55(最終回):インヴェンション — 松田啓佑「stabilization 3」@eN arts

2015年4月17日

Keisuke Matsuda Untitled, 2015

「モノの秘密は、それらの表現つまり表象的な形態にあるのではなくて、反対に、それらの圧縮と、変形(メタモルフォーズ)のサイクルのなかへの拡散にある。実際、表象作用という罠から逃れるためには、二つの方法がある。[…] 二つ目(の方法)は、単に表象の世界を後にして、表象を読んだり解釈したり解読しようとせず意味と反意味の批判的暴力を忘れ去って、モノが出現するマトリクスのなかへ回帰することだ。そこではモノはその現存(プレザンス)のままに姿を見せる、ただしその形態は、多彩なスペクトルをもつ変形(メタモルフォーズ)を受けて多種多様であるが。」
(Jean Baudrillard Le Complot de l’art, Paris, Sens & Tonka, 1997, p.45)

「Words Lie」「Straightforward」というタイトルの下に展開されてきた松田啓佑の作品は、「〜は、〜を」という主格対格の分裂(=words lie)に先立つ世界の「非感性的類似」として生まれる形態を、できるだけ直截的に(=straightforward)表出したものであった(本コラム第24+25回参照)。非感性的に松田の上へ刻印されたそれらの形態は揮発性ですぐに消えてしまうので、最初期にはその形態を容れる仮の器として人型や顔型が採用されていた。やがて形態をそのまま取り出せるようになったが、重要なのは形態であって構成や画面ではなかったから、木枠に張らないカンヴァスに描き(形態が描かれた後にフレームをあてる)、さらにカンヴァスの裏に描く時期が続いた(無理に余白を塗りつぶしたり、地を意識しなくて済む)。


左:Untitled (2008), 右:Untitled (2010)


2つとも Untitled (2013)  

しかし2013年末に開始された「stabilization」という新シリーズには、興味深い進展が見られる。作家は、形態をただ純粋に表出するだけの段階から、それを絵画として成立させる段階へ移動した。キーワードは「変形」である。形態を、余白の関係、地と形態の色彩関係を見定めながら「変形」して、特定の画面上へ一気に定着させる(=stabilization)のである。


左:Untitled (2013), 右:Untitled (2014)  

さて、ジョン・ケージ風に「I have nothing to paint and I am painting it」と呟けば、松田啓佑以外の大多数の画家は頷くだろう。逆に、松田は「things to paint」を持っている希有な画家の一人ということになる。

「この絵は(主格)何を(対格)表象しているのか?」— この問いに答えられるならば、それは意味するもの(主格)と意味されるもの(対格)が組み合って出来ている表象システムに回収されるということである。「I have nothing to paint」を理解することなく、相変わらず何か(風景、人物、静物といった具象;観念、感情、雰囲気といった抽象)を描くような画家は「キッチュ」であり、体系に安定回収される。それに対して、「描くべきものはない」ことを踏まえて、だから絵画が描くべきものは絵画自体(そのアイデンティティ、本質)だけだという画家は「アヴァンギャルド」であり、それは、主格と対格を圧縮(絵画は=絵画を)することによって、表象システムに回収されない閉域としての外部性(絵画自体)を表出する。
言い換えれば「アヴァンギャルド」は、「表象システムとその外部」すなわち「二系列の対応で出来たシステムvs.その外部」という構図に基づいている。通常の現実(表象システムが構成する現実)vs.シュールな現実(表象システムの外部)という構図である。

「アヴァンギャルド」な抽象絵画は、60年代から70年代にかけて衰退していくが、その根本的な理由は、シュールリアルな外部性こそを商品化することで回転し続ける社会の到来、すなわち、ほぼ同時代にジャン・ボードリヤールが理論化した「ハイパーリアリティ=hyper reality」ないし「インテグラルな現実=integral reality」の出現にあった。それは、外部性そのものがコマーシャルな情報メディア産業によって表象システムに統合された(インテグレート)ということであり、現前性の思考(「偽りの表象の彼方に真のリアルが立ち現れる!」)そのものの失効である。だからハイパーリアリティを構成するものは、もはや表象(リ・プレゼンテーション=再・現前;オリジナルのコピー)ではなく「シミュラークル」と呼ばれる。「キッチュ」も「アヴァンギャルド」も、「外部」も「リアル」も、すべてはシミュラークルにすぎない。


2点とも Untitled, 2015

シミュラークルだけが無限循環する我々の現実世界は「インテグラル」なものであるから、その「外部」を志向すること自体が、シミュラークルに逆戻りする道である(=表象作用という罠)。ではハイパーリアリティの「外」はないのか? 芸術は、シミュラークルの順列組み合わせに尽きてしまうのか? この点において、面白いことにまるで中平卓馬のような言葉遣いで、ボードリヤールはシミュラークル世界の「外」を「ラディカルな幻想」として肯定する。『Le Complot de l’art』からいくつか引用しよう :

「自分の不在を世界から受け取るとき、モノが出現する…」
「撮影するとき、私は真実としてではなくて、形態としての言語を用いている。」
「形態だけが価値を無効に出来る。[…] 価値の交換に対抗できるものは、形態しかない。形態は変形(メタモルフォーズ)という観念なしには考えられない。」
「私が保守的でないのはその点においてです、つまり私は「リアルなモノ」へと退行したいわけではないのです。[…] 真実が存在しないように、リアルなモノなど存在しないことは承知していますが、ある種の絶対者というか神の審判の眼差しを通して、私は「リアルなモノ」への欲望を保持しています。」
(*1)

美術史で良く知られているように、70年代という「表象」批判 —繰りかえせばこれは偽りの表象の批判ではなく、表象の彼方の現前性の批判である— の時代に、表象作用を前提せずに現実の世界と直接結びつく別種の記号が注目された。その記号「インデクス」は、意味や価値の体系を経ることなく、物理的に直に接触することで生じるとともに、その記号内容がオープンであるような記号である。言い換えれば、インデクスは、システムに従属することなく現実と結びつくことができると同時に、無限に内容が自由な形態を可能にしてくれる。ボードリヤールが述べる、「価値の体系に対抗できる」「形態としての言語」とはインデクス記号のことであろう。彼はここで写真家として発言しているのであり、インデクス記号と見なせる好例としてC.S.パースが挙げていたのも写真(スナップ写真)であった。冒頭に引用した奇妙な言い回しの文章も、フレームで切り取ることによって所与の現実を「変形」し、「多様な形態」だけになった写真のこととして読むことができる。




すべて Untitled, 2015


シミュラークルをシニカルに反復するだけで満足しない画家たちは、ごく凡庸なシミュラークルから出発して、その内から「形態」すなわち「リアルな絵画」を発生させようとする(*2)。しかし、ボードリヤールの言う「形態」は最後に出現するのではなく、インデクスとして、つまり表象作用を通過しないダイレクトな痕跡として最初から存在しているものである。松田啓佑の「things to paint」もまたこのような痕跡であり、目下、松田はその形態を変形して一つの絵画として定着し始めたところなのだ。数本の線と色で出来た形態がカンヴァスの矩形のなかに浮遊しているような大胆にして単純な構成を見れば、作家が、インデクスを絵画へと変形・定着するプロセスのごく最初の段階にいることは明らかである。音楽に例えれば、たった二声で出来たインヴェンションのような。だが、キッチュな具象絵画やゾンビ−・フォーマリズム(*3)の抽象絵画 —超絶技巧のロマン派音楽— に比べれば、このインヴェンションの何という軽やかさだろう。


2014年、トーキョーワンダーサイトでの個展(「TWS-Emerging 2014|216 松田啓佑)
© Tokyo Wonder Site. Photo:加藤健


                   *

4年半にわたって連載してきた「批評のフィールドワーク」も今回で最後です。日本語英語を合わせておそらく100人ほどと思われる本コラム読者の皆様には、これまでお付き合い有り難うございました。ジャーナリズムとアカデミズムのあいだで、批評の居場所は狭くなる一方ですが、またどこかでお会いしましょう。


1. Jean Baudrillard Le Complot de l’art , Paris: Sens & Tonka, 1997. それぞれp.115、116、116、118。
2. 例えば、貧乏揺すりのような線描の自己運動や、レディメイドの記号の反復から出発する法貴信也。本コラム第8回参照。
3. Walter Robinsonによる去年(2014年)の流行語。言い得て妙。検索すればいくつも記事が見つかるので参照されたし。
Walter Robinson, "Flipping and the Rise of Zombie Formalism", Artspace, 2014
Jerry Saltz, "Zombies on the Walls: Why Does So Much New Abstraction Look the Same?", New York Magazine, 2014
ゾンビ−・フォーマリズムの抽象が絵の具の染みや擦れや塗りを強調する点で笑止なほど画一的であるのは、それがインデクス(=痕跡)を模したシミュラークル絵画である事による。

※松田啓佑「STABILIZATION 3」展は2015年3月1日から29日まで、eN arts(京都)で開催された。



〈編集部より〉2009年10月に開始された当連載は、今回をもって最終回となります。常に幅広い視野から刺激的な論考を寄せてくださった清水氏に、編集部一同、心より感謝致します。また、ご愛読頂いた読者各位にも御礼申し上げます。ありがとうございました。

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