50:追悼・三上晴子 ― 彼女はメディア・アーティストだったか(4)

※本連載での進行中シリーズ〈再説・「爆心地」の芸術〉は今回お休みとなります。

連載目次

(承前)では、このころ三上晴子が好んで使うようになった「被膜世界」とは、いったいなんであったのか。彼女がこの言葉をいつ、どの時点で思いつき、実際に使うようになったのか。正確なところはわからない。だが、私が最初にこの言葉を三上からじかに聞かされたのは、少なくとも、前回論じたギャラリーNWハウスでの個展「被膜世界:廃棄物処理容器」や、レントゲン藝術研究所での二人展「ICONOCLASM(イコノクラスム)」展(いずれも1993年)への参加に先立っていた。具体的に言えば、それは『季刊インターコミュニケーション』(NTT出版)誌面計画上でのことだった(*1)

同誌は、のちの三上にとって、キヤノン・アートラボや山口情報芸術センター(YCAM)と並んで活動の拠点となるNTTインターコミュニケーション・センター(ICC)が97年、初台にオープンする以前から発行を始めていた同センターの機関誌である。そのうち92年秋刊行の通巻第2号、特集「情報系としての生体」のなかで三上は、括弧付きながら、「被膜(からなる)世界」と題する誌上展覧会を4頁にわたって展開している。それだけではない。ここで4回にわたって連載して来た本論の初回冒頭であらかじめ断っておいたとおり、当初、私は三上の作品に対する激しい批判者であった。その私に、どういうわけか彼女はその頁構成を依頼してきたのだ。さらに三上は、自身がそのころ着想していた新しい作品の展開を「被膜(からなる)世界」と呼ぶことが適切かどうか、意見まで求めてきたのである。そのやりとりの詳細はここでは置くが、私はその依頼を受け、彼女の呼ぶ「被膜(からなる)世界」から「からなる」を抜き、「生体被膜論」として短いエッセイを寄せた。しかしいま思えば、この「被膜(からなる)世界」と「被膜世界」とのあいだの微妙な違いに、三上の関心は凝縮されていたようにも感じられるのだ。事実、三上自身、このころ「皮膜」と「被膜」とのあいだで、嗜好が相当に揺らいでいた。


「生体被膜論」より(『季刊インターコミュニケーション』第2号、1992年、NTT出版)

ちなみに、この誌上展覧会での三上の頁の詳細は次のようになっている(*2)。最初の見開きで三上は、合計10個の試作的な人型イメージを左右の頁に並べている(*3)。これらはいずれも、「被膜彫刻案」と副題が付けられているとおり、のちのち等身大の彫刻に仕立て直す構想があったものと思われる。ほとんどがなにがしかのハイテクの被膜を装着し、外界から生身を守られた小さなフィギュア群は、左からそれぞれ「深海探査」「環境破壊事故」「人種問題 KKK」「軍事活動」「医学」「コンピュータ産業」「原子力発電所」「テロリスト活動」「宇宙開発」「バイオテクノロジー」となっている。これらは、三上によって「World Membrane」と称されており、「被膜(からなる)世界」はその下に小さく添えられているだけだ。この抑揚の違いはおそらく、当時の三上がニューヨークでの活動を経て、みずからの創出するモチーフの英語圏での流通性を高めようとしていたことに由来するのだろう。しかし、少なくとも当時の三上は日本語を主に思考していたはずで、そのまま訳せば「<皮>膜世界」となるのを「被膜(からなる)世界」としたところに、被膜なるものをめぐる彼女の思索の揺らぎと固有性が滲み出ていたと思われる。

しかしそれについて触れる前にもう少し、誌面上に寄せられた彼女自身の言葉を追っておこう。この標題のもと、三上はふたつの短いが印象的なパッセージを左右の頁に寄せている。「生体圏、特に人間がそのままのオプションで活動できる範囲は狭い」「地上:約5200mで身体機能低下 水面下:約10m、数分で呼吸困難」がそれである。

すなわち、彼女の呼ぶ「被膜(からなる)世界」とは、生身の人体が持つ生理学的な活動限界を指している。と同時に、この言葉に、その活動限界が新たな被膜テクノロジーによって外宇宙から海底、放射能汚染地帯から細菌汚染地帯まで拡張できることを重ね合わせている。つまり「被膜(からなる)世界」とは、そのような不可能生と可能性を束ねる二重性を持つ概念なのだ。私たちの生体そのものが、薄い皮膜(スキン)によってまんべんなく被膜された、身体の内部と外部とを遮断するシステムであることについては前回触れた。テクノロジーによる人工的な皮膜によって、生身の人間の活動限界を著しく拡張することは、とりもなおさず、この生来の皮膜を人為の被膜によって皮膚とは別に新たに守ることを意味する。つまり、三上の唱えた「被膜世界」とは、実際には生体が二重に被膜された状態を想定している。決して、様々な最新の被膜技術と、その可能性だけを開陳しているわけではない。むしろそれは、人体のとてつもない「弱さ」ゆえに必要とされている。もしも生来の皮膜がじゅうぶんに強靭であれば、そのような二重性は必要とされなくてよいはずだからだ。この二重の弱さゆえの「防護性」が、「被膜世界」である以前に「被膜(からなる)世界」と括弧付きで、本来であれば強い可能性ともなりうるはずの表現を、あえて三上に留保させた理由ではなかったか。

これらのことから類推したとき、少なくとも当時の三上の興味は、メディアそのものにはなかった。その意味では、どうしてもテクノロジーに関心が集中しがちなメディア・アートの領域が主なる発表の機会となっていったのが、彼女にとってよいことであったかは、あらためて考えてみる必要がある。むしろ、拡張可能なメディアによって守られることなくしては、大気圏内のうちでも著しく狭い領域に貼り付いているだけの、剥き出しの「生体=被膜された身体」の「脆さ」にこそ、三上の出発点はあったように思う。言い換えれば三上は、それ自体としてはあまりにも脆弱な人間の身体の壊れやすさ、汚れやすさ、はかなさ、うつろいやすいさへのあいまいな体感を増幅させるために、これらのハイテク=被膜世界を自身の創作に取り入れるようになったのではないだろうか。

その当否はさておき、このように考えたとき、前回、私がジャンク・アーティストとしての三上と、メディア・アーティストとしての三上を繋ぐ「ミッシング・リンク」に思えると書いたレントゲン藝術研究所「ICONOCLASM」展への一連の出品作の「唐突さ」も、にわかに解消される。

そこでの作品には、三上の作品への表層的な先入観を決定づけていたテクノロジー的要素が、まったく見当たらない。それどころか、用いられているのはピンセットやヤスリ、シャワー、体重計や石鹸置き、ブラシやカミソリといった、ごくごく日常的な技術、というよりも道具にすぎない。けれども、以上のことを踏まえれば、三上のこのときの発表は、一見してはその前後の作品となんら繋がる点がないように感じられたとしても、実際には、生体を拡張するテクノロジーによる被膜を取り払ったとき、人間の生体の表面=皮膜がいかに絶えまなく外界と接し、傷つきやすく、それゆえ不断に保全されなければならないかについて、余分な要素をすべて削ぎ落とし、関心の核心だけを純粋に抽出している。


「Molecular Informatics ~ morphogenic substance via eye tracking (Version 1.0)」、1996年、Canon ARTLAB、ヒルサイドプラザ、東京 Photo: Mikio Kurokawa 画像提供:多摩美術大学

その後、三上は、翌94年3月に岡山県立美術館で開催された「アート・ラビリンス 90年代美術への視座」展(*4)に、ギャラリーNWハウスでの個展と同傾向の作品で参加したあと、95年にはキヤノン・アートラボ第5回企画展「Molecular Clinic1.1」で、生涯の盟友となるキュレーター、四方幸子との協働プロジェクトであるインターネットを活用した取り組みを本格化させ、翌96年には、同じく四方によるキュレーションでキヤノン・アートラボ第6回企画展「モレキュラー・インフォマティクス——視線のモルフォロジー」展(代官山ヒルサイドプラザ)を開いている。


「存在、皮膜、分断された身体」、1997年 撮影:大高 隆 画像提供:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]

この流れはそのまま、さらに翌年の97年にオープンしたICCでの無響室を使った常設展示「World Membrane and the Dismembered Body 存在、皮膜、分断された身体」へと結実することになる。が、反面、彼女が92年の時点で構想していた「被膜彫刻」は結局、実現されることはなかった。また「被膜(からなる)世界」も、本来の意味である「皮膜」へと正しく実体的にニュアンスを変えている。が、このような微細な違いにもかかわらず、三上晴子という美術家の二重性、分裂性を結ぶミッシング・リンクとなる「ICONOCLASM」展出品作に沿って、彼女の関心がもっとも凝縮されたミニマルな状態がどのようであったかについて考えるとき、大小におよぶ一連の違いは、もはや問題とならない。三上は、自身の持つ身体のあまりにも限定された被膜的特性からつねに表現を発し、不治の病を通じて、期せずしてもう一度「被膜(からなる)世界」へと戻っていった。そう考えたとき、彼女が「ジャンク・アート」と「メディア・アート」とを問わず生み出して続けてきた世界の様相とは、みずからの生体という不気味な現象への畏れであり、そこへと否応なく縛り付けられている彼女自身が感じる、脅迫的な疎外感へのバリエーションではなかっただろうか。


ソフィ・リステルユベール『BEIRUT』、テームズ&ハドソン、1984年

ここに一冊の洋書がある。『BEIRUT(ベイルート)』と題され、英テームズ&ハドソンから1984年に出された小さな写真集である。三上と一時期、創作のみならず生活をともにした飴屋法水から、なにかの手掛かりになるかもしれない、と手渡されたものだ。この写真集は、レバノンの首都ベイルートが、1975年に端を発した内戦で、見るも無残な廃墟と化した様を淡々と捉えている。


『BEIRUT』より

飴屋によれば、破壊された構築物(1985年の個展「滅ビノ新造型」?)への三上の関心は、時期的に言って、この写真集に発している可能性もあると言う。そのことを証明するように、この写真集には至るところ、三上によるメモ書きやスケッチが施され、彼女はこの小さな写真集をつねに携帯していたことが窺える。が、その分析をするのは、次回に譲ることにしよう。(続く)


1. もっとも、そのきざしは1990年の個展「Information Weapon 1 : Super Clean Room」(トーヨコ地球環境研究所、横浜)で、すでにあらわれていた。無塵室に設置された作品を、エア・シャワーを浴び、防護服に着替えた来場者に鑑賞させるこの個展は、作品と生体とのあいだに存在する被膜=皮膜へと(私も体験したが)強く意識を向けさせる効果があった。また1990年にP3オルタナティヴ・ミュージアム(四谷、東京)で開かれた個展「Pulse BEATS」では、観客の脈拍をインターフェイスとしたリアルタイムなインタラクティブ・インスタレーションが試みられている。さらに1992年の6月~8月にかけてP3 art and environmentのサブギャラリーでの「World Membrane : Waste Disposal 地球の皮膜/ゴミ処理容器」展は、同年の10月~11月にかけてシドニー(Art SPACE)で開かれた「World Membrane : Disposal Containers 被膜世界:廃棄物処理容器」展の国内での実験的公開版ながら、「皮膜」という語が使われた最初期の例と言えるだろう。ただし、本文で触れた同年秋の『インターコミュニケーション』誌面上で、プランとして展開された「被膜(からなる)世界」の「容器」から「生体」への移行は、まだ明確には示されていない。
2. ほかにティシャン・スゥ、ロナルド・ジョーンズを取り上げた。
3. 残りの見開き2頁は、上述、註1の1992年の個展「World Membrane / Waste Disposal」出品作から取られている。
4. 出品作家は、三上のほか河口洋一郎、コンプレッソ・プラスティコ、関口敦仁、中原浩大、福田美蘭、藤本由起夫、柳幸典、ヤノベケンジ。企画は同美術館の学芸員、妹尾克己。

付記:三上の1985年の初個展「滅ビノ新造形」は、正しくは「滅ビノ新造型」であることを、当時の個展案内状で改めて確認した。したがって今回より誤記を直し、併せてこれまでの連載中の表記も統一した。

筆者近況:キュレーター・飯田高誉との公開対談「終わらない戦争2.0」を予定。7月18日(土)13:00〜15:00、井野アーティストヴィレッジ104号室アトリエ(茨城県取手市)。
http://sensougastudies.sunshinenetworkjapan.net/2015/06/20.html

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