【特別連載】杉田敦 ナノソート2017 no.1「シンタグマ広場に向かう前に……」


シンタグマ広場駅

 

シンタグマ広場に向かう前に……
文 / 杉田敦

 

当初4年というスパンで開催されることもあったが、このところ5年というのが定着しているドクメンタ。今年はその開催年にあたる。すでに少しずつ情報が流れ始めているように、今回は、まず4月からギリシアの首都アテネで100日間開催され、いわゆる本体の部分は、通常どおり6月からカッセルで100日間開催される。また今年は国際展が集中する年にあたり、10年に一度という信じられない間隔で開催され、越後妻有アートトリエンナーレにも大きな影響を与えた、ミュンスターの彫刻プロジェクトもそのひとつに含まれる。カスパー・ケーニヒのディレクションはいつまで続くのかと毎回囁かれながらも、今年も無事開催されるのは嬉しい限りだし、加えて今年は田中功起が出展する。注目される国際展を自分とは隔絶されたものだというようにただ概観するのではなく、自身にも連続しているものだという意識を持つことは重要なことだが、同時代に同じ地域で活動しているアーティストが参加することは、あらためてそうした姿勢を可能にしてくれるように思われる。もちろん、アドリア海の女王のもとで開かれるヴェネツィア・ビエンナーレが、相変わらず美術関係者に贅沢な旅行の口実を与え続けていることも忘れてはならない。国ごとのパヴィリオン以外でも、ポンピドゥーの若手女性キュレーター、クリスティーヌ・マセルのアルセナーレでの企画が注目を集めているが、ここにも再び田中が参加している。さらには、「次のドクメンタはアーティストによってキュレーションされるべきか」という、当時ICAの展示ディレクターを務めていたイエンツ・ホフマンらのブック・プロジェクトのための問いかけに対して、「ドクメンタはヴェネツィアで開催されればいいし、サンパウロ・ビエンナーレはカッセルで、ヴェネツィア・ビエンナーレは光州で開かれればいい」と、何ともつかみどころのないとぼけた回答をしてみせながら、けれどもその実、国際展が抱える本質的な問題のひとつを鋭く指摘してみせた、デンマーク人とノルウェー人のアーティスト・ユニット、エルムグリーン&ドラッグセットがイスタンブール・ビエンナーレをディレクションすることになっている。毎回、テロの脅威を払拭できないことだけでなく、今年はレジェップ・エルドアンの独裁体制が強化された東西の接点、イスタンブールで、何を展開することができ何ができないのか。またそれら以外にも、ポンピドゥーのメス分館のディレクター、エマ・ラヴィーニュが手がけるリヨン・ビエンナーレも気になるし、開催そのものは来年のことになるものの、パレルモで予定されているマニフェスタの公式プログラムはすでにその一部が現地で始まっている。

 

こうしたそれぞれの場所に出向くことは困難だが、ヨーロッパに一時的に拠点を移せば、通常よりは多くそれらに接することができるのかもしれない。そう考えてみたのだが、実際、計画が実現可能になってみても、ヨーロッパ各国で厳しくなりつつあるヴィザの取得手続きに煩わされ、今週末に迫ったヴェネツィアのヴェルニサージュにはどうやら出かけることができそうもない。もっとも、限られた関係者だけに開かれた場所に出向くことに対しては、ヴォルフガング・ティルマンスがコンコルドの撮影時に心がけた姿勢を思い返してみると、むしろ行かないことの口実ができる。特別な場所に入ることを極力避けて、ただただ、誰もが立ち入れる場所からそれを見上げる。ティルマンスのコンコルドは、だからこそ意味があるのだが、果たして彼の態度にかなうことになるのだろうか。拠点として滞在する場所は、長年訪れていて友人も多いポルトガルの首都リスボンにしようと考えたのだが、点在する開催地へのアクセスを考えてという理由だけでなく、可能であればヨーロッパの南部からいろいろと考えてみたいという漠然とした想いによるところが大きい。それは、今回この稿でも後述することになる種々の事情とも関係するのだが、ヨーロッパに内在する分断の意識のようなものを感じてみたいからでもある。今回、ドクメンタは「アテネから学べ」という標語を掲げているが、その背景にはギリシアはもちろん、スペイン、イタリア、そしてポルトガルなど、ヨーロッパの南が抱えているEUを分断しかねない財政危機の問題がある。安易で表面的な総括はそれ自体が問題であることを承知の上で言えば、このヨーロッパの向き合っている困難は、統制のとれた生活で経済を制御してきたと自負するヨーロッパの北と、享楽や放縦さが規律に優先しているかのように考えられがちな南との、根深い対立の問題でもある。勤勉さと規律の重視を自他共に認める東洋の島国における理解は、まさにこうした表面的な概観を反芻するものが多く、当然、同じような性格を持つ側の肩を持つことになる。困難の原因を生み出したものたちがこれまで以上に節度ある生活を行うように努め、EUという体制の一部であることの意味を再確認し、その責務を負うべきだという類の理解がそれだ。しかし本当にそうなのだろうか。ヨーロッパの思想家やアクティヴィストたちが、ギリシアのシリザや、あるいはスペインの15M運動に関して積極的に発言し、従来の枠組みを反省的に理解しようと試みているのは単にディレッタント的な趣味でそうしているわけではないはずだ。* 一体ヨーロッパは何に直面していて、何に失敗し、何に傷つき、そしてどこに行こうとしているのか。あるいは、行くことができるのか。そのことを少しでも肌で感じるためには、短期間の滞在とはいえ、指導的な立場に立つヨーロッパではなく、それが力を振るう先、つまり南に身を置くことが必要だというように思えてならないのだ。ポルトガルは現在、多少経済的な状況を改善しつつあるとは言え、EU内部で決して優等生的な身分を保証されているわけではない。その立場はギリシア、スペイン、イタリアに限りなく近いもので、ギリシアの問題は対岸の火事などと高を括ってはいられないのだ。そうした場所にいることが、そうした場所で考えることが、どうしても必要なように思われたのだ。

 


リスボン、ロシオ広場


昼下がりのバー

 

ところで、もちろんそうした窮状を十分に理解した上で、クンストハレ・バーゼルのチーフ・キュレーターを務めていたポーランド人、アダム・シムジックは今回ドクメンタのディレクションに取り組んだに違いない。「アテネから学べ」というスローガンはそれを端的に示すものだが、残念だが現時点で聞こえてくる評判はあまり芳しいものではない。種々のイヴェントの情報があまりオープンでなく、整理できていないため分かりづらい、実際に参加しようとしても、運営側も混乱していて上手くいかない。こうした運営に対する素朴な不満もそうしたもののひとつだ。また、オープニング当日付で、ギリシアのアクティヴィストのグループ(立ち退きに反対するアーティスト:Artists Against Evictions)が、ジェントリフィケーションなどでアートが果たす役割などについて問いただし、参加者や来場者、あるいは文化関連の仕事に就く人々に広く呼びかけた公開書簡を発表している。現時点で、ドクメンタ側はこれに対して正式な応答はしていないため、そのことに対する批判も散見される。ところで、前回のキャロライン・クリストフ=バカルギエフのドクメンタも、カッセルに先立ちアフガニスタンで開催されているが、このような評判があったようには記憶していない。ある場所で開かれ、オープニングから一定の期間だけ公開されるという、国際展の定型を解体しようと試みたのは、ドクメンタに限ればオクウィ・エンヴェゾーがディレクションした11回目のときが最初だろう。彼は、通常の展示をプラットフォーム4と名付け、それに先立って、プラットフォーム1から3を、世界各地で討議という形式で実施した。展示に先行したプラットフォームにおいて、各地の諸問題が検討され、それを反映し、そして応答するものとして、プラットフォーム4が設計され実施されたのだ。この段階で、ドクメンタはすでにカッセルという枠からはみ出し、100日間という公式の開催期間からもはみ出ていると言うことができる。クリストフ=バカルギエフはそれを、展示においても拡散させようとしていた。今日の中東の危うげな情勢の原点をどこに置くかは意見が分かれるところだが、アルカイダのバーミヤンの仏像破壊など、表象に対する介入と結びつけて考えれば、ひとつはそうした組織を生み出すことに結果したソ連のアフガニスタン侵攻と考えることができるだろう。クリストフ=バカルギエフは、そこにある種の結節点のようなものを見出し、それを展開することができないかと考えたのではないだろうか。もちろんそのとき、どれだけ慎重を心がけたとしても、付け焼き刃の感は否めないのだが、けれども彼女の試みはそのことを包み隠そうと腐心するようなものではなかった。彼女は、彼女自身が啓蒙されていく過程をもむしろ明らかにしようとしていたように思われる。イタリアのアルテ・ポーヴェラの研究者としても知られる彼女ゆえに、誰もが忘れかけていたその土地とアートとの接点をうまく見出すことができたことも幸いした。アルテ・ポーヴェラを代表するアリギエロ・ボエッティの「ワン・ホテル」は、アフガニスタンに対する他国からの介入の影響を直接受けることになった実践のひとつだ。以前からの研究対象でもあったボエッティの実践を、重要な要素のひとつとして読み替えることができることに気づいたことで、クリストフ=バカルギエフは、リアリティを維持しながら、けれども押しつけがましい啓蒙に陥ることもない、節度ある姿勢を示すことができたのではないだろうか。ところで、クリストフ=バカルギエフは前回のイスタンブール・ビエンナーレのディレクターも務めている。こうしたことを考えると、国際展が重なる今年の状況を考察しようとするとき、はからずも背景を構成する重要な要素のひとつとして彼女の姿が浮上してくることになる。彼女のしなやかなディレクションを超える何ものかと出合うことができるのかどうか。こうした期待は、重要な分析基準のひとつでもありうるだろうし、個人的にも大きな興味を抱いている視点のひとつである。

 


ヨーロッパに根付くマリア信仰。今年はファティマの奇跡から100年目になる

 

ところが、一方のシムジックは、どうやらいまのところクリストフ=バカルギエフが手にしたものを取り逃がしてしまっているように思われる。小規模なワークショップや討議、パフォーマンスを組み入れたアテネのプログラムを概観する限り、決して大きく何かを逸脱しているというわけではない。そもそも、アクティヴィストのグループからの公開書簡にしても、今回のドクメンタに限っての指摘というよりは、アート・プロジェクトがジェントリフィケーションに利用されている、あるいは逆に言えばそうした濁り水を飲み続けてしまっているアートそのものの現況に対する疑義でもあることは考慮しなくてはならない。もちろん確かに、いまのところ公開書簡に対する返信があったという話は聞こえてこないし、そうした姿勢が印象を好転させることなどあるわけもなく、不信感を助長させることにしかならないということにも注意しなくてはならない。しかしそれでも、シムジックのドクメンタが特殊なのは、シムジックのディレクションに関わる問題というよりは、カッセルとアテネ、いやドイツとギリシアを巡る状況に関係していると思われる部分が大きいからだ。ギリシアがデフォルトの危機に際し、EUにはそのまま残るが、指導的立場をとる欧州中央銀行、IMF、欧州委員会のトロイカ体制に対して、一方的に緊縮財政を受け入れることもまたしないというアクロバティックな姿勢を確保することに一瞬成功したように見えたのは2015年のことだ。このときシムジックは、ドクメンタのディレクターを依頼されてからすでに一年半ほど経過していることになる。財政緊縮に抵抗しようという運動が、マドリッドのプエルタ・デル・ソル広場、アテネのシンタグマ広場で起こったのは、それより少し遡る、2011年の5月15日のことである。のちにポデモスに発展していく15M運動や、すでにそのとき結党されているシリザが、新たな抵抗の形態を模索し踠いていくのは、まさにシムジックがドクメンタをどのようなものにしていくのか四苦八苦していたはずの時期と一致する。その意味では、シムジックが「アテネから学べ」というスローガンを掲げたのは間違ったことではないし、むしろそうした情勢に敏感に反応しようとするものとして評価することもできるだろう。事実、アテネから学ぶべきことは多々ある。それがその後どのような困難に遭遇しているのだとしても、移民研究で知られ、今回のドクメンタのイヴェントにも参加しているサンドロ・メッザードラらが指摘するように、シリザや15M運動の基底にある市民運動は、ネオリベラリズムが構想し、着々とその充実を図ろうとしているヨーロッパを、そして世界を、これまでとは別の仕方で構成しようとする抵抗の試みであるのは間違いがない。

 


カーネーション革命の日(4月25日)

 

こうしたある種の経験が、大きな重みとなることについては、当然、アートもある一定の経験を有している。ヨーゼフ・ボイスが半世紀近く前、社会彫刻という言葉を通して伝えようとしたのは、まさにこの経験するための勇気のことでもあった。よく知られているコヨーテとの親密な時間を築くために、通常の利用目的とは異なるもののために緊急車両を利用したのは単に奇を衒っただけのことではない。それまでそうした使用の経験のなかった社会は、確実にそれを経験した社会へと変化することに、つまりは彫刻されることになったのだ。それはどれだけささやかなものであったとしても、これまでの在り方とは異なる別の存在仕方の創造なのだ。そう考えると、シリザを単にポピュリズムの政党として軽視するのは明らかに間違っていることがわかるはずだ。EUが強制しようとするものには争うが、けれどもだからと言ってEUから離脱はしない。これは窮地に陥ったものの闇雲の選択だったのだとしても、けれどもそれは、結果としてネオリベラリズムの規範に厳重に縛り付けられたものたちだけのEUを、別のかたちでも構成できるのではないかという可能性を見つめようとするものでもあったのだ。これは教育課程における課題に置き換えてみるとよくわかる。ある形式に限定された課題には取り組むことはできないが、かといって単位の取得を放棄するわけでなく、自分にとって最適と思える形式でそれに取り組むことで、単位の習得を可能にしてもらいたい。このとき、むしろ問われているのはこうした要求を突きつけられることになる教育機関の側の方で、それらの機関は、けれどもそれに応えることで、ある意味で創造の一端を担うことさえ可能なのだ。事実、ギリシアの問題にしても、シリザの前に立ちはだかったのはドイツにおいても強硬な教条派として知られるヴォルフガング・ショイブレ財務相であったが、彼に対して、もちろん彼女にも問題はあるのだとしても、説き伏せる努力をしたのがアンゲラ・メルケル首相だということを忘れてはならない。つまり、そのような意味では、シリザの姿勢は、メルケルによる、ドイツによる創造であったとさえ言うことができるかもしれないのだ。もちろん、これは皮肉の過ぎた表現に違いないし、しかもギリシアの危機が完全に過ぎ去ったというわけでもない。シリザの党首から首相の座に就いた若きアレクシス・ツィプラスは、前政権が決定していた国有資産の民営化を引き継ぎ、ギリシア全土に40数箇所ある空港のうち、14空港の運営権をドイツの企業に売却せざるをえないという苦渋の決断を下さざるをえなかった。この、ドクメンタの開催回数との奇妙な一致は、ギリシアの国民には悪夢のような符合にしか思えなかったことだろう。自国の三分の一近い空港の運営権を、期間は限定されているとはいえ他国に売り渡さざるを得ず、しかも観光こそが主要産業であるという状況を想像してみれば、いかにそれが屈辱的な事態なのかはすぐに理解できるはずだ。観光立国の再建がうまくいったとしても、それはそのままドイツへの資本の還流を意味することになる。これを、植民地化と言わずに何と表現すればよいのだろうか。このようなタイミングで、ドイツを拠点として開催されてきた展覧会をギリシアにインストールしようというのだ。それがどれだけ無神経なことなのかは説明するまでもないだろう。へたをすればドクメンタ14のアテネ・ヴァージョンは、ドイツ主導で行われる空港再建のための、少し気の利いたアイデアのひとつぐらいのものだと誤解されたとしてもしかたないのだ。当然、シムジックはそうした困難を承知の上でその道を選んだはずなのだが、これまでのところ必ずしも上手くそうした誤解を振り払うことはできていないようだ。ベルリンを拠点とするインディペンデント・キュレーター、アンジェラ・ミラルダは、ドイツの文化支援を、資金援助も含めて期待していたギリシアの関係者たちは裏切られたと厳しく指摘している。彼女は皮肉めいて、カタログの最後に小さく印刷された、”printed in germany”の文字が幻想を打ち砕いたのだと書いているが、もちろんここには皮肉めいた徴を見るばかりでなく、植民地的な構造の露出こそを見るべきだろう。もっとも、こうした印象は現地に赴くことで解消されることになるのかもしれない。単なる杞憂に過ぎなかったということもまったくありえないことではないだろう。しかしたとえそう覆されることになるのだとしても、ここではむしろ、実際にその地に向かう前の率直な印象を残しておくことにしたい。その方が問題の所在と、その解消の可能性とが、どちらもより明らかなものになるのではないかと期待するからだ。

 


落書き。ポルトガルの家は旅行者に借りられてしまった…


旧市街モウラリアの立ち退き反対の垂れ幕。わたしたちは立ち退きたくありません…

 

またこのとき、注意しておきたいのだが、もちろん問題はギリシアだけのことではない。ギリシアを先導するように15M運動、ポデモスという運動を起こしたスペインについてもそれはあてはまるだろうし、一見すると別の道を歩んだ、自身の滞在先でもあるポルトガルにおいても同様なのだ。事実、アパートを借りているリスボンの旧市街、アルファマでは奇妙な事態が顕著になっている。数年前からフランス資本が安価な老朽化した旧市街の建物を買い取り、リノヴェーションして観光客向けのホテルや短期アパートにして貸し出すというケースが急増しているのだ。幸い、知人の知り合いの建築家の元住居を借りることができたのでそうした選択をせずに済んだのだが、通常であれば、短期滞在者はそうした物件に落ち着くことにならざるをえないはずだ。リスボンの旧市街には、もちろん裕福な人々の豪奢な建物も残っているが、狭く区切られた住居に住んでいる人が大半で、当然そうした人々の手で独特な庶民文化が熟成されてきた。狭く入り組んだ路地が縦横に伸びる、イスラムの名残を留めたアルファマ地区には、朽ちかけているような建物も少なくなく、当然そうした住居は安価な家賃で慎ましい生活を送る人々を懐き抱えてきた。ところが、観光客向けの物件の極端な増加が当然のように周辺の家賃を高騰させることになると、それまでそうした状態だからこそ住むことができていた人々はそこを出て行かざるをえなくなってしまう。街の主人たちの姿が消え入っていくのと歩調を合わせるように、彼らが利用していた独特な雰囲気のカフェやパン屋、雑貨屋、ソシオと呼ばれる、贔屓のチームを応援するためのサッカー観戦のための集会所も姿を消していくことになり、後には申し訳程度に現地の香りを漂わせた、小綺麗なカフェやレストランばかりが蔓延ることになる。旧市街は種々の住宅規制があるため、物理的には元の形状をある程度留めているとはいえ、その性質は大きく変質し始めているのだ。ギリシアとは異なるかたちだが、ここにも、消費対象として急速に疲弊を深めつつある人々がいる。表面的には清潔で、活気にあふれ、潤っているかのように見えなくもないのだが、決定的な腐敗が進行しているようにしか見えないのはなぜだろうか。かつてそこにはなかったはずのトゥクトゥクが、観光客を満載にして狭い路地奥まで入り込み、セグウェイやゴーカートが我が物然と街中を走り回っている。かつて住民たちの足だった可愛らしいエレクトリコ(路面電車)は、観光客目当てのスリが多発するだけでなく、そのキャパシティを超える乗車希望者の列に辟易とさせられて、地元の人々はもはや振り向きもしない。ギリシアのようなわかりやすいかたちではないが、ここにも植民地主義的な支配が公然と進行していることを認めるべきなのだ。しかし再び出発点に戻れば、重要なのはここで北と南という構造上の対立を再燃させることではない。むしろこの根底にある問題を見つめる姿勢こそが求められているのだ。それをシムジックに期待するというのは間違いなのだろうか。アテネが、そしてリスボンが向き合っているのは、決して異なる相手ではない。彼らが向き合っている、あるいは向き合わなくてはならないのは、共通の、同じ敵なのだ。

 

20世紀末に中国の軍人、喬良と王湘穂によって書かれ、世界を席巻した『超限戦』は、他の戦争のあらゆる局面と同じように、金融資本が戦争そのものを構成する可能性について触れているが、むしろそれは戦争の主体が国家間のものから資本の独裁制を維持するためのものに変わりつつあることを指摘するものでもあった。ヨーロッパの危機は、その露出として見るべきなのかもしれない。だとすれば、当然ギリシアやスペイン、そしてポルトガルの窮状は他人事などでは済まされないことになる。それは、特定の国において進行している事態などではなく、世界規模で展開しつつあるネオリベラリズムによるグローバル金融資本の独裁体制確立のための戦いの、隠蔽できずに露出してしまった局地戦のようなものなのかもしれないのだ。そしてもちろん、当然それは極東の島国においても深刻化している格差の問題に繋がってくる。15M運動やシリザの闘いは、初めてそうした強大過ぎて不可視であり続けた敵の、正確な姿と向き合う契機のひとつのようなものだったのではないだろうか。

 


カルサーダス(石畳)の職工たち


地方振興会館の食堂

 

15M運動やシリザの闘いが、トップダウンに生まれたものではなく、自律的に発生したものだったことはよく知られているが、マドリッドやアテネの広場が、真の敵の気配に気づいた人々によって占拠され始めたのとほぼ同じ時期、日本は信じられない規模の自然災害と、それによって引き起こされた原発事故の渦中にいた。そしてそのとき、知識人とされる一部の人間がとった態度には驚かされると同時に深く失望させられた。戦後日本の思想家として大きな役割を果たしてきた柄谷行人の起草の声明文に、作家や思想家、社会学者が賛同し、原発反対とときの首相の退陣を求めたのだ。当時、実際に起こってしまった原発事故に対して、自然とその問題を問う声が高まりつつあるなか、むしろただその一点で人々の結集を求めるべきであったにもかかわらず、その再稼働を認めたとはいえ、首相退陣という付加的な条件と抱き合わせにしたのだ。単純な算数さえ知っていれば、追加条件によって集合が縮小するのは明らかであるにもかかわらず、それに手を染めたのは単なる気の迷いだとは思えない。思想や社会学の分野で尊敬に値する働きをなし、事実いろいろなことを学ばせてもらったそれらの人々の態度は、遠く離れた広場で起こりつつあった出来事とはまったく反対の意志によって貫かれているように思え、残念というよりはむしろ唖然とさせられた。しかも、字面的には彼らの希望が半分通るかたちで件の人物の退陣が決まり、後を受けた人物が破廉恥な暴走を止めようとしない現況を考えると、想いはさらに複雑なものになる。そうした過程を反省しているのならまだしも、どうやら彼らは、今日の事態を招いた責任の一端が自身にあるということを想像するという最低限の感性さえ失ってしまっているようだ。人々が共有することができたはずの切実だが危うげなかすかな接点に対して、追加条項を密輸入してしまうような態度が、いかに傲慢なものなのか感じることができなくなってしまっているのだ。こうした態度は、ポピュリズムを否定的な意味だけで考えて無視しようとするネオリベラリズムに蔓延する態度と大差ない。プラトンが、哲人政治に対して、最悪な選択肢として民主主義を考えたとき、彼の脳裏にあったものは字義通りの意味でのポピュリズムに近いものだったのではないだろうか。今日、ポピュリズムが否定的なかたちで捉えられる背景には、むしろ民主主義がある種の専門性を持ち始めている、つまりは哲人政治と化そうとしているという事態と関係していることを忘れてはならない。

 

しかし、日本の知識人たちが底の浅さを露呈しているまさにそのときに、スペインとギリシアではある闘争と、そのための真摯な試みが創造されつつあったのだ。シムジックの「アテネから学べ」はそのことを指し示さないわけにはいかないはずだ。グローバルな資本の専制に対する抵抗は、国という枠組みを超えた連帯の可能性というものにも繋がることになるだろう。皮肉なことだが、日本の知識人たちが色褪せた啓蒙と先導に手を染めようとしていたとき、レベッカ・ソルニットの言う災害ユートピア的な気配を通じて、国家という枠などに縛られることなく、ひとりの人間として相互扶助することの可能性を感じられるような空気が、災害に打ちのめされた島国にも流れていたように記憶している。けれどもそれは、知識人たちの驕りとしか思えない提案も原因して、一国の政治体制と結び付けられてしまうことになる。もちろん、そればかりでなく、やがて災害における当事者性という特権的な立場が気づいたときには揺るぎないものとして定位され、何ひとつ条件を問うことなどしないはずの寛容な連帯の可能性は狭められてしまうことになった。特にアートに関しては、この当事者性の台頭に対して大きく加担したことは指摘しておかなくてはならないだろう。震災後、アートに関わる人々が、群がるように当事者性を手にしている人々を消費しようとし、また自分たちもそれを手にしようと蠢いたことは記憶に新しい。そして、ここにもまた分断がある。当事者と、非当事者。国家というようなわかりやすいものだけでなく、経験もまた分断のために利用される危険があるのだ。

 


メイデー

 

今回、集中的に国際展を見るにあたって、ひとつは、先に述べたように、スペイン、ギリシアに始まる資本の専制に対するボトム・アップ的な抵抗の意識がどのように浸透しつつあるのか、あるいはそうした事態が進むことができず、どのような困難に直面しているのかを確認したいと考えているが、もうひとつはこの分断に対する認識がどのように形成されていく可能性があるのかを感じてみたいと思っている。これは、すでに陳腐な形容詞に成り下がってしまったグローバルな何かを標榜するような安直なもののことを想い浮かべているのではない。端的にいえば、喬良と王湘穂の慧眼が見据えた、すでに始まっている資本の専制体制を、どれだけ察知できているのか、あるいはできていないのかということと関わっている。中国の軍人たちがそのような意識を持っていることを考えれば、例えば南シナ海や尖閣諸島周辺の奇妙な行動にも、別の意味が見出せるようになってくる。国単位の物理的、軍事的な対立は、資本の専制を進捗させるための副次的な要素に過ぎない。事実、喬良はすでにそうした指摘をしているが、そうだとすれば、いわゆる戦争は単に金融資本における戦闘の迷彩程度の意味しか持っていないことになる。あるいは、日本やアメリカに居座る奇妙な国家主義者たちさえも、資本専制のために奔走する撹乱部隊のようにしか見えなくなってくる。こうした認識においては、喬良や王湘穂を軍人として抱える中国は、欧米に大きく水をあけていると見るべきなのかもしれない。しかもそれは、ひょっとするとそうした認識においては先んじているはずの中国さえも食い尽くしてしまうかもしれないのだ。これは、小国の国家予算を超える資産を持つヘッジファンドなどの特定の組織の姿を見ようという呼びかけではない。ヘッジファンドさえも利用しながら、金融資本が強化しつつある専制の姿を、はたして見出すことができるだろうかという問いなのだ。ところで、このような視点を検討するのに適していると思われる場所は、皮肉なことだがヴェネツィア・ビエンナーレということになるのではないだろうか。なぜならそこには、国家別のパヴィリオンという、これまでにも数多問題を指摘されてきた旧態な形態があるからだ。アートという本来国家とは関係のない、あるいは相容れない、あるいは敵対するかもしれない実践に対して、国家という枠組みを設けてしのぎを削らせるという構造。もちろん、それはそれで問題なのだが、こうした従来の指摘とはまた別の地平において、ひょっとするとさらに深刻な問題を抱えているという可能性を考えてみる必要がある。先ほど触れたように、超限戦的な時代においては、国家間の対立がむしろ真の戦闘である資本の専制の強化を隠蔽しているのだとすれば、あえて国家という枠組みのなかで振舞うことが、本人たちも知らぬまま資本の専政を隠蔽する役割を果たしてしまっているという恐れは十分ある。こうした問題が、どれだけ意識されているのか、あるいはされていないのか。この時代に、国別という形態を甘受するコミッショナー、ディレクター、アーティストはどのような意識でそれと向き合っているのか。あるいは、いたずらに見るべきパヴィリオンのリストなどの作成に勤しんでいるメディアは何を考えているのか。あるいは、さらにはもっとひねくれた視線も必要なのかもしれない。PC的な意識は、いまやアートの表現においては珍しいことではなくなり、ある種のクリシエと化しているところさえあるが、特定の問題に触れることは、例えば該当する国家や人種の関係を浮き彫りにしないわけにはいかない。もちろんそうした問題の指摘は、継続的に今後も行われなくてはならないのだとしても、けれども特定の関係を浮き彫りにさせることは、当然、国別パヴィリオンや国家間の戦闘と同様に、見えざる戦闘を不可視にするための迷彩のような役割を果たしてしまうことにもなるだろう。こうした問題に向き合いながら、その継続はどのようなかたちで行われなくてはならないのか。善良な人々までが、あるいはそうした人々こそが、独裁や専制に加担してきたという繰り返された過去を考えなくてはならない。見るべきことは、そして考えるべきことは山のようにある。

 


ペソアの影

 

一見すると、このような視点は特殊過ぎるように思われる。しかし、喬良と王湘穂の本は世界中で広く読まれており、彼らの描いた認識は決して特別なものではないはずだ。ましてや、彼らの立場を考えると、通常腰が重いと高をくくられている強大過ぎる国家体制の内部でそうした認識が共有されているということには驚かざるをえない。しかし他方、確かにしっかりと意識されたものではなかったのかもしれないが、同様の認識に対して正反対の方向からアプローチしようとしてきた南ヨーロッパの市民運動がある。15M運動やシリザは、その後問題を抱えることになるのだとしても、けれども確かにある種の抵抗の可能性の路を創造したのだ。このような状況のなかでアートによる創造は、つまり実践は、そして思考は、どのようなものになろうとしているのだろうか。国際展の集中は、ある意味祝祭じみた気配に包まれることになるだろう。もちろん、しばしそれに浸ってみることも必要なのかもしれない。しかし当然、それに浸っているだけでは20世紀初頭の事態は繰り返されることになる。浸っているだけではなく、そこから生まれ出る考えを凝視めてみること。ここで試みるのはそうしたことになるだろう。

 

曖昧としているが、実際に渦中に入る前の意識を確認することが少しはできたのだろうか。すでにアテネのドクメンタは開催されている。ヴェネツィアも始まり、各賞も発表されている。だが、最初に行く場所は、ヴェネツィアでもなく、カッセルでもなく、アテネにすることにしよう。そう、何よりもそこにはシンタグマ広場がある。あの人々が集った広場こそが、ひとつの基準になってくれるはずだ。そう、アテネに学べというわけだ……。

 

 


 

* シリザ(Syliza):ギリシアの左派政党で、現在の政権与党。名称は「急進左派連合」の頭文字から生まれた造語だが、ギリシア語でルーツやラディカルの意味がある。反ネオリベラリズムを掲げて国民の支持を得て、2015年に第1党になる。アレクシス・ツィプラスを党首にかかげ、緊縮財政政策を迫るEUと交渉する。7月には、トロイカ体制の提案を受け入れるべきかどうかの国民投票を行い、その際、シンタグマ広場に集まった25万人とも言われる人々に対して、ツィプラスは「いいえ(OXI)」と投票するように促し、結果は61.3%の人々がそれに従うかたちで、緊縮政策の拒否とEU残留が決まる。

* 15M(15M運動, movimento 15-M):2011年5月15日、スペインのマドリッドのプエルタ・デル・ソル広場に集まった人々による抗議運動の後に起こった市民運動。「怒れるものたちの運動」とも呼ばれる。15M運動は2008年に顕著になるスペインの財政危機、2011年にチュニジアで始まるアラブの春などを背景に、異なるスローガンを掲げる小規模なグループの統合を可能にした、労働者や学生を中心としたこれまでにないかたちの共同体で、自発的に発生したものとされている。厳密な定義を避け、誰もが参加できる柔軟性を重視し、市民の新たな政治化を試みたものとして、多くの思想家から注目を集める。また、のちのポデモスやオキュパイ運動にも大きな影響を与えたとされる。

 

 


 

ナノソート2017
no.1「シンタグマ広場に向かう前に……」
no.2「アテネ、喪失と抵抗の……」
no.3「ミュンスター、ライオンの咆哮の記憶……」
no.4「愚者の船はどこに向かうのか……」
no.5「幸せの国のトリエンナーレ」
no.6「拒絶、寛容、必ずしもそればかりでなく」
no.7「不機嫌なバー、あるいは、政治的なものに抗するための政治」
no.8「南、それは世界でもある」

 

 


 

杉田敦|Atsushi Sugita
美術批評、女子美術大学芸術文化専攻教授。主な著書に『ナノ・ソート』(彩流社)、『リヒター、グールド、ベルンハルト』(みすず書房)、『inter-views』(美学出版)など。オルタナティヴ・スペース art & river bank を運営するとともに、『critics coast』(越後妻有アートトリエンナーレ)、『Picnic』(増本泰斗との協働)など、プロジェクトも多く手がける。4月から1年間、リスボン大学美術学部の招きでリスボンに滞在。ポルトガル関連の著書に、『白い街へ』『アソーレス、孤独の群島』『静穏の書』(以上、彩流社)がある。

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