中国現代美術の裏地   文/日埜直彦

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賈樟柯『世界』(2004)

賈樟柯(ジャ・ジャンクー)の映画「世界」(2004)は、北京近郊の「世界公園」を舞台としている。世界各国のツーリスティックな名所をミニチュアで再現したテーマパーク、登場人物はその従業員だ。高さ1/3ほどのエッフェル塔、ハリボテのストーンヘンジ、ピサの斜塔の高さはせいぜい10メートルばかり、池に浮かぶ小島がマンハッタン島でWTCが見える。ただそこにいるのは中国人。見て歩くほうはもちろん、スタッフもほとんど中国人で、模した場所に合わせたカツラをかぶり、コスチュームを着ている。すべてフェイクだが、同時にそこで働く彼らにとってそれは月並みな日常だ。華やかな舞台に立つショーダンサーも楽屋で陰りを見せるように、楽しい“観光名所”巡りの非日常性には鬱屈した日常が裏腹に存在する。
「世界公園」はもちろんテーマパークだが、中国現代都市にもいくらかそれと似たところがある。フォトショップ・アーキテクチャーなどと揶揄される借り物のスタイルのパッチワーク的集積、だがそれを決まり文句のようにフェイクと揶揄することにさして意味はない。むしろ彼ら特有の困難とせめぎあうある種のしたたかさに目を向けてみたい。

都市は根本的に量的なものだから、まずはデータから中国都市の現状を見てみよう。東京(横浜市、千葉市、さいたま市などを含む)の人口は3700万人で単一の都市圏としては世界最大規模だが、上海を中心とした長江デルタ地域は8000万人、広州・深圳・香港・マカオ周辺の珠江デルタ地域は4700万人の人口集積があるとされる。統計上の区分上これらの地域は単一の都市圏として扱われていないが、既に現状でこれらの地域は東京を凌駕する世界最大の都市圏と見ることができる。中国の総人口13億人のうち都市居住人口は6億人、46%が都市に住み、40年後の2050年には73%が都市に住むことになると予測されている*1。日本に置き換えてみると、中国の現在の都市人口比率は日本の1960年代のそれに相当し、2050年の中国全体の都市人口比率は現在の日本よりかなり高いことになる。この都市化のリアリティーが想像出来るだろうか。長江デルタ地域と珠江デルタ地域の人口は中国全体の10%程度だがGDPは45%を占め、都市と農村の所得格差が課題であることは周知のことだろう。所得格差に誘引された都市への人口流入は中国固有の問題というよりもあらゆる国が経験する近代化に伴う現象だが、中国においては規模において膨大で、そのスピードが猛烈に速い。

中国の都市には条坊制と呼ばれる伝統的な型がかつて存在した。碁盤の目に街区を区切り、左右対称、全体として方形をなす理想型に基づいて多くの都市が築かれた。奈良平城京や京都平安京がこの中国の型を範に取ったように、韓国、ベトナムなど東アジア圏に伝播し、当時の地域的デファクトスタンダードであった。唐の長安はおよそ40万人前後の人口を擁する7世紀にあって世界最大の都市であり、条坊制は単なる理想型というよりも十分なキャパシティーと社会の統制を両立させるプラクティカルな形式だったはずだ。このように一定の形式によって自らの都市を整備形成した文明は当時の他に存在せず、いわば中国は都市を計画的に作るということについて、世界史的に見てもっとも長い歴史と伝統を持つ国だった。

もちろんこうした伝統的な型が現在そのまま通用するわけもなく、改革開放以降急速に変化した都市の機能的変化を受け止めるため、都市をいかに改造し、拡張するか、中国の喫緊の課題となる。ともかくそこに膨大な人間が都市に流入する以上、住む場所がなければ社会の安定に危機を招く。量的な危機には一発逆転的解決はない。止むに止まれぬこの現実に背中を押され、しかしどちらに進むべきなのか。同じく急速な人口流入を経験した1960年代の日本においては、戦後復興を着実に進行させ東京オリンピックや大阪万博に向けて邁進する建築・都市のモダニズムに対し、一定の信頼があり、すくなくともそこにある指針を示すことが出来た。そうした強力な指針のない現在において、中国は彼らの都市をいわば壮大な実験場としている。試行錯誤として、さまざまな都市計画手法を貪欲に取り込み、どれが機能してどれが機能しないか身を以て確かめる実験である。かつて都市計画を輸出した国が、旺盛に輸入する側に転じ、押し寄せる都市のグローバリズムの波を文字通り清濁併せ呑む。ある地域と別の地域の計画手法がまったく異なり、なんら一貫性がないことが常態となり、それぞれに特殊で先鋭的なアプローチが躊躇なくそれぞれに取り入れられる。こうして全体として完全なキメラが形成される一方で、強烈なスラムクリアランスが遂行され、都市的共同性が切り刻まれる。なにがうまくいくかは誰にもわからない以上、ある特定の手法に従うよりも、さまざまな手法を試す方がうまくいく手法に行き当たる可能性が高い、ということなのだろう。どのみち社会主義市場経済下にあってはいつでもご破算に出来る。キャッチーなフレーズとビジュアルで投資資本を呼び込み、短期にともかく結果を得ることが急がれる。投資が集まらない開発計画は自ずと実現せず、勝算のある開発計画には相応の投資が集まるだろう。マスストックを積み上げ人口流入に追いつくべく都市のキャパシティーが拡張される。いったん宙づりにした市場経済を再導入し、資本のメカニズムを取り入れることにした以上、それを過激に加速させて着地点を確保する以外に選択肢はないことを彼らはよく理解している。こうした状況において、傍からそれをパッチワーク云々と趣味判断を示してどうなるだろう。

こうした実験が、状況の強いる止むに止まれぬ選択だったとしても、その都市に住む生活者においてはそれぞれにかなり深刻な状況を招く。時間を経て成熟した都市にはそれなりの都市生活の文化があり、物理的環境としての都市のハードウェアに輪郭付けられつつ、そこに生活者の人生の基盤が成立する。しかしいわば「当たるも八卦当たらぬも八卦」式に生活の場所が作られたとき、文化のさまざまな水準に生じる不適合と結節点の崩壊が、価値観の混乱とアイデンティティ・クライシスをひきおこす。中国現代美術の全般的な傾向を云々するのはこのコラムの目的ではないが、しかしどうもこうした情景から、あれらのなんとなしロマンティックな宙づりを見ると、それなりに腑に落ちるような気はする。一方にスタンダードなきマーケットがあり、他方に文脈を見失い空回りする主体像が取り残され、そうして結果的にトリヴィアルな閉塞に傾く。そこには例えば対抗文化的構図の成立する余地などない。対抗すべき正統性などその視野には存在しないから。構図の不在、解体した文脈、そこから吹き上がるうつろな内面像や失われた歴史、こうしたことで語り得る範囲のことは、単に彼らの状況の反映にすぎないように思われる。
もちろんこうした状況論的射程を飛び出してくるもの、状況を徹底して相対化する視線にこそ可能性がある。「世界公園」に重ねられた借り物の「風景」のショットに時折挟まれる夢想的なショットを、賈樟柯はフラッシュ・アニメーションのペラペラの動画で描いていた。それはウェブ上の動画のようにどこか醒めていて、通俗的かつコマーシャリスティックなクリシェをなぞる。しかしフェイク/リアルといった外挿的な判断を退け、そのような区別が無効化し、そこを生きている現実をまずは直視する視線がそこにある。イメージの経済と化した現代的状況において真の問題は、イメージの真正さを問うことなどにはなく、ただその経済の仕組みを相対化しコミットすること、ベンヤミンのいうところの美学の政治化へ向かうことなのだ。

*1 http://esa.un.org/unpd/wup/index.htm

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