ビデオ・ウォール・パイク / バーバラ・ロンドン

ビデオ・ウォール・パイク
バーバラ・ロンドン


Bye Bye Kipling (1986)
© Estate of Nam June Paik, courtesy Electronic Arts Intermix (EAI), New York.

I.

ある酷寒の12月の午後、私はナム・ジュン・パイクに会いにダウンタウンまで歩いていった。それはまだソーホーの石畳の通りに人影が少なく、流行のブティックの数が最先端のギャラリーの数を上回る前のことだ。ロフトに入ると、私は水族館の中で泳いでいる気分になった。天井から吊られた多数のモニタには水中を泳ぎ回る金魚が映されていて、それは「空中の魚 空を飛ぶのはもはやしんどい 魚 さあ飛べ魚よ もう一度」(1975)というインスタレーションの一部で、マーサ・ジャクソン・ギャラリーの展示からちょうど戻ってきたところだった。
そこにはパイクやジョン・ケージとともに、ストリート・アクションや60年代のフルクサスによるイベントなどを制作した日本人やアメリカ人のアーティストたちががたむろしていた。部屋の中央のテーブルには巨大なまぐろの塊があり、それはモニタ上の映像ではなく実物で、アーティストたちは腹を空かせたピラニアのようにまぐろを刺身にし、その塊は跡形もなく消えてしまった。

Fish Flies on Sky. 1975 (1982),
two-channel video installation with variable number of monitors, color, silent,
dimensions variable.
Collection Museum Kunst Palast, Düsseldorf.
© Estate of Nam June Paik.

II.

パイクの「TV仏陀」(1974)は、MoMAの新しいアートを取り上げる『Projects』シリーズで最初に紹介されたビデオ・インスタレーションの1つである。作品の中心は非常に美しい仏像で、ギャラリー空間を禅のオーラで満たしていた。仏像に向けられたビデオカメラは彫像をとらえ、その映像を丸い斬新なモニタに投影していた。モニタに映る仏像を見つめる仏像は、ある明快な問題、ビデオにおける禅の公案を想起させるー仏像のライブ映像を見つめている仏像と録画前の映像を見つめている仏像との違いとは何か。仏像は答えを知っているかのように微笑んでいる。

III.
 
70年代初頭、パイクがMoMAに私を訪ねてきたとき、私はプリント・イラスト部門にいた。不思議なことにビデオプログラムはこの部門でスタートしたのだ。私の仕事用スペースは、ロバート・ラウシェンバーグの巨大なリトグラフが並ぶ長い廊下の先にあり、机と2つの本棚、ファイルキャビネットがようやく置ける広さだった。パイクはいつもファイルの宝となるお土産を持って来た。それはボニーノ・ギャラリー、ハワード・ワイズ・ギャラリーで行われた最初のビデオ展の絶版になったカタログ、黄ばんだ新聞記事、折れ曲がった写真といったもの。パイクはこれらの「参考資料」のすべてが、いつの日かファイルキャビネットを重要なアーカイブに変える大切なものになることを予期していたのだった。

IV.

1975年、アーティストが展示し、作品について話し合うためのフォーラムとして「ビデオ・ビューポイント」を始めたとき、著名な話し手を必要としていた。私はパイクに電話し、彼が造作なく、いつもの「もちろん」という返事をくれたことを覚えている。レクチャーの最中、彼は黒板の前に立って、ひとつの円を描き、それを「アート」と名付けた。その隣にもう1つ円を描き、「コミュニケーション」と呼んだ。そして、多くのアートはコミュニケーションにあまり関係なく、多くのコミュニケーションはアートと関係がないと説明した。その後、1組の重なった円を描き、中央にりんごの種のようなものを付け加えた。これが我々のテーマであり、おそらくは夢であると。
その後、パイクの講義の話を編集し、アートフォーラムに掲載した。「ビデオ・ビューポイント」はいいスタートを切り、重要なレクチャーシリーズとして続いている。


Art and Communication. Courtesy the Museum of Modern Art, New York.

V.

ある晩、私はパイクの編集した「レイクプラシッド」(1980)を観に行った。この作品は商業スポーツの映像と彼自身のビデオテープの再利用によるパスティーシュである。彼は当時アーティスト・テレビジョン・ラボラトリーに導入されたばかりのコンピュータで作業するビデオエディタ、CMXを使えることを誇りに思っていた。タイムコードをスクリーンの下に残すべきかどうか尋ねてきたので、私は「いいんじゃない」と曖昧に返事をした。それから彼は他の2、3のシーンについて尋ねてきた。私の提案に従うこともあれば、従わないこともあった。事実上、私は乱数発生機の乱数の役割、いわば、パイクの作品を誘導する偶然の歯車のひとつだった。

VI.

大学院でイスラム美術を専攻したことが、私のビデオキュレーターのキャリアの下地になったのだと、パイクによくからかわれた。卒論のテーマは中国と中近東間のシルクロードだった。シルクロードというのはビデオのようだとパイクは主張し、私もその冗談みたいな意見に同調した。テレビの映像やビデオカメラが砂漠のキャラバンと関係があるなんて想像できなかったが、最終的には情報がラクダの背中に乗ってくるのか、衛星を通してくるのかは重要でないと気が付いた。どちらにしても、文化やモチーフは東から西に流れ、新しい形で戻ってきたのだ。
東洋と西洋の交差はパイクのアートの核心である。初期作品では、ペプシコーラのCMに韓国の伝統舞踊を挿入し、1993年のヴェネツィア・ビエンナーレでは、ヴェネツィアがマルコ・ポーロの旅の終点だったことから彼をテーマに据えた。「Eine DATAbase」というインスタレーションでは、壊れたフォルクスワーゲンに破れたパオとモニタを積み、ヴェネツィアの丘に置かれたそれはまるでゴビ砂漠のキャラバンのようだった。彼は世界中を旅していたから、シルクロードに注目したのかもしれないし、モンゴル族の最東端に韓国人がいると信じていたのかもしれない。

VII.

私の初訪日の前夜、パイクは東京通が教える初心者用慣習ガイドをくれた。そして、ホテル周辺の地図を描き、タクシーの運転手に見せるためのホテルの住所を日本語で書いてくれた。パイクはその情報を当時亡くなったばかりだったジョージ・マチューナスのフルクサス・イベントの案内状の裏に書いた。マチューナスは一度も日本を訪れることはなかったが、欧米でのフルクサス日本支部のプロモーションに携わっていた。パイクはカードを私に渡し、これでようやくジョージが日本に行ける、と満足げに言った。

VIII.


Good Morning Mr Orwell (1984).
© Estate of Nam June Paik,
courtesy Electronic Arts Intermix (EAI), New York.

パイクが世界中を旅し、「Good Morning Mr. Orwell」(1984)というサテライトアートを進展させている間、私はMoMAが拡張したギャラリーの再オープニングの準備をしていた。私はヨーロッパのニュースを、パイクはニューヨークで起きている事を知りたいと考えていたので、私はパイクと会う手配をし、ソーホーで落ち合うことにした。ダウンタウンへ向かい、バーで待っていたのだが、パイクはついに現れなかった。その晩電話をすると、旅の間にひげが伸び、日焼けしたパイクを私が見つけられなかったことがわかった。私たちは再び会う約束をし、私は鼻付の分厚いメガネをかけていった。今回はパイクが店内のすべての女性を注意深く見回していた。彼が私の扮装を見破るより先に挨拶したい一心で、私がメガネを外すと、「どこでそのメガネを買ったんだい?」とパイクは言ってきた。
長年に渡る私たちの出会いはこのように気まぐれなものだった。私の名前がロンドンという理由で、彼は私をパリと呼び、私はパイクをウィザードと呼んだ。彼の人生のモンタージュは錬金術みたいだったからだ。

10年の空白の後、今、1980年代の最初の旅のことを振り返りながら書いている。伝統衣装の鮮やかな色彩はカラーバーとして知られるビデオの鮮明さのテストパターン、ナム・ジュン・パイクが堂々と描いていたものを思い出させる。今日、ソウルの若い世代のメデイアアーティストに、パイクが持っていたのと同じ飽くなき好奇心や活力や、音楽は楽器の演奏を超えて日常の時空間を融合するという理解を見てとる。

パイクの尽きることなき新しいアイディアへの欲求について考えている。世界的視野によって、彼は私たちすべてにたくさんの扉を開いてくれた。

本稿は過去に行われた「エレクトロニック・スーパーハイウェイ展」(ホリー・ソロモンギャラリー、ニューヨークおよびカール・ソルウェイギャラリー、シンシナティ、1994)の出版物に収録されており、この度、ART iT掲載にあたり著者による修正、改訂が行われております。

イギリスにおけるナム・ジュン・パイクの初めての大規模な回顧展がテート・リバプールFACT(ファウンデーション・フォー・アート・アンド・クリエイティブ・テクノロジー)の共同企画により開催される。会期は12月17日から2011年3月13日まで。

バーバラ・ロンドンはMoMAのビデオおよびメディア部門のキュレーターを務める。エレクトロニック・アートとより伝統的なアート形式とを結びつけるビデオの展覧会、コレクション、アーカイブを設立した。ビデオ・アートについての国際的なレクチャー、多岐にわたる執筆している。日米政府の助成金により、アートとテクノロジーについて日本で学ぶ。

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