32:写真の意味、あるいはB級ホラーの演出<1>

2013年2月4日
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「志賀理江子 螺旋海岸」会場風景 撮影:志賀理江子 画像提供:せんだいメディアテーク

写真は、光が感光物質や受光素子に残した「痕跡」である限りで、ある物理的な直接性をもつとともに、それが何の痕跡であるか(この写真は何の写真か)を写真からだけでは一義的に決定できないという、原理的な開放性をもっている。直接的でありながら開かれているというこの本質ゆえに、写真は、その意味を確定しアイデンティファイしようとする数多の言葉を誘発する。そうした言葉に対して写真は無防備であるが、反面、どれほど言葉を動員しようとも(*1)この恐るべき開放性が充填されることはない。だから、写真を作者の個人的状況や被写体を取り巻く文脈についての説明文で代替したり、写真を「語り得ぬもの」の座(*2)に押し上げた上でそれに対する思想哲学を述べたりするディスクールは、すべて言いっ放しのお喋りであって、写真自体について何も解き明かさない。

写真集や展覧会カタログに寄せられる文章の大半がこの類の、つまり批評以前の、お喋りに終始する理由は、無くても損でなく(誰の賞賛も受けず)有っても害でない(誰の非難も受けない)という処世術のほかに、そもそも写真を、つまり写真家でも被写体でもなく、写真(複数形!)自体を直視する人、紹介や説明文を読むのではなく、縦位置、横位置、正方形、順光、逆光、測光、接写、望遠、ピント、ブレ暈け、プリント、視角、構図、順序、インスタレーション、レイアウト、ブックデザイン…等々を注視する人が、驚くほど少ないからである。せんだいメディアテークの志賀理江子「螺旋海岸」展を見、レクチャー記録や各種メディアでの展評を読んで、私があらためて意識したのはそのことであった。「螺旋海岸」は良く出来た展覧会であるが、それは写真自体に基づこうとしない多くの評者の大仰な「お喋り」とは無関係にそうなのである。

基本的に写真は音楽(器楽)のように無意味である。音痴が「運命」「革命」といった題名を付けて音楽を「理解」しようとするように、写真の無意味に耐えられない写真音痴は「大震災」「被爆の風景」といったキャプションに群がる。ただしベートーヴェンの「交響曲第5番」を聴いて、本当に「運命が扉を叩いている!」と感動する者が笑って許されるのとは対照的に、一見のどかな田園風景の写真「だが、実は福島原発事故のせいでもはや人の住めなくなった土地」と聞いて胸を打たれない者(「そうですか、でもつまらない写真ですね」)には、不寛容な無視が待っている。無視されて当然、「運命」は作曲家本人の与り知らぬ後世の挿話だが、放射能汚染地域は事実として存在するのだから…という反論もあれば、しかし写真そのものに「実は放射能汚染」は写っておらず、写真自体からはその事情の真偽が判断できない以上、「だが、実は〜」の部分は写真の外からの挿話と呼ぶほかなかろう…とも言える。

「だが、実は〜」とはシュールリアリズムの定式に他ならない。眼に映る現実(リアル)がすべてではなく、実はその背後に眼に見えない現実(シュールリアル)が存在する、と。このとき写真とは、日常生活の中で曇らされた肉眼では見ることのできない、世界のあるがままの姿を写し出すメディアである。つまり写真は、世界の直接的な痕跡であるがゆえに、眼に見えず既成の概念を逃れるシュールな現実を写し出している —このようにして、シュールリアリストたちは、写真の根本にある直接性と決定不能性の分裂をとりあえず収拾したわけである(*3)

眼に見えずはっきりとアイデンティファイできない何かが写真には写っている、と。しかし、ただのパリの街角の写真が「犯行現場」に見えるためには、すなわちただの写真が「不可視の何か」を含意するためには、それが見たままの写真ではなく、そこには「何か」が在るのだということを何らかの形で示唆することが有効である。いや、本来写真には担えるべくもない意味がそこに在ると信じ込ませるためには、示唆などよりももっとダイレクトに「不可視の何か」を写真上にプリントしてしまう方が速い。こうして、様々なエフェクトを開発し使いこなすジャンルが生まれる。不可視の何か —霊(浮遊霊、地縛霊)、怨念(残留思念、殺害現場、穢れた場所)、エクトプラズム(幽体)、UFO(エイリアン、異人、異生物) — を示唆ないし写し出す写真、そのプロトタイプは心霊写真であり、ホラー映画である。

ホラー映画とは、ストーリーではなくさまざまな恐怖のエフェクト、つまり「不可視の何か」の暗示ないし表現に集中した形式的ジャンルと言える。ホラーファンとは、戦慄のエフェクトを純粋な形式として楽しむ(=恐すぎて泣き笑いする)人々なのだ。恐いエフェクト満載の画像(自作、他作、エクソシストやXファイルのスティル)はネット上のそういうファンによって「creepy photography」と呼ばれ、1つのジャンルをなしている。暗闇、血、死体、死骸…といった、ホラーならば当然の文字通りのイメージを省いて、純粋なエフェクトとしてどのようなものがあるか、「creepy photography」で画像検索した結果をいくつか整理して挙げる。



*流れる光や水(エクトプラズム、幽体、正体不明の光、血、体液など)




*部分的身体(切り離された手、ありえない箇所で突出する身体部位)


左:*暗闇から浮かびあがる(全体を把握させない効果) 右:*正体不明の物体、死体(エイリアン)


*ミステリーサークル(自然の中の幾何学図形)


*空中浮遊

こうしたエフェクトの形式的な反復だけで出来ているホラーをB級ホラーと呼ぶ(*4)。読者も既にお気づきのように、志賀理江子の写真はB級ホラーである —と言うか、それは笑ってしまうほどにあからさまなので、私は志賀理江子の写真が受けているのはその理由によると信じて疑わなかったのだが。(この項続く


  1. 被写体の説明、制作に到る過程、撮影と現像の方法およびプロセスの説明、被写体とのコラボレーションや撮影場所でのフィールドワーク、作者の写真論、写真業界についての考え、インスパイアされた著作…等々。いつまでも、いくらでも、写真を迂回し続けるのである。

  2. 「盲目」「非在」「空虚」「死」などというバリエーションもある。

  3. この収拾の果実が「ドキュメンタリー」というジャンルであった。従って「螺旋海岸」がドキュメンタリーではないと言いつのりつつ、あたかも被災地ドキュメンタリーであるかのような立場を手放さないのも当然のことである。別の言い方をすれば、シュールリアリズム、ドキュメンタリーが形骸化・通俗化した姿が心霊写真でありホラー映画なのである。

  4. ということは、A級ホラーとは、こうしたエフェクトの一切を欠いてなお戦慄させる映画のことだろう(しかしそれをホラー映画と呼ぶのだろうか)。




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