椹木野衣 美術と時評 72:2017年回視 — 芸術祭の「品評」から離れて

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EVERYDAY HOLIDAY SQUAD「rode work」、2017年(「リボーン・アート・フェスティバル2017」より、SIDE COREが企画した「RODE WORK」での展示風景、宮城県石巻市魚町)
画像提供:SIDE CORE 撮影:後藤秀二

今年も前年に続き日本全国各所で驚くほど多くの「芸術祭」が開かれた。そのすべてに足を運べたわけではないが、個々の事例について感じたことをこの場を借りて述べることで、今年の国内の美術を回顧する試みの一端としたい。

ここで取り上げるのは(実際に見ることができた順に)「リボーンアート・フェスティバル2017」(会期7/22–9/10)「札幌国際芸術祭2017」(8/6–10/1)、「ヨコハマトリエンナーレ2017」(8/4-11/5)の3つである。ほかに見た芸術祭もあるが、問題を集約するため、ここではこの3つに集約する。

最初に注目したいのは、3つの「芸術祭」が、内容からすればどれも「国際美術展」であるにもかかわらず、それぞれ「フェスティバル」「芸術祭」「トリエンナーレ」と呼称の点で微妙に食い違っていることである。その理由はなんだろう。

国際美術展をめぐるこの名称の分岐は、近年の日本における芸術祭事業のきっかけを作ったと言える2000~2001年の時点から始まっていた。具体的にはまず2000年に、新潟県の「越後妻有」(十日町市、津南町)で「大地の芸術祭」が開催され、ついで翌年、満を持して第一回「横浜トリエンナーレ」が開幕した。そのことに立ち返って考えると、後者は西欧で盛んになったビエンナーレ、トリエンナーレ形式を踏襲する国際様式の本格的な美術展を日本でも開催しようとする意図が強調されているのに対し、前者ではタイトルに「大地の芸術祭 越後妻有トリエンナーレ」とあるように、「芸術祭」のほうが「トリエンナーレ」よりも言葉として前に押し出されており、それこそ「地」に足のついた国際美術展のあり方を探るところから出発しようとしていたことがわかる。そのため、必要な財源の確保も含め、おのずと呼称のあり方(「祭り」なのか「トリエンナーレ」なのか)も「大地の芸術祭」へと定着していったものと思われる。

つまり、日本における「芸術祭」元年を飾った2つの大規模な催しが持つこの対照性はそのまま、都市(国際性)と土地(土着性)というまったく異なる性質を最初から帯びていたことになる。前者の延長線で考えることができるのが、2010年から始まり、名古屋というやはり大都市を開催の芯に据える「あいちトリエンナーレ」であり、後者の延長線で考えることができるのがやはり2010年から始まり、香川県と岡山県のあいだに散らばる過疎の島々を連携して会場とした「瀬戸内国際芸術祭」である。ちなみに、ここに「横浜でのトリエンナーレ」の初回アーティスティック・ディレクターに名を連ね、愛知でのトリエンナーレ展でやはり最初の芸術監督を務めたのは建畠晢で、過疎の山村や島々を舞台とする「芸術祭」の総合ディレクターを一貫して務めるのが北川フラムであるという対照性も付記しておく必要があるだろう。建畠は今年、京都で開催され、二条城が会場となったことで話題となった「東アジア文化都市2017京都 アジア回廊 現代美術展」(8/19–10/15)(*1)でもアーティスティック・ディレクターを務めているから、典型的な都市型芸術祭のディレクターと考えることができる。この点で北川と建畠は芸術祭に向かう姿勢の点で大きな違いがある。

いずれにせよ、こうして日本の芸術祭を「都市か土地か」の二面性から考えると、その後からさかんに開催されるようになった国内の主要な芸術祭のいずれもが、おおむねどちらかの特徴を備えていることがわかる。前者に該当するのが昨年、第一回が開催された「さいたまトリエンナーレ」や「岡山芸術交流」、そして2014年から始まった「札幌国際芸術祭」などであり、後者に当たるのが「さいたま」と同じく2016年に開催され、今後の継続が決定している「KENPOKU ART茨城県北芸術祭」や、やはり北川がディレクターを務め、今年の初回を迎えた「北アルプス芸術祭」や「奥能登国際芸術祭」などということになるだろう(ただし、他に大分県別府市で2009年から15年にかけて開かれた都市型の芸術祭「混浴温泉世界」を母体に、現在は「in BEPPU」と称して毎年1アーティストに絞って秋に開催する例外的な形態の芸術祭もある)。

この対照性について、別の側面からも考えてみよう。現代の基幹都市が必然的に要求される国際性を打ち出す都市型の「トリエンナーレ」(という芸術祭)は、建前から言っても内なる地域振興に留まらない外への発信を求められているから、いきおいテーマ性(メッセージ)が重視されることになる。他方、都市とは逆に土着性が基盤となる「芸術祭」では、なにを置いても地域振興が重視される。ゆえに世界の美術界に向けてのコンセプチュアルなメッセージの発信は、西欧の大規模国際現代美術展のようなかたちでは必要とされていない。実際、北川がディレクターを務める一連の芸術祭では、「大地の芸術祭」や「瀬戸内国際芸術祭」のいずれにおいても、そのような一回ごとのタイトルは見られない。「大地」(里山)や「瀬戸内」(内海)そのものがコンセプチュアルなテーマにとって変わるだけの具体的な強さを持っているので、屋上屋を重ねても仕方がないからだ。他方、都市圏での芸術祭の場合、「ヨコハマ」「あいち」「札幌」「さいたま」だけでは記号のような役割しか果たさないので、それとは別にタイトルがどうしても必要なものとなる。


宇治野宗輝「プライウッド新地」、2017年(「ヨコハマトリエンナーレ2017」展示風景、横浜レンガ倉庫) 画像提供:筆者

これらの枠組みをから、今年の芸術祭について振り返ってみよう。まず、「ヨコハマトリエンナーレ2017」(以下、ヨコハマ)や「札幌国際芸術祭2017」(以下、札幌)が——後者は「芸術祭」と名乗っているけれども——都市型の国際現代美術展であることは言うまでもない。したがって、そこではおのずとタイトルが求められることになる。今回はヨコハマが「島と星座とガラパゴス」(コ・ディレクター=三木あき子、逢坂恵理子、柏木智雄)、札幌が「芸術祭ってなんだ?」(ゲストディレクター=大友良英)であったが、個別の展示では優れた作品に出会うことができた一方、ではタイトルに沿ってなにかを考える機会になったかというと、端的に言ってそれは困難であり、むしろ個々の展示との関係をわかりにくくしているように思われた。そのせいだろうか。後者ではサブタイトル「ガラクタの星座たち」(こちらのほうがタイトルにふさわしかったように思われる)が加えられ、奇しくも「ヨコハマ」と「星座」がかぶることになった。むろん申し合わせたはずもなく、言ってみれば「星座」というのは、ひとつのタイトルで大規模芸術祭を括ろうとするとき、おのずと浮上する苦肉の便利な魔法の言葉なのかもしれない。


「アウトオブトリエンナーレ《盜賊たちのるなぱあく》」会場風景、2017年(横浜寿町労働センター跡地、8/3〜9/17。芝居公演「​もうひとつの この丗のような夢」は9/1〜5、9/13〜17開催) これらはヨコハマトリエンナーレ2017の「ヨコハマプログラム」に参画する形をとった。 画像提供:水族館劇場

それと関連して私が感じたのは、ヨコハマが「島と星座とガラパゴス」(その意味は『「接続性」と「孤立」から世界のいまをどう考えるか?』とされている)をより明快にトリエナーレ全体に浸透させ、見る者に発見・思考してもらうには、横浜美術館や横浜赤レンガ倉庫で展示の大部分が完結してしまうのは(「孤立」はともかく)「接続」という点で肝心のテーマとの齟齬をきたしていたのではなないかということだ。それならば、せっかく同時期に「黄金町バザール2017 –Double Façade 他者と出会うための複数の方法」や、寿町総合労働福祉会館建て替え予定地で「アウトオブトリエンナーレ 盗賊たちのるなぱあく」展(水族館劇場による芝居公演「もうひとつの この丗のような夢 ―寿町最終未完成版―」に併設)といった、横浜という大都市ならではの難しい問題を抱え、それこそ外部との「接続」を求めて「孤立」している場で開催されている貴重なプログラムがあったのだから、正規の企画に組み込むのが難しくても、より密に連携や周知を進め、せめて会場で手渡しされるガイドブックで「参考ルート」に組み込むなどすれば、タイトルをより際立たせ、もっと生かすことができたのではないだろうか。とりわけ後者の水族館劇場、および「アウトオブトリエンナーレ」は、会期中に横浜に足を運んでも知らずに帰った者も少なくないと聞く。個人的には、この時期に横浜で見たプログラムのうち最も刺激的であっただけに、惜しいというしかない。

ここまで読んできた方は、私が芸術祭の中身そのものにはほとんど触れていないことにすでにお気付きのことだろう。むろん、あえてそうしている。乱立という揶揄さえ耳にする現在の芸術祭をめぐる状況について、どの芸術祭がよかったとか、どの展示がよかったとか悪かったとかいう次元で批評しても、ほとんど意味がないのは明らかだからだ。成否の鍵は、むしろその成り立ちにおいて都市型(国際性)なのか土地型(土着性)なのか、なぜ前者はタイトルを必要とし、後者は必要でないのか、またそれゆえ前者のタイトル設定が多くの場合なぜ空転し、後者は土地の名そのものがそれにとって代わりうるのかにあるのであって、その点を原理的に考察しない限り、一連の芸術祭の批評は、今後もおおむね似たような恣意的な「品評」に終始するだけなのではないか。


パルコキノシタ「海の帰還」、2017年、200×1,000cm(リボーン・アート・フェスティバル2017での展示風景、石巻市立荻浜小学校) 撮影:筆者

その意味でも、石巻の市街地と先の大震災による大規模津波被災区域、そして震源となった海域に日本列島でもっとも近い牡鹿半島に及ぶ広域で開催された「リボーンアート・フェスティバル2017」(以下、リボーン)について、急いで触れておかなければならない。先に日本の芸術祭は2000〜2001年以降、大きく2つの系列に沿って開催されてきたと書いたが、リボーンは「トリエンナーレ」とも「芸術祭」とも名乗らず、あえて「フェスティバル」と称している。そのことからもわかるように、第一にリボーンは、それらの系列から外れる別の大規模芸術祭の新たな試みという点で注目に値する。まず、開催地に当たる宮城県や石巻市は、共催者ではあるものの事業の主体ではない。主催はReborn-Art Festival実行委員会と一般社団法人APバンクである。つまり、ほぼ純然たる民間主導の芸術祭なのである。ここで数多く名を上げてきた芸術祭が(様々な程度の差があるとはいえ)基本的にすべて公共事業ベースであることを考えた時、これはかなり異例のことだ。

異例という点で言えば、リボーンはあまりにも多くの人が亡くなった慰霊の地(石巻市では死者、行方不明者、および震災関連死も含めると4000人近い犠牲者が出ている)で行われた芸術祭という点でも他に例を見ない。さらに実行委員長のひとりで実質的な中心人物(=制作委員長)である小林武史は元来、音楽プロデューサーであり、他の芸術祭がそうであるような現代美術の専門家ではない(そのぶんワタリウム美術館の和多利恵津子と浩一が実質的なキュレーターとして支えたわけだが、それにしても民間の美術館であることに変わりはない)(*2)。こうしてリボーンはいわば、民間主導、大規模被災地、美術専門外という例外的な要素を三重に抱えた芸術祭であったことになる。


大友良英+青山泰知+伊藤隆之「(with) without records」、2017年
(札幌国際芸術祭2017での展示風景、モエレ沼公園) 撮影:筆者

もっとも、音楽家がディレクターを務めるという点では、第一回から坂本龍一をゲストディレクターに据え、今年開催の第二回でも同様に大友を抜擢した札幌の方が早んじている。今年はつまり、音楽家(音楽プロデューサー)が企画の中心人物を務める芸術祭がほぼ同時期に、北の拠点となる大都市と復興の途上にある大規模被災地で、一方は公共事業として、他方は民間主導として行われたことになる。

2つの芸術祭に共通しているのは、音楽の世界ではもう随分前から「フェス」が盛んなことからもわかるように(リボーンが「フェスティバル」と名乗ったのはそのためだろう)、それまで行われてきた美術の専門家たちによる国際現代美術展としての芸術祭の枠を、音楽の祝祭性や即興性が持つ仮設性やかたちのなさ、アンサンブルの自由度から柔軟に組み立て直そうとした試みにあり、またその点で注目に値する。ただし、いわゆるロック・フェスティバルと違い、会期が数ヶ月に及ぶ芸術祭をアドリブ性を含めてハンドリングしていくには当然、音楽の現場とは本質的に異なる様々な困難が予想される。そうした困難との直面の中、神出鬼没の即興的なイベントが長期間にわたって継続し、多くのサプライズな音楽家たちが東京から飛び入りに近いかたちで登場し、住民が漁船を自前で出す自主ツアーなどの非正規プログラムも許容し、芸術祭終了後も被災者達が自主運営するプログラムの継続的な展望にまでつながった点において、大友が「札幌」で投げかけた「芸術祭ってなんだ?」という従来の芸術祭やトリエンナーレへの批評的な異議申し立ては、本質的にはむしろ小林の組織したリボーンの方で生きていたように思う。


1. 二条城を主会場とする「アジア回廊 現代美術展」には、残念ながら今年見た「芸術祭」の中でもっとも落胆させられた。二条城で現代美術を展示するという画期的な機会にもかかわらず、展示は二条城の敷地を借りて作品を設置するというだけの域を出ず、作家や作品を束ねるキュレーションならではの示唆を見出すこともできなかった。加えて(私が行った日だけがそうであったのかわからないが)理由のわからないまま複数の主要作品が展覧中止となっており、これらは見ること自体ができなかった。もうひとつの会場である京都芸術センターで中原浩大が幼少期の図画を複数の部屋にわたってびっしりと並べた(小学校跡地ゆえの)展示で、多少なりとも溜飲は下がったが。
2. その後、ワタリウム美術館は「リボーン・アート・フェスティバル 東京展」を開催(2017年10月20日〜12月30日)。

著者近況:12月15日、NADiff a/p/a/r/t(東京)でのトークイベント「EVENINGS #後美術から震美術へ、そしてこれからの話を。」に岩渕貞哉(『美術手帖』編集長)と登壇予定。詳細は以下。

NADiff EVENINGS #後美術から震美術へ、そしてこれからの話を。

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