55:再説・「爆心地」の芸術(22)清水大典の冬虫夏草図(2)

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現在の「アクアマリンふくしま」 画像提供:アクアマリンふくしま(以降すべて)

今から5年をさかのぼる2011年3月11日、午後2時46分、マグニチュード9.0を記録する東北地方太平洋沖地震が発生。地面のみならず、膨大な量の海水を揺り動かした巨大なエネルギーはすぐに大津波へと姿を変え、三陸を始めとする東日本の太平洋沿岸に押し寄せた。福島県いわき市小名浜に所在する水族館「アクアマリンふくしま」も当然、例外ではなかった。4メートルを超す大津波に襲われた施設は、一階がすべて水没。その直前から3階に退避していた80名の職員、ボランティア・スタッフはみな無事だったが、翌日からの停電で、海洋生物の飼育のための生命線である水の濾過装置の稼働を、軽油による自家発電に頼らざるをえなくなった(*1)。加えて水族館は、大規模な放射能漏れが危惧される東京電力福島第一原子力発電所から、南に55キロメートルの位置にあった。長期にわたり通信が途絶え、津波で小名浜港の機能も失われ、燃料や餌の調達さえ事欠くことになった水族館では、大形の海獣こそ他県の水族館施設へと避難させることができたが、魚類などのレスキューは断念せざるをえなかった。これによって数え切れないほど(一説に20万匹)の飼育動物の命が失われたと言われている。


アクアマリンふくしまの「がれき座」。震災後、アスファルトのがれきを活用して作られたこの舞台で、同館の再オープンセレモニーが行われた(現在は撤去されている)。

けれども、開館以来の館長であった安部義孝は、これを現代の水族館が緊急時の持続可能性を試される大きな試練と捉え、迅速に指揮をとり、復旧に努め、被災からわずか4ヶ月の7月15日、開館記念の日に再オープンにまでこぎつけた。また、翌年の5月には公式サイトの館長ブログを通じて「環境水族館アクアマリンふくしまからの脱原発メッセージ」を発信。独自に環境研究所を組織し、沿岸海域と阿武隈山地の放射能汚染を測定し、今も随時公表している。アクアマリンふくしまのトップページに、館周辺の放射線量と海水中の放射性物質の測定結果を、水槽の内部と近隣のビーチに分けて示しているのは、そのためである。

実は本連載で前回、紹介した米沢市上杉博物館での2015年2月の展覧会開催に先立って、清水大典の展示をいち早く実現していたのが、ここアクアマリンふくしまが企画した「偉大なるガキ大将・博物学者 清水大典の世界」展だったのだ。2008年1月のことである。


『偉大なるガキ大将・博物学者 清水大典の世界 冬虫夏草展』会場風景

それにしても、なぜ水族館で植物学者の展示だったのか。ほかでもない。先の安部が海洋生物学者を志す大きなきっかけとなったのが、清水大典その人なのである。実は、清水の故郷である秩父は、安部の事実上の「ふるさと」でもあった。事実上、と言うのは、教員であった安部の父の赴任先が秩父であったため、「もの心つくころから11歳まで」(*2)という多感な時期を、安部は秩父で過ごしていたからだ。ちょうどその頃、清水も、1946年3月に東京大学理学部附属小石川植物園をわずか1年足らずで退職し、秩父に戻っていた。4月からは埼玉県椎茸農協連合会椎茸試験場に職を得て、食用菌類の人工培養の研究に着手したものの、大学のような研究所とはまるで勝手が違う。自宅で動植物の研究をするわけにもいかず、清水は秩父市下影森の臨済宗、金仙寺を自主研究の拠点に据え、自然観察とその記録に没頭していた。先に引いたアクアマリンふくしまのブログによると、安部は「このお寺の境内で朝な夕なにお経を聞きながら育」ち、清水とは家族ぐるみの付き合いであったという。敗戦後まもない時期であったから、お寺が地域の生活を支える互助センターのような役割を果たしていても不思議ではない。きっと、学校にも勝る大事な信頼を得ていたに違いない。ましてや金仙寺は、まだ「秩父事件」が「秩父暴動」と呼ばれた時期に、明治政府への謀反の咎を責められていた秩父困民党の総理で死刑となった田代栄助の墓を引き受けた寺である。清水のような菌類学会のアウトサイダーが日がな出入りしていてもおかしくはなかった。安部は、そんな渦中で、幼い感性を磨くことになったのである。


上述展より、清水の冬虫夏草細密画(左)と、生前使用したというルーペ

それだけではない。安部は、清水が自然観察のため東京から訪ねてきた菌類学者や学生たちを連れ、寺からほど近い武甲山麓や別所山に出る時、これに足繁く同行し、目ざとく冬虫夏草を発見しては、おとな顔負けで清水に褒められていた。この時に清水から学んだ自然観察の楽しさと、寺に戻ってからの、子供ながら近寄るのも憚られる真剣な観察結果の記録の様子を目の当たりにしたことが、安部をして「幼年期から少年期の自然体験がいかに大切であるか、アクアマリンふくしまの『命の教育』は私の自然体験に基づいている」とまで語らせるに至っているのである。

山と海という違いこそあれ、後進(安部は元上野動物園長でもある)にそこまで大きな影響を与えた清水大典。専門とする冬虫夏草に至っては、世界で発見された約500種のうち、日本で発見されたものだけで400種を数えると言われている。その最大の功績者が清水なのだ。その清水が、なぜ最終的にアカデミックな研究職に就くこともなく、1956年には故郷の秩父さえあとにして、夫人の郷里であった米沢に移らなければならなかったのか。

1915年(大正4年)に秩父市内で生まれた清水が修めた最終学歴は埼玉県立秩父農林学校であり、卒業してすぐに埼玉県三峰高山植物園に職を得たため、大学への進学もなんらなかった。前篇で「無学の一学徒」と紹介したとおりである。けれども、その後の清水にアカデミックな道筋が与えられなかったわけではなかった。二十歳になる前からずば抜けた観察・記録能力を認められた清水は、1935年から先の東大附属小石川植物園に職を得て松崎直枝教授に師事。やがて日本の植物学の父と呼ばれる牧野富太郎からの篤い信頼を受け、1940年には満州国立大陸科学院植物学研究室へと派遣され、海を渡っている。その後、敗戦間近の45年4月には内地に戻り、東大附属小石川植物園に正規の実験助手として採用されていた。また米沢に移る直前までは、宮崎県にある世界で唯一の蘚苔類研究機関、財団法人服部植物研究所に研究員として在籍し、在任中にはゼニゴケの研究で大きな業績を残している。画期的な業績や数の多さ、そして国内外にわたる研究体験の豊富さからすれば、晩年は秩父郡長瀞町にある、埼玉県立で唯一の自然史博物館である埼玉県立自然の博物館あたりで館長を務めながら余生を送っても、まったくおかしくない。

けれどもそこが、清水が単に「偉大なる学者」ではなく、「偉大なるガキ大将」(安部)たるゆえんなのだろう。清水の職歴を細かく見ていくと、そのほとんどが短期間で退職に至っている。おそらくは、学歴に恵まれた同僚との妥協のない衝突が主な要因と思われる。しかし、それはたんに清水がコンプレックスを持っていたからとか、頑固すぎて自説を曲げなかったからとかいうだけでは片付けられない。

清水は、冬虫夏草の研究でもっとも広く知られるが、小石川植物園時代の専門は温室植物、ラン科植物の栽培研究で、この頃、着手した熱帯魚の研究では先の安部からも一目を置かれており、満州に在任中の専門はマムシの飼育研究であった。つまり、清水の研究領域は植物から魚類、爬虫類にまで及んでおり、加えて優れた登山家でもあった。ようは、清水はひとつの分野に関心を縛り付けるような学術研究者とは対極の視線を持っていた。その野性味は、幼い安部が同行した山野での自然研究で、マムシを捕獲して試験場に戻ると、目の前で清水が皮をするりと剥ぎ、いの一番に生ギモを飲み込み、身は焚き火で炙って皆で食べたというエピソードにもはっきりと表れている。学者や研究者の卵はさぞかし「引いた」ことだろう。しかし、それこそが安部の唱える、虚飾を剥いだ「命の教育」に繋がっていったのではあるまいか。


安部館長(写真左)も参加しての、冬虫夏草の会によるいわき市での自然観察会(2008年6月)

行政や公的な研究機関とは衝突ばかり繰り返していた清水だが、生前の清水が、市民のきのこによる食中毒を防ぐため、1956年から始めた生のきのこを直に展示する「きのこ展」の開始は画期的だった。この展示で来場者に実物のきのこをじかに見てもらう効果は絶大で、これ以降、米沢でのきのこ中毒はほとんどなくなったと言われている。それだけの成果をあげたにもかかわらず、会場は清水にふさわしく、市立米沢図書館の小さな一室にテーブルを並べただけだった。だが、その余波はすぐにかたちとなる。清水の「きのこ展」に感動した地元の教師、鈴木安夫が継続を切望した結果、「米沢生物愛好会」が発足。1998年の清水の死後も、秋の「きのこ展」、春の「野草展」と並んで清水の足跡は長く市民に親しまれ、現在に至っている。

自然を観察し、記録するだけなら学者で済むが、それを胃の腑に入れて確かめるとなると、これはもう学問の域を超えている。清水は、薬草や薬草酒にもことのほか詳しかった。生物との共生を、まさしく身をもって体感し、実践した清水には、まさに植物学会の「偉大なるガキ大将」という称号がふさわしい。時代は変わり、清水はすでに現世の人ではない。2016年の日本はとえいば、今なお原子力緊急事態宣言下にある。原発事故以降、科学者への信頼は大きく揺らいだままだ。私たちに必要なのは、震災前のような定型的な学問や研究ではもはやありえない。誤解を怖れずに言えば、「ガキ大将」のような肉感的な知の探求が求められているのではあるまいか。実際、その「ガキ大将」が産み落とした「命の教育」こそが、震災で被ったアクアマリンふくしま最大の「命の試練」を最小限に食い止めたのではなかったか。


1. 安部義孝「アクアマリンふくしま被災報告(第一報)」、2011年3月19日
http://www.marine.fks.ed.jp/curator/no47.html
2. 安部義孝「偉大なるガキ大将・博物学者 清水大典の世界 冬虫夏草展の開催にあたって」、2008年1月20日。以降の引用も同様。
http://www.marine.fks.ed.jp/curator/no28.html

近況:3月27日、恵比寿のナディッフにて、東松照明写真集『新編 太陽の鉛筆』(赤々舎)刊行記念トークイベントに登壇(文化人類学者、今福龍太との対談)。
http://www.nadiff.com/fair_event/AP_tomatsu_talk.html
4月8日、ギャラリーエークワッドで開催中の國府理展 『オマージュ 相対温室』シンポジウムに参加(ヤノベケンジ、豊永政史も登壇)。
http://www.a-quad.jp/exhibition/event.html
また、自身が関わる帰還困難区域内での国際美術展『Don’t Follow the Wind』が、シドニー・ビエンナーレに参加している(3月18日〜6月5日)。
http://www.biennaleofsydney.com.au/20bos/artists/dont-follow-the-wind/

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