リアム・ギリック インタビュー(3)

とある時空の、とある日に
インタビュー / アンドリュー・マークル
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Suspended Agreement (2010), painted aluminium, transparent colored plexiglass, 5 x 300 x 200 cm. Installation view at Taro Nasu, Tokyo, 2013. Courtesy Liam Gillick and Taro Nasu, Tokyo.

III.

ART iT 細長い板を縦長のフレームに垂直にはめ込んだドアの作品「Untitled(Door D)」(2012)は、どこか日本食レストランでよく見かけるような引き戸に外見が似ていますね。そのようなところは制作時に意識したりしましたか。

LG 意識はしてなかったけど、実際には繋がっているかもしれません。非建築的な、余分な建築、例えば、天蓋や間仕切り、ドアみたいに完全に閉じているわけではない、でも、象徴的には閉じているとされる、空間を変化させるものに興味がありますね。それは日本的なものに限りません。例えば、2009年のヴェネツィア・ビエンナーレのドイツ館でも似たようなことを試みています。パビリオンの入口にビニールひもでつくった日除けのようなものを設置しました。通常はハエの侵入を防ぐために使うものですが、このときは空間を完全に閉じることなく、空間を区分けするために使用しました。なにかを通して人々を見るということ。完全に自立した空間ではなく、半自立的な空間を創り出すこと。私は普段、物質的な側面から制作を始めます。アイディアがあり、技術文書やコンピューターに向き合い、建築模型をつくる。それから実際の建築で制作していく。非常に具体的な制作の進め方ですね。

ART iT あなたは文章では透明性という概念に対して批判的に書いていますが、作品ではしばしば透明な素材を使用していますね。

LG 文章を書くときには、透明性という言葉をより政治的な意味で言及しています。透明性とは新自由主義における民主的なるものの欠如に対する物質的な現れなのです。銀行制度や金融規制をなんらかの形で融和するために、それらは透明でなければならないとされていますが、現時点ではこうした事柄は少し変わりつつあるのではないでしょうか。以前は等価交換を示唆するアートという概念に不安を感じていましたが。作品においては、中間的な色よりもはっきりした色を使っていますが、どちらともとれるような物事の方が好きです。抽象(的な作品)とテキストの間で明確な齟齬が起きていますが、だからといって、私の興味が確かなものとしてのアートにあるということを意味しているわけではありません。


Both: How are you going to behave? A kitchen cat speaks (2009), fir wood, lights, fixtures, hardware, colored vinyl door flaps, animatronic cat, soundtrack, text, dimensions variable. Installation view in the German Pavilion at the 53rd Venice Biennale, 2009. Courtesy Liam Gillick and Casey Kaplan, New York.

ART iT あなたの作品に二重性を感じています。一方でそれはかなり親切なものに見える。もう一方では、障壁の論理を用い、身振りを制限する手法として日常的な環境に組み込まれた装置のようなものにも見えます。

LG その通りです。ここのところ、以前にも増してダン・グラハムの作品を見るようにしています。彼の関心事と共通するようなものがたくさんあるので、そうした関係性に対して何かしなければと考えています。実のところ、彼との対話を始めようかと。ちょうど最近、彼の非常に素晴らしい即興的な展覧会*1をポルトで観たばかりなんです。
厳密には「周辺」や「環境」ということではないけれど、少なくとも教条的でなく示唆に富んだ文化における問題に取り組むべきという感覚が彼にも私にもある。観客という問題もありますね。作品と観者との関係性、これはグラハムが常に非常に明確に扱ってきたものです。観客は非常に明確な視野を持ちますが、それは素材の反射などによって騙されているものでもあります。
アートに対する観者の関係という問題をどう扱うべきかと考えています。パリのフィリップ・パレーノの展覧会*2のことが頭にあるのですが、あれは文字通り一連のさまざまな体験を通じた旅ですよね。彼はあの展示で彼自身の作品に関する非常に強いなにかを明らかにしています。ですので、私も自分自身の作品を再考すべきだということなんですよね。
私は空間や都市との関係でも制作していますが、ほかのアーティストとの関係でも制作してきました。フィリップとふたりでCGを使った新しい映像作品の制作を始めていて、そこでは私たちがこれまでに共同制作してきた人々を紹介していきます。まずは大規模予算のフランス映画で働くアニメーターと舞台装置またはミザンセーヌ一式を視覚化しました。そのうち最初の方のふたつは、私が東京で過ごした最初の一夜が影響しています。ただ、今ではかなり再加工したので、ベネズエラと日本が混在したような都市が描かれています。あちらこちらに幹線道路が走り、建設中の建物とそこに住みついている人々。代わり映えしないプロジェクトに聞こえますが、そこからなにかが生まれつつあります。

ART iT ケリス・ウィン・エヴァンスも最初に日本に来たときにとても刺激を受けたと言っていました。東京では「都市の機能体系が壊滅している」と。

LG それはわかりますね。彼の作品にも表れています。私はよそから来ているので社交辞令に聞こえるかもしれませんが、まったくそんなことはないです。私の父親が生きている期間にすっかり再建された場所で制作するのは興味深いことです。昨日、ホテル・オークラの周辺を一時間程散歩して、そこで目にしたひとつひとつの建物が1950年代以降、もしくは1970年代以降に建てられたのだと気づいたんです。これにはとても強い意味合いがあります。まるで誰かが大量の人々の力を集めて凝縮し、それを物質的な生産物に格納したかのようです。この過程に魔術的なものはないのですが、ある意味で、本当に迫力がある。
リノベーション、譲歩すること、共産主義なき集合体、個人制作や共同制作に従事する生産組織といった問題を常に抱えている地域、また、たとえ中心街だとしても、訪れたときにこうしたあらゆる問題が物理的な形に閉じ込められている地域に興味があるんです。どういうことかというと、私は物との関係にだけ影響を受けているということ。これは日本文化に関係しているわけではなく、物理的な物の形に凝縮された人々の物理的な現れに関係しているのです。


Raised Laguna Discussion Platform (Job #1073) (2013), painted steel, 304.8 x 406.4 x 1096.6 cm. Installation view at The Contemporary Austin. Photo David Mead, courtesy Liam Gillick and Casey Kaplan, New York.

ART iT あなたの作品には同じ「形」が別の作品にも現れることがありますよね。各作品にはそれぞれ別の具体的なタイトルが付いているけれども、形としては同じもの繰り返し使用することについて、そこにはどういった考えがあるのでしょうか。

LG いい言い方が見つかりませんね。特定の形を使う具体的な理由があって、それらが特定の機能を有することがある。しかし、それがなんらかの体系的な思考に基づいているわけではありません。表現のひとつの型、もしくは、コミュニケーションのために言い換えや洗練が必要な形を行使している場合もあります。
TARO NASUの展示に出品している「Suspended Agreement」(2010)も初期の「Discussion Platform」のシリーズを改良したものです。最初のものは自分だけで、とても短期間で制作して、ただ天井から吊り下げただけのものでした。最初から現在のような改良された形で制作することはできませんでした。似たような生産技術を使っていますし、根本的な違いがあるわけではないのですが、今現在やっていることに関してなにか納得いくものがあるんです。占拠すべきだと感じた物理的空間を占拠するものですね。
あとは、限られた数の形のみを使っています。T型やL型、アルミニウムの直方体がありますね。3Dデジタルソフトウェアを使うと、新しいファイルを作成する度に、基本的な形として球体、正方形、三角形が与えられます。基本的な形とは違うもの、T型やL型などの正方形からわずかに異なる形を使いたいと思っていて、二辺を取り除いたり、ふたつの線を相互に関連するように置いてみたり。しかし、そこには立方体という「真実」として仮想されるものはありません。作品に使うこれらの形は、基本的に窓や店頭、一時的な構築物、オフィス空間をつくるために使われるもので、素材も同じものだったりします。
正方形のように閉じた形ではなく、いわゆる二次的な形と呼べるようなもので、使い勝手の悪い形です。とはいえ、熔接などせずとも固定できて、わずか4本のネジでひとつに留めています。これらの作品は常になんらかのものとの関係を示唆するもので、真っ白な部屋を意味しているわけではありません。T型とL型は原理的な形というよりもまさに相関的な形ですね。
先の質問に関してはこんなところでしょうか。こうしたことは今でもある程度満足しているのですが、現在は別のことを探求するのに時間を費やしています。アーティストとは。現代美術とは。そして、恊働的思考とは。また、同時に自分にとっての抽象も探求し続けています。それは非常に物質的で、相対的で、物事を進める並行的なやり方として。

ART iT あなたは抽象というものを、なにか非再現的なものや、複雑な情報の数々から推定されるものとして捉えているのでしょうか。

LG その通りです。コロンビア大学から出版されるバンプトン・レクチャーの前半の二章で抽象と並行論を取り上げています。これらはある意味では同じことで、一方では複数のアイディアとの関係における立ち位置、もう一方ではある物と別の物との位置関係について言及しています。作品から物語要素を取り除くための、指定された使用法があるのではないかと感じていて、ある時点から物理的な作品との関係で抽象という言葉を使い始めました。鬱陶しさだとか苛立ちを引き起こすために使っていたということもあります。とはいえ、私にはふたつのまったく異なるものについて話すために同じ言葉や似たようなプロセスを使うことがしばしばあります。

ART iT 天井から吊るした「Discussion Platforms」から、ディスカッションの空間が反転する、ひっくり返されるということを読み取ったのですが、そのようなことはコンセプトにありましたか。

LG もちろんです。あの作品は自由よりもある種の抑圧を創り出すのだと思っています。私は常に自分より上に位置する、私を当惑させるような存在を意識してきました。「プラットホーム」という言葉は、その下ではなく上に立たねばならないことを示唆しています。若い頃に『ブリキの太鼓』を読んだことが影響しているのかもしれませんが、その物語にはナチスが行進する間、少年が長椅子の下に隠れて、頭上で巻き起こるイデオロギーの堕落から逃れうる空間を見つけるという場面があります。その場所は遮蔽物として彼を守る。もし競技場の下に潜り込んだなら、そこで起きる出来事を垣間見つつ、群衆の空気を感じている間も、そこにいることや隠れること、自由でいることに強く繋がるなにかを感じられるでしょう。


Top: Discussion Island Rest Rig (1997/2000), installation view at Taro Nasu, Tokyo. Photo Keizo Kioku, © Liam Gillick, courtesy Esther Schipper, Berlin, and Taro Nasu, Tokyo. Bottom: Ibuka! (Part 1) (1995), installation, mixed media: table, copper plates, sketch, sound (Carl Stallings), book extracts, dimensions variable. Photo © Marc Domage, courtesy Air de Paris, Paris.

ART iT もりろんイデオロギーそれ自体もディスカッションが起きるプラットホームなので、その下にいるということは、イデオロギーの構造や上で進行中の物事がどのように支えられているのかを目にする空間を示唆しているわけですよね。

LG そうです。それが元々のアイディアでした。あの作品はそうしたことを考える空間としてデザインしました。とはいえ、実際にそうしなければいけないわけではないんです。なんらかの身振りや実際になにかをするためのインストラクションではありませんから。それこそ人々が参加型アートや関係性の美学について書こうとするときに私が感じる失望の元凶となるものですね。ただ単純に関係性にだけ焦点を合わせ、美学というものを見失っています。もしくは、いくつかの参加型の実践における差異への誤解があったり、時間や空間やイデオロギーを横断するような決められた行為があるのだと思い込んでいたりするのです。

ART iT それでは、あなたの作品はある種の統合の美学、もしくは統制の美学から生まれる、そのような美学の残滓であり、その解釈なのだという方が正確なのでしょうか。

LG ある意味では、私はリノベーションも含めて、文化空間がどのようにデザインされて、考察されているのかということも考えていました。先に森ビルのことに触れましたが、あの建物には美術館だけでなく、オフィスも入っています。実際のところ、今日ではオフィスビルと見分けのつかないような美術館もたくさんあります。ニューヨーク近代美術館にも同じような花々、受付、黒い服を着た女性たち、大手企業という心臓部があります。物事を統合させるのではなく、それらをいかに融合させていくのかということを考えていました。

ART iT しかし、現在ではスマートフォンをパソコンに繋ぐ際に使用するユーザーを束縛するプロプライエタリ・ソフトウェアのようなものを通して、管理型アーキテクチャが生活のあらゆる面にどんどん組み込まれていき、私たちのコミュニケーションのあり方や、写真、音楽などとの関係性を決定づけています。それぞれの装置がアップグレードされるたびに、自分が所有しているシステムで作業することがどんどん難しくなっているような気がします。

LG おそらくはそれを回避する方法もあるとは思いますが、そのためにはもっと激しく働かねばなりません。私の制作の概念的な側面や執筆したものではなく、先に挙げたような物理的な作品について語るとき、そこにはある意味かなりの悪意がありますね。外見上、それは感じが良さそうで、よくある引き戸を連想させるようなドアが着色されたアルミニウムでつくられていたり、手すりの作品「Restricted Roundrail(White)」(2012)は、低すぎる位置に設置されているため、なにやら別の機能を持っているかのようです。一見したところ、フォーマリスティックに構成されたこれらの物に対して、電気で動くなんらかの機能があるのではないか、以前は熱を放射していたのではないかと勘ぐってみます。つまり、これらの物が環境に反応する機能や調整機能を偽装しているのではないかと考えてみるのです。そう、私の制作を物理的な物との関連で、目の前にあるものを「世界にある別のものとの関係性こそがここにあるのだ」と考えることもできるでしょう。とはいえ、ほとんどの人はそんなことはしません。なぜなら、彼らはそれを望んでいないし、そこに今日的な意味を見出していません。しかし、ここにまさしく今日的な意味があると思っています。
ですからあなたと同意見ですね。だからこそ机に向かい、偽装した統制の形を調べることに大量の時間を費やしているわけです。このような点において、もちろん日本はとりわけ優れています。企業社会の中にまったく統制システムがないかのように見えて、実はつくりあげられた体制の内外にあらゆる統制が存在している。ほとんどの観光客が白手袋をはめた警備員が丁寧な口調で指示しているのを目にするでしょう。しかし、これは統制ではなく、サービスなのです。もしくは階級やアイデンティティに関する名残で、統制ではない。さらに興味深いのは建物の一階部に配置された半公共空間のあり方で、こうしたものは見事に統制という感覚が曖昧なのですが、先に挙げた警備員よりも、人々の行動や身振りに影響を及ぼします。


Restrained Roundrail (White) (2012), powder-coated aluminium, 5 x 400 x 5 cm. Installation view at Taro Nasu, Tokyo, 2013. Courtesy Liam Gillick and Taro Nasu, Tokyo.

ART iT ドアの作品を見て、即座に思い浮かべたのはもうひとつ、刑務所の部屋のことです。

LG そうですね。今こそこの作品をいかに進めるか決めるときでしょう。どうすべきか。これらの作品はあるべき形に近づいているのかもしれません。これらはこのような空間で機能するのにちょうどいい大きさで、今回の展示でさらなる表情を見出しているところです。この春のベルリンでの展覧会ではすべての表面を剥ぎ取る、あらゆるものから色を剥ぎ取るつもりで、それがどうなるのかを見てみたいと思っています。これは先程あなたに説明したのと同じプロセスでもありますね。表面を剥ぎ取ること。アーティストを題材にすること。自分が若い頃に重要だった人々と恊働すること。新しいやり方で時間を扱うこと。これはたくさんの物事を分解し、さまざまな要素をレイアウトすることで自分が持っているものを確認するプロセスです。

ART iT 「馬らしさはあらゆる馬の本性である[Horseness is the whatness of all horse]」*3。これはあなたにとって何を意味しているのでしょうか。

LG これはとても好きな文章で、アイルランド人の天才、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』から引用したものです。まさしくモダニズムの表現ながら、哲学に深く根差しているものです。「馬らしさは馬らしさ以外の何ものでもない」。疑似哲学的なステイトメントによって、ある特定の質問にさも答えているかのようなところが気に入っています。とはいえ、なんだか頭のいかれた、奇妙なイメージを想起させますね。常にその「馬」に戻ってきてしまう。このジョイスの引用は私にとって、タルコフスキー、そして『惑星ソラリス』で主人公が長い旅路を続けていくために地球に別れを告げるシーンと繋がります。馬が映るシーンが二、三度あり、その馬にも馬らしさがあり、それこそが根源的な馬らしさなのです。もちろんソラリスという惑星はある種の感情を持った記憶装置であり、記憶を反復したり、再活性化したりする。その馬は、物であり、本質であり、実在するものである。そう、ある意味ではこの文章は初期モダニズム的思考の偉大なる模倣であり、物質的なものへの禁欲的な焦点に着目したものなのです。それはまさに馬であると同時に馬を越えたものである。
まさかこの作品について聞かれるとは。実はここに来る途中に馬の鳴き声が聞こえたような気がしたのですが、もちろん東京に馬がいるわけがないと思って。それから、馬に乗ってギャラリーに行ったらどうだろうとか、外に繋いでおこうとか、そういうのはどうだろうかなんて考えていたんです。そこにあなたの質問。こうした符合。これは素晴らしいステイトメントです。物は物であり、もしくは、その物らしさである。けれど、抽象を手に取り、それを物理的な矛盾を孕んだイメージに変換する。言葉にするのも馬鹿げていますが、それは本当に素晴らしいことです。毎日こうしたことが少しだけでも必要なのではないでしょうか。



*1 Dan Graham “Future es Dan Graham” at Uma Certa Falta de Coerência 2013/10/11-11/03
*2 Philippe Parreno『ANYWHERE, ANYWHERE OUT OF THE WORLD』パレ・ド・トーキョー,2013年10月23日-2014年1月12日
*3 ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ1』丸谷才一,永川玲二,高松雄一訳,1996年,集英社

リアム・ギリック|Liam Gillick
1964年バッキンガムシャー州エイルズベリー(イギリス)生まれ。ニューヨーク在住。経済や労働など現代社会への考察に基づく、日常的な環境を構築する素材を用いた彫刻インスタレーションをはじめ、多様な表現手段を用いた実践で知られる。その活動は建築やグラフィックデザイン、映画などにも及び、さらには、文筆家としても数多くの文章を継続的に発表している。
2009年には第53回ヴェネツィアビエンナーレにドイツ館代表として参加。ウィーンの建築家マルガレーテ・シュッテ=リホツキーが考案した「フランクフルト・キッチン」に着想を得た空間を構成した。そのほか、第50回ヴェネツィア・ビエンナーレ企画展(2003)やドクメンタ10(1997)など数多くの国際展に参加している。また、ホワイトチャペル・ギャラリー(2002)、パレ・ド・トーキョー(2005)での個展、欧米の4つの美術館を巡る回顧展(2008-10)などを開催。2002年にはターナー賞にノミネートされた。日本国内では横浜トリエンナーレやTARO NASUにて作品を発表している。

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