49:追悼・三上晴子 — 彼女はメディア・アーティストだったか(3)

※本連載での進行中シリーズ〈再説・「爆心地」の芸術〉は今回お休みとなります。

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『三上晴子展 皮膜世界:廃棄物処理容器』展示風景 1993年、ギャラリーNWハウス、東京 撮影:黒川未来夫 画像提供(以降すべて):株式会社レントゲンヴェルケ 協力:木村重樹

(承前)廃材を使った「ジャンク・アート」の旗手としての三上晴子と、新時代の「メディア・アート」の先駆者としての彼女とのあいだの著しいギャップは、当然、埋められなければならない。ひん曲がった鉄と赤錆と蜷局(とぐろ)を巻く有線の嵐のなかでこちらを睨む三上と、清潔に管理された情報環境のなかでプログラムをコンピューティングする冷徹な三上——は、今のままでは、両者に対する評価の基軸も、需要される層も、まるで別人のように切り離されたままだからだ。しかし、たとえどんなにイメージが重ならなくても、この「二人」が、他でもない「ひとり」のアーティストが辿った同じ活動のひとつの軌跡であることに違いはない。その仕事の総体を、生涯を通じて、ひとつの全体像から捉えようとするなら、そこで一貫する「意味」がいったいなんであったかについて考えることは、残された者にとって必須の批評的な責務となる。

そのミッシング・リンクを埋める上で、重要な意味を持つ展覧会が二つある。ひとつは、1993年の春に当時、早稲田にあった「ギャラリーNWハウス」で開かれた個展「被膜世界:廃棄物処理容器」(「Curator’s Eye ’93 vol.3」、会期=4月21日〜5月3日、キュレーター=熊谷伊佐子、当時・東京都新美術館建設準備室学芸員)であり、もうひとつは、大森東にあった「レントゲン藝術研究所」で93年の暮れから94年の3月にかけて開かれた二人展「ICONOCLASM」(三上晴子/福田美蘭、会期=12月22日から3月3日、キュレーター=西原みん)である。ともに女性によってキュレーションされたこの二つの展覧会は——そういえば、このあとキヤノン・アートラボを通じて三上を支えることになるキュレーターの四方幸子も女性だ——ネットで調べても、まったくと言ってよいほどヒットしない、その実体がほとんど今に伝えられていない展覧会である。

しかし、三上がいわゆる「メディア・アーティスト」としての足がかりを得た先の「キヤノン・アートラボ」でのプロジェクトが始まるのが、翌95年にインターネットを使って発表された「Molecular Clinic1.1」(アートラボ第5回企画展)からのことであり、続く96年には代官山のヒルサイドプラザで、やはりアートラボ第6回企画展として「モレキュラー・インフォマティクス − 視線のモルフォロジー」が開かれ、さらにはこの流れが、日本のメディア・アートの拠点として97年に初台で誕生した「NTTインターコミュニケーション・センター」での常設展示作品「存在、皮膜、分断された身体」に繋がるのを考えれば、1993年から94年の空白の二年間が持つ、三上の「転換期」としての意味はきわめて大きいと思われる。


『三上晴子展 皮膜世界:廃棄物処理容器』展示風景 1993年、ギャラリーNWハウス、東京

では、これより両者の展示内容を見ていこう。ギャラリーNWハウスでの個展で展示されたのは、副題にもあるとおり、手提げのスーツケースに収められた、様々な汚染物を処理=廃棄するときに使われる複数の装備一式だ。ジッパーで閉じられたケースは表面が透明で、なかを見ることができるが、それぞれに用途が違っていて、「注射器、放射能、生物災害物質、実験動物、有害液体、事故空気用で実際に使用されているもの」(三上)とされている。人の住む環境に、汚染された物質が漏れ出さないための装備をパックして展示するやり方は、すでにこれに先立つ「P3オルタナティヴミュージアム」での個展で示された通りだが、そこには大きな変化がある。

最大の違いは、これらがローラー式のコンベアーに乗せられていることだろう。加えて、容器が手提げとなったのも大きい。このふたつが連想させるのは、いずれも単純な室内というよりも、移動のためのハブとしての空港だからだ。そこからは、この時期にニューヨーク滞在を経た三上にとって、これらが単なる展示物ではなく、国境や空港を通関する「旅する汚染物処理容器」となったこと、またその変化は彼女自身の身体(の移動)とともにあったこと、が伺える。これは、P3での展示よりも、作品が遥かに彼女自身の身体に引きつけられて考えられるようになったことを意味する。

すなわち、この変化を通じて、汚染された物質と外部環境を厳密に隔てるための容器が、それを持ち運ぶ彼女自身の身体と重ね合わされたのだ。ここで思い当たるのは、わざわざ廃棄物を管理するための特別な装備や容器をしつらえるまでもなく、私たちの身体そのものが、同様の機能を果たす容器であり、生理学的な機能を備えていることだ。

実際、私たちの身体は実によくできた密閉容器だ。わずかに薄い皮膚一枚で隔てられただけだが、その内部には、胃液のように強酸性の消化液を始め、小便や大便といった強い異臭を放つ排泄物までが、実に見事に密封されている。ひとたび外部に放出されれば、それらは激しく拡散し人を不快にさせる。が、皮膚の内部に閉じ込められている限り、直に酷く匂うこともない。おそらく三上は、特別な容器を用意するまでもなく、自分の身体そのものが、自分の造ろうとしている作品そのものに、限りなく近いことに気付いたにちがいない。

この傾向は、同年の暮れから始まった福田美蘭との二人展で、著しく拡大される。そのとき、レントゲン藝術研究所の一階で発表された大小4つからなる作品は、全体でひとつの空間をなしているのだが、あとにも先にも、三上が手がけた展示のなかで、もっとも風変わりなものであると言えよう。知らされなければ、ジャンク・アートからメディア・アートへと変貌する三上の前後から見ても、誰ひとり彼女の作品と気付く者はいなかろう。逆に言えば、彼女の「代表作」からは窺い知ることのできない隠された「なにか」を、このときの展示は確実に伝えている。

が、本展に関して残されている資料は、とても限られている。ここでお見せする画質の粗い複製写真が、残念ながら現状ではそのすべてである。が、あきらめず、少しずつていねいに追っていこう。


『ICONOCLASM(イコノクラスム)』展(1993年、レントゲン藝術研究所、東京)での三上作品展示風景。右から、「Mirror」(1993年、ミラー、石鹸置き、ヤスリ、測定器、ピンセット、のこぎり替刃、点検鏡、金属ブラシ)、「Scale」(1993年、マッサージシャワー15点、タイル、体重計)、「Security Mirror」(1993年、防犯ミラー、バイクミラー、エステティックバスト3点)、「Sink」(1993年、デジタルチバクローム、タイル、シンク) 


『ICONOCLASM(イコノクラスム)』展での「Sink」展示風景

全体から見て取れるのは、白いツルツルの陶器のような質感と、繰り返される単一形式の写真、そして鏡による自己言及的な反射である。より具体的には、屋内の「密室」である洗面室で主に使われる、人の生理にまつわる道具やイメージで大半が占められている。たとえば、ピンセットやヤスリ、マッサージ・シャワー、体重計、石鹸置き、シンク、タイル、ブラシ、替刃といったふうに、それらは身体の表面(皮層)を清潔に管理し、健康を維持し、美容を促進するための器具ばかりなのだ。鏡が多用されているのも、それが洗面室には欠かせない自己確認のためのメディアだからだろう。いずれにせよ、ここには新旧の「三上晴子」を思わせるわかりやすい記号は一切見当たらない。

さいわい私は、この展示を実際に見ているので、埋もれていた記憶を反芻するくらいのことならできる。もっとも強い印象を受けたのは(写真ではよくわからないと思うけれども)白いシンクの前にずらり規則正しく並べられた、小さな写真群である。そこでは(三上自身のものであるかは定かではないが)顔の見えない誰かが石鹸を使って、ひたすら手を洗っている。

いうまでもなく手洗いは、外で付着した様々な「汚染物質」を取り除き、身体の内部や屋内に取り込むことから身を守るための予防的な行為である。が、これらの写真群を見るかぎり、その行為には明確な終わりがない。洗っても洗っても、身体が外気に晒されているかぎり、汚れが完全に落ち切るということはない。だいいち、水そのものが純水というわけでもない。

 私には、これらの写真が、その見掛け上での著しい違いにもかかわらず、この前後の三上の活動を繋ぐミッシング・リンクそのものに思えたのである。端的に言えば、それは「クリーンであること=潔癖性」への、執拗で強迫神経症的なまでのこだわりである。三上はそれを、この頃すでに「被膜世界」もしくは「被膜(からなる)世界」と呼ぶようになっていた。(続く)

著者近況:戦争画について会田誠と語り合った『戦争画とニッポン』(講談社)が6月24日刊行予定。

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