艾未未のことば 11 人権の現状がアーティストに与える影響

人権の現状がアーティストに与える影響
ヘルタ・ミュラーとの対話(訳 / 阪本ちづみ)
2010年3月にケルン国際文学フェスティバル講座(司会:ミシェル・クルーガー)からの抜粋

ミシェル・クルーガー(以下、MK) 皆様、芸術は政治性を持つことが許されるか、あるいは必ず持つべきか、この問いはギリシャ文明が栄えた時代から論争になっています。この短い20世紀の中でこの芸術家の魂を揺り動かす論争は、広大な空間に巻き込まれようとしています。
私は今晩、ふたりのアーティストにお目にかかれてとてもうれしいです。彼らは自分の経験を私たちに話してくれるでしょう。ヘルタ・ミュラーと艾未未に心からお礼を言いたいと思います。
私が皆さんの情報量を過小評価しているわけではありませんが、礼儀上、ふたりのアーティストを簡単にご紹介させてください。まず、ヘルタに彼女の作品の一部を朗読してもらい、それから艾未未に作品を紹介してもらいます。それから討論をはじめます。

ヘルタ・ミュラーはルーマニアのチャウシェスク政権期をきわめて正確に描いたクロニクル作家です。彼女の小説とエッセイは、独裁政権の国家と共産主義集団内の想像を絶する状況を書いてはいませんが、そのような統治が生み出す影響を描いています。彼女は恥辱、恐怖、精神的な酷刑を描きました。すべての文章は、ヘルタ・ミュラーが集団主義に服従せず、社会主義の意識がなかったために受けた、ルーマニア国家安全部門(秘密警察)による監視、圧迫を描いています。彼女は財産の没収、追放、拷問、謀殺を描きました。自分の経験を通じてヨーロッパの中部にある社会主義国家の中で起こった事を語りました。

ヘルタ・ミュラー(以下、HM) 私は『見知らぬまなざし』を朗読します。

異郷人は宿に帰り
家を恋う犬の腹の中
ふさふさと生い茂る野草を髪となし
夜行列車の灯を目となし
口は何を食するか
故郷の食の滋味
カッコーが鳴き頬を赤く染め
早熟の林檎色の羽根

最初に『見知らぬまなざし』を朗読した理由ですが、私はドイツに移民し、見知らぬ目で見知らぬ国に来ました――多くの人がこの説に満足するでしょう。でも私は違います。なぜならこの事実は詩の由来ではないからです。見知らぬまなざし、それは私が熟知した故国から持ってきたものです。どうしてその熟知した環境の中で見知らぬまなざしが産まれたのか?私はただそこでの日常生活の中のよくある一部を通して、このように描写したのです。
私はいなかで育ちました。いなかで私は小さいころからいつも自転車に乗り、たばこ畑を走り抜け、果樹園を通り、川や谷を越え、森まで走りました。一人ぼっちで目的もなく。歩きとはまったく違う感覚が好きだったからです。視線は自転車とともにあり、景色が飛んでゆくようでした。後によく考え、自分のために自転車を買いました。買うのにもともと熟考する必要はなかったのですが、私をためらわせたのはこの言葉です。ある時の尋問で、秘密警察はいきなりこう言ったのです。「交通事故はよくあることだな。」私は町で四日間自転車の持ち主となり、五日目にトラックで空中に跳ね飛ばされました。両脇にたくさん擦り傷ができた他は、驚く事に無事でした。二日後私は訊問され、秘密警察はまたもこう言いました。「そうさ、そうさ、交通事故は本当によく起きるからな。」次の日私は自転車を友人にあげました。あげた理由はあえて言いませんでした。ただ「いらなくなったの。」と言っただけでした。次の日私は髪を切りに行きました。私が鏡の前に座るのも待たず、美容師はいきなり聞きました。「自転車で来たのですか?」でも私は自転車を持っているなんて彼女に話したことはないのです。「髪を染めませんか?」彼女が聞きました。「フランス製のヘアカラーが手に入ったの。」どうしていやと言えましょう、私は染めると言いました。金髪にしてもらおう、私は思いました。どうせ自転車はいらなくなったし。彼女は白い粉を水で練って糊状にして、私の頭に塗りました。頭はやけどしたように痛くなりました。私は文句を言いました。これでいいのよ、彼女は言います。髪の色はこうしないと染まらないの。次の日私の頭皮は傷だらけで、すぐにかさぶたになりました。この「クルミの殻」頭は二週間続き、その後焼きたてのパンの皮のように、髪を梳かすとパラパラと床に落ちました。再び訊問された時、かさぶたはだいたい消えかけて、はた目にはわからなくなっていました。しかし秘密警察はまた唐突に言いました。「金髪になるのは苦しいだろう、な?」彼の言う事は彼の知るはずのない事でした。まさに美容師が自転車の事を尋ねたのと同じです。

多くの状況はすべて自己保つことのすべのないおろそかにされた個人の経験から得させられたものです。私の好奇心に反し、私の願いとはかい離して、私の神経を敵とし、過酷な要求より一段上のものです。今まで語ってきた日々が証明しています。自転車と髪染め、冷蔵庫と石が交互に出現し、その交互の中で、あらゆる重要でない小さなことが重要な影を落としていました。なぜなら威嚇は常に存在していたからです。さらに得られる一つの結論とは:国家は更に不自由になり、人々は更に国家の監視を受け、早晩身に受ける耐えられない事がますます多くなり、自分をおろそかにする可能性はより小さくなるという事です。自我の感応は自動的に開かれます――人に監視され、人に審査されることは必ず自己を審査することにつながります。迫害は尋問の時に限らず、ありふれたように見える単調な日々と食物の中にも知らず知らずのうちに変化を及ぼしているのです。そして日々の視線のない生活の一部は絶たれ、審査されない無目的の気ままなものも絶たれるのです。始終必要とされる用心深さ、慎重さはミリメートル刻みの方眼紙の上で日々を送るようなものです。無傷な事物の流れと無頓着な視線は全く不可能なのです。

MK 艾未未は1957年生まれ。彼は文化大革命の中で生まれ育ち、文革は彼自身にも彼の家庭にも残酷な影響を与えました。彼の父は著名な詩人で、1950年代には迫害を受け下放され労働改造を受けました。ゴビ砂漠のそばの村で便所掃除をしました。30年代にパリに行き、フランスの絵画芸術所に魅せられた人です。彼のこのような境遇に対して、私たちは単純すぎる考えを持つことはできません。
毛沢東の思想が少年艾未未の認知世界を構築しました。彼は書いています。「我々は世界的な手段を掌握しなくてはならない。」と
しかしこの手段は役に立たないものでした。80年代初頭、艾未未は北京電影学院で学んだあと、十数年のニューヨーク生活を開始しました。「私は芸術と文学を用いて自己の世界を発見することを迂回しながらも開始した。」
数年来艾未未は一貫して一党独裁の鋭い批判者であり、政府が行っているのは賊徒文化だとまで非難しました。彼は社会性のある彫刻や映像や写真を用いて、現代中国社会の道程を描写しました。
マーク・シモン*1は書いています。「いかなる中国研究者も皆、艾未未の思考を避けて通ることはできない。」中国も艾未未をマークしています。多くはあいまいでない極端な方式で。
カッセルへの参加からミュンヘンの展覧会まで、ドイツは艾未未の来訪を歓迎しています。来週艾未未の展覧会がデュイスブルグで行われます。艾未未はドイツの理性をとても気に入っています。「ドイツ人との交際はとても複雑だ。」と書いています。彼の我々に対する見方が永遠に変わらないことを願っています。私もケルン文学祭*2でケルン文学館の館長として、艾未未に彼の一番好きなドイツ料理、ソーセージとザワークラウトを食べてもらいたいと思っています。

艾未未(以下、AWW) ドイツは私の家のようだと感じます。自分の家といっても、実際私は家に関する概念はありません。なぜなら私が数十年暮らした場所に帰った時も、いつも私はそこの家庭の一員だとは思えないからです。これは私がいつも幻覚の中を漂泊している事を示します。今日一緒に対話する作家と重ならないために、私は写真で私の作品を説明します。
この写真は1993年ニューヨークから北京に帰ってすぐ、1994年に撮ったものです。これはとても有名な広場で、皆知っています。この広場の私服警官と警察官はいつも観光客より多いのです。この唯物主義とマルクス主義を信仰すると標榜する社会の中で、依然として広場の真ん中に干からびた死体が置かれています。その正面の、封建王朝を代表する天安門の真ん中には、依然としてどんな表情をしているか見分けるのが難しい肖像がかかっています。今日に至るまで、この広場は人々から恐怖の象徴だとみなされています。なぜなら、そこを歩いていて警察の監視や威嚇を受けない人はほとんどいないからです。このような写真を私はたくさんとり、《遠近法の研究》と名付けました。それは個人と異なる権力、政治的あるいは文化的な権力との関係を示しています。これはルネサンス時代のダヴィンチから学びました。ここでは多くの時間を費やして紹介する必要はないでしょう。
これは私の別の作品《童話》で、2007年カッセルでの作品です。当時私は1001人の中国人を西洋に連れて来ようと思いました。彼らは来て、また帰り、みな喜んでいました。これは上からとったものです。これは私が1001人のために準備した泊まる所と彼らのために招いたコックです。中国人のような民族は、もし料理の方法を変えたなら、ドイツ人と同じようになってしまうからです。これはこの人たちが必要とした椅子です。もし彼らがこのような椅子に座れなかったら、皆うろたえたことでしょう。
地震のことについて話します。2008年5月12日、四川で大きな地震が発生しました。この地震の最も明らかな特徴は数万人が死亡した以外に、5000名以上の生徒が倒壊した建物の瓦礫の下に消えたことです。あらゆる苦痛と哀悼と寄付と大規模な募金活動が収束してから、政府は建物の質を調査するという最初の約束を守りませんでした。我々が結局何人の生徒が亡くなり、彼らは誰かと尋ねると、政府にスパイ工作をやっているとみなされました。アメリカ帝国主義のためにやっていると。芸術家として、わたしはもともと時間がある。だから私は自分たちで学生たちを探そうと決めたのです。我々には知る義務がある。彼らが誰で、どのように亡くなったのか、彼らは何歳でどこで亡くなったのか。我々は調査隊を組織しました。この調査にはネットを通じてたくさんのボランティアが参加しました。彼らは辺鄙な山間部に行き、一戸一戸誰の子供が亡くなったか、名前は何か聞いて回りました。我々は5000人以上の亡くなった学生のうち、彼らの大多数が1000校の学校のうちの20校の学校で亡くなったのを発見しました。政府が言うように、大地震があったから、すべての建物が倒壊したわけではありませんでした。学校のまわりの多くの家屋は倒壊しませんでした。ある学校は教室が倒壊し、ある学校は宿舎が倒壊し、その倒壊の仕方は粉々でした。地震後の状態は想像しがたいもので、その廃墟に立つと、恐ろしいのは眼前の廃墟を感じることではなく、空気と風の中に漂う死の感覚です。最も恐ろしいのは自然がもたらした災害ではなく、この社会が基本的事実を隠ぺいすることです。調査中、三十数人のボランティアが現地の警察に逮捕され、警察は彼らが集めた名前を消し、録音も削除されました。これは学生の墓地です。彼らがみな誰なのか、あるいはどこの家の子供なのか証明されないままいい加減に埋葬されたことがわかります。これらの墓には往々にして、名前がなくて印だけがつけられています。我々は調査した5200名の学生の姓名、年齢、誕生日、学校名を私のアトリエの一面の壁にびっしりと貼りました。もちろんこの仕事には何の代価もない。私の住居の周囲には、たくさんの監視カメラがとりつけられ、それらの向きをかえたくても無理だった。私のアトリエの前の静かな所、たとえば鉄道のそばにいる人だが、彼はどんなに寒くても暑くても、通り過ぎる車を監視し、ナンバーを記録し、夜は車の中で寝なくてはならない。
次は私が四川で、同じように調査した人の事です。彼は国家転覆罪とされ、すでに判決が下され、刑期は5年、名前は譚作人です。私が彼の証人になりに行った時、劇的な事件が起こりました。これは我々がこの旅館に入った時です。私服警察の車がそばに停まっています。早朝3時に彼らは旅館に乱入し、一つ一つの部屋のドアをけり破り、一人一人を捕まえました。この時彼らは私を殴打し、私の服をびりびりにしました。斬新な、夏にカリフォルニアから買ってきた大切な服でした。この写真は警察が私をつかまえ一緒にエレベーターに乗り込んだとき私が携帯でとったものです。エレベーターの鏡に私の後ろにいる警察が映っています。同時に私はこの写真をインターネットにアップしました。「これは最高の一枚だ」と書いて。その夜、我々の部屋の前に警官が座って見張り、我々を外出させませんでした。これがボランティア。これは我々を監視する警察です。後に我々は成都の上級の警察に事情を話し、我々が拘束された事を示す起訴状を提出しました。我々が最後に得た結論は、誰もあなたに暴力はふるっていないし、あなたたちも1人も拘束されていないということでした。
その結果、作家譚作人は5年の判決を受けました。このような作家は中国にはとても少ない。10人をこえないでしょう。この作家が5年の判決を受けたのは、我々が彼のために証拠を提供できなかったからです。私が暴行されて以降、このような作家は5人といないでしょう。なぜならだれもが自分の頭を血に染めたくないからです。数か月前ミュンヘンの私の展覧会で、博物館の外壁の正面に私はある言葉を書きました。これは亡くなった子供の母親の言葉です。彼女は彼女の娘の事を「彼女はこの世界で7年間幸せに暮らしたのだ」と言いました。この言葉は9000個の学生のランドセルを組み合わせたものです。このようなランドセルは地震で遺棄された地面の随所に転がっていました。
私の頭部の出血は幸いにミュンヘンで治療を受ける事ができました。これは医者のトン博士で、もし一歩遅かったら、今日ここに座っていることはないだろうと言いました。生活は不思議な事だらけで、この事は私を驚かせました。この写真は私の大脳内部だ。上の灰色地帯は血液で、それはすでに頭脳内の中部線上で曲がっています。これは別の一枚。前のよりちょっときれいだ。私は作家に聞きたい。もし大脳内部がこう見えたなら、どのような感想をもつかと。ありがとうございました。

MK そのことに触れる前に、おふたりとも関係があることでお聞きしたいのですが、おふたりとも50年代に生まれ、当時は中国とルーマニアの関係は良かったのだと思います。我々のような60年間戦争をしていない西洋人はあなたたちの小さい頃を想像することができません。子供の頃にゴビ砂漠へ下放され、我々に当時の事を理解させるような事件はありましたか。ヘルタ・・・

HM 私が当時少数民族に帰属させられたことは自然なことでした。それも歴史の一部分でしょう。私は農村で育ちました。村はとても小さく、それが私の世界のすべてでした。それは50年代で、スターリンの最後の威力の名残はもちろん感じられました。私の家にはたくさんの過去の歴史があります。父は武装親衛隊でした。父方の親戚の多くも武装親衛隊あるいは軍隊に奉職していました。母は当時のソ連のラーゲリで5年間抑留されていました。罪名は集団犯罪です。祖父はかつて広い土地を持っており、いわゆる大地主で搾取階級でした。彼も数週間抑留されたことがあります。当時の状況はこうです。その時私たちはいつも誰々が抑留されたといううわさを聞きました。誰々がでっち上げの罪名で突然国家の敵とされ、連れ去られる。このようなことは普通に起きていました。これらの事は私の子供時代に暗い影を落としました。当時内容は理解していませんでしたが、すでに恐怖の存在を感じていました。幼稚園では何を言うべきか、何を言ってはいけないか告げられていました。つまり小さい時から私たちの精神は家の中と外が絶対的に分裂した状態にあったのです。家を出たら言いたいことは言えないし、問題を探求してはいけない。これはずっと我々の成長につきまとってきました。

MK 秘密警察や密告者がいたとしても、村時代は社会主義を信じていなかった時ですか?おそらく言うまでもないことですが。

HM 反対です。最初、人々は国家と関係ありませんでした。一方我々少数民族とナチスは結託していました。ルーマニアはファシスト国家で独裁陸軍元帥イオン・アントネスク*3は当時ヒットラーと共同作戦を行い、第二次世界大戦が終わった次の日から彼らの役目は変わりました。それから戦勝国ソ連がやってきて、歴史がこう変わったのです。突然ルーマニアは同盟軍の側につきました。当然理論上のことで、教科書にはすべてそう書いてあります。政府側の歴史もこのように書いてあります。責められるのはドイツ、ブルガリア民族といった少数民族のみでしたが、当時これら少数民族はもはや政府からは公式な民族として容認されていませんでした。続いて1945年の国有制運動で、あらゆる私人の財産は公のものになりました。祖父の財産は全部没収されました。彼は一夜のうちに清貧洗うが如しとなり、これが決定的な事となり、それから私たちはこの国家といかなる関係も持ちたくなくなりました。母は抑留され、家の中は突然多くの災難に見舞われました。学校では必修のロシア語だけが唯一の外国語でした。両親はロシア語以外の勉強を見てくれました。ロシア語は当然学びたくありませんでした。今からするとそれはとても残念なことです。言語に罪はありませんから。その時はすべてを拒絶し、国家を拒絶しました。監視の人たちはすべて外地の人で、あらゆる監視部門も皆同じシステムでした。監視員は外地からきたので、土地の人と社会関係がなく、迫害し、暴力をふるう時はまばたきもせず、同情や情実を絡ませることなどありえませんでした。警察や党の書記や他の役人も村の人は一人もいませんでした。

MK あなたも短期的教師や教育局の弁護士になったことがあります。どのようによばれたにせよ、それは同じ学校ですか?

HM いいえ、私はまずルーマニア学校でドイツ語を教えました。私はいつも逃げていました。最初は工場で、組合と協力することを拒否したことで、そこから逃げました。それからかなりの間行くところがなく、それからやっとまた学校に来ましたが、同様にいつも逃げました。なぜなら学校はばかを製造する工場だからです。毎朝、国歌を歌い、門では制服を検査しました。どの学生の袖口にも番号がつけられました。そうすると町でどの学生でも逮捕し、密告できるからです。他にもたくさんの決まりがあり、会議などすべてに規則があり、教える事は二の次でした。そこはまるで独裁を支える少年感化院でした。数学の教科書でさえこうでした。アメリカで地滑りが起きた。この計算方法によると、アメリカはルーマニアより滑る速度は5倍速い。すべてがこうでした。すべてがペテンで、潜在意識を強化しなければいけませんでした。あなたはさきほどルーマニアと中国の関係を言いましたが、いつも中国のタバコがありました。五種類ありました。いつも中国のテニスボールがありました。

MK 味はどうでしたか?

HM ルーマニアと比較したら、中国製は一番でした。ルーマニア製のタバコはみな売れ残りの粗悪品を砕いて作るのです。ルーマニアは良いタバコも生産していましたが、すべて輸出用でした。時には薬局に何もありませんでした。アスピリンもガーゼも脱脂綿も何もありません。突然ある時ショーウィンドウにたくさんのガラスの目玉が並べられていました。いろいろなサイズのいろいろな色できれいでした。私は当時工場に勤めていて、自分でせっせと意味のない物を作るのが好きな人がいるのを知っていました。ガラスの目玉は処方もいらず、誰でも買えました。その薬局はおそらく大量に仕入れて、商品棚に何もなくなってしまったので、仕方なく並べたのでしょう。私はガラスの目玉を買いました。ブルーでした。私は金のネックレスを持っていたので、工場のそのいじくるのが好きな人にブルーの目玉に穴をあけてもらい、ネックレスに通し、ガラスの玉はペンダントに変身しました。後に私は病欠届を出して何日かサボろうと思い、友達が医者を紹介してくれました。病院の待合室で待ち、私の番になり、医者はドアを開けるなり私のガラスの目玉を見て、すぐに私を追い出しました。私に何も言わせずに。彼はきっとびっくりしてショックを受けたのでしょう。彼からすればひどいいたずらに思えたのでしょう。なぜかわかりませんが、おそらく彼の体験から来るのでしょう。彼の知っている誰かがガラスの目玉を持っていたとか、とにかく原因があるのでしょう。医学上の原因ではなく、きっと彼の体験から来る原因だと思います。他には中国製のトイレットペーパー、五色のタオル、茶色、ピンク、黄色、緑、青がありました。他には体操用品、テニスシューズ、これらは永遠に中国製でした。他に藍色の図案の書かれた花瓶もありました。

MK 艾未未に聞きたいのですが、あなたのお父さんは今でも評価が高い有名な詩人です。彼も下放されました。なぜ労働改造に送られたのですか?

AWW 中国がルーマニアを支援していたという事を聞いてとてもうれしいです。ヘルタがショーウィンドウを見ていた時、私たちが見ていたのはルーマニアの映画でした。その革命歌曲は中国人にとって、最もロマンチックな歌だと思われていました。湖のほとりでそのような歌を歌えば、たくさんの娘があなたを好きになるでしょう。その当時、ルーマニア、ユーゴスラビア、アルバニアはずっと我々のあこがれの場所でした。なぜならそこの人たちはとてもロマンチストで、同時に彼らはヨーロッパで革命を起こす重要な希望の星だったのです。
今日は苦難を訴える会にしたくありません。我々が子供時代に多くの苦労をしてきたとはいえ、当時はそれが苦労だとははっきりと知らなかったのです。
当時、父が労働改造に行かなくてはならなかったこと、これは私が一番語りたくないことです。ただ、あなたに聞かれたことだけを話しましょう。父は200人いる村の13ヶ所の公共便所を掃除しなければなりませんでした。彼はフランスのボードレール、ランボーの影響を受けた詩人でした。中国に帰って、文化大革命の時期は何百人の毎日の排せつ物を掃除しなければなりませんでした。彼は五年間一日も休むことはありませんでした。彼が一日休めばその排泄物は二倍になります。これは彼が心にきざんだ唯一の物理的法則です。便所は必ず誰かが掃除しなければならないし、人類は排泄を止めるわけにはいかないのです。彼は私に言ったことがあります。私は60年生きてきて、以前はトイレに行っても誰が私のために掃除してくれるのか知らなかったと。彼は詩人であり、便所を異常なまでにきれいに掃除することができました。彼が入ってからと出てからでは、便所は別の場所になったようでした。彼は一寸ごとに新しい砂を敷き詰め、どの隅も平らにならし、汚れた所はすべて新しい土で覆いました。中国の農村においては、彼が掃除した便所は全中国の数十万数百万の便所の中で一番清潔だとあえて言います。後に毛沢東が死んだ後、突然ある日、彼らは父を便所掃除させたのは誤りだったと言い、彼を都市に帰しました。それ以来中国にはあれほど清潔な便所は二度とありませんでした。だから今でも私がトイレに行って非常に汚れているのを見ると、父はどこに行ってしまったのかと思うのです。

MK 伺いたいのですが、最初労働改造に行かされた子供として受けた侮辱は今日の反抗精神の源となっていますか?

AWW 幼い頃、いろいろな人のいろいろな差別の方法を感じました。いつも会う農村の人は、父が何者なのか全く知りません。棒切れを持って追いかけたり、石をぶつけたり、我々を嘲笑しました。でもまるでこれは自然の一部分で、誰もそれを変えることはできません。あなたが風に吹かれるのを受け入れるように。また人々が何かを侮辱したり口汚くののしる時、彼らが何を言っているのか、彼らがののしる事が何なのかわからないことを発見できました。私が今日多くの賞賛を受けるとき、この人たちは実は私が何をしたのか知らないとも想像してしまいます。苦しい体験に関しては本当に言葉にできる事ではないと思います。それは非常に個人的な内心の事なのです。今日ある記者に、当時どの様な状況だったか聞かれました。私はあなたに言う方法はないと伝えました。ちょうど雪や雨はどうかと聞かれても、あなたが雪の中に、あるいは大雨の中に身を置かない限り、言語で伝えることはできないのです。

MK 現在、あなたは「公民調査」で注目されています。あなたは事実の真相を追求し、政府側の校舎が倒壊した原因は自然災害だとする解釈に満足せず、学校建設の粗雑さと社会の汚職が蔓延した事が大惨事を引き起こしたとしています。自然災害が学校の倒壊を引き起こしたこととおから建築はまた別の事です。ケルンでも同じような問題が存在していますが、幸いに死亡者はいません。この死亡した学生の人数の調査は、中国で公開したのですか?

AWW 中国で我々の調査結果を載せるのを許す公共のメディアはありません。我々はこの調査結果を絶えず私のブログに載せています。ほどなく私の三つのブログは同じ日に閉鎖させられました。一千万人以上のフォロワーがいたにもかかわらずです。我々は皆、全体主義の社会の一番重要な特徴は公開と透明性を許さない事だと知っています。もし公開と透明性ができた日には、全体主義と専制は存在していないでしょう。もしこれらの事実を消失させられないなら、事実を言う人を消失させるのです。

HM 艾未未が言ったように、彼の監視に対する非難は、とても典型的だと思います。どんな全体主義的統治もみなそうです。キューバやイランのアフマディーネジャード(大統領)など、彼らは皆対外的には軍事力を発展させ、国内では監視を強めています。このようなことをいつも耳にします。例えば工場では、労働者は強制的にCIA――中央情報局のメンバーに入れられます。可哀そうな彼らは何がCIAか知らないのです。これは典型的だと思います。また彼の父親の境遇についても少し話したいです。なぜなら彼はその便所は中国で一番清潔なトイレだと言ったからです。オスカー・パスティオール*4は言っていました。強制された中で尊厳を持つのだと。人々が強制されて行うこと、そのことを極めたとき、個人の道徳はまた少しも損なわれることなく新たに作られるのだと。ジョルジュ=アルチュール・ゴルトシュミット*5は本にこう書いています。彼は幼い頃カトリック教会が設立した全寮制の学校に入っていて、修道女たちは彼を辱めるため、道化師のかぶる変な帽子を作らせました。彼はその帽子を完璧に非の打ちどころがないまでに作りました。屈辱をそのまま受け入れたから作ったのではなく、まさに逆のものを作り上げたのです。彼を真に打ち砕く方法はないのです。彼は屈辱の中にいても、そこで尊厳を建て直したのです。お父様もおそらくこういう状況だったのでしょう。 

MK おふたりに共通したことですが、あなた達の作品は自分の国では発表できません。彼がルネッサンスから学んだ中指を立てる作品が北京で公開されるのは想像できません。ヘルタが『澱み』を発表する前に、長い間作品が出版されなかったのと同じです。それはどのような状況下なあのか、ある政治的考えを持つ人が、彼の作品をその人たちのために創作したというのに、その人たちに伝えられない。あなたはテート・モダンのターバイン・ホールで展覧会を行おうとしています。あなたはミュンヘンにも行きました。来週あなたの展覧会はデュイスブルグで行われます。この様な状況は正常だと思いますか、それともスキャンダルだと思いますか?人々はあなたの展覧会が中国以外で行われるのにもう慣れてしまったのでしょうか?

AWW これは習慣にはしがたいことです。なぜなら作品の発表を許したとしても、あるいは作品を誤読したとしても、不条理な感覚が生まれるでしょうから。全体主義の政治の罪悪は普通の人の正常な交流と表現するルートを破壊したことにあります。それは人の表現方式を変え、他の言語で、他の表情を用いて、守られなければいけない表現方式の中で人の尊厳と自信を失わせます。

MK あなたにとっては二重の意味があるでしょう。発言権がないルーマニアの少数民族として。

HM そうです。私はちょうどそのことを考えていました。私たちの状況はちょっと違います。艾未未は依然として全体主義の国家で暮らしています。全体主義の経済が飛躍的に発展する国家。一方で経済がすさまじく発展し、一方で支配権を握って離さない。私は理論上全体主義を脱却した国から来ました。もしまだ私がルーマニアにいたら、私は毎日独裁政府の遺産と戦うか、あるいは一時期消失してまた復活した独裁と戦わなくてはならないでしょう。艾未未はこの全体主義の専制を毎日感じている。これはばかげた事です。更にひどいのは多くの西洋の国が中国に頭を下げ、さらには自ら譲歩している事です。そういう人は最近のフランクフルト・ブックフェア*6やオリンピックで見かけます。あの開会式で歌った子供は、地震で救出された両親を亡くした孤児だといいます。これは私にとって最も残酷なことでした。この孤児が体現しているのはただ専制政権のお情けだけです。私はこれはひとりの子供に与えられる最も残酷なことだと思います。それにあの女の子。人々は彼女の声だけを使いました。なぜなら他の少女の方がもっときれいだったからです。悪魔のような出来事です。だから彼の状況は私と違います。他にも現在と当時は全く違います。50年代のルーマニアも違います。
本当に不思議なのは、ひとつの国家がほとんどくっついて展覧会に来ていたことです。彼らは彼を尾行し、周囲のいたるところにいて、観察する。彼らは皆すべてを公開してやり、彼は例外的な異なる意見を持つもので、彼らは対応しきれない。なぜなら彼の国際的な名声が大きすぎるからです。これこそが国外の知名度であり、西洋国家の抑止力です。その他の有名でない人は、すぐ監獄に入れられる。政府はいつもそう考え、彼らはどんなに遠くへも来られる。どのようにいろいろな人を処罰するのか、彼らはずっとこのようにやってきました。つまり囚人を異国で処罰する。相手を更に懲らしめるために、彼らは心理作戦と方法の訓練を決めているのです。

MK 艾未未はインターネットとブログが政府に反対する一番の手段だと言っています。このふたつの手段であやつる言論を国家がコントロールするすべはない。あなたのブログ以外に我々に人々のインターネットでのつながる速度がどのくらい早いのか教えて下さい。この国家に第二の国家が存在するのですか?当初東ドイツで、第二国家とは西方の貨幣をもっている人でした。今私は思うのですが、中国の第二国家とはブログをしている人、情報が迅速に伝わる人ではないですか。

AWW 間違いなく私たちは極端な全体主義国家で生活しています。この国家は古い権力構造を放棄しようとせず、そのためにどんな代価を払うのも惜しみません。この国家は世界の五分の一以上の人口を持ち、全世界と広範な取引をし、さらには多くの人は未来世界の種の希望とまでみなしています。しかし皆さんにはっきりと言います。もしもこの体系がこのまま存在し続けたら、それは人類社会の最大の災難です。個人の基本的権利をはく奪し、個人の最も基本的な自由に干渉する国家、その迅速な発展は何を意味するのでしょう?
インターネット時代の到来はすべてに変化の可能性をもたらしました。私はいつも言っています。インターネットの出現は人類を前インターネット時代と後インターネット時代に分けたと。中国のような全体主義国家は特にそうです。インターネットがなければ、我々は永遠に周囲で何が起きたか知らず、誰が捕まったか知ることもできない。誰が精神病院に入れられたか、どの家屋が倒壊し、何人亡くなったか知らない。今これらすべてが可能になった。人々はインターネットから様様な情報を得、自分の意見を表明しようとする。依然としてすごく狭い範囲でしかないとはいえ。中国人として初めて自分と他人の関係を感じ取った。他人の苦痛はあなたの苦痛であり、他人の喜びはあなたの喜びで、あなたの努力が他人の苦痛を取り除くだろう。

MK 私は専門家ではありませんが、我々が中国に関する報道を読むたびに、きっとこの一党独裁が崩れ去る日が来るだろうと思います。カストロが死んだ後のキューバ、彼の弟ももう80歳です。おそらくこれからのキューバは民主に向かうだろうと誰もが思っているように。あなたのブログでは現状を変えることに対して大きな期待を寄せていますか?

AWW 最も怖いのは、我々が毎日そういう期待の中で生活していることだ。しかし現実の状況からみると、中国の安定維持の費用は教育への投資をはるかに上まわっている。インターネットの封鎖は毎日強まっている。例えばここ10日で、私の10のインターネットのアカウントが封鎖され、私は絶えずアカウントを変えなくてはならない。昨日私は眠っていない。なぜならずっとアカウントを変えていたからだ。中国でインターネットは重労働だ。父の便所掃除よりもっと難しい。

HM 私はわからないのですが、インターネットは本当に最後の政治的力でしょうか?私はいつもこのことを考えています。つまりインターネットと情報が存在してかなりの年月になります。しかし人の生命の長さから言うとどうでしょう。イランの事件は我々も経験しました。その情報は絶えず発信され、政府が遮断しようとしても、若者は何かしら方法を考えて、情報を拡散させました。でもその情報は私たちをどこに導くのでしょう?結局ムフマード・アフマディーネジャードが多くの人を殺し、多くの人を拘束し、彼の仮選挙は合法的政府になりました。同様にこの手段は中国をどこに向かわせるでしょう?インターネットができて何年もたちました。ネットユーザーはいつあるいはどのようにすべきなのでしょう?個人個人の趣向は異なり、お互いは見知らぬ同士です。人々はある方式から抜け出し、お互いに知り合い、どのみち立ち上がり出てこなければ。インターネットの世界はそういう行動が必要ではなくなり、画面上で何かしたければそれをする。中国の強権は今このように傲慢になり、何の遠慮もしなくなりました。我々が何を考えようが構わない。はっきりしています。その経済力を私たちは知っています。中国は我々に言うでしょう。くたばれと。中国は国際政治の舞台上で傲慢極まりなく、何の遠慮もしません。インターネットは本当に大きな力を持っているのでしょうか?

AWW インターネットはもちろんすべてを変えることはできない。それは人が設計したものだからだ。しかし技術の革命は我々を過去の人とは違う者にした。私は技術の力を信じる。なぜなら光のない真っ暗な部屋と蝋燭の灯った部屋とは違う。同様に窓のない部屋と壁に一つの穴の開いた部屋も違う。我々が今日直面している問題はいわゆる全体主義の問題だけでなく、それぞれ一個人の問題だ。この一個人は共産党国家の内と外の人を含む。しかし幸せな体験にせよ辛い体験にせよ、最終的には個人が感じ取らなければならない。だから権利に関する討論と個人が行動し参与するという討論は、それぞれ一個人がしてこそそれぞれが利益を受ける。そうでなければその努力は何の意義もない。おそらく最終的に自由を獲得できないかもしれないが、我々はその自由の可能性に介入し始めなければならない。

MK ここで一言申します。思考することをもって今回の会談の最後とします。我々はここでこの問題を解決できないでしょう。
我々が外国の人権の状況を議論する時、同様に、我々の国でも同様にいつも人権侵害の事件があることに気付くでしょう。我々はもちろん自分のため、子供たちのために戦うことができるでしょう。問題は、人権の現状が芸術家の創造に影響を与える事で、我々はその筋道をはっきりさせる術はありません。芸術祭で全面的な理解を得る事を希望します。おふたりのご参加に感謝するとともに、お仕事のご成功をお祈りします。


ⅰ ミッシェル・クルーガー(Michael Krueger)(1943-)ドイツ人。作家、翻訳家、出版人。

ⅱ ヘルタ・ミュラー(Herta Mueller)(1953-)ルーマニアに生まれ、後にドイツ国籍になる。作家。2009年ノーベル文学賞受賞者。(訳注)邦訳は『狙われたキツネ』(2009)、『澱み』(2010)、『息のブランコ』(2011)すべて山本浩司訳にて三修社より刊行。

*1 マーク・シモンズ(Mark Siemons)ドイツ人、記者、作家、艾未未のドイツ語の伝記作者。

*2 ケルン国際文学祭は2001年に始まり、毎年3月に全世界の作家と芸術家がドイツのケルンの劇場や書店などで、講座やフォーラム、演劇やパフォーマンスを行う活動である。ケルン国際文学祭はヨーロッパで最大の文学祭の一つ。

*3 イオン・アントネスク(Ion Victor Antonescu)(1882-1946)ルーマニアの軍人、政治家、第二次世界大戦時期にルーマニア首相となる。(訳注)1946年ソ連に捉えられ、戦犯として銃殺刑に処せられた。

*4 オスカー・パスティオール(Oskar Pastior)(1927-2006)ルーマニアに生まれ、後にドイツ国籍になる。詩人、翻訳家。(訳注)ヘルタ・ミュラーの『息のブランコ』はソ連の強制連行がテーマだが、オスカー自身も強制連行された経験をヘルタに語り、主人公のモデルになっている。

*5ジョルジュ=アルチュール・ゴルトシュミット(Georges-Arthur Goldschnudt)(1928-)ドイツ人、作家、現在パリに居住。

*6(訳注)2009年10月14日から18日まで、第61回フランクフルト・ブックフェアが開催された。その年のテーマ国は中国で、中国から出版関係者など2,000人、作家50人が参加した。フェア開始前から反体制作家たちを招待するかでもめ、中国政府側が立腹し、フェア開催側が謝罪という事件もあり、期間中会場内や街でデモが頻繁に行われたという。佐藤佳苗『第61回フランクフルト・ブックフェア』http://www.pace.or.jp/4-09%20frankfurt.pdf 
招待者をめぐって戴晴(1941生まれ。作家。三峡ダムのレポルタージュ等がある)の飛行機チケットがキャンセルされたり、米国在住の詩人貝嶺(1959生まれ。『傾向』という雑誌を創刊したが、2000年、非法印刷出版をしたとして12日間拘留され、後に米国へ渡る。)の招待が取り消される事件があり、ドイツ世論の怒りをかったという。
秦暉(清華大学文学院教授)『法蘭克福検討会風波』
http://www.360doc.com/content/09/1112/12/172740_8868902.shtml
BABA HIROYUKI訳『フランクフルト・ブックフェア騒動』
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/c/645df7cd96051f13da4e2d3875af0c04 

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