに回ってみる

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第20回 サーキュレーション