チェン・ジエレン インタビュー


Chen Chieh-Jen, Empire’s Borders II – Western Enterprises, Inc. (2010) stills

 

リフレクション-記憶が反射する時空間
インタビュー / 大舘奈津子、良知暁

 

I.

 

ART iT 『ふぞろいなハーモニー』展(広島市現代美術館)[1] に出品している「帝国の境界II—西方公司」(2010)の、とりわけアーカイブである写真作品を見ながら、なぜか沖縄の現在の状況に思いを巡らせました。作品全体はすべてあなた自身と家族の歴史であることも、それが台湾の歴史であることも理解しているにもかかわらず、作品の映像部分で使われている米軍と台湾の過去の記録映像を見て、沖縄のことを考えながら、涙がこぼれてくるという自分でも不思議な感覚に陥りました。
この作品については、ご自身でも語っている通り、父親が亡くなった後に見つかった記録や物をきっかけに制作したということですが、一方で、非常に政治的な作品でもあります。作品の起点となる部分からどのように展開していったのでしょうか。

チェン・ジエレン(以下、CCJ) 1970年前後にフェミニストによって語られた「個人的なことは政治的なことである」という言葉があります。誰の言葉なのか忘れてしまいましたが。私はある時期からしばらくの間、作品制作から離れていたのですが、36歳のときにある地点を通り抜けたと感じて、再び制作をはじめました。それ以降は、どんなに問題が複雑でも、自分自身でじっくり考えればいいのだと思うようになりました。そうすることで、改めていろんな角度から世界に繋がることができる。創造行為とは人間に関することであり、世界に関することであり、社会に関することなのです。そう、それはとてもシンプルなことです。

 

ART iT シンプルとおっしゃいましたが、一方で、あなたの作品では時間の長さも重要な要素としてありますよね。それは遊歩者(flâneur)というか、明確な目的もなく、迂回しつつ、彷徨いながら、考えを重ねているのではないかと。観客も作品を見ながら、それを疑似体験するような気がします。つまり、結論があるのではなく、いろいろな思考の寄り道をしながらゆっくり進んでいくような身体的な体験が、作品時間の長さに含まれているのだと思いました。

CCJ ひとつ例をあげましょう。私の作品「Factory」(2003)では、衣料工場とそこで働く女性労働者を扱っていますが、実はそれは私の姉の人生にも関係があります。私の姉はずっと工場で働いていました。ご存知のように、そうした工場は欧米から中国や東南アジアに移転してきました。工場は移動できるのですが、その一方で、労働者が自由に移動することは禁じられています。彼らは資本主義や帝国主義といったものに苦しめられているわけですね。こうした問題は既に広く知れ渡っているのですが、そうした状況に対して、抑圧されている労働者がいかに声を上げ、経験を語ることができるのかという非常に難しい問題があります。そこで「Factory」の場合も、まず彼女たちに会い、一年以上活動を共にしました。撮影機材も録音機材も持たずに、ただただ彼女たちと友達のように話したり、行動したりして、頭の中にたくさんのイメージが浮かんできたところで、ようやく作品のことを考えはじめました。実際の撮影日数は5日間程でした。撮影に費やした時間は、彼女たちといっしょに過ごした時間と比べるとわずかなものです。したがって、先程、作品の起点となる部分とおっしゃいましたが、実のところ、私自身もどこが起点なのかわかりません。それはもしかしたら20年前、私の姉が工場で働いていたときの記憶かもしれないし、私自身が工場にいたときの記憶かもしれません。なにかはっきりとしたきっかけがあるわけではなく、どこかで制作やプロジェクトがはじまっていきます。

 


Both: Chen Chieh-Jen, Empire’s Borders II – Western Enterprises, Inc. (2010) stills

 

ART iT 「帝国の境界II—西方公司」に出てくる建物をカメラが彷徨っていく中で、過去、現在、未来のさまざまな要素が出てきます。あなたはそれらの要素をどのように関係づけているのでしょうか。

HCW すべて個人的な経験に由来しています。例えば、私に話しかけているあなたは現在のあなただけではありません。おそらくは5歳のあなた、10歳のあなた、そして未来のあなたなど、さまざまな瞬間のあなたが話をしている。あの作品の中に、過去、現在、未来を見ることができると思いますが、それもまた、あなた自身の経験によってそうしたものが見えているのです。これは難しい哲学のようなものではないし、それほど難しい問題でもありません。同じようなことをたくさんの人が経験しているのではないでしょうか。

 

ART iT しかし、この作品における時間と空間のあり方には、通常感じている時間と空間とは違う、少し奇妙な感じがします。似たようなシーンが繰り返されたり、記録映像が差し込まれたり、時間軸や空間全体を把握できず、自分がどこに位置しているのかわからなくなるというか。

HCW それは意図していますね。あの作品には、なにかが燃え続けている炉が繰り返し現れます。あの場所こそ、映像の中でどの登場人物も辿り着くことができない場所で、観客だけが見ることができるのです。(今回の広島の展示ではシングルチャンネルで見せましたが、)オリジナルのインスタレーションでは3つのスクリーンを使っています。中央のメインのスクリーンの背後に隠れるように、ほかのふたつのスクリーンが配置されていて、たくさんの資料が炉で燃えている映像が投影されています。登場人物はメインのスクリーンの中を彷徨い続け、決して資料が燃やされている場所には辿り着けませんが、観客は回り込んで、次から次へと資料が燃やされている映像を見ることができます。また、労働者たちが数字の書かれている紙を両手で持っているシーンがありますが、あの数字は彼らの失業日数を表しています。作品に出てくるさまざまな細部が未解決のまま残されています。観客は作品の中でいくつかの事を見たり、知ったりするわけですが、実は数多くのことを見逃してもいる。つまり、観客と作品には常にある距離が存在しているのです。
作品冒頭に出てくるイントロダクションを読んで、この作品が台湾におけるCIAの歴史に関する話だと考えると思いますが、実際、観客が目にするのは登場人物がある建物の中をずっと歩き回る姿です。その姿を追っていっても、それは台湾のCIAの歴史を語っているわけではありません。作品の終盤で、登場人物たちがある大きな部屋に集まってくるのですが、それは一見すると彼らがこの建物の外へは出られないように見えるし、同時に観客はこの建物がなんなのかを知らされることはありません。最後のシーンは、炉から煙が出ている場面になりますが、それは穴のようにも見えるし、鏡のようにも見える。このシーンを見て、観客はいったい何が燃やされているのだろうかとか、いったいいつになったらこの煙は消えるのだろうかと考えるかもしれません。そして、その瞬間、観客は自分自身のことを考えることになるでしょう。このように最初は人々が知っている問題からはじまって、作品を見続けていくことによって、観客は自分自身のことを考えはじめるようになるでしょう。

 

ART iT ところで、この作品だけでなく、療養所を扱った別の作品にも人と数字との関係が出てきましたね。あなたは個人を無名化するような数字に関心を持っているのでしょうか。ちょうど、日本では国民に番号を与えて管理するマイナンバー制度を導入しようとしていることもあり、人と数字の関係に無名化と管理というふたつの側面を考えました。

CCJ そうですね。私たちは決して数字から逃れられないのかもしれません。例えば、私も台湾のIDカードを持っていますが、背面にはIDチップが埋め込まれていて、そこにもたくさんの数字が存在しています。私たちはいったいどれだけの数字で表されているのでしょうか。こうした管理は生政治(Bio-politics)[2] にまで及んでいます。芸術はそれに抵抗するためにあるのではないでしょうか。私たちが生政治に至るまでの過程があり、芸術はそこから逸脱する点として存在しています。生政治に対して批判的な態度をとることも芸術の政治的な役割のひとつです。芸術の政治性というのは、政治問題について語ることではなく、こうしたところにあるのです。普通、CIAの問題を語るとき、私たちは批判的に語りますが、それは批判的にしか語れないと言ってもいいのではないでしょうか。これは資本主義に抑圧されている人々について語ることも同じです。そして、「西方公司」の中で歩き回っているのは、まるで私たちが人生において統治の中を歩き回っているかのようではないでしょうか。そこで再び最後の煙のシーンに戻りますが、あの煙がいったいどこへ行くのかは誰にもわかりません。このシーンはしばらくの間続くので、おそらく観客は煙のイメージから距離を置いて、なにかほかのことを考えはじめるのではないでしょうか。あなたがちょうど沖縄のことを考えたとおっしゃっていたように。その瞬間、つまり、政治的なものが生じたその瞬間が芸術なのです。ですから、私たちは芸術作品をつくっているのではなく、芸術がつくられる瞬間をつくることこそが芸術なのではないでしょうか。

 


Above: Chen Chieh-Jen, Empire’s Borders II – Western Enterprises, Inc. (2010) stills. Below: Chen Chieh-Jen, Realm of Reverberations (2014) stills.

 

ART iT 「残響世界」(2014)についてはいかがでしょうか。この作品では、各章で登場人物の物語がそれぞれ語られており、「帝国の境界II—西方公司」に比べ、より登場人物にフォーカスを当てているような気がしました。

HCW この作品の最初の上映は、撮影場所である楽生療養院の屋外で行ないました。美術館で上映する場合も4つのスクリーンを使います。観客はどれかひとつの映像を見ていても、ほかの3つの映像の音が流れてきます。4つの章は同期していないので、ひとつの章を見ているときに聞こえてくる音は常に一定ではありません。ですから、ここでも芸術の瞬間は、アーティストではなく、観客によって生じます。観客もまたそれぞれ異なる芸術の瞬間を体験するでしょう。もちろん、その瞬間を感じない人もいるでしょう。観客自身が深く思考する状態に入り、自分自身のイマジネーションに従うことが重要です。そうして、観客の思考の形は、アーティストが予期していないような形をとるでしょうが、それでいいのです。例えば、「残響世界」はハンセン病の患者を扱った作品で、そこから物語ははじまりますが、すべての章を観終わったとき、観客の頭にはハンセン病のことに限らず、ハンセン病とは関係のない、なにか別のことが思い浮かんでいるかもしれません。
創作するとはどういうことか。ここに発音は同じだけれど意味が異なる4つの点があります。はじまりとなる「起点」、その道が分かれていく「岐点」、道から逸脱している点、数学でいうところの「奇点」、そして、消失する、もしくは爆発するというふたつの意味を持つ「氣点」がある。例えば、「西方公司」では、まず非常に限られた禁断の空間があり、そこには過去の歴史、異なる歴史の繋がり、異なる階級の歴史、現代の労働者の歴史といったものがある。言ってみれば、「リアル・ドキュメンタリー」です。しかし、実際のところ、観客はこれらがすべてつくられたものだということを知っています。さまざまな歴史は逸脱したひとつの点に圧縮され、最後の炉の煙のシーンで観客はそれを感じとることができるでしょう。その瞬間が爆発の瞬間と言えるかもしれませんね。そしてまた最初に戻って、繰り返されていく。これが私の作品ですね。

 

ART iT ここで起きていることが共同体の記憶、もしくは集合的な記憶に関係していると考えてもいいのでしょうか。ひとつひとつの記憶がばらばらにあるというよりも、それぞれの記憶がある意味でひとつのものとしてあるような。異なる背景を持っている人々が集まっている中で、集合的な記憶を思い描くことは難しいかもしれないけれど、それでもそれは存在しうるというような。

HCW はい。とはいえ、ここでの共同体の記憶というのは誰もが同じ記憶を持っているということではありません。私たちはそれぞれ違うけれども、似たような記憶を持っていて、それらが交差する点がある。観客は必ずしも作品に出てくる歴史や背景などをすべて知っている必要はありません。観客が作品を観たときに、どこか似ているような経験を持っていれば、そこから作品と繋がることができるでしょう。そもそも、この作品は観客を迷子にさせるようなものです。最初はとてもわかりやすいはじまり方をしますが、作品が進行していく中で迷子になってしまう。そこには多数の分岐点があり、同じ体験をするということはありません。

 


Chen Chieh-Jen, Realm of Reverberations (2014)

 

ART iT ところで、「帝国の境界II—西方公司」では、あなた自身と思われる役をほかの人物が演じていたわけですが、2月の(芸術公社プロデュースの)レクチャーパフォーマンス[3]では、あなた自身が自分の言葉で語ることになりますよね。これまでにも自分自身の役を自分で演じたことがありますか。

HCW これまで、映像作品で自分自身を演じたことはありません。過去にはパフォーマンス作品もつくっていましたが。レクチャーパフォーマンスの会場となるSHIBAURA HOUSEは全面ガラス張りの建物という特別な空間で、今回はパフォーマンスではなくレクチャーパフォーマンスということで、ちょっとしたアイディアが頭に浮かびました。それはなにか浮遊感を感じられるものになる予定です。そこで上演する作品も最初はハンセン病の療養院の話からはじまりますが、さまざまな話が交差していき、日本の若い人たちが抱える派遣問題についても話が及ぶことになると思います。最終的には、私自身もそのレクチャーパフォーマンスの一部にすぎないということになるでしょう。もちろん、ハンセン病についても話しますが、排除されたもの、生政治のこと、派遣労働者のこと、さまざまな話が交差していく中で、観客には東京にいる自分自身の問題と照らし合わせて考える瞬間が訪れるのではないかと思います。したがって、レクチャーパフォーマンスは台湾の過去や、台湾と日本の歴史ということだけではありません。観客がそれぞれ自分にとっての芸術瞬間を体験してくれることを楽しみにしています。

(インタビュー協力:広島市現代美術館、ホー・フェイティン)

 


 

[1] 被爆70周年:ヒロシマを見つめる三部作 第3部『ふぞろいなハーモニー』:広島市現代美術館で2015年12月19日から2016年3月6日まで開催。http://www.hiroshima-moca.jp/harmony/

[2] 生政治(Bio-politics):フランスの哲学者ミシェル・フーコーによって、近代以降の社会の仕組みを理解するために提起された統治の概念。生物学的プロセスを支える身体を中心に据えた、繁殖や誕生、死亡率、健康の水準、寿命などに介入、管理調整する統治の形態。

[3] 芸術公社プロデュース「レクチャーパフォーマンス」Vol.2 チェン・ジエレン:「残響世界」を基にしたレクチャーパフォーマンスを東京・芝浦のSHIBAURA HOUSEで世界初演。http://lecture-performance.com/

 

 


 

チェン・ジエレン[陳界仁]|Chen Chieh-Jen

1960年台湾桃園生まれ。78年に復興商工職業学校を卒業。80年代には戒厳令下の台湾で、当時の政治体制を批判するゲリラスタイルのパフォーマンスや展覧会を行なう。その後、約8年間の沈黙を経て、96年より制作活動を再開。自身の家族史や台湾近現代史を考察し、彼自身が「再想像、再物語化、再記述、再結合」と呼ぶ方法を用いて、地域住民や移民、労働者、失業者、社会活動家らとともに、新自由主義によって隠ぺいされた現実や人々の歴史を視覚化する一連の映像作品を展開している。近年の主な個展に、ルクセンブルク・ジャン大公現代美術館[MUDAM](2013)、台北市立美術館(2010)、REDCAT(ロサンゼルス、2010)。第53回ヴェネツィア・ビエンナーレ台湾館(2009)をはじめ、上海、台北、サンパウロなど多数の国際展に参加。また、2010年には、社会的現実や人間の条件に向き合った制作活動を行なうアーティストを対象としたアルテス・ムンディ賞の最終候補として、カーディフ国立美術館で作品を展示している。日本国内では、第3回福岡アジア美術トリエンナーレ(2005)やトーキョー・ワンダー・サイトの『アジア・アナーキー・アライアンス』(2014)などで作品を発表。広島市現代美術館の『被爆70周年:ヒロシマを見つめる三部作 第3部「ふぞろいなハーモニー」』(2015-16)では、「帝国の境界II – 西方公司」を出品。また、2016年には芸術公社プロデュースの「レクチャーパフォーマンス」では「残響世界」を基にした作品を上演する。

被爆70周年:ヒロシマを見つめる三部作 第3部『ふぞろいなハーモニー』
2015年12月19日(土)-2016年3月6日(日)
広島市現代美術館
http://www.hiroshima-moca.jp/
展覧会URL:http://www.hiroshima-moca.jp/harmony/

芸術公社プロデュース
レクチャーパフォーマンス vol.2「残響世界」
2016年2月16日(火)-2月18日(木)
SHIBAURA HOUSE
http://www.shibaurahouse.jp/
レクチャーパフォーマンスURL:http://lecture-performance.com/

 


Both: Chen Chieh-Jen, Installation view in “discordant harmony”, Hiroshima City Museum of Contemporary Art, 2015

Copyrighted Image