ジャン・ミシェル・ブリュイエール/LFKs「たった一人の中庭」(F/T12)

ジャン・ミシェル・ブリュイエール/LFKs「たった一人の中庭」
2012年10月27日(土)-11月4日(日)
にしすがも創造舎
http://sozosha.anj.or.jp/

文/大舘奈津子(編集部)


Photo: ART iT

観客として悔しい思いをする作品であった。自分の理解力が作品のレベルに追いついていない、という意味で。

今年のフェスティバル/トーキョー(以下、F/T)の開幕を飾る「たった一人の中庭」(ジャン・ミシェル・ブリュイエール/LFKs)はにしすがも創造舎の大部分を使ったインスタレーション演劇である。
作品はいくつかの部屋で構成される。元中学校の校舎という場所の特性を生かしたインスタレーションは、複数のテーマをそれぞれ各小部屋(元教室)に配置し、キーとなる要素を少しずつ開示しながら最後にそれらが集合した体育館の大型インスタレーションへと導く形式をとっている。
学校の敷地の裏口から密やかに階段を降りる。そうして最初に感じた不穏な空気はどの部屋にも共通している。特に元家庭科室を使った「Egging On Room[教唆する部屋]」と、今回新たに加えられたという理科室に展開した「Bathers room[入浴する人々の部屋]」のなんとも言えない気味の悪さ。「Egging On Room」では、棚の中に無数の卵が並び、その卵は鍋の中でゆでられ、有機的な形をした白い彫刻が、床から窓にかけて所狭しと並び、しかも増殖しているような印象を与える。その部屋で一定の時間になると、奥のステージの上でマスクをつけた女性が、なぜか男の声で、抑揚のない淡々とした声でフランス国境警察のマニュアルを繰り返し読み続けていた。その口調は反論の余地を許さず、極めて官僚主義的な冷たさを隠していない。
「Bathers Room」では、その装置や効果音、電話、蛇口、子供の靴や彫刻といったものが、数多く整然かつ無造作に置かれているが、昼でも薄暗い部屋であるが故、外に無造作に干された洗濯ものさえも、そこに確かに居たであろう人間の不在を一層強調していた。時々流れる暴力的な水音が、全体の温度をさらに下げるような効果をもたらす。
そうした暗澹たる雰囲気が全体を覆っていながらも、白のフリンジをつけた不思議な生き物の踊りやパフォーマンス、さらに観客自らも更衣室で試着することによりその生き物になってみることができるユーモアがある。

最後を飾る体育館での大型インスタレーションは、日本の学校の典型的な体育館がところどころむき出しになっているだけに、すこし状況が違った。非常事態には実際に避難所として使われる機会の多い体育館は、どうしても収容所よりは避難所に見えてしまう。
床にまかれた発砲スチロールチップは、不自由さや隣人の気配を感じさせるものではあったが、不穏な空気に包まれるというよりは、作り上げられた舞台装置の中を訪問するような、なんとも言えない距離感を感じた。その距離感は全体を通しても感じたものであったが、特に体育館での居心地の悪さは、自分の政治的立場のなさを浮き彫りにするようなものであった。つまり、作品が持つあまりにも視覚的に魅力的なスペクタクル性に取り込まれ、引きずられ、ある種の思考停止に陥る。そして、決して見ている観客は目の前に起きている出来事、そしてそれが取り扱っている出来事の当事者になりえないという事実。しかも第三者という中立な立場でもなく、いわゆる「目の前でこんなことがおこっている、可哀想もしくは大変だ」という切迫感に欠けた野次馬の単純な視点に陥る危険性を孕んでいる。作品の主役であるセネガル人の詩人イッサ・サンブに対しては、彼の肌の色においてのみならず、孤高にも見える態度や衣装としてかろうじて身につけている腰布など、様々な意味において遠い存在に映る。彼がそして彼が体現するものが意味するものは理解の仕様もないという現実。そこに自分や身近な人を置き換えることを想像することは容易ではない。
私事ではあるが、筆者はフランス人の家族がおり、日常的にフランスのニュースに触れるなど、日本人の中では比較的フランスの社会政治状況についてはそれなりの知識があり、近い距離を保っている。それでも、巣鴨の校舎で起こっていることに対して、作品が保持しているであろう、世界、特にヨーロッパにおける隔離や排除の方向に進みつつある状況に対する危機感を、作品から直接身体的に感じとることはできなかった。それはひとえに自分自身がそうした状況に対する知識を多少持ち合わせていても、危機感はもっていないからかもしれない。ある意味当然であるのだが。
そして、巣鴨からの帰路、そのことについて考えながら、日本において台頭しつつある韓国や中国に対する反感やそれをとりまく状況は、作品が提起している問題と極めて近いこと、更にそのことからみても、日本においても同様の危険性があるにも関わらず、すぐにそれに繋げて考えることができなかったふがいなさ。「外国人に食物を与えないでください」と中庭に掲げられた看板が持つ意味は見かけのユーモアとは裏腹に日本においても深刻である。

尖閣諸島の購入を提案し、今日の日中関係の危機的な状況を生み出した石原慎太郎都知事が任期を全うせずにその任務を放り出したその週に、石原都政時代に生み出された素晴らしいイベントであるF/Tの一環として、この作品を見たことの意味を私は未だに反芻している。そして、願わくば石原都知事の後任者が、彼と同様にF/Tの存在意義を理解できる人であることを強く望む。

フェスティバル/トーキョー12
2012年10月27日(土)-11月25日(日)
にしすがも創造舎、東京芸術劇場、ほか
http://festival-tokyo.jp/

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