艾未未のことば 8 『不合作方式[FUCK OFF]2』展(フローニンゲン美術館)に関する対話

『不合作方式(FUCK OFF)2』展(フローニンゲン美術館)に関する対話
艾未未、崔燦燦(キュレーター、批評家)
訳 / 阪本ちづみ


Wu Junyong Don’t be Silent (2011)

崔燦燦(以下、CCC) 『不合作方式[FUCK OFF]』は態度でもあり、ひとつの方法でもあります。現在のコンテクストの中で、どのような形態として不合作方式を更に強調したいのでしょうか?

艾未未(以下 、AWW) 『不合作方式』は一つの方法であり方式で、方式とはつまりその内容だ。芸術は原点として、自意識を何物にも与しない自分の方式を通じて表現することで、表現の過程で形態が現れる。この形態は社会のコミュニケーションの需要を満たすことができ、こうして文化的勢力を形成する。もし現象だけならば意義がない。それは文化的現象ではなく、文化的勢力を形成しない。また、他の意識に作用することもできない。

CCC 重要なのはやはりコミュニケーションで、そこから生まれた形態の中で変化するのですね。

AWW 自分の形態を形成したとき、変化はまずそれ自身の中で起きていた。宇宙の万物に向き合う時、物質本体として、あるいはある形態として、すでに必然的に変化――他の物に対する変化――が発生した。

CCC 「不合作」の対象は何ですか?

AWW 「不合作」は、すでに存在している習慣とか日常とか称される形態への疑い、軽蔑の態度、あるいは非合法の立場であり、合法的な地位を持たない現実のことだ。

CCC 12年前に上海で行なった『不合作方式1』と今と比べて対象はどんな変化がありましたか?

AWW 対象は変化していない。まず中国の政治とイデオロギーが変化していない。中国の政治は初期の混乱から腐敗へと向かい、依然として国家資本主義であり、全体主義を利用して略奪と独占を達成した。イデオロギーは依然として権力に頼り、更に野蛮なことに軍隊と警察に頼っている。典型的な軍事化方式の政治とイデオロギーは、根本的にこの最も基本的な状態から抜け出していない。

CCC この13年で、我々は資本の「悪」も獲得した。

AWW もし資本が全体主義の「悪」でなければそれはただ人間の悪の一部分でしかない。現在の中国が体現しているのは資本の「悪」ではなく、全体主義のもとでの資本の「悪」だ。なぜならこの全体主義は決定的なもので、中国で発生するすべての事を完全に決定し、すべての事は全体主義の政治と関係している。

CCC だから、基本的な自由がないという中では、自由経済と多様な思想は単なる装飾品でしかない。人々は「資本は安全」という幻想の中に生きており、それはあらゆる人間の「悪」に追いやるだろう。今回の『不合作方式2の』の展覧会を企画するにあたり、あなたの企画の意図の重心点は何も変わらなかったか?

AWW 我々はグローバル化の時代、インターネットの時代に生きている。形式上の多様化、これが最大の特徴だ。しかし権力システム、権力の美学と闘い、あるいは論争する立場は一致している。この一致性の多くは、純粋に自分の現実への認識からきている。


Top: Ren Hang Untitled (2012). Bottom: Lin Zhipeng Untitled (2012)

CCC 不合作の立場は変化していないし、自分の存在を証明する永遠に変わらない方式であるべきだ。芸術家を選ぶときの政治的傾向はどのように考えたか?

AWW 我々の政治的傾向と立場は非常に明確だ。この政治的傾向とは、個人には表現の権利があり、一番弱く小さな魂にも表現の意志があるということだ。この意志の出現はしばしば主流の表現とは対抗する。しかし、対抗するために対抗するのではない。もし対抗性がなかったら、存在意義もないし、存在する空間もない。意義と空間は対抗を通じて開拓しなければいけない。

CCC 対抗してこそ現有の物以外の可能性と新しい構造が生まれる。まさに対抗が芸術に実験性をもたらす。

AWW どんな若者でも、現在本当の自らの言語を形成したいなら、自分の対抗する空間を開拓すべきだ。この開拓された空間は新しい表現形態から完成されなければならない。「新しい」あるいは「異なる」方法が出現したときにこそ、その対抗性が形成される。この時、その生存理由が形成される。

CCC 新しい表現方式についていえば、私がもっとも興味を持っているのはコミュニケーションと伝播の方式の変化だ。現在はメディアの時代で、視覚的な実験は基本的にもう飽和状態になり、無力になり、ますます同質化している。モダニズムの意義上の形式的な対抗は今も力があると思うか?

AWW モダニズムの形式的な対抗がもし存在するなら、それは必然的に一種の「父親殺し」である。自分を殺してはじめてできることだ。自分を殺さなければモダニズムはない。現実は非常に大きな変化が起きている。自分に関する解釈は他人とのコミュニケーションを通じて完成する。このような大規模な出現が技術あるいは社会の領域、あるいは公共空間ですべて普遍的な現象になった時、芸術は非常に技術的で専門的な表現として、どのようにコミュニケーションを完成させるかが、芸術家にとっての挑戦だ。

CCC 効果的なコミュニケーションは普遍的な欲求と関係がある。どんな環境においても、人の自由への願いと生命の尊重はもっとも基本的な常識であり、誰も逃れることはできない。

AWW もし一人の人間の表現とコミュニケーションが、人の基本的な欲求と生命の基本的尊厳と無関係ならば、我々もそれを意に介する必要はない。我々が意識するのは人間の最も基本的な価値を損なう状況の下で、芸術が作り出す様々なリアクションに他ならない。我々の芸術に対する価値や評価はこれらもっとも基本的な価値観、例えば自由、独立、生命、権力への欲望から逃れることはできない。

CCC もしその前提を無視するなら、中国のいかなる芸術の形式や言語への単純な熱狂もくだらない反復にすぎない。芸術はこの意味で伝達手段となる。

AWW 私は芸術は一種の存在だと思う。伝達手段である以上、存在のあらゆる特徴を備えており、他のものとは違う。芸術はそれ自身の言語システムがなければならない。この言語システムは必然的にその他の存在の表現と呼応する関係を作ることができる。たとえば我々の感受方式、我々の感情の中の夢、恐れ、焦り、さらにはいわゆる境界と言葉にできない感情と、離れられない密接な関係にある。


Left: Zhang Dali Second History (2005). Bottom: ZOO X (Zuoxiao Zuzhou) People And Stories Around Us (detail) (2010)

CCC 芸術の言語システムの実験、あるいは新しい言語の試みはどこから来ると思うか?

AWW 認知からだ。認知は感受と理性的な秩序への更に深い理解を含んでいる。この理解そのものは人間の秩序の有効性と有限性に対する理解だ。なぜなら芸術はある種の人間の活動として、ある種の美学的活動として存在しているからだ。美学は倫理学と哲学とは離れられない。つまり離れるすべはないし、人間の自己認知と宇宙の中での人間の未知から逃れるすべはない。この認知そのものがつまり極端に政治化した行為であり、アクション[態度]なのだ。

CCC 認知の変化が反応の変化をもたらし、反応が態度に変化する。態度は芸術を通して方法になる。

AWW その通りだ。反応自体は方法にはならない。反応はある手段を通じて完成しなければならない。なぜなら芸術は手段と技巧に関係するが、この手段は同時に手段のない反応でもよい。だから伝達手段がほしい、形態がほしいなら、たとえあなたがこの形態と伝達手段を極小化した時、それを更に反応そのものに向かわせる時、それはあなたの世界の芸術化の理解を体現している。そしてこの理解が常に一つの作品の感動させるところなのだ。

CCC 反応が態度に変わるとき、この過程は複雑な方法がある。反応は一つの形態を通して芸術へと転化する。対象と交流する、あるいは反抗するとき、対象も反応するだろう。「再反応」と「再々反応」の過程が存在し、その過程は予測不能で、反理性的で、反秩序的であるが、新しい方法を提供するだろう。

AWW 反応が「再反応」「再々反応」を産むときこそがいわゆるコミュニケーション[交流]の成立だ。芸術は文化の一部分であり、個人的な行為ではなく、伝えるものだ。デュシャンはあるエッセイの中で、自分が世界で最も優れた芸術家だと思うなら、屋根の上で「私は優れた芸術家だ」叫ぶがいい。しかしその評価は後世の人に認められなければならないと書いている。彼はとてもクリアだ。彼はこう言っていた。「私の作品は何年もたってからやっと認められるだろう。」この中にはいくつかの問題を含んでいる。芸術はどのように存在するのか。芸術は伝播を通じて存在するのだ。伝播を通じない芸術は存在しない。その生と死は伝播する能力から体現されるもので、良い芸術悪い芸術などなく、ただ伝播する能力がある芸術かどうかしかない。

CCC 今回の『不合作方式2』で、最終的に伝わるのが芸術的イメージではなく、不合作の態度、認知の方式が伝わることを、私個人は希望する。

AWW 伝わることへの再度の肯定、伝わることの理解、あるいは伝える方式の一種の認識、あるいは新しい伝達の可能性の意識は、不合作の態度が生き残る重要な条件だと思う。


Top: Xia Xing Struggle (detail) (2012-13). Bottom: Ye Haiyan Free Sex (2011)

CCC あなたはキュレーターの一人として、今回の展覧会でどのようにアーティストを選んだのか?

AWW 私は、現在売れている、あるいは今いる芸術家にあまり詳しくなく、あまりチョイスはしていない。具体的なチョイスをしたのは主にあなたと馮博一だ。私は防衛式の戦士で、排除法を用い、このようなものはいらないと排除しただけだ。それは良かったと思っている。なぜなら今ある野菜畑の中から野菜を選ぶしかないからだ。しかしどんな野菜でも、ちゃんとした料理人がいれば望みどおりの料理ができる。

CCC 今回の展覧会自体に、何か問題があったか?

AWW 中国の現代美術はスケールも勢力もないことが一番の問題だと思う。なぜなら文化が生き残るには一定の文化的勢力に頼らなければならないからだ。異なる地域、異なる時代の芸術家でも、共通した直観と欲求をもってこそ、その時代の経典的なディスコースや特徴を作り上げる。この特徴はその民族、あるいは地域の文化として影響力を持ち、啓蒙する働きも担う。この点が中国には非常に欠けている。土壌はすでに徹底的に破壊されている。種をまき収穫される前に何度も引っ掻き回され、別のものをめちゃくちゃに播かれてしまった。だから何も収穫を期待できない。生き残った苗があるとしたらそれこそ奇跡だ。しかしこの土地の作物に奇跡がおこらないと言っているのではない。生存そのものがすでに奇跡なのだ。その形態が依然としてすでに奇跡と思えるが、大多数は見る影もなく変わり果ててしまうのだ。

CCC 私は多くのアーティストと展覧会のいろいろな問題について話し合った。彼らは芸術と政治の関係をどのようにはっきり区分するのかという問題を語っていた。彼らは芸術が政治に拉致されたと考えている。この問題についてどう思うか?

AWW それは処女コンプレックスだ。あるいは単細胞が増殖すると希望しているのだろう。水のないところで泳ぎの練習をし、足が地面を離れられないのに宇宙に行く、そういう幻想も可能だろう。しかし私は彼らに興味があるわけがない。なぜなら感情を理解し、人情もある人間として、不合作芸術とは何かわからないわけがない。

CCC 自分の髪の毛を引っ張って空を飛ぼうとするのか?どんな形式や言語も、もしこの土地の問題と関係なく、または体温を持たないとき、それはすぐに暴かれる言語のマジックだと思うしかない。

AWW たくさんの人がマジックをしているが、マジックが自分をだましきれなくなったとき、残るのは気まずさだけだ。基本的に中国の美術教育あるいは現有の美術体制と美術の腐りきったサークルの中は、大学から美術協会まで、そこにいる芸術家は基本的にこの気まずさの中にある。彼らは自分でも信じていないゲームに興じ、たくさんの仮面を作り出し、そしてその仮面が顔なのかケツなのか分からなくなっている。彼らはジャスミンと菊の区別もできない。だから自分の幸せだけ願っているのだ。

CCC 彼らはおそらく絶対的な「理中客」 (*1)になりたいのでしょう。「理中客」たちは全世界は自分の独立と英知を証明するために存在しているとみなしている。卑しい方法です。
*1 理中客とは理性、中立、客観の略としてネット上で使われている。社会的、時世的感覚がなく、欺瞞的だという意味をもつ。http://zgcf.oeee.com/201301/04/13797.html

AWW 「理中客」とは面白い。このひどく混乱した状況下で、理性、中立、客観という原則を保ちたいという人は、みな脳みその足りないごまかしだ。彼らは自分の体の真ん中の器官の大小を見て、世界の流れが自分と必然的な関係があると想像する。この想像は非常に卑しいものだ。

CCC そして自分は中産階級のふりをして、書斎にこもりテキストのエリートとなる。少なくとも中国の多くのアーティストやキュレーターがそうだ。彼らが自分には政治的立場はないと言う時、まさに簡単に政治に利用されるのだ。

AWW 我々のいう中産階級でも知識分子でもいい、あるいはバランス感覚がある美学を持っているという客観的立場の人たちは、本質的には全体主義の共犯者だ。なぜなら彼らは傾いた廃墟の上に自分のおだやかな秩序を打ち立てたいと思っているからだ。正直に言うと、彼らは評価に値しない。彼らは政治的立場はなく、さらには意識もない。自意識のない人に政治的立場なんてあるわけがない。自意識のない人がどうやって他人に同情したり、世界に関心を持つというのだ。彼らの目に映る世界は永遠に彼らの内心よりも暗い。

CCC 彼らには血も肉もなく、身体の感覚を拒絶している。だから芸術の想像力より社会のほうが強大になり、芸術はもう前衛ではなくなった。今、社会は芸術よりもドラマティックで、リアルで、パワフルで、また「恥知らず」になっている。逆に言うと芸術はこのような方式でどのように満足できるのか。たとえば西安の妊婦が七か月で流産するビデオ。

AWW 黄埔江に浮かぶ豚、「黄埔豚」(*2)は黄埔江の人よりも壮観だ。もし中国の現実が腐肉の塊ならば、芸術は腐肉のはなつ臭気であり、もちろんふり払ってもついてくるハエのようなキュレーターもいる。しかし一番気持ち悪いのはやはり腐肉だ。ある人は腐肉は何かで包めば呑み込めると言っていた。
*2 2013年3月11日、上海の黄埔江に豚の死骸が大量に浮いているとの報道があった。その後死骸の数は1万頭までにのぼった。

CCC その人たちは変だと思う。

AWW 彼らに呑み込ませればいいんだ。


He Yunchang One Meter of Democracy (2010)

CCC 自由には二種類ある。一つは個人的な完全なる自由、一つは自由主義の自由。全普遍的な自由という価値観のために、私たちは社会的責任を負っている。不合作方式はどのような自由を強調しているのか。中国の現実を変えることか、それとも完全に個人的なものか?

AWW 自由は責任を伴う一つの選択だ。自由を求めれば、障害が現れる。自由を求めない人には障害はない。自由を想像する人は誰でも巨大な障害にぶちあたる。もしこの想像をつなぎとめておきたいと望むなら、責任を伴うことになる。その想像が一時的なものでない限り。

CCC 少なくとも私は自由が我々をもっといい方向へ向かわせると確信している。キュレーターとして、キュレーター制度の自由を追求しないなら、現有制度の無限の繰り返しになってしまう。もし経典しかなかったら、私は絶望するだろう。私は誰なのか。私がいかに存在するのかが、問題になってくる。私は自分が有害であり、非合法であり、成功もしたことがなく、主流とは疎遠でいたいと思っている。

AWW 今文化的見解を表現する人はみな、封建的全体主義の巡礼者ではなく、転覆者であり、三つ目の選択肢はない。あなたは自分が転覆者だと認める勇気があるのか?我々は胸をはって「私は転覆者だ」と言わなければならない。私は巡礼者ではないし、転覆者でもないとは言えない。「あなたはママのおなかの中にいて、まだ出てきていないのだ」。我々は誰が転覆者で誰が巡礼者か簡単に見分けられる。巡礼に行くやつは行かせておけ。転覆者は転覆させにいけ。

CCC 自我の確立は自己の存在方式、表現方式を通す必要がある。しかし同時にその背後に問題が隠されている。個人は一定のエネルギーのレベルに達すると権力を持つ。この権力がある勢力と融合すると別の全体主義に変わるだろう。

AWW 個人の特徴が現れるとき、この特徴はすでにある価値を表す。この価値は他人にコピーされ、認証され、認められる。この時、個人は影響力を持つ。影響力がない場合孤立して存在できる。影響力の存在と持久力は利用される価値からきており、増やされたインターフェイス[接点]である。もし接点がなければそれは死亡、つまりあなたが手を差し伸べず、笑顔もなく、触れ合いもないならそれは死である。だから芸術は「反死亡」遊戯なのだ。我々がしていることは生まれつき、ある政治的立場があるわけではなく、生存そのものが「反死亡」遊戯なのだ。

CCC あなたは芸術家の中で個人の影響力を最大に発揮していると思う。あなたも別の「主流」文化になるのではないか。

AWW 不幸にも全体主義の社会が私の自由な精神を育てた。しかし同時に私の型と原則も表現できた。この型と原則は多くの若者にコピーされている。私のコピーはある価値観のコピーであり、私はこの価値観の従属物にしかすぎない。一滴の水のしずくでも太陽の光を映し出すことができるように。この太陽こそが自由であり、私は映し出すのに成功したにすぎない。

CCC 我々は二種類の人しかいない、一つは巡礼者、一つは転覆者だと言いました。あなたは若者にどんな態度をとってほしいですか?

AWW もちろん転覆だ。転覆者は転覆し続けるが、巡礼者に前途はない。巡礼者の目的地は容易に見えるが、目的地に着いたらもう終わりだ。もし身体の細胞がなく、細胞分裂がなかったらそれは死だ。だから分裂は永久不変であり、分裂こそが転覆の一部分なのだ。

CCC この展覧会あるいはあなた自身も分裂していると思いますか。

AWW もちろん。我々はずっと不安の中におり、ずっと不満の中にいる。この展覧会はある価値への志向と分岐点にしかすぎない。展示された作品は我々が昨日した糞のようにとっくに便器に流され、もう地下水の中に飲み込まれた。

CCC それでは私と馮博一との協力関係をどのように思っているか。

AWW 君たちはまた下痢をしたら別の便器を探すだけだ。こんな感じだ。

CCC この展覧会は海外を巡回する。中国の美術の展覧会が中国でやらずに海外でする目的は何か?

AWW 最大の目的は再度ある文化を表現することだ。この文化はくだらないものかもしれないが、その文化が置かれている立場は相変わらず厳しい。第一回は上海で行えたが、二回目はオランダでやらざるをえなかった。オランダ(中国語で荷蘭,Helan)でも河南(Henan)でも大した差はないが、結局河南ではなかった。


Photo: 宮本真左美

CCC あなたはずっといろいろな新しい方式で交流と表現を行っているが、今回の展覧会は伝統的な方式をとった。交流方式、表現形式もとても伝統的だ。

AWW そうだ。美術館や画廊を借りての展覧会はみな伝統的になる。

CCC 今回の展覧会自体も非常に古典的であり、現代的なモデルを使っている。単に美術館を借りて、ある情報や知識を伝えただけなのか。

AWW 血液は普通人間の血管か動物の血管を流れている。それを一滴試験管の中に入れて顕微鏡で見る。これが美術館に作品が入るプロセスだ。しかしこの一滴にどうして生命の苦しみや喜びを見ることができるのか。実際のところもうじき死ぬのだ。

CCC 生命の描写はとても単純化されている。しかし新鮮さと未知に対する無限の憧憬を維持しているのは、とてもいいことだ。「不合作方式」というテーマであれ、芸術であれ、我々はそれを危険な関係の中に放り込むことを試みた。「不合作」そのものが危険であり、現行秩序の中ではコントロールできない。

AWW 少なくとも私が言いたいのは我々が知らない範囲、あるいは我々が仮定した範囲のことだ。ある問題においては誰も優れているわけでもなく、誰もが熟練していない。文化の問題で自分を巨匠とか熟練者と称するものはもっとも軽蔑されるべき人間だ。

CCC 情熱を持ち続けること以外、私は99パーセントの場合、愚か者だ。しかし愚か者の再考の状態を私は信じたい。この展覧会は去年準備を始めてから現在まで、すべての過程において我々はよく話し合い、選んだり否定したりした。あなたは良し悪しなどないと言ったが、良し悪しがない場合、我々の選択はどのようにやり遂げたのか?

AWW 我々の選択はある時に、ある人たちと一緒に、互いに理解できる話をして、それで決定した。これがいわゆる選択だが、普通文化はこういうことだ。「両岸の猿声啼(な)き住(や)まざるに、軽舟已(すで)に過ぐ万(ばん)重(ちょう)の山」(両岸の猿の声が絶え間なく聞こえていたが、私の乗った小舟はいくえにも重なった山々の間を通り過ぎて行った) *3
*3 李白の五言絶詩「早(つと)に発(た)つ白帝城」の一節

CCC: 二人で詩を朗誦しますか?

AWW これは詩?

CCC これなら中国で朗誦できる。オランダに行く必要はない。今回あなたはオープニング・セレモニーに参加することはできなかったから、私と馮博一だけが行った。

AWW いいと思うよ。君たち二人の方が、私が行くより重要だ。なぜなら君たちのほうが私より長生きするのだし、最後は君たちに笑わせてもらうよ。

CCC 今回の展覧会で最終的に伝えたいものについてどんな期待をしているか。

AWW もともと期待などない。展覧会に期待はない。展覧会は一方向の行為で、必ず何かの反応や錯覚をひきおこすだろう。

CCC 良い悪いはすべて反応の一部分であり、自由の目はこれを含んでいるのだろう。

AWW 当然だ。これはコントロールできる部分でもあるし、できない部分もある。だから今回たくさんの人が権力に対して軽蔑の目を向けたのだ。それが彼らをナーバスにさせた原因だ。以前言ったことがある。多くの人が夜眠らずにキーボードを打つ音の中で、一つの時代は終わるだろうと。なんと驚くべき時代だろう。しかし歴史上は私の悪い予想があたるだろう。我々は見つめ続けよう。
(2013年4月2日)


ZOO X (Zuoxiao Zuzhou) People And Stories Around Us (detail) (2010)

FUCK OFF 2
2013年5月25日(土)-11月18日(月)
フローニンゲン美術館
http://www.groningermuseum.nl/tentoonstelling/fuck-2-curated-ai-weiwei-feng-boyi-mark-wilson

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