マシュー・バーニーを解放せよ!


Photo illustration by ART iT.

先日、マンハッタンのダウンタウンにあるアート系のミニ・シアターで、マシュー・バーニーの『クレマスター』シリーズの5作全てが一般公開された。この映画マラソンを最後まで観たいという気持ちと、この冒険的な体験にかけるべき時間を天秤にかけていたら、新聞の映画上映情報欄にある奇妙な文言に気付いた。情報欄に示された曖昧な「ライセンス許可」という略記には,『クレマスター』は他にある映画作品とは異なり、絶対にDVDや他の形で大衆向けに一般販売されることはないという事実をもっともらしく言い繕い、それがどういうことかを解明することは時間の無駄という意味合いが込められていたのだ。そこで初めて私には、「クレマスター」の配給を巡る状況は、近代美術史において、最も損害が多く、無意味な大失敗のように思えてきた。

最も損害が多いというのはどういう意味か?観客となりうる我々の大半にとって、DVDが販売されないのは恐らく非現実的で、絶対に不便なのだが、DVD販売という取引で一体、誰がどう損をするというのだろう?それに答えるためにはバーニーの熱狂的なファン(私はそうではないが、数人そういう人物を知っている)の気持ちになり、さらに議論をするためには1994年から2002年に段階的にリリースされたこの7時間の大作が最高傑作であるという前提に立つ必要がある。最高傑作であるならば、今後、何十年かのうちに、その重要性は増し、需要も増えるだろう。また同時に美術史が書籍として出版され、学校でも授業のカリキュラムの作成、美術館のプログラムが企画されるため、より多くの人々が『クレマスター』を自分が観たい時に思うがままに観て、評価したり、カタログ化したり、次の世代の人に渡す必要が生まれてくる。しかし、これが許されていないため、『クレマスター』の一般流通、ライセンス、売上による利益が永久に無になるだけでなく、同サイクルを観て、他人のために評価しなければならないものの大半も挫折してしまうだろう。そして、『クレマスター』は特別な出かけ先やイベントとして扱われ、アート系シネマがある大都市の、しかも限定的条件下で管理された上映しか行われない。何しろ『クレマスター2』のDVD1枚が、2007年にサザビーで$571,000もしたのだから。

コストという問題を十分に検討するには、1970年代のアヴァンギャルド・ビデオの黄金時代を振り返り、その10年前に誕生したポータブルビデオカメラによって、アーティストたちがクリエイティブな革命を起こし、新技術を利用して視覚認識作用のパラメーターに挑戦し、変化させたことを認識すべきである。コンセプチュアルアートをルーツに持つヴィト・アコンチ、ダン・グラハム、ブルース・ナウマンは瞬く間に、テレビでも映画でもなくその両方の特徴を組み合わせた媒体のパイオニアとなった。数年後にはアヴァンギャルドの振り付けやパフォーマンスアートも新しいビデオの豊饒の地となり、それまでに存在したドキュメンテーションとその後「双方向性」と名付けられたものの区別が消え始めた。

1970年代はじめ、レオ・キャステリとイリアナ・ソナベンドがキャステリ=ソナベンド・テープ&フィルムをスタートしたのは、彼らが取り扱っている多くのアーティストたちがこの新アート・フォームに深くコミットしているという事実を認識したからである。彼らの中には因習にとらわれないで他の媒体の作品を制作しているものもいたし、一方でアースワーク、ミニマリズム、コンセプチュアルアートの発展はギャラリーがこれらの作品を売る戦略を見直すことになったが、ビデオが誕生するまで、需要と供給は非常に限られた一部のコレクターにとどまり、専属市場となっていた。数少ないオリジナル作品のバイヤーは少人数に過ぎなかったため、レオ・キャステリは、いつ完成するかわからないダン・フラヴィンの彫刻に対して、完成品と同じ値を付けることができたわけだ。

電磁テープという新媒体がアート市場に出回ると、価格は突然、ドラマチックに変化した。というのもビデオはパフォーマンスアート、パンクミュージック、小出版社本などのDIY運動の一部としてとらえられたからである。複製が可能であることに対する熱意から、アーティストたち自身が小出版社本やインディー・レーベル作品同様の値段にするように主張し始めた。35年前、ジョーン・ジョナスやロバート・モリスのビデオのバイヤーというのは年200人を超えることはなかっただろう。しかし、作品は安く無限に複製できたので、$25のビデオが年に100本、10~20年間に渡って売れれば、絵画や彫刻1作品と同様の利益に達することができると考えるのは妥当だった。

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YouTube posting of Nam June Paik’s Beatles Electroniques (1966-69).

しかし、広範にわたるバイヤー向けにビデオアートを値付けするという慣習は80年代半ばに終焉を迎えた。ビデオインスタレーションが確立した媒体として出現したからである。突然、ダラ・バーンバウム、ゲイリー・ヒル、ビル・ヴィオラ等の作品は、入念に用意された環境でしか経験できなくなった。このようなインスタレーションがどのように展示されるかをコントロールしようとする試み、そしてアーティストと(最初、コレクターはそうでなかったとしても)キュレーターからのビデオに対する新たな人気の高まりの結果、限定版ビデオが誕生したのである。1980年末のビデオインスタレーションの媒体としての急増から1990年代初めにマシュー・バーニーが登場するまでの間に起きた最大の変化は1次市場、および再販市場での現代美術の価格の急上昇である。1995年にはシングルチャンネルビデオは「限定版」と称し、それに見合った数万ドルという値段がつくようになった。

不況になるまで、現代美術のギャラリーはこのラジカルな価格変動について、音楽やビデオ市場のように安い値段で何千もの作品を扱うようにはなっていないと説明していた。そして、ビデオの制作費用が増しており、アーティストがより大きな予算を必要していると主張した。また重要なコレクターにビデオアートを買わせるために、重要なアートに対してこれらのコレクターが支払うつもりの価格を正当化すべく、作品を稀にすることが重要だという理由もあった。しかし、数年もしないうちに、一部のギャラリーが恣意的にビデオの価格付けを行っていることが明白になり、価格は上昇し続けた。

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YouTube posting of Ryan Trecartin’s A Family Finds Entertainment (2004), from the
artist’s own channel.

2010年の観点で見れば、このような手法が、全メディアアートに関するインターネットの重要性を予期していなかったことは明らかだ。特にYouTubeや類似のテクノロジーがすべてのITの第一原則である「無料」という点を推進したことに。ライアン・トゥリカーティンのような新進気鋭のビデオアーティストを見れば、この第一原則が自己充足的予言のようになっている。トゥリカーティンの全作品は我々がアップロードやストリーミングをすることを念頭に置いて、制作され、編集されているようである。トゥリカーティンが制作したオブジェをコレクターは買うかもしれないが、それは作品自体にとって不可欠でも、特に密接な関係があるわけでもない。作品自体はいつでも好きな時にラップトップやiPhoneから完全に無料でアクセスできるのだ。このようなオープンアクセスを考えると、グッゲンハイム美術館で開催された2004年マシュー・バーニーの回顧展で、彫刻やバロック調にデコレートされたディスプレイボックスに入った『クレマスター』の「限定版」DVDが展示されていたとは想像がつかない。ひどく高いチョコレートや香水のように、このDVDはアート市場が20年ほど前に現実を複雑にゆがめたことを象徴している。その結果、マシュー・バーニー以前のシネマやビデオの多くが無料か安価で、バーニー以降のシネマもビデオもやはり無料か安価になっている。そしてその無限さの間に、人工的な独占という孤島の琥珀のように閉じ込められているのが、情報時代の芸術作品の真髄と言われている作品なのだが、それは誰にも観ることができない。

(訳 池原麻里子)

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