52:追悼・三上晴子(番外編) ― ごく私的、かつ批評的な企てとして

※本連載での進行中シリーズ〈再説・「爆心地」の芸術〉は今回お休みとなります。

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グランギニョル未来「デミオ福島501」2015年〜(東京・ワタリウム美術館での『Don’t Follow the Wind – Non-Visitor Center』展における映像版より)

いったんは終了したはずの「追悼・三上晴子」が、こうしてなおも執拗に続くのには理由がある。本連載の前回、末尾でほのめかしておいたことだが、現在、東京、浅草橋のパラボリカ・ビスで開催中の『三上晴子と80年代』展(11月1日まで)で、私は会期中に美術家でホーメイ歌手の山川冬樹と二人でトークに招かれ、亡くなった三上晴子に対して行ったごく私的、かつ批評的な企てについて言及した。今回は、やはりそのことについて記しておかなければと思い直したのだ。

その日、トークに招かれた山川と私は、昨年、私と演出家の飴屋法水が中心となって結成され、ここに写真家でもある赤城修司を加えた4人で活動するユニット「グランギニョル未来」のメンバーである。またちょうど、トークが持たれた10月10日は、そのグランギニョル未来も参加する『Don’t Follow the Wind – Non-Visitor Center』展が、同じ都内のワタリウム美術館で開催されていた。これは原発事故で生じた、福島県浜通りを中心とする立ち入り禁止区域(=帰還困難区域)内での「みにいくことができない」展覧会、『Don’t Follow the Wind』のサテライト展という位置づけになっている。実は私は、この一見しては無縁のふたつの展覧会に、ひとたび架けたら容易には取り外すことができなくなる批評的もくろみについて話す気持ちを最初から持っていたのだが、その内容について主催者には事前に一切を語らぬまま、当日のトークに臨んだ。


展覧会「三上晴子と80年代」会場風景 2015年、パラボリカ・ビス、東京
下写真左の作品は三上の「Bad Art for Bad People 都市の断面図」展(1986年)に用いられたと推定されるケーブル類(多摩美術大学の倉庫に保存されていた)を用いて、山川冬樹が今回の展覧会に際して行ったパフォーマンスで組み立てたもの。

そもそも、パラボリカ・ビスでの三上展のねらいは、「メディア・アーティスト」として他界し、ゆえに非物質的=情報環境下で作品を構築することが多かった三上を、なんとかして後代に伝えようとする苦慮に端を発していた。物質に基盤を置く通常のアートと違い、メディア・アートは作品の保存と伝承が(日進月歩のテクノロジーに多くを負うため)非常にむずかしい。そのままでは回顧展はおろか、作品を所蔵し、後に伝えることさえ実際にはままならない。端的に言えば、それは美術家として「二度目の死」を意味する。三上は若くして他界したため、こうした問題が早くに露呈した。が、早晩この分野は、これとまったく同様の問題に突き当たるだろう。本展のいささか唐突な開催は、そんな危機意識にも後押しされていたはずだ。三上が亡くなったのが、不治の病によることはある意味、仕方がない。しかし残された者はそのあとでようやく、展示できるものがほとんどないことに、はたと気付くのだ。今回、三上が「封印」していたはずの1980年代の作品にわざわざ焦点が絞られたのも、そうした事情が反映されている。かろうじて「もの」として残っている作品(の断片)を拾い集めるところから始め、少しずつ時間をかけ、三上晴子という美術家にまつわる「作品」と「記憶」を、残された者はがまん強く守っていかなければならない。


三上晴子個展「Bad Art for Bad People 都市の断面図」1986年、板倉アトランティックビル地下1F、東京 撮影:ハナブサ・リュウ © Lyu Hanabusa

けれども、時の推移は残酷だ。例に出すのは気が重いが、やはり多摩美大で長く教鞭をとり、惜しまれつつ昨年、三上と同じくガンで他界した画家、辰野登恵子なら、大半の仕事が「絵画」というかたちで美術館に残され、作者の亡きあとも堅牢な収蔵庫で手篤く守られている。ゆえに、ひとたび思い立てばまとまった展覧会を開くことはむずかしいことではないし、その画業を振り返る企画も実際、いま埼玉県立近代美術館で開催中だ(「まだ見ぬかたちを」展、1月17日まで)。けれども三上には、そのような環境がまったくと言ってよいほど整っていない。かといって、先の辰野のような所蔵環境を目指せば目指すほど、そのギャップは開く一方となるだろう。では、どうすればよいのか。むろん「物」としての作品さえ残ればよいということではない。きちんと管理されていても、二度と収蔵庫から陽の目を見ない作品は数知れない。肝心なのはその作家の仕事が途絶えず想い起こされ、多くの人から検証される機会があるかないかなのだ。

私は、かつて三上の作品を痛烈に批判した。そもそもこの追悼論自体が、そのことへの反芻的な回想に端を発している。その後、良好な関係をいったんは戻したものの、彼女の活動の場が「メディア・アート」の領域へとにわかに転じると、再び、ほぼ一切の交流がなくなり、また三上自身も、かつての作品についてはかなり強固に、「語る」ことも「語られる」ことも避けるようになった。そのもっとも典型的な現れは、多摩美大の情報デザイン学科の教員に着任してからの三上が、「その頃」の作品を、歴代の助手に頼み、少しずつ「処分」していたことだろう。


三上晴子個展「Information Weapons 1:Super Clean Room」1990年、トーヨコ地球環境研究所、横浜 撮影:畠山直哉 ©studio parabolica Photo: Naoya Hatakeyama

実は山川は、その三上の多摩美大での最初の助手(当時は副手)であった。あるとき、かつての代表作「インフォメーション・ウェポン」としか思えぬ段ボールの梱包群の処分を三上から依頼された山川は、気になって彼女に「これ、もらってもいいですか?」と聞く。すると三上は一瞬だけ考えてから、「いいよ。でも売っちゃだめだよ」と念を押したらしい。たぶん、それはエディション外の試作品(?)で、作品の履歴上は存在してはいけない代物だったのだ。つまり、三上から山川がこれを譲り受けた時点で、その「物体」はすでに三上の意思により、彼女の「作品」ではなく、原則としては「ゴミ」となっている。しかしそれでも、それはたんなるゴミではない。「かつては三上の作品でもあったゴミ」なのだ。しかしその後、山川はこの相応に嵩張る代物を、特になにか宛てがあるわけでもなく、ただただ長く倉庫に仕舞い続けた。

ふとした契機にそのことを知った私は、『Don’t Follow the Wind』展の帰還困難区域におけるグランギニョル未来の展示「デミオ福島501」(2015~)にて、主要素材となる赤城の乗用車にこの「廃棄物」をも搭載し、放射能で汚染された会場へ持ち込み、車の周囲に配置することで、三上にまつわる「域内」での「みることができない」展覧会に仕立て上げることに思い至った。そのことで、私がかつて批判した三上作品の遺物への再「キュレーション」を施すためだ。すなわち、かつては作品であった廃棄物にいまいちど息を吹き込むため、1980年代に特有の仮想の汚染地帯ではなく、今や目の前の現実となった放射能汚染地帯の只中に設置=放置するのだ。そして、いつなのかが誰にも予測できない未来に帰還困難区域が解除されるまでの時の推移のなかへ投げ込むことで、かつて彼女の創作を刺激した「汚染」のイメージに立ち帰り、本物の放射性廃棄物へと移行させることで、21世紀中に「作品」へと戻るプログラムを、批評の企てとして作者不在のまま仕掛けたのである。

したがって、いまではもうグランギニョル未来「デミオ福島501」の一部と同化した三上の「廃棄物」は、たったいまこの時も「帰還困難区域」の、とある場所に設置され、終わりのみえない「展示」のなかにある。そうするにあたって、私たちは放射能防護服で厳重に身を固め、数十年に及んで梱包されたままだった「封印」をカッターで切り、今年の2月の末、域内の「会場」に設置した。その様はちょうど、かつて1989年にトーヨコ地球環境研究所で開かれた三上の「インフォメーション・ウェポン1」展で、会場となる無塵室に鑑賞者が外部から不純物質を持ち込まぬよう、白い防護服に身を固めてなかに入ったのと、きわめてよく似た風景だった(本連載前回の図版参照)。ただし、身体の内外を薄い膜だけで遮断する「被膜」の関係は、ちょうど真逆になっている。「デミオ福島501」では、会場に漂う放射性物質から生体を守るためにこそ、私たちは防護服という皮膜に身を包んだからである。

そこには、三上の構想した「皮膜=被膜」にまつわる、表と裏/内部と外部との転倒がある。そして、この逆転が起こることで、三上の「インフォ・ウェポン」は初めて、作品として本来持つべき強度に達するように、私には思われたのである。


三上晴子「放射性廃棄物コンテナ」、1991年(1993年の「Curator’s Eye ’93 vol.3 Seiko Mikami」展DMより)

はたして、その様子を一般の来場者が観る機会は訪れるのだろうか。あるいは、それは永久に到来せず、やがて三上の「遺物」は、彼女がかつて掲げたコンセプトでもある「廃棄物」そのままに、本物の「放射能汚染物」と化したまま、「美術館」ではなく「中間貯蔵施設」で保管されるのだろうか(実はこの両者はよく似ている)。はっきりしているのは、このやり方が三上晴子が唱えた「廃棄物」や「被膜」にまつわる潜在的な可能性を、現状で考えうる限り最大限に引き出し、人々の脳裏へと消えぬ痕跡として長く刻み続ける、もっとも有効な手立てであると、私が確信しているということだけだ。

筆者近況:『後美術論』(美術出版社)が第25回吉田秀和賞を受賞。映画『FOUJITA』公開・『戦争画とニッポン』刊行記念講座「もっと知りたい 藤田嗣治」に、会田誠、小栗康平(『FOUJITA』監督)と共に登壇予定。11月12日(木)、池袋コミュニティ・カレッジにて。
詳細:http://cul.7cn.co.jp/programs/program_734810.html

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