艾未未(アイ・ウェイウェイ)の少年時代

艾未未(アイ・ウェイウェイ)の少年時代
文 / 牧陽一

この文を書こうと思ったのは2016年4月、艾未未の弁護士である、劉暁原(リウ・シャオ ユエン)が彼のインスタグラムにCCTVの「1950年代に生まれて(生于五十年代)」という番組を貴重な映像記録として紹介していたからだった。艾未未にTwitterのDMで訊くと、2008年の制作だという。艾未未に対する弾圧が始まってから8年間もお蔵入りしていたというわけである。このドキュメンタリーの出演者は1950年代生まれの6人、漫才師の姜昆、書家の呉歓、医者の卒淑敏、実業家の任志強、そしてアーティストの陳丹青と艾未未である。陳丹青・艾未未『非芸術訪談』(人民文学出版社)は2007年だから刊行できたが、翌年の2008年5月12日四川汶川大地震以降のブログ記事を発表以降、つまり手抜き建築の小中学校の調査、亡くなった子供たちの名簿の制作を始めた時期から艾未未は政府にマークされる。したがって、収録は地震の前だと考えられる。

基本的には1957年12月父である詩人艾青の党籍剥奪、下放、強制労働に伴って新疆ウイグル自治区石河子 新疆生産建設兵団農八師の開墾兵団で生活した時の思い出である。生まれて半年で黒竜江省双鴨山市宝清県*1 の852農場南垣村林場に移り、そこで1年半(1958年4月から1959年11月)過ごしているが幼すぎて記憶にはないだろう。そして艾未未が3歳から18歳の1960年8月から1976年7月28日、唐山地震が起こった日に北京へ帰るまで、この西域の彼方の開墾兵団で暮らしている。
また文化大革命中の1967年6月から1972年11月、艾未未が10歳から15歳の多感な時期には、石河子から車で1時間、莫索湾鎮にあった、農八師144団2営8連隊、小シベリヤと呼ばれたゴビ砂漠の穴倉に住んでいる。1歳にならないときから、北の国境と、西の国境に生活したことになる。艾青は極度な栄養不足から白内障を患い右目を失明した。*2
1月の平均最低気温は北の黒竜江省でマイナス30度、西の石河子ではマイナス20度、厳寒の地である。


Both:黒竜江省双鴨山市宝清県


宝清県での艾青と艾未未*3


新疆ウイグル自治区石河子


新疆ウイグル自治区 莫索湾鎮

中国は1958年から1961年の大躍進運動の失敗と直後の大飢饉で、3千から5千万人の餓死者を出した。さらに1966年から1976年の文化大革命で1億人もの人々が何らかの被害を被っている。1950年代生まれの人々は、まさにこの時代に生まれ育った中国で最も過酷な時代を生き抜いた世代と言っていい。

艾未未はあまり少年時代を語りたがらない。忘れてしまいたいほどだとまで言っている。だが、ときどき、インタビューなどでわずかだが少年時代の思い出が出てくるのでここで拾ってみたい。文革中、艾青は200人の村で5年間毎日、村にある全13か所の公衆便所の掃除を課せられていた。2、3日で手袋が擦り切れるほどの過酷な労働だった。知識人にとって屈辱的な労働を逆に徹底的に完璧にこなすことで、精神的な苦痛を逃れられた。
艾未未は「中国の農村においては、彼が掃除した便所は全中国の数十万数百万の便所の中で一番清潔だとあえて言います。後に毛沢東が死んだ後、突然ある日、彼らは父に便所掃除をさせたのは誤りだったと言い、彼を都市に帰しました。それ以来、中国にはあれほど清潔な便所は二度とありませんでした。だから今でも私がトイレに行って非常に汚れているのを見ると、父はどこに行ってしまったのかと思うのです」とユーモアを交えて語っている。また「いつも会う農村の人は、父が何者なのか全く知りません。棒切れを持って追いかけたり、石をぶつけたりして、私たちを嘲笑しました」とも話している。
そしてそれを聞いたヘルタ・ミュラーはオスカー・パスティオールの言葉を借りて「強制された中で尊厳を持つのだと。人々が強制されて行うこと、そのことを極めたとき、個人の道徳はまた少しも損なわれることなく新たに作られるのだと」述べている。*4
また時々父は枯れ枝を削って孫の手のような「如意」を作っていたと艾は語っている。何かに没頭する、何かを極めることで個人の尊厳を守り、狂気に埋没しないようにしていたのだろう。

甘いものも年に一度、旧正月の日に食べるサッカリンを付けたマントウくらいだったが、艾未未にとってはこの上ない喜びだった。*5 指が曲がらないほどに凍え、いつも飢えていた。投票では1位でもクラス委員にはなれなかった。なぜか誰も遊んでくれなかった。新疆にいたのに食事のとき羊肉を一度も口にすることはなく、ウイグル人に会うこともなかった。当時のそんな境遇について本人は、「そんなに抑圧も感じなかった。空が曇っているようなものだ。もしも晴れているのが曇れば抑圧された気持ちになるだろう。だが私たちはこれまで晴天に出遭ったことがない。曇り空が私たちの空だ。だから抑圧などない」と述べている。*6
また穴倉生活については「私たちは新疆ウイグル自治区に下放させられた。当時は懲罰として穴倉に住まわせられた。そこは安全だという感覚があった。穴倉の中は、冬は暖かく夏は涼しい。屋根と地面が同じだから、家の屋根を豚が走っていくと、よく尻が天井から飛び出した。思い出すが、穴倉には明かりが無い。父が入ってくる時、梁に頭をぶつけて、蹲(うずくま)った。頭からは血が噴き出した。父はスコップで掘り下げて、床を20センチほど低くした。だから建築というのは人間にとって当たり前の多くの常識さえあればそれでいいのだ。それから父はインテリだったから、我が家に本棚が必要になった。父は穴を掘って本を放り込んだ。見たところそれは見事な本棚だ。だから私は理想的な建築などというものは存在しないと思っている」。*7 境遇を嘆くわけではなく、建築とは何かという哲学的思考へと導いていく。

さてCCTVの「1950年代に生まれて」では子供のころの4つのエピソードが語られている。

「私たちはゴビ砂漠へ薪を拾いに行った。とても遠くまで。私たちは穴を見つけた。掘ってみると、中に何匹か子犬のような動物がいた。私たちは抱いて家に帰った。その夜一晩中、母オオカミの遠吠えが聞こえた。オオカミの子を拾ってきてしまったのだ。翌日連隊の大人たちは酷く怒って、オオカミの子を返しなさいと言う。みんな驚いた。オオカミの群れが匂いを嗅ぎつけて私たちの村にやってきたのだ。」(オオカミの話)

「野外映画ではまずみんな映写技師の仕事を見るのを楽しむ。どうやって光源のガス灯を点けるのか、どうやってフィルムを装填させるのか。上映中にフィルムが燃えるとみんな凄く喜ぶ。スクリーンの場面が燃えていくのを特に喜ぶ。観終わると映写技師はすべてのフィルムをまとめて、また別の連隊の村へと向かう。連隊と別の連隊は10キロ以上離れている。次の連隊ではもう長板の腰掛を並べて待っているからだ。私たちもこの映写技師についていって次の連隊でもう一度同じ映画を見る。それから彼が3回上映するなら私たちもまた次の連隊へ行ってまた同じ映画を観る。だが映画が終わるときには自分たちの村から10数キロも遠く離れている。私たちは真っ暗な道を走って帰ってくる。そして一日中興奮して映画のセリフを覚えるのだった。」(野外映画の話)

「私は8歳の時、父に向かって凄く厳粛な様子で、羊飼いになりたいと言った。私たちが農村に着いたばっかりの時だ。あのゴビ砂漠には400頭以上の羊がいた。その後を追っていく。羊たちは前で草を見つけて食べている。それから黄昏になると、羊を追って羊小屋へと戻るのだ。羊を追って遠くまで行く。近場の草はもう食べて無くなっているからだ。私は羊飼いと一緒に羊を追ってとても楽しかった。だから父に羊飼いになりたいと言った。そのとき父は2,3日考えさせてくれと言った。2,3日後、父は「やっぱり学校へ行きなさい。羊飼いはやめなさい。」と答えた。それで羊飼いになるという私の片時の夢はついえてしまった。」(羊飼いの話)

「私の家には莫大な蔵書があった。とてもたくさんの蔵書だ。だがある日父は本を全部焼かなければいけないと言った。「文革」の時だったから、毎日のように紅衛兵がやってきて家の門を敲いた。だからある日の朝、私たちは全ての本を中庭の真ん中に山積みにして火を点けた。子供がみんなやってきて一緒に燃やした。あのヨーロッパから買ってきた本は豪華装丁本で箔押しの模様が入っていた。とっても美しいとっても大きな画集の表紙を引き裂いた。そして学校で書類ファイルにした。だが中身は全部燃やしてしまった。とっても精美な画集だった。もちろん家の人の苦しみは計り知れない。考えてもみてほしい、当時は分かってはいなかった。あれは父が長年愛して止まなかったものだ。長い間、蓄積してきたものだ。それなのにたった一日の内に私たちに全部燃やし尽くされてしまった。」(父の本の話)

村で上映される野外映画が、数少ない楽しみだったのだろう。後に北京電影学院に入学し、現在も映像を制作していくことも、こうした映画体験があったからかもしれない。またオオカミや羊、本を燃やすという、非文化的体験は生き物としての原初的生活と言える。辺境の地の厳しい大自然での原体験が、本質的な思考に結び付き、アーティストとしての基盤になっていると思われる。

さらに小学校と高校が同じだったという「新疆老李」という人が艾未未の思い出を語っている。*8 老李は現在カリフォルニアに住んでいて、2013年2月には北京のフェイクスタジオに艾未未を訪問している。以下に概要を訳出してみたい。

艾未未は硬骨漢で、今も中国当局と対抗している。文革の前、艾青の境遇はそう悪くはなかった。地方幹部も庶民も艾青をとても尊重していた。農八師中学では艾青を招いて講座を開くほどだったという。
小学1年生になると、学校の教師や労働者の子どもは、農八師団師部の宿舎に住む家庭の子どもと共にひとつのクラスに入った。クラスには師団長や政治委員会、連隊幹部の子どももいた。艾未未は師部に住んでいたので私たちのクラスになった。その頃の彼の印象はあまりないが、彼は絵を描くのが好きで、しかもとても上手だった。文革が始まると、彼の家はすぐさま144農場に行かされた。後でアメリカのCNNのインタビュー番組で、彼はその時期の苦しい生活を忘れることができず、今も深い傷となっていることを知った。私自身(老李)もあの日々は辛く、同じ傷を負っている。私の父は現行反革命分子とみなされ、144団よりさらに遠い150団で監督の下で強制労働をさせられた。母親は「学習班」に閉じ込められ、祖父は自殺し、妹は強制的に停学させられた。クラスでは私の批判会が開かれた。それぞれの苦しみがあった。一言では言い尽くせはしない。

1972年末、文革も後期になると15歳になった艾未未は父母とともに農場から石河子に帰ってきて、石河子第二招待所の二間の部屋に住んだ。そして私たちのクラスに入った。席は私の前だった。彼はいつも小さな紙切れに落書きしていたが、それが凄く面白い。ある日、彼は気の向くままにペンで樹や人や家を描いた。多くのクラスメイトはそれを廻し読みして楽しんだ。ペン画の線には乱れた中にも秩序があって、品格もある。クラスには絵が好きな子は何人もいたが、彼に敵う者はいなかった。でも字は下手で長方形になっていて、体を成していない。私は「君は絵は上手いのにどうして字はこんなにみっともないんだ?」と訊いた。かれは「あんまり練習してないからだな」と答えた。だが成績はよく文科系はトップだった。ある時、南京長江大橋を讃える文がクラスのお手本の作文になった。

私は何度か艾未未の家に行った。艾未未の口から艾青がもともとは絵を志した人だと聞いた。国民党の監獄に入れられ、絵を描く道具がなかったから、詩を書き始めたのだという。*9
艾未未の家には珍しいものが多かった。引出しを開けると1950年代に東欧の社会主義国の詩人や画家から艾青に送られた手紙やカード、贈り物が入っていた。*10

艾未未と李進頻が私(老李)の共産主義青年団入団の推薦人となった。クラスには7,8人の団員がいたが、さらに数十人団員になりたい者がいた。高校の最終学年、私は団支部の書記になり、艾未未もクラスの幹部になった。考えが抜きん出ているから、とっくの昔に世俗のバカバカしさを悟っていたし、こんなことに嫌気がさしていた。彼は私に言った。「まじめにやる必要はない。信仰しようがしまいが、入団は形式にすぎない。みんなの都合がよければそれでいい。入れる人は入ればいい。何かいい事もあるかもしれない。私たちは多くのクラスメイトの入団を許可する。役に立つかどうかは別の話だ。」

艾未未は年中、四季を通して紺色の人民服を着て、自転車にのっていた。私は彼に石河子の画家で東北魯迅芸術学院出身の王謝先生の話をしたが、彼は見下した口調でまったく意に介さない様子だった。この頃から権力や威勢を蔑視していた。舞踊を描く画家として著名な葉浅予先生(1907-1995)は艾青の友人で、ある日、艾青の家を訪問した。艾未未の絵を見て気に入り、自分の絵と交換しないかと艾未未に持ち掛けたが、艾未未は頑として承知しなかったという。北京電影学院でもまじめに勉強しなかったという。それは時間の浪費だと思っていたようだ。艾未未は一生、権力や威勢の側に付くことはない。幼いころから反逆性がもうすでに彼の血の中に溶け込んでいる。

艾未未は球技などの体育は好きではなかった。体育の授業で、艾未未たち7、8人が急にいなくなった。もうすぐ授業が終わるという時に、艾未未たちが顔を見せた。みんな山のようにアイスキャンディーを持っている。学校の向かいの銀行に車一杯の石炭が運ばれてきて、艾未未たちに下ろすのを手伝ってくれないかと頼まれた。それで何元かの報酬を貰った。艾未未はカネが欲しかったわけではなくて、変わったことをして、面白くさせたいだけだ。それでクラスメイトを引っ張って石炭を下ろしに行ったというわけだ。
艾未未は無口だったが、人を引き寄せる力は強く、多くのクラスメイトが手下になった。彼は掃除で使う盥を教室のドアを半開きにして上に載せた。誰か入ってくると盥が落ちて来て頭を直撃する。このいたずらで、みんな腹が痛くなるほど大笑いした。
艾未未は冷静だった。私が悪たれどもとケンカになりそうになったときも、遠くから見つけて、私のところにやってきて言った。「大人気ない事をするな。あんな奴らに勝っても負けても何の意味もないぞ」それで私も目が覚め、下らないケンカをしないで済んだ。

以上をみてくると、1972年末以降、石河子に戻ったころには、父、艾青も名誉回復に近い状態だったことが分かる。15歳まではかなり悲惨な体験をしているが、高校からは比較的快活な生活を取り戻したのだろう。共産主義青年団の幹部まで務めている。今からは想像もできないが、言動からも分かるように、党を信じているわけではない。党を信じて裏切られた父艾青の姿を見て育つことで、何ものも信じない意志を獲得していったのだろう。そして如何なる境遇にあっても「楽しみを見つける力」が備わっていった。


撮影:李振盛「党書記の受難」*11

また文革中については1962年、石河子に生まれた5歳下の艾未未の弟、作家の艾丹の記事が石河子新聞に掲載されている。*12

ゴビ砂漠や穴倉での生活の苦しさは言わないが、父親の批判大会での情景は幼かった艾丹の記憶に刻まれたものだった。
当時は三角帽を見ただけで怖くなった。それは当時人を辱める典型的な道具立てだった。或る時、紅衛兵が父親に三角帽を被せ、棍棒で父の背中を殴った。そして墨汁を父の顔じゅうに塗りたくった。

この話はアリソン・クレイマン監督ドキュメンタリー映画「アイ・ウェイウェイは謝らない(Never Sorry)」の中でも艾丹が話している。よっぽどショックだったのか、繰り返して語られている。艾丹は1962年から小学校を卒業するまでの14年を主に石河子で過ごした。また文革中の67年6月から72年11月には艾未未と同様にゴビ砂漠の穴倉に住んでいる。

艾丹が当時一番楽しみにしていたのは兄艾未未と一緒に薪を拾ったり、鳥の巣に手を突っ込んで卵を探したりすることだった。薪は生活に必須の燃料で、穴倉の前に薪が多い家は勤勉だという事になる。艾未未艾丹兄弟は勤勉だったがもう一つの理由は大自然の中で遊びたかったのだ。コバルト色の空、はるかに見える天山の雪の頂、くっきりした雪の稜線に、壮観な雲海、鳥の声の合奏、少年艾丹と艾未未は陶酔した。そして艾丹を取材した新疆石河子新聞の記者は「新疆の独特で壮大で美しい眺めが、後に作家となり、アーティストとなる二人にとって最も素晴らしい啓蒙となったのではないだろうか」と述べている。

しかしゴビ砂漠は広大で遮るものもなく、砂嵐が特に多い。薪を拾いに行くときは砂嵐の来るのが怖かった。突風は沙塵とアルカリ土壌を巻き上げ、眼を開けていられない。ある日、艾丹が沢山の薪を背負って家路を帰る途中、砂嵐にまみえて、突風に巻き上げられ、道端の溝に嵌まってしまった。より多くより良質な薪を拾うには人より遠くまで行くしかなかった。

新疆石河子新聞の取材だから、当時のあまり悲惨な描写は控えているが、どんなに過酷な条件でも、その中で生き抜くための楽しみを発見する。艾未未はそういう能力に長けているのだろう。
また別の映像「南泥湾から莫索湾まで」では艾未未の母、高瑛について、艾未未が少し思い出を語っている。*13 高瑛は文革中に住んでいた、莫索湾鎮、農八師144団2営8連隊、小シベリヤの穴倉を再現した場所を訪問した。艾未未は当時いた穴倉に、夜中、近所の人が一碗の麵を持ってきてくれた事を思い出している。「食べ物のない時にどれだけありがたかったか。この家族にとっては一生忘れることのできないことだった。父が有名な詩人だったからとか、そこそこの人物だったからといいうのではなく、その人は私たち家族に心から同情してくれていたのだ。」

艾未未の創作や行動を支える知恵やヒューマニズムは辺境で生活した経験と無関係ではないだろう。近く艾未未の自伝が刊行される予定である。


1981年 北京での艾青と艾未未*14


*1 手元にある艾青に関する日本語の書籍、艾青/稲田孝訳『艾青(Ai Qing)訳詩集』(勁草出版サービスセンター、1987年)、秋吉久紀夫訳編『艾青(Ai Qing)詩集』(土曜美術出版販売、1995年)、宇田禮『艾青という詩人』(新読書社、2009年)、さらに私どもの『艾未未読本』(集広舎、2012年)も「宝法県」となっている。謝して「宝清県」と訂正させて頂きたい。稲田孝氏が参照した楊匡漢・楊匡満『艾青伝論』(上海文芸出版社、1984年)には県名は出てこないので、稲田氏のものが連鎖していると考えられる。

*2 『艾青AI QING』浙江撮影出版社、1994年

*3 『艾青AI QING』浙江撮影出版社、1994年、50p

*4 ARTiT「艾未未のことば―11人権の現状がアーティストに与える影響 ヘルタ・ミュラーとの対話」(訳 / 阪本ちづみ)2010年3月にケルン国際文学フェスティバル講座(司会:ミシェル・クルーガー)からの抜粋
https://www.art-it.asia/u/admin_ed_contri13_j/t1z2ByplTaKqvAnNIV04/

*5 宮本真左美「艾未未概説―革命の時代に育つ」牧陽一編『艾未未読本』集広舎2012年

*6 ARTiT「艾未未のことば13―中国での初個展『艾未未』展をめぐって―艾未未インタビュー」(インタビュー / 蘇晏、翻訳+解説 / 牧陽一)
https://www.art-it.asia/u/admin_ed_contri13_j/n7FrlMXEC9vjQ6RoWicP/

*7 ARTiT 「艾未未(アイ・ウェイウェイ)穴倉生活そして生き埋め生活」 文 / 牧陽一
https://www.art-it.asia/u/admin_ed_contri13_j/BJ5p3zPvnChyIFOKUYVe/

*8 我所认识的艾未未 发表于 2011年09月30日由 新疆老李
http ://xinjiang-laoli.hxwk.org/2011/09/30/我所认识的艾未未

【华夏文摘】新疆老李:重逢艾未未 发表于 2013年02月28日由 新疆老李
http ://xinjiang-laoli.hxwk.org/2013/02/28/【华夏文摘】新疆老李:重逢未未/

*9 艾青の最初の詩集、『大堰河ダァ・イエン・ハー私の乳母』1936年出版には挿絵が入っており、それは艾青の描いた「車掌」という作品だが、キュビスムの影響がみられる。艾青は1928年から1932年、美術を学びにフランスへ留学している。艾未未によれば、1949年の建国後美術に戻りたかったが、当時文化部副部長の周楊に妨げられたのだという。2014年10月9日の艾未未のインスタグラムより。

*10 艾青は1954年チリの詩人ネルーダの50歳の祝賀の宴へ赴く途中、モスクワ経由でチェコの首都ブラーグに立ち寄り、チェコの若い女性中国研究者タンナを訪問している。タンナは1954年から3年間中国を訪問したが、艾青は会う事が叶わなかった。タンナは1976年10月30日交通事故で死亡。艾青は「亡き友タンナの霊に贈る」1979年1月11日を書いている。艾青/稲田孝訳『艾青(Ai Qing)訳詩集』勁草出版サービスセンター1987年210-213pこの引き出しの中にはタンナの手紙もあったのではないか?

*11 1966年8月ハルビン市の批判大会。任仲夷黒竜江省党委員会第一書記。2メートルにも及ぶ三角帽を被せられ、後手にされて身をかがめさせられる「ジェット式」をやらされ、顔に墨を塗られている。町田市立国際版画美術館『近代化への道程 中国報道写真展』1989年 編集 共同通信社・陝西日報社・講談社 52p

*12 艾丹:石河子:我永远想念的地方 (石河子新闻网 2014-06-24)
http://www.shznews.com/cms/special/tndb/333/2014/06-24/content_47534.html

*13 从南泥湾到莫索湾-诗人艾青在新疆岁月 2009
http://v.ku6.com/show/IL2C1S1I-0MWFwh0.html
http://v.ku6.com/show/wJLnxDRz__2L9EzB.html
http://v.ku6.com/show/KTPhIBxRIs7I3i6J.html

*14 『艾青AI QING』浙江撮影出版社 1994年 154p

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