16:崇高と日常−−−チェルフィッチュ『ゾウガメのソニックライフ』をめぐって


チェルフィッチュ『ゾウガメのソニックライフ』 
神奈川芸術劇場 2011年2月1日 撮影:宇壽山貴久子

ネットで「アートスフィア」と検索してみたら、そういう名前の劇場はもうなくて、いまは「天王洲銀河劇場」と呼ぶのだという。2006年に経営母体が変わり、ホリプロ系列のグループ会社が運営しているらしい。思い起こせば、最後に足を運んだのは05年に来日した作曲家、故・シュトックハウゼンの日本公演だった。鳴り止まぬ拍手のなか、舞台に姿を現したシュトックハウゼンに二階席の最前列で最後まで声を上げ拍手をやめぬ男がいて、誰かと思ったら作家の中原昌也だった。その拍手があまりに長いので、シュトックハウゼンも中原の様子に気づき、少しのあいだ、両者が目を合わせる場面があった。そのわずかの時間、この広い劇場で二人だけにスポットが当たり、他のすべての空間が暗転したような気がした。むろんコンサートそのものも感慨深かったが、個人的にはこの両者が対面した−−−歴史的というよりも、従来の音楽史をねじ曲げるような、それでいて直系であるはずの両者がじかに出会った−−−−場面が忘れられない。

話が横道に逸れたが、なぜアートスフィアで検索したのかというと、1992年、同じ会場で総5時間近くに及ぶフィリップ・グラス/ロバート・ウィルソンによる伝説的なオペラ『浜辺のアインシュタイン』(以下『アインシュタイン』、初演=1976年)の日本公演を見た記憶がよみがえったからだ。この劇場のこけら落としでの再演だった。うろ覚えで書くが、たしか上演中の出入りが自由で、開場したときにはもう始まっていたと思う。残念ながら劇の詳細は記憶から飛んでしまっているが、ひとつだけ忘れられない光景がある。ものすごく長い時間をかけて、舞台上に据えられた白い光の柱がゆっくりゆっくりと垂直に立ち上がっていくシークエンスだ。いまでも、その場面だけはうっすらと覚えていて、思いがけず、ふいにその情景が脳裏をよぎることがある。先日もそういうことがあったので、あれはどの劇場で見たのだっけと思い返し、つい調べてみたくなったというわけだ。


チェルフィッチュ『ゾウガメのソニックライフ』 
神奈川芸術劇場 2011年2月1日 撮影:宇壽山貴久子

それにしても、なぜ『アインシュタイン』など思い出したのか。それは、これもこけら落とし公演になるけれども、先頃、横浜の神奈川芸術劇場で、チェルフィッチュの新作公演『ゾウガメのソニックライフ』を見たからにほかならない。いま、それから数日を経てこの舞台について文を書こうとしているのだけれども、そうしてみたとき、なにより印象に刻まれているのが、舞台に投影される「光の体験」だったことに気付いたのだ。そうこうしているうちに、あの『アインシュタイン』の記憶が浮かび上がってきたというわけだ。
 
これまで、すべてではないにせよチェルフィッチュの公演を見てきて(このところ照明を使った演出が目立っていたものの)、ここまで光の印象が強く残ったのは初めてのことだ。それよりはずっと、僕らが生きる「日常」の複雑な特性が、舞台上の身体を通じて浮かび上がってくる、という感覚の方が強かった。実際、入場時に配られていた簡単なパンフレットでも、「日常」というような言葉が散見されたので、今回もなんとなくそれをキーワードに見ていくつもりでいたけれども、見終えたときには、そういう「言葉」は完全に忘れてしまっていた。なんというか、なにか主題を持った劇を見た気がしないし、だからといって身体がどうのこうのいうダンスのような感じもしなかった。ただ、動きをともなって人間もその一部に組み込まれた構造体を、時間をかけてゆっくりと眺めるという方が正確なんじゃないかと思ったのだ。そして、そのなかでいちばん大きな印象を占めているのが、(あくまで僕のなかでは、ということだけれども)光にまつわる空間の演出だった。
 

チェルフィッチュ『ゾウガメのソニックライフ』 
神奈川芸術劇場 2011年2月1日 撮影:宇壽山貴久子

ふつう舞台芸術で照明というと、当然それは劇やダンスの活動主体を効果的に照らし出すという副次的な役割をする。あるいは、せいぜいが背景や舞台美術の一部として組み込まれているにすぎない。すぎない、というのは言い過ぎかもしれないけれども、少なくとも「主役」ではないだろう。でも、今回のチェルフィッチュの公演を見て僕は、そこに大きな逆転が起こっているように感じた。「照明」というのではなく、様々な陰影や色彩、形状に姿を変えて出演者を包み空間に充満する「光」の方が、あえていえばずっと主役であるかのように思えたのだ(それを光によるアンビエンスと呼んでもよいのだけれど、そうすると劇中でかかっていた音楽が、ブライアン・イーノのアンビエント・ミュージックであったことと符合しすぎてしまうので、そのことについてはここで触れるだけとする)。
 
なにが言いたいのかというと(これは僕が美術批評家だからそういう見方をしてしまうということを引き算しても)、今回の新作は舞台芸術である以前に、一種の造形美術作品のように感じられたということだ。考えてみれば、『アインシュタイン』自体も時代背景からしてそういうところがあったのだが、チェルフィッチュの「光」の印象もまた、美術でいうところのミニマリズムからポスト・ミニマリズムに至る系譜を、昨今の「現代アート」作品などよりも、はるかに現在へと正当に継ぐもののように感じられたのだ。
 

ダン・フレイヴィン『Site-specific installation』1996年
Menil Collection, Houston

たとえば蛍光灯を使って、それを並べたり配列したりするだけのインスタレーションで知られるダン・フレイヴィン。ミニマル・アートを代表する作家であることは言うまでもないけれども、彼の革新は、フェルメールから印象派に至る西洋の画家たちが、物的な対象というより光そのものを描こうとしてきた延長線上で理解されるべきだろう。フレイヴィンは、絵具を使って光を描くのではなく、光そのものを使って作品をつくった。その際、重要なのは、絵画のように照明で引き立てられる必要がなくなったということだ。作品自体が光源で、空間そのものが光に満たされるのだから、そこではもう「照明」は必要ない。物としての作品と、光により演出をめぐる空間上の<主従の関係>は存在しなくなる(同じことはジェームズ・タレルにも言えるが、ダン・フレイヴィンの光の扱いの方がより直裁的で、徹底して情緒を排し冷徹だ)。
 

バーネット・ニューマン『英雄にして崇高なる人』1950-51年
油彩、キャンバス 242.2×541.7cm ニューヨーク近代美術館

ようするに僕は、今回のチェルフィッチュの舞台で、「照明」が消滅した劇空間とでもいうものを感じたのだ。光は、演者を効果的に照らし出すのではなく、空間として自律しており、演者は光によって浮かび上がるというよりは、いやおうなく「そのなか」にいる。そのことは、舞台の前面に立てられたH状の構造体が光に照らされ背景に影を落とすとき、縦に大きく延びるそのラインによって、舞台全体が、「ジップ」と呼ばれる垂直線を持つバーネット・ニューマンの絵画のように見えていたことと無関係ではないだろう。そういえば、先の『アインシュタイン』で僕が記憶に焼き付けた舞台上で発光する巨大な光の柱も、ニューマンのジップからダン・フレイヴィンに至るコンテキストを変換し舞台上で再表象する(=演劇の「演劇性」を消す)ものではなかったか。これらはいずれも、人間が主体のようでいて、それを超えた空間の広がりへと目を向けている。チェルフィッチュの「今」とは煎じ詰めれば、そのような脱人間主義の舞台へと向かっているのではないか。そこでなお「日常」という語を使うなら、それは人の「生活」を超えた「崇高」(ニューマン)をも抱え込む意味でと言うほかない。
 
チェルフィッチュ『ゾウガメのソニックライフ』 
作・演出 : 岡田利規
出演 : 山縣太一 松村翔子 足立智充 武田力 佐々木幸子
舞台美術 : トラフ建築設計事務所/照明 : 大平智己

* 神奈川芸術劇場
2011年2月2〜15日
* 水戸芸術館ACM劇場
2011年2月26日 , 27日
* 山口情報芸術センター[YCAM]
2011年3月13日
* 富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ
2011年3月4日、5日

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