艾未未のことば 10 変えていく力

変えていく力
インタビュー / ケイティ・ドノヒュー(Whitewall Magazine)(訳 / 阪本ちづみ)
このインタビューは「Whitewall Magazine」(2010年 春号)に収録された内容をもとにしています。

Whitewall Magazine(以下、WWM) あなたの父親は有名な詩人として流刑にされました。彼の持っていたあらゆる本はすべて焼かれたと聞いています。何も材料のない中で、彼はあなたにどうやって文学と芸術の重要性を伝えたのですか?

艾未未(以下、AWW) 私たちは厳しい政治環境の中で育った。人々は知識人であるとか異なる意見を持っているために生命の危険にさらされた。彼らは一生監獄に入れられ、労働改造に送られ、貧しさの中で死んでいく。父もまさしく知識人のひとりだったので、当時の環境は非常にひどいものだった。父はパリでの生活経験もあり、また詩人だった。たとえ家に何もなくても、私たちは父の話す物語を聞くことができた。父は私にローマ帝国はどんな様子だったかとか、パリはどんな様子だったか話してくれた。父の心、思想それにあらゆる楽しみは詩歌と関連していたから、私にも影響したのだろう。

WWM 父親が話してくれた物語以外に、あなたの早期の芸術との接触には何がありましたか?

AWW 最初は芸術を学習するよう励ましてくれる人などひとりもいなかった。父は私が労働者となり、まじめに一生を過ごすことを望んだ。実は父は我々を守りたかったのだ。幼い頃は芸術に触れることがなかった。高校を卒業すると私は何もすることがなかった。そのとき、毛主席はすでに死去していた。私たちは流刑先の新疆から北京に帰った。当時父の友人の何人かは大学教授や翻訳家で、つまりいわゆる「悪人」だった。彼らもすることがなく、私が芸術を学ぶことを励ましてくれた。最初私は彼らがいたから勉強しただけだった。彼らはとても面白く、英知に富み、ユーモアにあふれていた。その中のひとりの翻訳家は、ゴッホ、モネ、ドガ、ジャスパー・ジョーンズの本をくれた。我々は印象派の画家をとても好きだった。なぜなら当時の心境にぴったりだったからだ。しかしジャスパー・ジョーンズの赤、黄色、青の絵は理解できなかった。当時は、これは何だ?彼はまさか何の技術もない工場のペンキ職人なのだろうか?と思っていた。だから私は彼の本をどこかに放り出した。

WWM あなたは母親に「家に帰りたい」と言いましたね。当時、あなたはニューヨークをあなたの家と呼んでいました。あなたはそこで余生を過ごすと決めたのですね。何があなたをそう思わせたのでしょうか?

AWW 当時私はどんなことをしてでも中国を離れると決めていた。私の家族も私自身も多くの経験をしすぎていた。政府や政治に対してひとつの希望も見いだせなかった。20歳そこそこの若者として、ニューヨークという現代芸術の中心で生活するのは私の夢だった。これが母に「私は家に帰りたい。十年後にはあなたはもうひとりのピカソを見ることになるだろう。」と言った原因だ。その時の私は本当に無邪気だった。

WWM 80年代の芸術界は非常に保守的でした。ひとりの若い中国人の芸術家として、当時どう感じましたか?

AWW そうだ。私にとって当時は確かに過去へと後退している感覚を持った。60年代、70年代のコンセプチュアルアートや社会の現実に注目した芸術と比べて、80年代は本当に面白くなく、私の好きなタイプではなかった。しかし私は精神的にもすべてを注ぎ込んだ。アメリカで私はマンハッタンのすべての展覧会を見、たくさん写真を撮り、同性愛の権利やエイズやサブカルチャーなどに熱中するという生活を送った。私はいわゆる芸術のシステムというものをきらった。これらは名誉と利益の争いにすぎないと思った。共産主義を信仰する国から来た若者として、英語はできないし、社会関係もない。いろんなパーティにも関心はない。よそ者の感覚だった。これはとても正常なことだ。

WWM あなたは「書くことは最も良い芸術形式である。なぜならあらゆる人に理解してもらえるからだ」と言いました。それが1993年に帰国してから『黒皮書』『白皮書』『灰皮書』シリーズを出版しようと思った原因ですか?

AWW そうだ。当時、中国には現代芸術の基礎もなく、関連した本もなく、画廊も博物館もなかった。だから作業場を作って皆と交流し、本を読み、そういう思想をもっと多くの人に伝えたいと思った。差し迫ってやることは本を出すことだと思った。本を通して、人々は芸術は壁に掛けられた絵だけではないことがわかる。芸術はひとつの観念であり、考え方である。それは永遠に実現しないかもしれないが、素晴らしいものだ。これはとても成功した。それ以前、芸術はホテルのロビーに置き、外国人観光客に見せるだけのものだった。

WWM あなたはいつアトリエを建てたのですか?どうしてこのアトリエを建てようと思ったのですか?

AWW 1999年にこのアトリエを建てた。建設期間はとても短く、60日ほどでできた。その後、私は建築家となり、それから数年間で、我々は60以上のプロジェクトを完成させた。芸術家として皆に知られるより前に、すでに建築界で国際的に有名になっていた。

WWM このアトリエを建てる前には、あなたは建築の訓練は何も受けていませんね。その前に建築に何か触れる機会があったのですか?

AWW このアトリエを建てる前に、私には建築と関連した経験が二度ある。帰国前にある本屋で一冊の本を読んだ。それは哲学者ウィトゲンシュタイン*1も妹のためにウィーンに家を建てたという本だった。だからウィトゲンシュタインも妹に建てたのなら・・・

WWM どうして自分もできないかと?

AWW そうだ。ほかに印象深かったのはフランク・ロイド・ライトが設計したグッゲンハイム美術館*2だ。私はこの建築は全く好きではなかった。それは床が傾斜しているからだ。でも確かに印象的だった。今思えばすごいと思う。

WWM 建築が重要なのは、人類にある特定の時間の点で残されるシンボルだからとあなたは言っていました。これも私たちが痕跡を残すひとつの方法だと思いますか?

AWW そう思う。建築は私たちの思想や、いかに見られたいかということを反映する。またこの世界がどうなってほしいかという事も。建築は現実的な要因に基づく、制約された芸術だ。

WWM あなたは実用性を設計の中に組み込んでいるように思えます。あなたは最も基本的な材料を使い、デザインは明瞭です。すべてはまわりの資源とそれを使う人から展開されています。

AWW そうだ。すべて我々がいかに、いわゆる現実とかかわるかに関係している。もちろん設計した物がなんであれ、すべて新しい現実だ。それもあなたの現実に対する一種の解釈だ。私はシンプルな家が好きだ。子供が気ままに絵に描くような。一番シンプルなのがいい。

WWM あなたは最近の北京の急速な変化を記録しています。外国の建築家の作品も含めて。たとえばヘルツォーク&ド・ムーロンと北京国家体育場、いわゆる鳥の巣スタジアムを合作しました。また、レム・コールハースの中央電視台ビルなど、中国での外国の建築家をどう思いますか?

AWW たくさんの人が中央電視台ビルを批判するが、私は支持する。それはこの国の99%の建築はこの国の建築家が設計したものだからだ。彼らはもう長い間仕事をし、たくさんの設計はもう時代遅れで、建築の倫理や道徳的判断は全くない。西洋の建築の実践と教育とは全く相反している。だからこのような建築が若い人に何か啓示をもたらし、彼らにこのような可能性もあるのだと知らしめるなら、それは本当に意義のあることだ。

WWM あなたのデザインについて話したいと思います。「二つの脚が壁にくっついた机」(1997年)と「三本足の机」(1998年)は生活の実用的な机を使い、それを無用の物と解釈しています。それはなぜですか?

AWW ふたつの原因がある。まず、普通の物体を完全に見知らぬ環境の中に置く。これは疑いなく物の見方を徹底的に変える方式だ。次に、いかに古い技術や伝統に疑問を抱き挑戦するかだ。実際に現代の倫理と環境の下、他の側面から伝統を示すのだ。

WWM あなたが観念主義に惹かれる理由は自分が変える力になれると思うからですか?

AWW そのことを意識したことはない。私はある考えを大衆が受け入れられるものに転化しようと試みているだけだ。芸術は美術館だけのものであってはならない。芸術家はもっと我々の現実に取り組み、大衆と通じ合わなければならないと思う。

WWM カレン・スミス*3とのインタビューで、最近芸術家としての責任を意識するようになったと言っています。

AWW そうだ。そうせざるをえない。

WWM それは避けられない事だと?

AWW そうだ。自分の作品と自分の身の回りの人々の喜怒哀楽に何の関係もないとどうして思える?眼前のすべての事を気にしないでいられるか?私は、それは無理だと思う。特にこのような社会の中で生きてきて、声を上げる人に対して、彼に同感だというのは本当に貴重な事だ。少なくとも私は人々に、他の伝達方式があると伝えたい。それが正しいか誤りかは関係ない。

WWM 最近は、四川大地震後にこの震災で被害にあった学生を自ら調査をして注目を集めました。中国の警察に殴打され、病院に運ばれました。

AWW 私は当時無邪気すぎた。頭を殴られ内出血して、大きなダメージを負った。

WWM これが初めての警察との衝突ですか?

AWW そうだ。初めてだ。でもその前にたくさんの接触はあった。彼らは私を監視している。アトリエの周りにはたくさんの監視カメラがあるし、その前は入口で、二人の警官が専属で私を監視していた。私はニューヨークにいた経験から、そんなことは少しも怖くなかった。私は堂々と彼らに言った。「私を監獄に送るならそうしろ、そうでなければ私を煩わせるな」と。もちろんだ。独裁政権にとって、彼らのやり方があるのだから。成都の時は警察は早朝3時に私の泊まっているホテルにきて、ドアを蹴破り、私を殴って、脳内出血させたのだ。

WWM あなたはもともと譚作人の証人になる予定でした。彼はあなたと同じような調査をして、四川大地震で5000名以上の生徒が犠牲になったと発表しました。これこそが今回の警察との衝突の原因ですね?

AWW そうだ。しかしそれは司法システムの問題だ。どんなに腐敗していても司法は基本的に公平でなければならない。そうでなければ社会全体が崩壊してしまう。私は彼らがそんなことをするなど思ってもいなかった。私が法廷で証言するのを阻止するために、ヤクザまがいのことをするなんて。でもこういう事が起こったのだ。

WWM あなたは写真をとって、ツイッターに載せました。

AWW 幸運にも私はネットを理解している。彼らが入ってくる前に私は撮影する準備をしていた。そして素早く携帯でツイッターに載せた。今、全世界でこんなことは皆がわかっているのことなのに、彼らは知らなかった。彼らが知っているのは古いやり方の嫌がらせだけだ。今回は違った。彼らは世間にさらされた。

WWM あなたのアトリエで働いている人たちはみんなあなたのように頭を剃り上げています。あなたの周りに人々が集まってくるという状況にどう思いますか?

AWW 写真をネットにアップしてから、これが最新の髪型になった。私たちはユーモアを理解している。これは我々が悲哀の心を持っていることを意味する。これは一個人が殴打された問題ではなく、我々の生活環境に関連しているのだ。多くの人は殴打されても病院に行く機会さえない。

WWM あなたと警察との衝突は9月に起きました。現在、何か変化はありましたか?

AWW もちろん良くなってはいない。でも彼らはどうやって私のような者に対処していいのかわかっていない。彼らは習慣的に我々のような人に対処している。実際私は彼らに対して同じように対処する必要はないが、私はずっと彼らに時間を割くつもりだ。彼らにどの命にも侵してはいけない基本的権利があること、このような専制政治はもう通用しないことをわからせたいのだ。これは現状を変えるための我々の唯一できることであり、我々の責任である。他の人のためにも努力する。突然天から幸運が降ってくるのを待っているのではだめだ。自分で変えなければならない。


*1 ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)オーストリアに生まれイギリス・ケンブリッジで活躍した哲学者。『論理的哲学論考』などが代表作。姉(妹という説もある)のマルガレーテ・ストンボロー・ウィトゲンシュタインのために建てたストーンボロー邸は外装もなく、モダニズム建築として評価された。クリムトは『マルガレーテ・ストンボロ=ウィトゲンシュタイン』という題で彼女の肖像を描いている。
*2 ニューヨークの美術館。ライトの後期代表作とされる。1959年完工。カタツムリの殻と称される螺旋状の構造を持ち、中央部は吹き抜けになっている。見学者はエレベーターで最上階に上がり、螺旋状の通路の作品を見ながら、階下に降りるようになっている。
*3 英国生まれ、北京在住の現代アート評論家、キュレーター。中国現代アートのキュレーターを数多く務める。

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