63:2016⇔2017 回視と展望

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飴屋法水「何処からの手紙」(茨城県北芸術祭2016)は、参加者が茨城県北の実在郵便局に葉書を送り、招待状風の手紙を受け取ることで始まる。写真は、手紙の1つに導かれ辿り着く久慈川のほとり。

ほぼ一年前の2015年末、本欄では「2015年回視 — 『ベスト展覧会』の対岸から」と題し、この場を一回分割いて一年間の美術の現況をめぐる回顧を行った。回顧ではなく「回視」とし、「対岸から」となっているのは、毎年この時期ににわかに盛んとなる「年間ベスト展」をめぐるプチ熱を、少し冷めた位置から眺めておきたかったからだ。かく言う私も『読売新聞』の「3氏が選ぶ展覧会ベスト4」欄で、そうした「風物詩」に寄稿するのが恒例となっている(*1)。ちなみに、2016年に開かれた展覧会から私が選んだのは、「MIYAKE ISSEY展:三宅一生の仕事」(国立新美術館)、飴屋法水「何処からの手紙」(茨城県北芸術祭)、Chim↑Pom「また明日も観てくれるかな?」(歌舞伎町振興組合ビル)、柳幸典「ワンダリング・ポジション」(BankART Studio NYK)の4つで、特に順位付けは行っていない。というのも、ほかに大小数多くの注目に値する展覧会が開かれているのは周知の事実で、そこからわずか4つを挙げる以上は、その理由というか、「選ぶ」ということについてのある種の総括的な批評性が必要と考えているからであって、個々の展覧会に点数をつける気持ちなど寸分もないのは改めて言うまでもない。それについては、併せて寄せた寸評で「近年、美術館での表現規制が取り沙汰される一方で、館外での展示に現代美術の本領が発揮された」とごく簡潔に記したとおりである。


取り壊しの決まった東京・歌舞伎町振興組合ビルを舞台にしたChim↑Pom『また明日も観てくれるかな?〜So see you again tomorrow, too? 〜』(2016年)会場風景 撮影:森田兼次
© Chim↑Pom Courtesy of the artist and MUJIN-TO Production


BankART Studio NYK全館を使った柳幸典展『ワンダリング・ポジション』(2016年)より
「Article 9 2016」展示風景 撮影:中川達彦

別の言い方をすれば、美術館という公的な場で発表される美術作品をめぐる表現規制は——それが自己規制であれ外部からのなんらかの圧力であれ——改善されるどころか、少しずつではあれ密かに、しかし確実に進む一方だということでもある。それが最も端的に現れたのが、昨年の東京都現代美術館での「キセイノセイキ」展であった。同展は、館内の担当学芸員が美術家をはじめとする外部の協力者たちと企画し、そうした「規制」が「既成」のものとなる21「世紀」という私たちが生きざるをえない時代を、様々な展示作品の展示可能性/不可能性を通じてあぶり出そうとする意欲的な企画であった。だが、結果的に、美術館とは展示できないものがあまりに多い場であるという「公然の秘密」を、展覧会の条件として容認することで「公然の事実」とし、却って押し進めてしまったと言わざるをえない。藤井光による東京大空襲をめぐる資料について(館と同じ東京都の財団が管理するものであるにもかかわらず)展示の許可が降りず、ほとんどもぬけになってしまったり、天皇が輪郭だけで描かれる肖像を「空気」と題した小泉明郎の絵画は、展示を監督する上司から「不敬罪」まで例に出されて説得され、やはり展示することができず、スポットによる照明だけとなっている。この作品は結局、館の最寄りの「無人島プロダクション」に場を移して展示されたが、そのことで問題が発生したとはまったく聞いていない。民間のギャラリーで難なく展示できる作品が、公的な美術館では展示を拒まれるというこのような事態は、一連の「後退」をめぐる最たるものであろう(*2)。同作はその後、現在の天皇によってなされた「生前退位」をめぐる発表について考えたとき、絵画という小さなメディアを通じて驚くほど事前に多くを示唆しており、もし展示されれば、美術館からの示唆としてむしろ積極的な評価の対象になったであろうだけに惜しくさえある。


藤井光『爆撃の記録』展示風景、「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」展、東京都現代美術館、2016年 撮影:椎木静寧


小泉明郎展『空気』展示風景、無人島プロダクション、東京、2016年 撮影:椎木静寧
© Meiro Koizumi Courtesy of MUJIN-TO Production

それ自体としてはなんら過激でも猥褻でもことさら政治的でさえなく、これまでならばなんら問題なく展示されていたはずのこれらの作品が、同展の狙いでもあった館に「お伺い」を立てることで展示不可となるこれら一連のケースは、強いて言えば、黒白をはっきりしないグレーゾーンで成り立っていた公的な場での現代美術の表現をめぐる現状を、否定的なかたちであぶり出すことに成功したと(皮肉を込めて)言うことができるかもしれない。そこには、数年後に東京オリンピックを控えて、東京という都市をめぐるネガティヴな過去(東京大空襲による十万人を超す虐殺——ちなみに東京都現代美術館の周辺は東京大空襲の被害がもっとも甚大で、近隣には今なお多くの「遺族」が在住している)を払拭し、文化・芸術を政府や自治体が積極的に「政策化」していこうとする背景が見て取れる。「ヒロシマ」「ナガサキ」と並んで「トウキョウ」と称され歴史に消えない頁の記憶として刻まれてもおかしくなかった20世紀最大の戦災のひとつが「東京」のまま称揚され、2020年に向けて、東京がもっともはなやかだった1980年代を回顧して行われた同館での「”TOKYO”-見えない都市を見せる」展などは、その典型だろう。こうした試みは、今後も東京五輪を間近に控えるにつれ激増することが予想されるが、過去に日本がアジア太平洋戦争時に「大東亜戦争作戦記録画」として、もしくは大阪万博の際には「人類の進歩と調和」を標語に、芸術家を総動員した過去を繰り返すものにほかならない。美術が同時代での成功や実績だけでなく、本質的には後代からの目で厳しく精査され、歴史に刻まれていくことを考えたとき、私たちはもっと、「今ここ」にはいない後代の人たちからの視線を強く意識しなければならない。


シンポジウム「美術と表現の自由」(2016年7月24日、東京都美術館講堂)

そんな中にあって、私も会員として所属する美術評論家連盟が昨年7月24日に東京都美術館(講堂)で行ったシンポジウム「美術と表現の自由」(*3)は、これらの動きへのカウンターとして美術批評家が連帯して行った久しぶりの試みであったと言えるだろう。もっとも、私は同連盟の常任委員長で、同シンポジウムの実行委員のひとりでもあったので、この催しを客観的に評価できる立場にはない。ただし、このシンポジウムを行ったあとのなんとも言えない「あと味の悪さ」については、連盟が毎年発行している「会報」に「理念が事例に屈する不自由について」と題し寄せたので、関心ある方は一読されたい(*4)

またこの催しに先立ち、現在では国公立の美術館関係者が顔触れの大半を占め、「表現の自由」を守る立場にあるにもかかわらず、その構成員である会員の中から、シンポジウムが主題として問題化した「表現の規制」に進んで関わる者が出ているという異例の事態を受け、連盟有志から美術評論家連盟の理念を再確認しておくべきではないか、という声が上がっていた。その延長線上に、岡﨑乾二郎、椹木野衣、土屋誠一、林道郎、松浦寿夫の5人の手で起草された声明が「表現の自由について」と題し、7月4日にやはり連盟のサイトを通じて発表されている(*5)。この声明はその年の全会員186名中76名の賛同を受け、個々の氏名もサイトで発表されている。だが、内容はパリに本部を置くユネスコ公認の団体に当たる国際美術評論家連盟が結成される歴史的な経緯や各国の事例と照らし合わせても、ごくごく当たり前のことを謳っているにもかかわらず、これに賛同する人数は会員の過半数に達しなかった。もっとも、同声明は昨年の11月27日に東京国立近代美術館(講堂)で開かれた同連盟の年次総会で、有志ではなく「会員全体の総意」として正式に採択されたので、この問題に関心を持つ方は、ぜひ目を通しておいてほしい。

付け加えておけば、同連盟ではここ数年、これまでまったくと言ってよいほど出されてこなかった「共同意見の発表」(規約第5条)を積極的に行ってきた。先の声明に加え、「ろくでなし子氏に対する不当逮捕と起訴による説明と起訴撤回の要求」、「国立競技場壁画保存に関する要望書」、「ろくでなし子氏への不当判決への抗議声明」、そして「東京都現代美術館における会田家の作品撤去・改変要請問題に関する質問状」などがこれに当たるが(*6)、残念なことに、社会的に、かつ芸術表現史上も大きな意味を持つこれらの出来事への対応が、連盟そのものの意見ではなく会員有志に限られることが多かったのは、残念というほかない。けれども、これらの「共同意見の発表」についても、先の総会で今後は常任委員の三分の二の賛同で総意として発表できることが可決され、新たに規約に盛り込まれることになった。私は昨年末いっぱいで任期を終え、常任委員を降りるが、今後は表現をめぐってさらに弛緩しかねない現況へと向け、いっそう活発に見解が発信され、批評家たちによる本来あるべき歯止めとして機能していくことを期待したい。

こうして見て来たとき、本来なら美術発表の主役となるはずの美術館ではなく、芸術祭やオルターナティヴ・スペース、コマーシャル・ギャラリー、果ては完全な自主企画に至る流れの中で、現代美術の持つ越境性や既存の常識を相対化する優れた展示が多く見られたのは、ある種の必然であったとも言えるだろう。中でも昨年、これまでになく全国各地で多く開催された「芸術祭」は、そこで発表される作品の質や、芸術の観光化への批判こそあれ、こうして振り返ってみた時、多くの画期的な展示を可能にしていると言える。実際、先に「ベスト4」で挙げたうち、後者の三つの展示が現況の美術館でいずれとも可能になるかと言えば、それはかなり怪しい。


1. 2016年は12月22日付朝刊・文化欄で、建畠晢、椹木野衣、蔦谷典子による選と寸評を掲載。
2. 関連記事「椹木野衣 月評第95回 空気で傷つくのは誰なのか 小泉明郎『空気』展」『美術手帖』2016年7月号、美術出版社
3. 小勝禮子、土屋誠一、中村史子、林道郎、光田由里が登壇、モデレーターは清水敏男。その内容は「美術評論家連盟 2016年度シンポジウム『美術と表現の自由』当日記録」で参照できる。
4. 椹木野衣「理念が事例に屈する不自由について」『美術評論家連盟会報』ウェブ版 第6号、2016年、p.10
5. 特設サイト「表現の自由について」が作成され、美術評論家連盟サイトで告知された。
6. 連盟サイトの「美術評論家連盟規約」覧、「声明」覧を各々参照のこと。

著者近況:静岡県浜松市にて期間限定で運営される『「表現未満、」実験室』にて、最終日2月25日のカンファレンス「検証!『支援』と『表現未満、』」に登壇予定。
詳細:http://cslets.net/hotnews/news-736

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