椹木野衣 美術と時評 68:再説・「爆心地」の芸術(34)南極建築と日常/非日常のポール・シフト

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昭和基地中心部 写真提供:国立極地研究所

銀座で立ち寄ったとある展示の帰り、京橋の駅から地下鉄に乗ろうとリクシルのビルの前を通ると、2階のギャラリーで「南極建築 1957–2016」と題する展覧会をやっているのに気づいた。すごいタイトルだ。少し急いでいたが、見逃せないと感じて会場に向かった。案の定、たいへん見応えのある展示だった。おかげですっかり予定が狂ってしまったが、得たものはそれ以上に多かった。

それにしてもなぜいま「南極」なのか。開催概要を読んでも、そのことについては書いていない。展覧会が扱っているのは、1957年から2016年に至る日本による南極での建築なので、私が展示を見た2017年は、日本が初めて南極に昭和基地を開設した1957年から数えて、ちょうど60周年ということになる。そういうことが関係していたかどうかはわからないが、この企画展が始まった大阪会場(本展は大阪と東京の二会場を巡回)と同じ2016年末にはやはりリクシルの出版部から『南極建築 1957–2016』という本が出ているので、なにがしか一連の催しであったのは確かだろう。


『南極建築 1957–2016』展 東京会場の展示風景 撮影:白石ちえこ 写真提供:LIXILギャラリー

会場は決して広いとは言えない。それどころか通路のように狭い。一見しては、ほかに類を見ない複雑な技術をめぐる展覧会には似つかわしくない。企業のオフィスフロアの一部を仮設の壁で仕切って展示スペースに当てたような空間だ。しかし、この南極建築展では、かえってそれが功を奏していた。言うまでもなく南極は、人間が地球上で生きるうえでもっとも過酷な、文字通り極限的な場所だ(過去にロシアの管轄するボストーク基地で1983年にマイナス89.2度を観測、その後、NASAは2010年に南極東部のドームふじ基地近辺でマイナス93.2度の解析を発表(*1))。生存を確保できるスペースは最初から限られている。その限られた場所を、いかに有効に活用するか。南極建築とは、そのための知恵の結晶と言ってもいい。ならば、美術館や博物館のような潤沢な空間でゆったりと資料を見せるよりも、与えられた狭い空間をどのように仕切り、そのなかで南極建築がどのように進化(と言いたい)し、そこでは人がいったいどのような生存と居住の条件下にあるのかをいかに有効に見せていくかも、展示を組み立てるうえで重要な鍵になってくるはずだ。その点でも、本展の会場が抱える不利な条件は、むしろ積極的に活かされていたように思う。

とはいえ、南極の持つ極限性は、たんに狭さの問題ではない。昭和基地での南極建築第1号の建設にあたり、建物の安全性のために求めたれた設計基準は、

1・最低気温はマイナス 60度
2・風速は常時毎秒80メートル
3・最大積雪は屋根面で2メートル
4・地震力は零
5・湿度40パーセント(相対)
6・室内温度プラス20度(温度差80度)

であったという(会場のパネルより)。たんに狭いだけで人は死にはしないが、これらの条件下では、滞在者は一瞬にして命の危機に瀕する。失敗は許されない。なかでも凄まじいのが風速だ。積雪だけなら、日本の豪雪地帯と比較してもさして驚きはない。ところが、ブリザードと呼ばれる秒速で80メートルに及ぶ極地に特有の雪嵐が常時吹き荒れるに至っては、これはもう想像を絶している。風速だけではない。この暴風雪が生み出す雪の吹き溜まり(スノードリフト)は、数年もすると建物をまるごと埋設させてしまう。ほっておけば建物が人ごと氷漬けになる。しかし、復旧するにも外に出ること自体ができないのでは、人力ではどうしようもない。

現在、昭和基地には70棟ほどの建物があり、これまで総計で3000人を超す隊員たちが観測や作業のため昭和基地で暮らしてきたというが、南極建築の進化とは、このブリザードによるスノードリフトをいかに回避するかの闘いであったと言ってよい。そのため南極建築を手がける設計者はこの間、ずっと建物の耐久性や基礎性能をめぐる改良を細部にわたって試み続け、その都度必要となる資材や生活必需品を運ぶ観測船の大型化は、累計4代にも及んでいる。


上:あすか基地のスノードリフト(1987年)
下:定着氷の中を進む「しらせ」(1984年25次隊) 写真提供(2点とも):国立極地研究所

展示では昭和基地をめぐるその様が、狭い空間を有効に区切りながら5期にわたって構成されていた。ここに極地観測の中核機関である国立極地研究所のアーカイブから厳選された写真資料を中心に、随所でブリザードの記録映像や、南極を疑似体験できる360度画像、風洞実験の様子や各種設計図、資材の現物が設置され、さらには国ごとに異なる諸外国の南極建築の事例が16も紹介されている。通常、伝統的な建築はその土地の風土に大きく左右される。これに対し、そのような風土を問わない普遍的な建築を目指したのがモダニズムに特有のインターナショナル・スタイルだろう。だが、南極建築はモダニズムを下敷きにしながらも、そして同じ南極という同じ条件が与えられているにもかかわらず、同一のスタイルへと収束することがない。このあたりは、極限的な条件下で従来のモダニズムが変容し、多様化する事例として捉えるのも興味深い。

展覧会からは少々離れるが、そういう点で言えば、南極自体が人類にとってたいへん興味深い探求と実践の対象なのだ。そもそも、南極もまた地球上の陸地である以上は占領争いの対象であった。今から 100年を遡るノルウェーの探検家アムンセン、イギリスの海軍軍人スコットの二人による熾烈な南極点への到達競争は、南極という存在を世界に知らしめた(日本人では陸軍の軍人で千島列島などの探検を行っていた白瀬矗〔しらせ のぶ〕が同時期に名乗りを上げ、南極点に向かっている)。

他方、南極は元来植民地になるような環境ではあり得ない。地下資源は未知だが、発掘は時代の制約もあり並大抵のことではない。結局、南極についての学術研究が飛躍的に進むきっかけとなったのは、第二次世界大戦終了後の1957年、国際学術連合会議がこの年と翌58年を「国際地球観測年(IGY)」に定めたのが大きかった。敗戦による占領から国際社会に復帰してまもなかった日本はアジアから唯一の参加国でもあり、これを好機ととらえ、基地建設地として割り振られた東オングル島を拠点に、国を挙げての本格的なプロジェクトが始動する。ただし、かつての探検家たちによる国の威信をかけた帝国主義的で熾烈な先陣争いではもはやない。参加国は南極の自然の重要さへの共通の理解に立ち、「南極は人類の共通の財産である」という理念を等しく受け入れ、その結果、軍事利用の禁止、領土権の凍結、核実験や放射性廃棄物処分の禁止が各国に共有された。過酷な環境であるがゆえに人類の普遍的な理想が実現するというのは、いささか皮肉な気がしなくもない。むろん、割りあてられた基地の位置まで平等というわけではなく、その条件によって後々に至る南極観測の有利・不利が決まってくるのは当然だとしても、国民国家の定義とさえ言える領土権までもが「凍結」されているのは南極ゆえの苛烈さと言うほかない。


日本初のプレファブ建築の青図『南極地域本観測用建物解説書』(1957.10.21 南極建築委員会設計部会 ㈱竹中工務店南極室)より。 所蔵:日本大学名誉教授 半貫敏夫

もっとも、本連載で今回を「再説・爆心地の芸術」に組み込んだのは、こうした歴史をめぐって、たんに南極に強い関心があったからだけではない。展示のうち「第1期:日本初のプレファブ建築/宗谷時代」のなかに、私が『戦争と万博』で取り上げた「建築家」で、日本の1960年代を代表する前衛的な都市計画家たちのグループ、メタボリズムの呼びかけ人である浅田孝の名が登場していたからである。浅田がメタボリズム結成に先立って、南極での昭和基地建設に関わっていたことは以前から聞いていたが、その具体的な設計思想や実際の図面、その時に採用されたプレファブ工法の詳細を目の当たりにするのは、これが初めてのことだった。詳しくは『戦争と万博』を読んでもらうのがよいのだが、「爆心地の芸術」と浅田とのつながりをここでいったん確認しておきたい。

そもそも、浅田が東大の丹下健三研究室の出身で、その後も長く丹下の右腕的存在であるにもかかわらず、生涯にわたってまっとうな建築家というよりは「つくらない建築家」であり続けたことの原点には、戦中に原爆投下直後のヒロシマの爆心地へ救護のために向かった際に目撃した、核兵器によって徹底的に破壊された都市の残骸の記憶がある。当然、本人も入市被曝しただろうが、浅田にとってはそんなことよりも、近代の精華であるはずの都市や建築が、一瞬の核爆発で完全に無に帰してしまう時代に自分が入ってしまったことのショックのほうが大きかった。実際、浅田はその体験を生涯にわたって漏らし続けたという。しかも、浅田がその活動のピークを迎える戦後とは、米ソからなる2大超大国が、最新鋭の核兵器を装備してにらみ合う冷戦の時代であった。

今でも核抑止はむしろ平和を維持する担保になるという者は多い。しかし、朝鮮戦争でもキューバ危機でも、核戦争の可能性は実際にあった。つまり、核戦争はいつ起きてもおかしくなかった。そんな世界で、いったいどうして一個の建築など平然と建てられよう。必要なのはむしろ、いつでもどこでも全面的な破壊からの復興下となりうるような状況に対応しうる都市計画であり、もっと言えば、核による都市の壊滅を想定せざるをえない、極限的だが十分にありうる未来のなかで、いかにして人が生をつなぐことができるかという「環境」の設計であるはずだ。こうした身に迫る危機の意識が、浅田をして「つくらない建築家」たらしめた。反対に、そんなことなど夢にも思わず次々と建てる建築家たちが、浅田の目からした時、いかに素朴に写ったかは想像に難くない。そんなことをするなら、いっそ日常ではありえない極限的な条件を課せられる南極のような「悪い場所」で、従来の建築はいかにして可能かを、みずから試すことのほうにリアリティがあったとしても、なんの不思議もない。


昭和基地・高床式の観測棟(1967年8次隊) 写真提供:国立極地研究所

こうして1957年、多くの建築家が尻込みをするなかで、日本で最初の、言い換えればまったく前例がなかったプレファブ工法を採用し、南極建築の設計に臨んだのが浅田だった(その詳細は冒頭に挙げた『南極建築』に収録されている笹原克の論文を参照のこと(*2))。その際、浅田が重視したのは、面や柱といった建築設計における実体的な要素以上に、それらのパーツをジョイントする部分同士の関係性の精密な画定と、それを容易にするパーツごとの厳密なモジュール化であった。これは、浅田自身が未来の建築を考えるための講座として1955年にみずから招聘したコンラッド・ワックスマンが日本で開いたゼミナールによるところが大きい。浅田がこの思想にもとづき昭和基地のプレファブ建築を手掛けるのはその2年後、わずか34歳の時のことである。だが、昭和基地のプレファブ設計は見事に南極の過酷な自然条件に耐え、その延長線上に、建築を個別の単体としてではなく、たえまなく新陳代謝し、予想の難しい環境の変化に応じて生命のように順応するメタボリズムの考えも生まれてきたことになる。その成果が最大限に応用されたのが、ほかでもない1970年の大阪万博だった。言い換えれば、大阪万博でメタボリズムの建築家たちが手がけたパヴィリオンは、未来という未知の危機的な環境に適応するための、南極建築のスピン・オフであったと言ってもいい。

もっとも、大阪万博を通じて実用化された南極建築のプレファブ工法が、その本来の目的である極限状態で現実のものとなるのは、実際にはその後、大工仕事に代わって急速にモジュール化していくことになるハウス・メーカーの住宅においてではなく、実に1995年に突如として近代都市の直下を襲った阪神淡路大震災下での仮説住宅の確保でのことだったとは言えないか。むろん、その余韻は東日本大震災以降の日本にも長く暗い影を落としている。それは、南極建築というサバイバルのためのプレファブ工法が導く、ある意味必然的な結果だったのかもしれない。

南極と言えば、今年は世界初の南極でのビエンナーレ展が開催された記念すべき年にも当たっている(*3)。他方、同じく今年は海外でヴェネツィア・ビエンナーレを始めドクメンタ、ミュンスター彫刻プロジェクトといった大きな催しが、さらに国内でもヨコハマトリエンナーレ、札幌国際芸術祭、北アルプス国際芸術祭や奥能登国際芸術祭をはじめ、美術館のような従来の守られた展示環境を超え出る、いわゆる芸術祭が目白押しだ。しかし、日常の最中で非日常を求めようとするこれらの芸術祭に、東日本大震災以降、非日常のなかになんとかして日常を仮設しようと躍起になっている私たちは、いま、果たしてどれだけのリアリティを持てるだろうか。むしろ南極建築の非日常性のほうが、じりじりと日常へと混入しつつあるのではないのか。南極建築展を見て、私はなにより、私たちの日常とアートのあり方の根本をめぐる、そのような逆転(ポール・シフト)を感じずにはいられなかった。


1. “The Coldest Place in the World | Science Mission Directorate,” NASA Science Website, Dec. 10, 2013
日本語関連記事:「氷点下93.2℃の新記録更新! NASAが世界一寒い場所を発表」、『ギズモード・ジャパン』、2013年12月11日
2. 笹原克「昭和基地を設計した建築家・浅田孝」、『南極建築 1957-2016』、LIXIL出版、2016年
3. Antarctic Biennale
日本語関連記事:「舞台は南極。『第1回南極ビエンナーレ』で問い直す人類と芸術の関わり」、『美術手帖』ウェブサイト版、2017年4月26日

『南極建築 1957-2016』展は2016年12月9日~2017年2月21日にLIXILギャラリー大阪で、2017年3月30日~ 5月27日にLIXILギャラリー東京(ギャラリー1)で開催された。

著者近況:京都での「國府理 水中エンジン redux」展関連ゲストトーク、7月8日の回に登壇予定(聞き手:遠藤水城)。
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