61:再説・「爆心地」の芸術(28)種差デコンタ2016(2)

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八戸市美術館「赤城修司+黒田喜夫——種差デコンタ2016」展示風景(会場1階) © ICANOF
写真提供: ICANOF

それにしても、福島市内のカリオキバとその痕跡を寡黙な撮影を通じて記録し続ける赤城修司と、忘れられた前衛詩人にして「ことばの内乱者」、黒田喜夫(きお)とのあいだに、いったいどのような関係があるというのだろう。しかも、この「種差デコンタ」展の中で後者は決定的に不在のままだ。それなら、見る者は自力で赤城のうちに黒田を見出し、黒田の中から赤城を浮かび上がらせるしかあるまい。しかし、それをするにしても両者は生きる時代も抱えた背景もすべてが違っている。いや、違っているだけではない。むしろ対照的でさえあるのだ。

黒田が使うのは言うまでもなく詩の言葉だ。たとえ、それが既存の詩の言葉へのうちなる違和の念から「反詩」へと傾斜していたのだとしても、そのために駆使されているのが隠喩や象徴作用といった、詩を詩たらしめるため最後まで手放すことができない唯一と言ってよい武器であることまでは変えようがなかった。


黒田喜夫(1926-1984) © 黒田喜夫/© 共和国 写真提供: ICANOF

ところが、赤城はそもそもが詩人ではない。膨大な量の写真を撮り貯めていることはたしかだが、写真家でさえないのだ。それを表現と呼ぶことが果たしてできるのだろうか。もし表現であるなら、そこにはなんらかのかたちで隠喩や象徴作用が働いているということもできるだろう。そうでないなら、そこには黒田どころか、詩との接続可能性そのものがないことになってしまう。

赤城の写真がいったいなんであるかについて、ごく一般的に考えれば、それは記録ということになるだろう。赤城がそれに着手したのは、東日本大震災後、彼と彼の家族が住む福島市内が、東京電力福島第一原子力発電所から拡散された放射性物質によって汚染され、みずからの決断で家族をその外へと避難させたことがきっかけだった。それなのに、家計を支える仕事のため、家族を置いて自分だけはひとり市内へと通うことになった赤城にとって、見知っているはずの身のまわりが日々変貌していく様は、どうしても記録に残しておかなければならない異様な出来事に感じられたのだろう。


上:赤城修司「2012年2月20日」 下:同「2015年1月24日」 写真提供: ICANOF

 だから、赤城の写真には現実を即物的に捉える冷徹さこそあっても、見る者の解釈を自由に拡大させてくれるような隠喩や象徴性の余地はほとんど存在していない。たしかに赤城は、自身の写真をツイッターで発信してきたから、そこにはごくわずかとはいえ言葉が添えられてきた。しかし、言葉を通じてそのような解釈が発生しそうな「余地」が出てきた場合には、赤城自身が機会あるごとに語ってきたように、「写真は場面の切り取り方でどのようにも写るので、これはあくまで僕の主観の中で切り取られた偏ったものだと考えてください」と念を押すことで、言葉が恣意的な振る舞いをしてしまうことを制御してきた。

けれども詩にとっては、そのような振る舞いが起こる「余地」こそが重要なはずだ。言葉をめぐる余韻が誰のものでもなく、作者のものでさえなく、読み手と作り手とのあいだに巻き起こる、非占有の所属なき振る舞いであるからこそ、詩は詩のための力を持つのではなかったか。それを赤城は、記録が記録であることを担保するために「主観」の産物と断定するのだ。いかなる記録も誰かの手でなされる限り、引き剥がしがたく特定の偏向性を持たざるをえない――それがゆえに初めて記録たり得ることを強調するかのように。しかしこれでは、黒田との距離は開くばかりだ。その意味では、この展覧会で黒田の名が召喚されながら、実際にはまったくの不在であることは、企てとしてはさておき、展覧会を見るかぎりまったく正しい。

ところが、東日本大震災からの時の経過が、この「正しさ」に亀裂を入れた。展覧会のパンフレットのために赤城が書いた「八戸での展示に寄せて」を読むと、そのことがよくわかる。展覧会が開催された8月は、これらの膨大な量の写真をめぐって、それらの持つ意味が、赤城自身にとっても容易には頭の整理ができないくらい大きな変化が起こった春以降、最初にして過去最大の発表機会になっていたのだ。赤城は書いている。

「この4月から、生活が激しく変化した。自主避難を5年間続けていた家族が、福島市の自宅に戻ってきた。僕が仕事から帰宅すると配偶者がご飯を作っている。次女がテーブルで宿題をやっている。(中略)とてもじゃないが、写真のことを考えたり、ツイートに添える言葉を考えたり、自分の街が歴史上どういう位置にあるかを考えるような気分にはなれない。」(June 2016, by Shuji Akagi)

これは、これまで赤城が周到に行ってきた写真の記録性をめぐる意味付けが、根本的に解決の難しい矛盾を抱えることになった事態への自己表明であろう。もともと赤城の写真が記録性を重んじていたのは、彼自身が述懐するように、「家族がいなくなったあとの街の傷跡を撮ることは、家族の避難を正当化する行為でもあった」からだ。だからこそ、それは表現ではなく記録でなければならなかった。しかし、家族とともに元の家に戻ったいま、もしそのような動機を保とうとすれば、家族を戻したということは、直ちに福島をめぐる汚染の問題が消えたことを意味せざるを得ず、それなら撮影も原理的には終了しなくてはならない。論理的にはそうなのだが、しかしこれで撮影が終わったかといえば、実際にはまったく終わらなかったのだ。赤城の撮影は今なお続いている。つまり、それはもはや「家族の避難を正当化する行為」としての記録ではなくなっている。いや、もしかするとそれは、とっくのむかしからそのような「記録」ではなくなっていたかもしれないのだ。


「赤城修司+黒田喜夫——種差デコンタ2016」展示風景(2F) © ICANOF

 けれども、だからといって赤城は、それは最初から「表現」であったのかもしれないと、辻褄合わせのために軌道修正することもしない。それどころか、「家族の帰還は、僕の活動を矛盾化して無効化してしまうような気がしている」とまで語り、あくまで写真ではなく自分のほうを追い詰めるのだ。矛盾はともかく、35万枚を超えて撮り貯めた活動の意味と持続を「無効化」とは、たいへん強い表現というほかない。しかしこの時、まさにこの瞬間、赤城による撮影理由の不在の場を埋めるかのように、黒田喜夫の存在が堰を切って展覧会場になだれ込んでくるような気が、私にはする。それは黒田の詩が、言葉による表現としてどうこう言う以前に、ほかでもない、言葉が自分の言葉として発せられることそのものが孕まざるをえない矛盾と無効化から書き綴られていたからにほかならない。それを黒田に倣って「反詩」と呼ぶのもよいが、しかし赤城のことも射程に、両者のあいだを埋める言葉や写真の「余地」や「振る舞い」の性質にまで思いをめぐらせれば、それはむしろ「非記録性=非表現』としての「非詩」と呼ばれるべきものかもしれない。「反」ではなく「非」とするのは、それが意思の産物ではなく、持って生まれた、あるいは意図に反して投げ込まれた宿命のように感じるからだ。
 
そしてその時、黒田による詩「空想のゲリラ」が、赤城の姿を鏡のように映し出す。黒田による別の詩「蒼ざめたる牛--わが暗殺志向」には、「暗殺」のための武器として「我々の文学的発想に毒されている」ことのない凶器として、「ツヅボウ」ないしは「ツチボウ」と呼ばれる奇妙な物体が示される。そしてこの「土棒」こそが、赤城にとってのガイガーカウンターなのではあるまいか。


『燃えるキリン  黒田喜夫 詩文撰』(共和国、2016年)より

私は赤城がガイガーカウンターを身に付けていない姿を見たことがない。そして、なにか気になる土があると、まるで早撃ちのガンマンのように、それをさっと地に向けて数値を読み上げるのだ。そのことを思う時、黒田の詩が、ことあるごとにガイガーカウンターという「ツチボウ」を地にあて、家とも古里とも判別のつかなくなった自己矛盾と行為無為化の汚染地帯を、あてどなく歩き続ける赤城その人の姿を写し取った像でもありうると気づくのだ。

もう何日も
おれはひとりで道を歩きつづけた
背中にななめに一丁の銃をせおって
道は曲がりくねって
見知らぬ村から村へとつづいていた
だがその向うになじみ深いひとつの村があるのだ
そこにおれはかえる
かえらねばならぬ
(中略)
ここは何処なのだ
この道は何処へ行くのだ
おしえてくれ
答えろ
おれは背中から銃をおろし
構えてつめよった
だが銃はばかに軽い
と ああしまった
おれは手に三尺ばかりの棒きれをつかんでいるにすぎない

黒田喜夫「空想のゲリラ」(1955年)(*1)

そこでは、もはや銃は銃ではなかった。としたら、やはりカメラもまた記録のための武器ではなかったのだ。そのかわりに赤城が摑んでいた「三尺ばかりの棒きれ」とは、やはり。地中に埋められたカリオキバの居場所を測って目視するための、本来の機能を外れ、その無意味を三尺にまで引き伸ばされたガイガーカウンターそのものではなかったか。カメラは、あくまでその延長線上にある。そんなしろものを、もう記録と呼ぶことはできそうにない。ましてや、主観の産物などでは済まされまい。それどころか赤城そのひとが、いつのまにかもうひとりの黒田であり、彼の言うところの「空想のゲリラ」へと化けていたのではなかったか。(続く


1. 『燃えるキリン  黒田喜夫 詩文撰』(共和国、2016年)より。同書は初出紙誌を底本に編まれた。

「赤城修司+黒田喜夫——種差デコンタ2016」展は、八戸市美術館にて2016年8月26日~9月11日の会期で開催された。なお黒田については、『現代詩手帖』11月号で特集「黒田喜夫と東北」が組まれている。

著者近況:キュレーターのひとりとして参加した釜山ビエンナーレ2016の「プロジェクト1」展(2016年11月30日まで開催中)について、東京での報告会を予定。

「直近報告・釜山ビエンナーレ2016、プロジェクト 1」
日時:2016年11月18日(金)
場所:ワタリウム美術館
http://www.watarium.co.jp/exhibition/1608paik/event1608/reborn_koria_talk.pdf

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