24・25:非感性的類似の世界 — 松田啓佑のペインティング

2012年3月28日

Keisuka Matsuda Untitled 2008 All images: Courtesy the artist.

初めて見る画家の個性を、我々は不可避的に何らかの「上手さ」の基準で測る。それはたいてい絵画の技巧の基準であり、または絵画の歴史についての知識の基準である。前者に拠った人は、独特の技巧を駆使した工芸的絵画や、油絵を知りつくした者だけに可能な美しい抽象画に反応し、後者に拠った人は画面に描かれたものの背後に過去の作家や美術史を読みとろうとするだろう。「上手さ」は解りやすさでもある。それは絵の中味を保証する。「上手い」画家たちが基本的に解りやすいのは、「この絵であなたは何をしているのか?」という質問にとりあえず答えられるからだ。美しい抽象画なら「気分や雰囲気を表している」「純粋にストロークと色彩の美を表現するのみで意味はない」、コンセプチュアルな絵画なら「〜〜の作品を参照している」「イリュージョンが成立する条件について」・・などと応じられるわけである。

技巧駆使の工芸的絵画の場合はどうか。例えば、密集した線描によって髪の毛一本一本まで描き出された女の絵。そこに人が認めるのは作家の偏執的な描画技法であって、女という具象ではない(*1) 。「これは何を描いた絵か?」と聞かれ「女です」と答えるのはナンセンスであろう。つまりそれは具象画ではない。技法こそが作家のアイデンティティを構成し、「何を」は二次的なはずだからである。もちろん、技法と対象は切り離せないと言えるだろうが、女の髪を描くために細密技法が要請されたのではなく、反対に、細密技法のために女という対象が選択されたに過ぎない。この手の工芸絵画の中味は技法から生まれる特定のエフェクトであって、実は描かれたものそれ自体ではないのだ。

基準で測れる「上手い」画家が退屈であるのは、「上手さ」のせいで「絵」そのものがどこかへ行ってしまうからだ。言いかえれば、「この絵は何を描いた絵か?」という問いに対して、彼らは、絵画そのものではなく、作者のコンセプトや技法へと迂回した形でしか(あるいは自明のナンセンスでしか)答えられない:「私は、〜〜を(美を、コンセプトを、エフェクトを)表現する」というふうに。


Keisuka Matsuda Untitled 2009

上手くて解りやすい絵に飽き飽きした人に、私は松田啓佑(*2) を薦めよう。松田作品は、我々が絵の上手さの判断基準とするような美点を見事に欠いている。粗雑な支持体、油画初心者のような絵の具扱い、技法への極端な無関心、記号化した形象群 —それを具象画と見なすにせよ、抽象画と見なすにせよ、寝そべる海鼠(?)、古代のビーナス(?)、バナナ(?)、直腸(?)・・に見えなくもないが、結局は意味不明の形態の連続に人は笑い出してしまうだろうし、独特の濁った色使い、力強いストロークや絵の具の撥ねが見られるとはいえ、それらは自律した絵画平面を構成する意志をあまりにも欠いている。馴染みの「上手さ」の基準は、松田作品では十分に機能しない。そこに彼の他に類を見ない(*3) 個性がある。では、松田啓佑の作品は「何を」描いた絵か?


Keisuka Matsuda Untitled 2009


Keisuka Matsuda Untitled 2010

松田の過去3回の個展(京都eN arts, 2009, 2011, 2012)はすべて同じタイトル「WORDS LIE」をもっている。「♪言葉にすれば、嘘に染まる〜(*4) 」、ありがちなタイトルだと思い、作家に話を聞けば、答は意外なものであった。「WORDS」とは、例えば上で挙げたような画家のフォーマット「私は〜〜を表現する」のことである。つまり「描く」という行為に対して、どんな技法であろうと、何を表現していようと、「〜〜は(主格)〜〜を(対格)」という形式で表されること一切が「嘘」と断罪されているのである。

これは、自分の絵画は再現表象re-presentationではない、つまり、世界の真実の —シュールリアルな— 姿が立ち現れる、presenceの絵画だということだろうか。それも良くある議論である。しかし、いかに用語を使い分けたとしても(*5) 、結局は‘作家が’カンヴァスに‘何かを’描くのであって、その説明は苦しいのではないかと尋ねると、シュールリアルとかいうことではなく、自分はたんに世界を写しているのだと言う。松田啓佑の制作方法は驚くべきものである。アトリエで集中していると、世界と自分が圧縮されていき、ある瞬間ピタッとつぶれて自分=世界になる。次の瞬間、世界はふたたびはがれていくが、自分の中に圧着痕を残す。痕跡はいわば揮発性であって、どんどん薄れていく。それが消えないうちに、急いでそれをなぞったものが作品となる。残留時間を長引かせるために、学生時代には、とりあえずの形態(人型、顔など)を借りていたが、近年では純粋に痕跡のままカンヴァスに定着することが出来るようになった。主客の分離に先立つ「自分=世界」状態の経験、それが、自分が絵を描き続ける理由である、と。


Keisuka Matsuda Untitled 2011


Keisuka Matsuda Untitled 2012

技法に二次的な意味しかないこと、揮発性の形態を追う荒く速いストロークや縁取り、フレームを前提とするコンポジションの不在、基本的に上下左右自由な形態、カンヴァスに描いてからフレームに張るトリミング的な方法・・・松田作品の特徴は、彼の制作方法の当然の帰結である。現象学的エポケー(判断停止)か禅の悟りかというより、私はベンヤミンの子供時代の話を思い出した。かくれんぼで、隠れ処に息をひそめる少年の描写である。

(隠れている)このとき子供は物の世界の中に包み込まれている。物の世界が途方もなく露わになり、無言のまま子供に迫ってくる。[…] 戸口のカーテンの後ろに立つ子供は、自身が風に揺らめく白いものになり、幽霊になる。[…]誰かが子供を見つけてしまったら、子供は幽霊のまま永久にカーテンに織り込まれて[…]しまうかも知れない。それで子供は[…]つかまえられる瞬間まで待たずに、機先を制して自己解放の叫びをあげる。(『一方通行路』より「引き伸ばし写真;隠れ処の子供」(*6)


隠れ処で息をひそめているうち、子供は物の世界と一体化してしまう。アトリエで息をひそめる松田は、世界と一つになり、機先を制して自己解放の叫びをあげる=絵画を描くわけであろう。このような絵画はベンヤミンの他のエッセイのなかでは「象形文字」と呼ばれる。言語を覚え始めた子供が、絵に落書きする文字である。そこにも「圧縮」が姿を見せる。

そして彩色された銅版画のなかで子供の空想が、夢見るように自らのうちに沈潜していくとすれば、木版画の散文的で醒めた白黒の挿絵は、子供を自らの外に連れ出す。こうした挿絵には「これなあに?」という問いが必ずついているものなので、絵は子供の中に言葉を呼び起こす。が、「これは〜〜」と答える代わりに、子供はそれに実際に字を書きつけてしまう。絵に落書きするのである。ものを再現する彩色された面とは異なり、こうした白黒の面は言わばものを暗示するだけなので、ある種の圧縮(Verdichtung)が可能なのだ。だから子供は挿絵の中へ密着して言葉を生み出す(dichten)わけである。子供はこうした絵において言語と同時に文字を学ぶことになる。象形文字である。(「子供の本を覗く」(*7)


「この絵は、何を、描いたもの?」という「嘘」の問いに耐えられず、子供は主格(〜〜は)と対格(〜〜を)の距離を押し潰して文字を書き付ける。記号と意味が1つに潰れた文字としての象形文字が誕生し、それは文字の初源的な状態である。やがて圧縮は解け、主格と対格が2系列に分離して「〜〜は〜〜を意味する」という恒久的な対応関係に入れば、言語の体系が成立する。しかしベンヤミンが注目するのは、それ以前、記号(文字や絵)というものが生まれてくる始原的状態である。記号がその意味を記号自身の上に帯びる状態、言いかえれば、記号自身がその意味に似ている状態を、ベンヤミンは非感性的類似と呼ぶ。「非感性的」とは、色や形のように感性に訴えかける類似ではないという意味である。文字は、非感性的類似の場である。「こうして文字は、言語と並んで、非感性的な類似、非感性的な交感の記録保存庫となったのである」(「模倣の能力について」(*8) )。

とうに言語を覚え表現を覚えた大人である我々は、主客が分離した「〜〜は〜〜を」の世界(「嘘」の世界)でつねに生きている。しかし、ある瞬間に「圧縮」が生じて、始原的な未分離状態、すなわち非感性的類似が到来する。それは瞬間的にひらめいては消え去る、揮発性の類似である。

言語のもつ模倣的なもの全ては、むしろ焔に似て、ある種の担い手がある場合に限って出現する。[…]そこにおいて初めて、電光石火のごとく類似が出現する。人間による類似の創造は、多くの場合、とくに重大な場合には、突然のひらめきに結びついているからだ。この類似はたちまち消え去ってしまうものである。(「模倣の能力について」(*9)


松田作品とは世界の非感性的な模倣であり、「私=世界という状態を写した絵」なのだ。「上手い」作家たちが体系として成立した後の絵画を反復しているとすれば、松田啓佑は、それが成立する以前、絵(文字や絵)というものが発生してくる初源的状態を反復する。その絵は、「ある種の担い手」としての作家のうちに出現する「焔」である。我々は「上手い」絵画の饒舌を通り抜けて、松田作品の沈黙の前に立ち戻る。それは、人が何かを、と言い始める以前に「描く」という行為の発生現場であり、それを目にした我々は、絵画にはこんな自由もあったことを思い出すのである。


Keisuka Matsuda Untitled 2012


Keisuka Matsuda Untitled 2012


  1. 勿論、世の中には「少女」「富士山」「ヌード」「花」の絵ならなんでも好きという人種もいるが、ここは「初めて見る画家の個性」を問題としているので、除外する。

  2. 1984年生まれ、2009年京都市立芸大修士課程修了、同年アートアワードトーキョーで審査員賞(佐藤直樹)受賞。

  3. 例えばPhaidonの恒例新人カタログの一つBob Nickas Painting Abstraction: New Elements In Abstract Painting (2009)を通覧しても、松田に似た作家は本当に見あたらない。彼の作品を見てエンツォ・クッキやアーシル・ゴーキー、あるいはある種「恥ずかしさ」を通じてフィリップ・ガストンを連想した人も、それらの画集をあらためて見れば、その連想が間違いである事を悟るだろう。

  4. もんた&ブラザーズのヒット曲「ダンシング・オールナイト」(1980)の歌詞。

  5. Le figuratifに対するle figural(リオタール)など。

  6. ちくま学芸文庫『ベンヤミン・コレクション3』(浅井健二郎編訳)p.77-78。一部、ここでの文脈に合わせて意訳を加えた(以下同様)。

  7. ちくま学芸文庫『ベンヤミン・コレクション2』(浅井健二郎編訳)p.38。意味するものと意味されるものの圧縮はジャン・ジュネにも見られる。「もし王の軍旗が、疾駆する騎士に捧持されて、それだけで現れるならば、我々は感動し、脱帽するだろう、が、もし王が自らそれを手にして現れたならば、我々は只文字通り圧倒されてしまうに違いない。表徴がその表すべきもの自身に帯びられている場合に起こる圧縮は、その表徴の意味と表徴されたものとを、与えると同時に破壊し去るのである」。(ジャン・ジュネ『泥棒日記』朝吹三吉訳、新潮文庫p.307)

  8. ちくま学芸文庫『ベンヤミン・コレクション2』(浅井健二郎編訳)p.76,78-79

  9. ちくま学芸文庫『ベンヤミン・コレクション2』(浅井健二郎編訳)p. 79


※次回の掲載は5月末を予定しています。


清水穣 批評のフィールドワーク 目次

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51:墓としての写真 — 松江泰治の『JP-01 SPK』(前編)
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14/06/27 11:11
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14/05/08 17:00
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