57:再説・「爆心地」の芸術(24)園子温と『ひそひそ星』(2)

連載目次


《「今際の際」の橋》2016年 撮影:岡倉禎志 写真提供:ワタリウム美術館
園子温 展「ひそひそ星」(ワタリウム美術館、東京)での展示風景(以降すべて)

映画『ひそひそ星』の終盤に、たいへん印象深い場面がある。それは、宇宙へと散り散りとなった人類が離れ離れで住む星へと思い出の品を届けて歩く遊星間アンドロイドの女が、回廊のような空間へと足を踏み入れる箇所である(本連載前回参照)。それまでは福島県の避難区域がロケーションに使われていたのに対し、この場面は打って変わって作り込まれたセットとなる。くねった通路の両脇は大きめの格子で割られた障子になっており、背後からは強い光が当てられ、その向こうで暮らしている家族たちの様子が鮮烈な影絵となって浮かび上がっている。その様子は一家で卓を囲む食事や団欒であったり、生まれたばかりの赤ん坊をあやす母とそのまた母の語らいであったり、親しい者を集めて賑やかに祝われる誕生会の様子であったりと様々だ。共通しているのは、これらが人類により長く引き継がれてきた「暮し」の原景だということだろう。だが、映画では世帯と世帯とのあいだが仕切られておらず、肩を寄せ合うようにして軒を連ねていることから、家というよりは部屋の集合のように見え、その様は、仮設住宅の中での横へ横へと数珠繋ぎになった出来事の断面をどこかで思わせる。

そんな場所へと、遊星間アンドロイドの女が配達のため作業服で表情もなく迷い込んだように足を踏み入れる。手にした黄色い箱には「なにか大事な思い出」が入っている。そして番地を確かめるように家族たちの様子を伺い、ようやく目的の住所を探し当ると、そっと襖を開けるのだ。依然、中の家の者の顔は見えない。受け取りの確認をしてまた襖が閉められると、この女性は影絵のままで箱をそっと開け、内容を見てあっと絶句し、そのまま手の平で顔を覆って泣きだすのだ。いったいなにが入っていたというのか。


手前:《配達物》2016年 奧:「ひそひそ星」の絵コンテ 1991年 撮影:岡倉禎志

前回も触れたとおり、納められたものは人類が引き続く災害と愚策で失った本当の故郷での暮しの断片そのものだ。だからそれは、ほんの些細なものである可能性が高い。よれた一枚の写真なのか、津波や地震や火で焼かれて亡くなった愛する者の残したタバコの吸殻なのか、それはわからない。しかしわからなくてもよい。はっきりとしているのは、そのなにがしかの本物の「物」が持つ力によって、いま彼らが享受している「影」が、一瞬にして虚構だということが暴露されるということだ。確かに彼らは障子の向こうで、それなりの暮しを取り戻しているように見える。しかしそれはしょせん影であり、かつての失われた原郷の写しであるにすぎない。いや、もしかしたらそれは、いまここにはもうない「幸せごっこ」をめぐる演技にすぎないのかもしれない。それどころか、アンドロイドの女による思い出の宅急便は、この場面をかたち作る巨大な回廊空間の全体が、配達を受けた女性が寂しさのあまり、たったひとりで作り上げた機械仕掛けのセットである可能性を浮かび上がらせる。

ワタリウム美術館での個展「ひそひそ星」(*1)での主展示となるのは、2階と3階へと通じる吹き抜けを全面的に使って飾られた、この場面の立体による再現である。私が本展を見た際には、すでに試写会で映画の本編を見ていたから、それで勝手に先のような取り残された孤独者による機械仕掛けのセットを思い浮かべていたわけだが、展覧会場に足を踏み入れて、それが独り合点でないことを確信した。セットの背後で「暮しの原景」を作り出しているのは、文字通り機械仕掛けでガチャガチャと音を発する人間味のない装置群だったからだ。しかしそうすると、それを作らずには孤独を癒せなかったあの箱を受け取る女性はいったいどこにいるのか。たぶん、それが会場を尋ねる私たち一人ひとりなのだろう。回廊を見て歩くとき、仮に映画の場面に身を置けば、私たちは遊星間アンドロイドの立場にいるように思われなくもない。しかし私たちはアンドロイドではない。セットの中で唯一、生身の人間だ。するとやはり、私たちこそがあの女性であり、これらのセットを作り出した張本人なのだというべきだろう。

なぜそういえるのか。私たちは誰もが程度の差こそあれども、あの東の大震災で「なにか」を失い、それを各人のやり方で――たとえ見かけ上はそう思えなくても――懸命に補填してきた。補填する以上、誰も「悪い要素」で埋め合わせなどしない。自分にとって「善い」と感じられるなにかを参照するはずだ。だから、その判断の基準は自分の内側にしかない。ということは、それはもう過去にしかないということだ。先の女性になぞらえれば、私たちの幸せも哀しみも、すべては過ぎ去った時間のなかにしかない。いくら忠実に再現したとしても、それはなにものかの写しでしかなく、言い換えれば機械仕掛けであるほかないのだ。

こうしてこのインスタレーションは、いつのまにか私たちを映画や展示を傍観者として眺め、品定めする者から、当事者そのものへと変質させる。しかしそのような内なる転回を可能にしているのは、実は展示や映画そのものではない。そうした虚構を通じて、私たち一人ひとりにも、あの女性が泣き崩れ、一瞬にして目の前の今の暮しが虚構であることを悟るに至る「なにか」があるはずだ――そう、容赦なく回顧させる作用にこそその力はあるのだ。私たちにとって、そのような「なにか」ほどかけがえのないものはない。それはいくら金を積んでも買うことができない。一度失ったら、二度と取り戻すことはできない。しかしだからこそ、私たちはカネで買える「物」のほうにすべてを託そうとする。そしてそのことで、かつて確かにその「なにか」が自分の本当の幸せを支えており、しかしそれはもう二度と戻ってこないのだ、ということを忘れようとする。


《土台》2016年 撮影:岡倉禎志

このような態度の対極を示しているのが、そんな孤独者による壮大な慰みのセットを見下ろすような位置にある、3階の展示室に設置された忠犬ハチ公の像を主題にした作品だろう。ここで園は、渋谷のその名もハチ公前の<待ち合わせ>場所に設置されたハチ公像のレプリカを作り、主人が死んだことも知らず待ち続けるだけで、いまや硬く冷たい銅像と化し、その場所から寸分も動かなくなったハチを台座から降ろし、福島の避難区域を始めとするいろいろな場所ヘと旅をさせ、「ただ待つ犬」から「積極的に待つ犬」へと一変させる。しかし積極的に待つにせよ、主人はもう戻ってこないし、ハチがそのことを知るよしもない。しかし実はこれは、モーリス・ブランショが「期待 忘却」(1962年)で示した、不条理ゆえにかろうじてありうる最後の希望の態度ではないのか。ハチ公は主人がすでにいないという事実を忘却している。しかしそれでいて期待するのだ。言い換えれば、私たちの期待は、そのような忘却によってしか露わにならない。忘却を伴わない期待は、おのずと過去に依存し、未来へと投企するしかない資本にもとづく独身者の機械のようなものにならざるをえない。してみると、園の展示でよくよく見るべきは、旅するハチではなく、むしろ空っぽになったハチ公像の台座のほうなのかもしれない。なぜか。そこにこそ、削ぎ落とされてこれ以上ではなくなった「永遠の留守」という「期待 忘却」が現前しているからにほかならない。


1. なお今回の「ひそひそ星」展とは別に、2015年、Chim↑Pomらが運営する高円寺のスペース、Garterで園の同名個展が開催されている。「東京ガガガ」の横断幕を使ったインスタレーションと『ひそひそ星』のビデオインスタレーションがその表裏一体性を示唆し、さらに双方をつなぐものともとれる形で「ハチ公プロジェクト」が展示された。


写真提供:Chim↑Pom、Sion production

筆者近況:2016年6月4日(土)、インディペンデントキュレーター飯田高誉との公開対談「現代の戦争画とは?」に登壇予定。会場は下北沢の本屋B&B。
詳細:http://bookandbeer.com/event/20160604_sensotobijyutsu/

園子温 展「ひそひそ星」は2016年4月3日〜7月10日、ワタリウム美術館にて開催。
http://www.watarium.co.jp
映画『ひそひそ星』は2016年5月14日〜新宿シネマカリテほかロードショー。
http://hisohisoboshi.jp/

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