追悼ー東松照明「〈いま〉の写真家」 文/フィリッポ・マッジャ(キュレーター)

戦後の日本写真を作り上げた代表的な写真家である東松照明が、2012年12月14日に肺炎のため那覇市内の病院で亡くなった。享年82歳であった。

広島と長崎への原爆投下から14年を経た1959年に、写真エージェンシー「マグナム[Magnum]」をモデルにして、東松は他の写真家と共に写真家集団「VIVO」を立ち上げる。「長崎」のシリーズ、とりわけ、溶けた瓶や1945年8月9日の11時2分に止まってしまった腕時計の写真を含む「〈11時02分〉NAGASAKI」により世に知られることとなった。東松は「いま」の経験を表現として具現化する独特のスタイルを作り上げ、それを芸術的な実践へと落とし込んでいった。また、「写真」という言葉は真実や最も本質的な複製をそれ自身が不当に主張しているとし、それとは違うものとして「写今」という言葉を使った。彼自身の経験を意識することや正当化された解読を想定していない写真は、行為に対する深い思索と類まれなるアプローチによって、リサーチや発見などの分野に属するかのような、個別の時間を秒単位で違うものにする彼独特の写真となる。2007年2月の数日間の沖縄で、彼と交わした会話から、「写真は常に今を写す」という確信を持つに至ったという言葉が心に残っている。沖縄は彼が数年に渡って住んだ場所だが、彼は毎日、自分の写真を再構成し、50年に渡る行為の蓄積に新たなものを加えるという作業を行なっていた。

彼が写真を発見したのはほとんど偶然といってよいだろう。名古屋である20歳の女性に近づくための「ちょうどよい道具」であったのにもかかわらず、結局はその道具と恋におちてしまったのだ。そして、彼は生まれ持った底なしの実験に対する欲望を満足させる様々な可能性に魅せられてしまう。1951年、愛知大学で開催された学内の展覧会に参加したとき、作品19点を見た彼の師のひとりである熊澤復六に、軽い気持ちでシュルレアリスムを模していると看破されたのだった。その後、熊澤は東松に当時のヨーロッパのシュルレアリスムのアーティストおよび彼らの作品が参照しているものについてきちんと教え、それにより、東松は自己反省に多くの時間を割き、自らシュルレアリスムを意識するようになった。さらに熊澤は東松に世界を見るように勧め、自分自身の写真の主題が必ず見つかるはずだと話した。当時は終戦からまだ5年ほどしか経っておらず、日本の国土は戦争による大きな被害が残っており、その傷ついた国土、白いページばかりの本を、自分自身の目を通して、新たな言語、写真を埋めていくことが必要だと伝えたのである。

それ以後、東松の旅は熱を増し、国土を探査し、いくつもの都市に住むことになる。特に、長崎では人々との親密な関係を持つにいたり、そのほか日本各地で起こりつつある大きな変化を記録するために、米軍による占領、1964年のオリンピック、1970年の大阪万博、若者であふれる新宿などを撮り続ける。あるトピックに焦点を当てるという意識的な意図を持たずに、自分の周りのすべてのものを写真に撮り続けた。彼はまた、森山大道や荒木経惟といった日本の現代写真を理解する上で欠かせない写真家である。(1957年の名古屋で撮影された中村遊郭の写真や、1969年の東京で撮影した「エロス」シリーズを見れば明らかだろう。)

東松は20世紀の写真を担っていた最も重要な一人であり、純粋で、本能に従順な写真家であった。
「私が路上で写真を撮っているところをみればわかるように、私はきちんと道に沿って歩くことはない。私は自分が生きている街の深いところと繋がりたいと思っている。だから、あたかもカメラが私の身体の一部となり、周りにあるものに単に身体が反応しているのである。」

Copyrighted Image