田中功起 共にいることの可能性、その試み

田中功起 共にいることの可能性、その試み
文 / 大舘奈津子


「一時的なスタディ:ワークショップ#4 共にいることの可能性、その配置」 2015-2016 制作風景 6日間の共同生活、ワークショップ、記録映像

見るべき展覧会である、と断言できる。会場滞在時間6時間。気がついたらフェイスさん*1に閉館3分前と告げられた。長時間の鑑賞を通じて、登場人物に感情移入し、参加者の分析ができるようになる。リアリティ番組を身体的に体験できる、とでも言おうか。展覧会でしか実現できない、作品+αの部分が見事に展開されている。

田中功起の作品について、語ることは簡単で難しい。しかし、ひとつだけ言えることは、彼の編集能力が卓越したものである、ということ。ここでいう編集は映像編集のことだけでなく、人物のキャスティング、配置といってもいいかもしれない。

同僚であるがゆえに、褒めるのを憚られてしまうのだけれども、今回の展覧会の最大の立役者は何と言っても、ART iTの編集であるアンドリュー・マークルだろう。インタビュアーとしての彼の志と質の高さは、誰よりも彼の同僚である私たちが一番わかっている。ただ、常に同行しているわけではないので、彼によるインタビューの現場がまとめて可視化されると改めてそのすごさに唸ってしまった。インタビューの相手によって場所を変え、トーンを変えつつ、同じ質問を投げかける。ところどころたどたどしく聞こえる彼の日本語故に、対象者は心を開いてしまうのであろうか。沈黙を恐れないところ、寄り添うところなど、共に暮らす(ここでは共同体、とは使いたくない)ときに気を遣うべきすべての点を完全に抑えている。また、彼の位置から一歩さがり、しかもさらに下の位置に留まって、ところどころで介入した田中が、影のインタビュアーとして、役割を明確にした点も大きな意味を持っていたように思う。比較的素直に質問をしながら、かつこれまでになかった点として責任をとる、という立場をとったことが印象に残った。ときに意地悪な質問をあえてしようとしている点(そこに逡巡が見えるところが彼の人の良さだとは思うが)もPARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭で発表された作品「一時的なスタディ:ワークショップ#1『1946年〜52年占領期と1970年人間と物質』」よりぐっと踏み込んだ印象が強かった。

一方で、「料理」や、「ナイトウォーク」以外のワークショップの映像、つまり「陶芸」、「社会運動」、「朗読」についてはあまり魅力を感じることができなかった。参加者のワークショップに対する距離感なのか、特に「社会運動」や「朗読」で語られる哲学者の言葉が、彼らの身体と乖離したままだったからか、彼らの戸惑いばかりが同じように目立った。またファシリテーターが立場上、指導者になるということが、そもそもフラットな共同体を目指していたように見えるプロジェクトと噛み合わなかったのかもしれない。できる人がなにかを与えることが自然な形で行われた「料理」についてはそうした違和感を全く感じなかったのだけれども。


Both:『田中功起 共にいることの可能性、その試み』展示風景 水戸芸術館現代美術ギャラリー、2016年、Photo: ART iT

ハイライトはやはり最終日の最後に撮影された、「ディスカッション」だろう。共同体における(自発的な)ある種の役割を担った参加者という立場から各々が実体を取り戻し個人に戻っていく姿が徐々に顕れる。その過程において互いの齟齬は少しずつ大きくなり、対話ではなく議論が展開される車座には緊張感が漂う。しかし最後はそれに対して肩透かしのような失敗で幕引きが図られる。

登場人物(とあえて言う)は皆魅力的で、善人であり、一方で、すくなからず美術の素養があるが故にどうしても超えられていない一線があった。彼らからも指摘があったように公募の方法にそもそも問題があった、と取られてもおかしくない。自主的な参加を促したかったのだと思うが、現実社会を反映した構成とはやはり思えなかった。

そして、共同体への試み、といったときに、気になったのは、その場に居つつも共同体に含まれなかった人々の存在である。具体的に言えば、撮影やキュレーターのアシスタントたち、もしくは宿泊施設で働いている人たちは、今回の枠組みのなかの共同体から静かに排除された。ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館における田中の展示『abstract speaking – sharing uncertainty and collective acts(抽象的に話すこと – 不確かなものの共有とコレクティブ・アクト)』の記録映像*2を見て、確信を持って言えるのであるが、撮影監督である藤井光は絶対に彼らを撮影していたはずである。にもかかわらず、映像のなかで不在である彼らは、作品にとっては邪魔なノイズだったのだろうか?

共同体を構築する、ということは裏返せばその外に対してバリアを作るということにもなりうる。そうした外側に対しての意識が常に俯瞰して見る立場だった、藤井とマークルが発する言葉に強く表れたことは、共同体の構築自体が、内向きになる危険性を孕みうることを彼らは早いうちに理解したのかもしれない。そして、作品を通して、共同体の構築が失敗へと突き進んでいく様子は見事に明示されたが、一方でひとつの疑問が湧いてくる。そもそもその共同体が立ち向かおうとしていたのはなんだったのだろうか?失われつつある絆?そのような漠然とした抽象的なものであろうはずがない、と自答する。

田中がメンバーのひとりでもある、ARTISTS’ GUILDが東京都現代美術館の展覧会『MOTアニュアル2016 キセイノセイキ』で美術館という制度に立ち向かおうとして、結果、制度との協働的解決を模索したが故に見事に失敗してしまっている現実を見るとき、抗う対象なき共同体とは一体どういうものなのかについて考えてしまう。そして、芸術作品とは、制作過程において協働作業がありこそすれ、最終的に作品として集約されるものは、常に個(もしくはグループ単体)に立脚する、という厳然たる事実についても。


*1 水戸芸術館現代美術ギャラリーにおける、館内案内誘導係の呼称。
*2 ドキュメンタリー「第55回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展 日本館」(監督/撮影/編集:藤井光)https://www.youtube.com/watch?v=7mI5PluD17Q

田中功起 共にいることの可能性、その試み
2016年2月20日(土)-5月15日(日)
水戸芸術館 現代美術ギャラリー
http://arttowermito.or.jp/gallery/
企画:竹久侑(水戸芸術館現代美術ギャラリーセンター学芸員)

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