椹木野衣 美術と時評 71:折元立身の転機 – アート・ママ亡き後の「午餐」と「処刑」をめぐって

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パフォーマンス「26人のパン人間の処刑」より(川崎市岡本太郎美術館、2017年) 撮影:筆者(以降全て)

今年もたくさんの国際美術展、国際芸術祭が日本国内、各地で開かれた。その総括は追って行うとして、今回、取り上げるのは広島県知事を名誉実行委員長とし、来年以降のさらなる展開が予想される広島県尾道市、福山市・鞆の浦を会場に据えた「海と山のアート回廊」(2017年9月16日〜11月12日)と、続いて川崎で行われた折元立身のパフォーマンスである。

2017年は折元にとってたいへんな転機となった。長く連れ添い、20年にわたって介護を続けた実母、折元男代(おだい)が今年の5月25日に亡くなったのだ。98歳だった。ただし、ここで転機というのは、最愛の肉親が亡くなったからだけではない。鬱病とアルツハイマー症を抱えた男代との介護の日常をそのままアート・パフォーマンスに転化した連作「アート・ママ」が、ここ20年に及ぶ折元の旺盛な活動の原動力でもあったのは、知る人には改めて言うまでもないことだろう。しかし、残された時が限られていることは折元自身が誰よりも知り抜いていた。昨年の11月に青山|目黒でアート・ママに扮装するパフォーマンス「化粧して、アート・ママに成る」を敢行したのも、「アート・ママ亡きあとの〈アート・ママ〉」はいかにありうるかについて真剣に思いを巡らせた結果だろう。


パフォーマンス「50人の島のおばあさんたちのランチ」より
(「海と山のアート回廊」、広島県尾道市、2017年)

その母が世を去った今年、折元は「アート・ママ」の概念を実母以外に大きく拡張するパフォーマンスを前記芸術祭のイベントの一環として行った。10月7日に生口島、瀬戸田港の広場で開かれた「50人の島のおばあさんたちのランチ」がそれだ。

もっとも、地元のおばあさんに集まってもらい、彼女たちと一緒に一斉に土地の名物を食するというこの連作パフォーマンス自体は、これまでも国内の川崎を皮切りに、ブラジル、ポルトガル、イギリス、デンマーク各地で行われてきた。しかし、アート・ママ亡き今、各土地で思い思いに集うおばあさんたちは、おのずと男代の姉妹のような存在に見えていた。というのも、生口島の港で折元は、ランチが始まる前におばあさんたちを前に自分の母であった男代の写真をかざし、その苦難の生涯についてあえて触れ、境遇こそ違えどもやはり労苦が多かったであろう島のおばあさんたちに、その思いをはっきりと伝える意思を見せたからだ。

労苦といえば、天気の変わりやすい瀬戸内の島での屋外のランチもまた簡単には進まなかった。正午前はかろうじて晴れていたものの、ランチの直前から天気は急変。ふいに雨雲が湧き、まもなく降り出した雨は一時のものと思いきや、いっこうにやんでくれない。料理はもうすっかり準備ができており、卓上の飾り付けも済んでいる。だが、これでは食事どころではない。料理は冷えてしまうし、せっかくのお膳立ても台無しだ。高齢で空腹のおばあさんたちをパフォーマンスのために待たせたままでは気力、体力だっても消耗してしまう。にわかに決行が危ぶまれるなか、いったん卓上のお膳はすべて片付けられた。急遽テントを張ってテーブルに水が溜まるのを防ぎ、おばあさんたちを船着場の小さな待合室に待たせているあいだには、こともあろうか轟音とともに雷さえ落ち始めた。ふと見ると、多くの難局を切り抜けてきた百戦錬磨の折元も、さすがに不安の色は隠せない。

その時、驚くようなことが起きた。待合室に集まったおばあさんたちから誰ともなく歌声が上がり、明るい笑い声が外まで漏れ始めたのだ。これは驚きだった。おばあさんたちは人足のため駆り出されたのではない。あきらかに折元のパフォーマンスを楽しみに、天気が戻るのを待っているのだ。

彼女たちの声が天に届いたわけではなかろうが、雨は次第に収まり、ついにはすっかり晴れ上がった。確かに料理は冷めているし、空腹も限界だったかもしれない。しかしそのせいだろうか。少し遅いランチが始まると、むしろ食は旺盛に進み、雨上がりの瀬戸内の山並みを背景に、素晴らしい景観が顔を出した。こういう場面は絶対に人為的に、別の言い方をすればコンセプチュアルに作り出せるものではない。

にわかに興が乗ったのだろうか。ランチを無事終えておばあさんたちにお礼の意を伝えると、折元は今度はひとりでパン人間に扮し、食卓のまわりをゆっくりとまわっておばあさんたちを沸かせた。こんなことは生涯で初めての出来事に違いない。その記憶は、しっかりと記憶に焼きついたことだろう。

気づけば天気は回復どころか、真夏の日差しに戻っていた。曇りから雨へ、やがて雨脚強く雷鳴が響き、ふいに歌声のなか雨が上がり、晴れて真夏の日和へと移る。まるで折元男代の生涯のように陰影と起伏に富んだ、それは秋の日の一期一会の昼の宴であった。

その興奮も冷めやらぬ同じ月の22日。折元は今度は彼の地元、川崎の岡本太郎美術館で別の連作パフォーマンス「処刑」を「26人のパン人間の処刑」と題して行った。

私が「処刑」を初めて知ったのは昨年、川崎市市民ミュージアムで開催された折元立身の個展「生きるアート」でのことだった(*1)。この展覧会での「処刑」は、パフォーマンスに使う処刑台が部分的に展示され、過去に同ミュージアムを皮切りにベルリン、マドリード、コペンハーゲンで決行されたパフォーマンスの映像記録を映し出すという、いわばパフォーマンスそのものを資料展示的に変形させたものだった。

折元がパフォーマンスにパンを使うのは日常の異化のためであって、だからこそ、いつだってそこはかとなしにユーモアを帯びていた。死と暴力の匂いはむしろ遠かった。ところが、この連作ではっきりと示されているように、パンは実はキリストの肉としての象徴を帯びている。26基の処刑台の数は、かつて豊臣秀吉が国内での布教による勢力の拡大を恐れ、京都に住むキリスト教徒を捕縛して長崎まで連行し、丘の上で処刑をした際の人数に由来する。もとより、パンは米や雑穀を主食としてきた日本人にとっては異物である。現在では異物を異物と感じさせないほど生活に定着したとはいえ、その姿をまじまじと凝視するなら、やはりどこか異様だ。お膳に盛られた粘り気のある米のつぶつぶとは、まったく違う世界観を宿している。折元が好んで使うゴツゴツとした岩のようなフランスパンならなおさらだ。


パフォーマンス「26人のパン人間の処刑」より
(川崎市岡本太郎美術館、2017年)

そのパンを箱に山盛りに入れて首から下げた者がちょうど26人、木製の処刑台と鉄の台座に捕縛され、後ろ手を白い布で縛られ、目隠しされ、親から授かった名ではなく番号(ナンバー)で呼ばれると、皿を割る音を合図に身を激しく悶えさせ、絶叫しながら次々に「絶命」していく。私はキュレーターとして招かれた「釜山ビエンナーレ2016」でこのインスタレーションを26基の完全版として再現したものの、ついにパフォーマンスまでには至らなかった。そのパフォーマンス版が本当に久しぶりに日本で実現したのである。

その様子は、想像以上に不穏でショッキングなものだった。天候はといえば「おばあさんたちのランチ」に輪をかけて不順そのものだった。その日の深夜の首都圏への台風直撃を控え、川崎は朝から大雨が続き、美術館の所在する公園内の道中は、まるで川のようになっていた。そんな中、私はやや昇りの道を「処刑」が決行される高台に位置する美術館へと歩を急いだ。「処刑」の目撃者になるためだ。当然、客足も期待したほどではない。しかしその分、26基の処刑台が並ぶ会場は、公開のイベントというより、まるで秘密の儀式のように謎めいた密室性を帯びていた。

その時も強く感じたが、実際、折元の「処刑」は時代の推移とともに異様なほど生々しさを増している。皿が割られる合図とともに処刑が始まるのは、言ってみればパンという食材が食材でなくなることを意味する。皿が壊され、本来の居場所を失い、もはや食材でなくなったパンは、反対に暴力が打ち振るわれるためのキリストの肉であることを時をさかのぼって露呈し、死にゆく者の身に執拗にまとわりついては、かれらを死の淵へと追いやる異物そのものとなる。その運命からなんとか身を引き離そうと、死へに至るための肉と化したパンを被処刑者たちは懸命に振り落とそうとする。けれども、振り落とせたかどうかはわからない。死んでもなお目隠しをされているからだ。あるいは、被処刑者の中には本当のキリスト教徒もいたかもしれない(パフォーマーは高校生以上という条件のみで一般募集された)。かれらにとってパンは忌まわしい死の呪縛であるどころか、殉教という命運のため進んで受け入れるべき祝福のための試練となる。共通しているのは、「番号(マイナンバー?)」で呼ばれることで記号にまで貶められた自分の肉体を、記号からもっとも隔たれた死にゆく者だけが持ちうる個別のアクションで打ち砕くということだ。パンを抱えて死んでいく死に様が26人でこれほどまでに多種多様なのは、きっとそのためだろう。事前に演出された演劇でもないのに、いや、だからこそ、26人に一人として同じ死に様はなかった。

処刑がすべて終わると、26人から振りほどかれたパンの残骸が方々に散乱する中、年齢も性別もバラバラな人々が思い思いに死んでいる。あるいは現在の国際情勢なら、人によってはISによる「異教徒」の公開処刑を思うかもしれない。しかし、これは決して劇場的な処刑の再現ではない。記号化という暴力から逃れるため、死を媒介に自己の肉体を取り戻そうとする者の固有性が生み落とした「再生」のための唯一の場の到来、その降臨そのものなのだ。


1. 椹木野衣「象徴としてのパン、美術という異物」、『美術手帖』2016年8月号、美術出版社

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