66:再説・「爆心地」の芸術(32)終わらない国際展 ー Don’t Follow the Wind近況(3)

2017年4月18日
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福島県双葉郡大熊町、2017年1月 撮影:赤城修司 ©︎ Shuji Akagi

原発事故による放射能汚染で福島県浜通り地方を中心に出されていた避難指示(居住制限区域、避難指示解除準備区域)が、去る3月 31日の午前0時から4月1日午前0時にかけ、帰還困難区域を除くほとんどの地域で解除された。帰還困難区域は、「Don’t Follow the Wind」展の展示会場が散らばる一帯でもある。「見に行くことができない展覧会」は、原発事故から6年が経過した今でもなお、依然として見に行くことができないまま残ったことになる。

私にとって意外だったのは、居住制限区域と避難指示解除準備区域がほぼ同時に解除されたことだった。二つの区域は、実は避難指示が解除される前から、行こうと思えば誰でも行くことができるようになっていた。つまり、避難指示は出されていても、バリケードなどによる物理的な閉鎖はされていない。双方とも宿泊することは原則としてできないが、後者では日中の事業を再開することも許されている。二つの区域にはほかにも違いがあり、細部にわたるのでここでは立ち入らない。だが、避難指示の解除に向けて、避難指示準備区域が居住制限区域よりも除染の進捗やインフラ整備の点で進んでいたはずなことは、名称からもあきらかだろう。だから、避難指示解除準備区域の「準備」が整いしだい、そちらから順次、避難指示が解かれ、他方では居住制限区域が避難指示解除準備区域に「繰り上げ」となって、解除はまだら状に進んでいくものと考えていた。しかし、実際にはそうはならなかったのだ。


避難指示区域の概念図(平成29年3月10日公表、経済産業省ウェブサイトより)
格子模様のエリアが今春解除された。


おそらくこれは、居住制限区域と避難指示解除準備区域での解除に向けての「準備」が、実際にはほとんどの地区でほぼ並行して進んでおり(あるいは追いつき)、その違いを考慮に入れる必要がなくなったということなのだろう。逆に言えば、両者の違いはある時から事実上、なくなっていた。むろん、帰還困難区域は依然としてこれまでのままだが、そもそも帰還困難区域は、居住制限区域、避難指示解除準備区域との違いにおいて区別されていたのであって、もともとこの三つが同じ避難指示区域であったことに違いはない。この春先に居住制限区域と避難指示解除準備区域の大半がなくなったことで、帰還困難区域は事実上、避難指示区域とほぼ一体となりつつある。だからと言って政府は、これに伴う帰還困難区域の名称変更までは行っていない。帰還困難区域は、避難指示区域とまだ<完全には>一体化していない。その違いとはなにか。

私が言うのは、必ずしも制度上のことには限らない。原発事故が起きるまで、誰も聞いたことがなかった帰還困難区域という言葉を、為政のための無味な言葉としてではなく、批評の概念として日本語の中で取り返すことが、言葉を扱う批評家の仕事のひとつではないかと考えてきたからだ。では、「帰還困難区域」とはいったいどのような場所なのだろうか。経産省のホームページによると、それは「事故後6年間を経過してもなお、空間線量率から推定された年間積算線量が20ミリシーベルトを下回らないおそれのある地域。平成24年3月時点での空間線量率から推定された年間積算線量が50ミリシーベルト超の地域」となっている(*1)。他方、福島県が運営する公式復興情報ポータルサイト「ふくしま復興ステーション」では、「放射線量が非常に高いレベルにあることから、バリケードなど物理的な防護措置を実施し、避難を求めている区域」ともされていて、言い回しが微妙に異なる(*2)。前者は放射能汚染の量を具体的な数値で示しているが、後者では示しておらず、むしろ区域全体がバリケードで閉鎖され、公的な避難が求められていることのほうを主に示している。どちらが正しいということでもないだろうが、避難指示が出されている全域がほぼ帰還困難区域となった今では、後者の方がその特徴を端的に把えている。放射能汚染によりバリケードで閉鎖され、容易には中に入ることができない場所、ということだからだ。

もっとも、容易には入ることができないとはいえ、正規の手続きを踏めば、中に入ることができないわけではない。帰還困難区域の中に家や事業所がある(あった)場合、一回ごとの時間は制限されるものの、申請を出せば家や事業所に一時的に戻ることができる。また事実、こうした枠を活用して、イノシシやネズミの被害への対処や家の片付け、先祖供養のためのお盆の墓参りなどが行われている。私たち(グランギニョル未来)はといえば、原発事故前から区域内にメンバーの家や事業所があったわけではない。けれども、それとは別に公益事業としての認可を受けているので、展覧会の記録や作品のメンテナンス、観客不在のパフォーマンスなどのための入域が必要となるたび、自治体に申請を出し、許可証とともにパスポートなどのIDを提示し、検問でバリケードを開けてもらって中に入っている。

意外に思うひともいるかもしれないが、ひとたび中に入れば、帰還困難区域では、除染作業やインフラの再整備に向けての準備が継続して行われているから、主要な道路は除染土などを移送する車がひっきりなしに行き交っているし、ほかにも随所で様々な作業が進行中で、ひと気がないわけではまったくない。その意味では、一般に言われているような「死の街」といったイメージはほとんど感じられない。むしろ、空が青く晴れ渡った日に野鳥の声が響いていたりすると、のどかにさえ感じられる。確かに、一戸ごとの住宅は誰も住んでいないから廃屋化しているし、道に面した入り口が一軒一軒、バリケードで閉鎖されているのは異様だが、しかし一枚の写真を見ただけで、ひどく寂れた町の閑散とした休日との違いをはっきりと見極められるかどうか。また、いっとき除染土を収めるフレコンバックが山積みとなった農地の風景が盛んに伝えられていたが、今ではその大半が姿を消し、ほとんどが更地に戻っている。雑草も刈り込まれ、セイタカアワダチソウが我が物顔に生え放題になっていた風景も、過去のものとなりつつある。道も新たに舗装・整備され、放射線量も当初よりはかなり落ちている。

しかし、帰還困難区域が放射能汚染によって依然、「帰還」ができない場所であることに変わりはない。よく帰還困難区域のことを帰宅困難区域と表記しているのを見る。しかし、一時帰宅はできるのだから、帰宅困難区域というのは誤った言い方なのだ。では、帰還と帰宅との違いはなにか。

少し角度を変えよう。帰還困難区域がどのような場所かを考えようとするなら、言い換えれば、「帰宅と帰還との違い」について考えるうえでは、「避難指示」だけにこだわらず、沖縄に集中する在日米軍基地や、かつてハンセン病であった人々が理不尽に隔離されていた旧国公立ハンセン病療養所のような、国土におけるまた別の場所と比べてみる必要があるかもしれない。これらはいずれも、国の政策によって人々が「古里」へと帰れなくなった点で通じるものがある。たとえば、帰還困難区域と沖縄の米軍基地は、バリケードやフェンスなどで物理的に封鎖されており、立ち入りが厳しく制限されていて、かつてそこに古里があった人でも、かんたんには中に入ることができない。また旧ハンセン病療養所でも、いったん施設に身を収めると、そこから古里に戻ることは非常に困難となった。多くの場合、死んで骨になっても、古里の墓に戻ることはできなかった。隔離と根絶、そして断種が国の方針だったからだ。そして、施設はたいてい人里から離れた遠隔地や離島などに置かれていた。なんの罪を犯して収監されたわけでもない。だから、罰のための監獄などではない。さらに言えば感染力も弱く、すでに以前から特効薬もあって治癒も容易であったにもかかわらず、人々が施設の外に出ることは厳重に管理されていた。かつてハンセン病であった人々にとっての帰還困難区域とは「古里」のみならず、施設の「外部」全域に及んでいたことになる。

いま、私たちが原発事故による避難指示区域や米軍基地を帰還困難区域と呼ぶ場合、そこは特別な意味を持つ場所にほかならない。事実、私たちは原発事故による避難指示区域や米軍基地の中に住むことはできない。ところが、旧ハンセン病療養所に身を置いた人にとっての帰還困難区域は施設の外部、つまり施設を除く全域に及ぶから、もとよりその外部に住む私たちにとって、そのような強い性質はない。まったく反対に、かつて患者であった人々のほうが国家によって強い性質を負わされたことで、私たちにとっての日常がそのまま、かれらにとっての帰還困難区域となってしまっていたのだ。つまり、私たちの暮らすいまここが、かれらにとっての帰還困難区域だったことになる。あるいは、理不尽なまま、いまなおそうであり続けているかもしれない。

その点では、旧ハンセン病療養所のケースは、帰還できない場所が強い意味を帯びて特定される原発事故での避難指示区域や米軍基地のケースとは大きく異なる。この両者の場合、そこに住んでいた人々の古里はそのまま、国民全員にとっての帰還困難区域となる。しかし旧ハンセン病療養所の場合、そこに身を収めることになった人々にとっての帰還困難区域は、日本の国民なら通常、誰でも自由に行き来している場所である。

このように、東京電力福島第一原子力発電所の過酷事故以後、「帰還困難区域」という新奇な名で呼ばれるようになった場所は、実は過去から、様々に異なるかたちで存在し続けていたのかもしれない。それが忘却と反復の中で、かたちを変えながら、歴史の外部で浮上したり沈下したりを繰り返してきた——そういうことはないだろうか。それは制度というより、ドゥルーズの呼ぶような意味での概念の亜種なのかもしれない。単に「避難指示区域」と呼ぶ時との最大の違いも、おそらくはそこにある。

私は、そのような場所に大林宣彦監督を誘うことになったのだ。そこでは歴史が失効しているから、『時をかける少女』のように、外部の時間が進む分だけ、内部では時が巻き戻されており、あるいは『野のなななのか』(2014年)がそうであったように、映画の中で示される時計はどれも東の大震災が起きた「午後2時46分」で止まっており、古里の内部と外部は『転校生』のように入れ替わっている。



上:映画『花筐(はなかたみ)』撮影風景 下:撮影現場での大林宣彦監督。いずれも2016年。
提供:PSC/大林宣彦事務所


しかし結果的に、この奇妙な時間旅行=タイム・トラベルは実現しなかった。準備を進めている最中、大林監督が肺癌のステージ4であることが発覚したからだ。急いで付け加えなければならないが、さいわい大林監督は、最新の抗癌治療である分子標的剤が功を奏す体質に恵まれ、現在では「余命は未定」とみずから冗談を飛ばすほどの奇跡的な回復を遂げており、次作の『花筐(はなかたみ)』も、この夏の公開を待つばかりとなった。そして早くも、そのあとの映画の構想も実現に向けて動き始めていると聞く。なによりだ。しかし実は、檀一雄が日中戦争で大陸に出征する前年に書いたこの小説は、大林監督の東宝映画第1作になるはずだった幻の映画の原作でもあり、実際、初期のシナリオまでできていた。ところが、檀一雄が1976年に死去したことや、東宝から純文学の映画が求められていなかったこともあり、急遽、『HOUSE ハウス』(1977年)となった経緯がある。つまり、大林監督にとって映画『花筐』は、 40年前に構想した幻の初作が、21世紀の最新作として蘇るという、それ自体が「時間旅行」でもあったのだ。しかし、ことはそうかんたんではなかった。原作の舞台となる九州(映画では佐賀県唐津)は、檀が肺癌で世を去った最期の土地でもあった。その同じ九州で 40年ぶりに蘇る初作が大林監督にとっての遺作となり、しかも原作者と同じ肺癌で亡くなることで映画人生が円環を閉じるとしたら、あまりにも出来過ぎというしかなかろう。だが、大林映画はつねに予定調和からの逸脱において、わかりやすい歴史に逆らいながら足跡を刻んできた。物語として無難げな円環は、今回もまた見事に打ち破られたのである。

しかし他方で、今年初めに計画されていた、大林監督と私との帰還困難区域をめぐる時間旅行は実現しなかった。その代わり、私は大林監督から帰還困難区域に運ぶためのメッセージを託してもらうことができた。具体的には、帰還困難区域が解除されたとき、初めて「見に行くことができる」展覧会となる「Don’t Follow the Wind」の出品作のひとつ、「グランギニョル未来」による「デミオ福島501」に、新たに大林監督からのメッセージを搭載することができたのだ。その際、私が依頼したのは、映画『マヌケ先生』(2000年)にまつわるメッセージだった。タイトルにもなった「マヌケ先生」とは、大林監督による古里映画の原点となる尾道での幼少期の思い出と、その頃の映画との初めての出会いを回顧した同作に登場する手描きのアニメーションで、大林監督にとってのフィルムを媒体にした最初の動画で姿を現す主人公でもある。そしてマヌケ先生は映画の中で時間を超えて随所に出没し、尾道のタンク岩の下に宝物として埋められ、いつか掘り返される時を待つ「時の待ち人」でもあった。そのタンク岩のある場所で幼い大林監督が出会った最初の映画監督は、これから原爆による爆心地となった広島に記録撮影のための任に就く者でもあった。そしておそらく入市被曝を余儀なくされたことだろう。

その「マヌケ先生」をめぐる現在の想いを、私は大林監督に当時、刊行されたばかりだった映画体験の集大成的大著『いつか見た映画館』(七ツ森書館、2016年)の上下巻の表紙の見返し部分と特典DVDの表紙に、いつか訪れるはずだが、今はまだ到来していない「未来」にこれを見る人たちへのメッセージと併せて描いていただくことができた(下の写真ではその絵と文のほんの走りの部分のみ公開した)。大林監督の古里、尾道で生まれたマヌケ先生とその言葉は、たった今この時も、スタートはしたもののオープン時期は未定のままの「Don’t Follow the Wind」展を通じて、古里を奪われたままの帰還困難区域の中で、映画『マヌケ先生』に登場するかつてのタンク岩直下の地面がそうであったように、いつか読み解かれるための誰かを待ち続けている。





マヌケ先生本人の言葉として語られたこれらのメッセージは、「いつか見た映画館」から「いつか見る映画館」へと、「時をかけて」少しずつ姿を変えていくことだろう。そして、やがては公開されるに違いない。しかしそれがいつのことになるのか、それは帰還困難区域が依然として「帰還困難区域」である現時点では、誰にもわからない。(この項、了)


1. 復興庁ウェブサイト「原子力災害からの復興・再生」
2. ふくしま復興ステーション「避難指示区域の状況」




著者近況:2017年4月23日(日)に、町田市立国際版画美術館にて『横尾忠則と大HANGA世界』と題した講演を予定。定員160名、当日先着順。同館で開催中の『横尾忠則 HANGA JUNGLE』展関連イベント。
詳細:http://hanga-museum.jp/exhibition/schedule/2017-333

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