【特別連載】杉田敦 ナノソート2017 no.5「幸せの国のトリエンナーレ」


オラファー・エリアソンの空中回廊「Your rainbow panorama」が一際目を惹くARoSオーフス美術館

 

幸せの国のトリエンナーレ
文 / 杉田敦

 

北海とバルト海を隔てるユトランド半島の東岸に、オーフスという街がある。コペンハーゲンに次ぐ、デンマーク第二の都市だ。そのオーフスで、トリエンナーレが開催されている。メディアで見かける写真も気にかかる。海沿いの公園が、赤と白に、マーブル状に染め上げられている。染まるというよりは、バニラとストロベリーのアイスクリームが溶けて流れ落ちたような感じとでも言えばよいだろうか。カッセルで燻っていた気持ちを切り替えるには、ちょうどよいのかもしれない。7時間ほどの列車の旅になるが、うまくいけば、ハンブルクで一回乗り換えるだけで済むようだ。カッセルからの帰路は、少し遠回りすることになった。

単なる偶然のように書いたが、まったく理由が思い当たらないというわけでもない。アテネ、ミュンスター、カッセルと巡って来て、困窮しているはずの経済状況にもかかわらず、アテネの印象が最も強く残っていることが気にかかっていた。もちろん、経済状況と表現の間にどのような相関もないはずなのだが、本来の開催地ではなく、しかも必ずしも余裕のある環境というわけでもなく、財政や難民などの問題で手一杯であるはずにもかかわらず、そうした印象が残っていることの意味を考えあぐねていた。また、そうならないようにと自ら断っておきながら、自身もまた陥っていた、北と南という、ある種の分断にもなりかねない臆見に、ミュンスターの街の光景が気づかせてくれたことも引っかかっていた。そうした整理できない想いを、表面的ではあれ問題がないように見える、あるいはそう自負しているような場所で、考え直してみたかった。もちろん、そのような場所では、一体、どのような表現が可能なのかという素朴な好奇心もあった。想像上のものであれ、そうした視点に立って考察してみることは、芸術が社会や政治に言及する傾向を強めていく今日の状況を把握するためには意味があるはずだ。もちろん、いま向かっているデンマークに問題がないというわけではない。いやおそらくそれは、デンマーク以外の、すべての場所について言えることだろう。そう、この惑星上に、問題のない場所などどこにも存在しないのだ。しかし、それでもそこは、国連とコロンビア大学が設立した研究機関による幸福度報告で、常に上位にランク付けされている国でもある。問題がなくはないのかもしれないが、その報告を鵜呑みにすれば、他国に比べ否定的な要素は少なく、あるいはそれらの程度がきわめて小さく、表面的には目立たないということなのだろう。いずれにしても、問題こそがその土地を定義づけているような場所ではないところで、さまざまな問題を凝視し、そこへの注意を喚起し、新たな視点を提案しようという、現代の芸術表現の方法論はどのようなかたちをとることになるのか。それは、確かに好奇心でもあったが、現在地を確認したいという切実な想いでもあった。アテネやミュンスター、カッセルの意味を考える上で、とりわけそれらを相対化するために、オーフスは欠かせない場所のように思われたのだ。

しかし、どうもドイツ鉄道との相性が悪いようだ。カッセルからの電車は20分遅れ、ハンブルクでの15分の乗り継ぎをわずか5分の差で許してくれなかった。1回で済むはずの乗り継ぎは見事に頓挫し、ローカル線を2回ほど乗り継がなくてはならなくなってしまった。途中、いまどき珍しい車内でのパスポート・チェックを受けてデンマークに入ると、時折、寒々としたバルト海が車窓をよぎっていった。微かに陽の光が空に残るうちに着くことができたものの、北欧の夏ということもあり、実際の時刻はすでにかなり遅くなっていたようだ。食事をするために街に出て歩いてみるが、時刻のせいなのか人通りはあまりない。きれいに整備された街並みの向こうに、オラファー・エリアソンの透明な回廊を屋上に載せたARoSオーフス美術館を仰ぎ見ることができた。窓の色がカラフルに変化していく回廊から眺めたオーフスの街は、そして眼下に点在しているはずの種々の作品は、どのような想いを抱かせてくれることになるのだろうか。

 

オーフスでの滞在で最初に戸惑ったのは、ゴミ箱や灰皿をあさる人々の姿だった。滞在先のリスボンでは、ゴミ箱や灰皿だけでなく、路上に落ちている吸い殻を拾い上げる姿をよく目にする。タバコに限れば、リスボンに限らず、値段が高く設定されているヨーロッパでは珍しい事ではない。大都市に行けば、ゴミ箱をあさる人たちも大勢見かける。けれども、金髪碧眼で、その上、身綺麗にしている人々がそうする姿には戸惑いを覚えた。列車を降りて最初に気になったのがそのことだった。立て続けに何人かが同じようにゴミ箱や灰皿をチェックする姿を見かけたのだ。本当にここは幸せの国なのだろうか。ミュンスターの稿では、街に着いて物乞いをする人々が多いのに驚いたことについて触れた。ギリシアに対して緊縮財政を強いようとする国の、ある種の驕りを期待していた視線には、その光景は意外過ぎるものだった。街には、資本主義にはじき出された人々の姿があり、それは、ギリシアよりもむしろ、深刻な印象を覚えさせるものだった。幸福度を誇る国においても、表面的な期待は最初から裏切られることになったということだろう。いずれにしてもそこは、すべての問題が霧散した楽園などではないようだ。同じようにそこにも、経済的に困窮している、あるいはそのようにしか見えない人々がいる。おそらくここで注意しなくてはならないのは、国単位で人々の姿を想起することが、あまりにも早計で、思慮を欠いたものだということだろう。EUを牽引する優等生の国にも、幸福度報告で毎回上位にランクづけられる幸福の国にも、同じように困窮している人たちはいる。国単位の決めつけのイメージに基づく議論は、そうした人々の姿を覆い隠すとともに、本来であれば可能なはずのそうした人々相互の連帯をも不可能にしてしまうことになる。

オーフスのトリエンナーレは、ARoSオーフス美術館の名前を冠され、ARoSトリエンナーレと名付けられている。タイトルは『ザ・ガーデン 時の終わり、時の始まり』。トリエンナーレ自体は、2017年のEUの文化首都に選定されたことによる予算と、市の助成を受けるかたちで運営され、今回が初の開催ということらしい。テーマから直接、社会や政治への意識が感じられないのは、成熟した社会の完備された生活にとっては、それらの微調整ぐらいしか問題は見当たらないということなのだろうか。もちろん、ステートメントでは、社会や文化などの諸問題との関連について触れられている。曰く、いかにして、宗教的、政治的、イデオロギー的、文化的な意味での多様な世界観が、何世紀にもわたって、自然景観のなかにそれ自体を織り込んできたのか……。言うまでもないことだが、どのような標語に対しても、そうした問題意識を示すことは難しいことではない。赤道直下の独自の生態系で知られる諸島の名前を戴いた日本の国際展でも、類似したことが行われていたのは記憶に新しいはずだ。

幸福度報告が実態を表しているわけでないことは、あるいは場合によってはかけ離れているということは、あらためて指摘するまでもないだろう。もちろん、デンマークにも種々の問題が山積している。すでにこの連載で触れたが、断種という非人道的な制度を法制化したのは、ヨーロッパではデンマークが最初だった。世界的には、アメリカの方が十数年先行しているのだが、1921年という施行年度はナチスに先駆けていたことを示している。優生学的な考え方自体が特別なものではなかったことについてもすでに触れてきたが、それでも、いち早くそれに手を伸ばし、第三帝国の先人であったということは憂鬱な不名誉以外の何ものでもないだろう。デンマークは、ナチス進攻以降、表面的には協力を装いながら、強かな抵抗を試み、国内のユダヤ人たちを組織的にスウェーデンに逃がすことに成功している。そうした国であればこそ、なおさらその過去は気が重いもののはずだ。

オーフスの街のなかを歩いてみると、見かける人たちのほとんどがレーベンスボルンの外見上の条件を充たしていることに気づかされる。金髪碧眼で、頭蓋骨も、日本人とは異なり、横幅よりも奥行きの方が凌ぐかたちになっている。国名と同名の単一民族の国家とされているデンマークだが、そもそも人種という概念の定義が曖昧なことを考えれば、言語や外見上の特徴が共通しているということぐらいしか手掛かりになるものはない。エリアソンのレインボーの空中回廊は、性や性的指向における平等を象徴しているものでもあるが、人種に関して同様な意識は育まれなかったのだろうか。デンマークの人々の外見上の特徴は、先に触れた忌むべき政策と呼応することで、複雑な感情を抱かせることになる。

 


エリアソンの空中回廊

 

優生思想についてはすでに繰り返し述べてきたように、現代では否定する以外に考えられない主張であることは明らかなのだが、その時代、抗うことあるいは否定することは、決して容易ではなかった。その困難さを、可能な限り想像し、繰り返し想起し、更新していくこと。必要なのはそうした意識だろう。もちろん、たとえどれだけ困難だったのだとしても、選別と淘汰という判断に滑落してしまった社会の過ちを擁護する術は残されていない。しかし、彼らの問題を指摘するだけでは不十分だということにも注意しなくてはならない。批判するだけではなく、彼らがそうした判断を選択せざるをえなかった状況に関しても、同じように視線を送ることが必要なのだ。何が彼らを惹きつけ、押しやり、そして踏み外させたのか。後代からみれば自明過ぎる倫理を、なぜそのとき手にすることはできなかったのか。その困難を記銘しておくことこそが、同じ過ちに陥らないための備えになるのであり、また何よりもそうした思想に対する抵抗になるということを忘れてはならない。強かにナチスに対する抵抗を熟成させることに成功した人々でさえ、そうした道を選択肢のなかから選び出してしまうほどに、優生思想は巧みに人々を惹きつけたのだ。さらに言えば、先ほど触れた性や性的指向における差別に関しては、デンマークは先進国でもあり、断種法の十数年後には、同性の恋愛関係を認める法律を制定している。一様な非寛容があったわけではないのだ。他の事柄に対しては寛容な姿勢を示す人々でさえ、手を伸ばしかねない状況がそこにあったのだ。必要なのは、そのことを凝視することだろう。

優生思想の逃れ難さは、日本の最初のノーベル文学賞候補者でもある、賀川豊彦のことを考えてみるとわかりやすいかもしれない。キリスト教に基づき、貧者救済の社会運動に関わっていた賀川が、ハンセン病患者の慰問活動も行っていたことは広く知られているが、その彼がやがて、優生思想に影響されてハンセン病患者を排除する方向に姿勢を一変させていく。デンマークが断種を法制化していくのとちょうど同じ時期のことだ。慈愛に充ちているはずの宗教人でもある彼が、ハンセン病者のためとして、けれどもその根絶を唱え始めたとき、T4作戦が掲げた理由と大差のない言葉を並べていることには、正直、驚かされる。慈善の精神には、一見すると対極のもののようでいて、いやむしろ抵抗の困難さを考えるとき、だからこそと考えるべきなのかもしれないが、優生思想とどこか感応し、呼応するものがある。ひょっとすると、このことこそが、優生思想の危険の本質なのかもしれない。それは、禍々しいものとしてではなく、むしろ正反対の精神に支えられたものとして姿を現すのだ。

対極のようにしか見えないものの共存は理解することが難しいが、賀川が心酔していたジョン・ラスキンを想起してみると、それらが表裏を成しているということがわかってくる。ラスキンは、慈善運動家、ナショナル・トラスト創設への関わりなどで知られるが、芸術の世界ではヴェネツィアとウィリアム・ターナーに憑かれた『近代画家論』の著者としての方が通りがよいだろう。ディレッタント的な知の在り方を批判し、むしろ限られたものを徹底的に凝視し、究明しようとした彼の姿勢そのものは共鳴できないわけではない。しかし、そのある種の純粋に対する憧憬は、ターナーに対しては行き過ぎてしまうことになる。ラスキンは、彼が賛美してやまないターナーの芸術の本質を曇らせてしまうものだとして、ターナーの手による裸体画を焼却してしまう。もちろんそれらは、単に裸体画というよりは、ギュスターヴ・クールベ同様、詳細に性器までを描き込んだもので、確かにまったく別の動機によるものとして区別することもできるのかもしれない。しかし、そこから消去への短絡は、あまりにも思慮を欠いている。もっとも、最近の研究では、人目につかないようにはしたものの、実際に火を点けるようなことはしていなかったらしい。しかしここでは、これまで信じられてきたラスキンの神話を、そのまま利用しておくことにしよう。特定の価値を称揚するために、そぐわないものに対して浄化という名目の暴挙に出てしまうこと。理想あるいは愛と、拒絶あるいは暴力の混在。こうした矛盾に充ちたラスキンには、明らかに、賀川の心に優生思想を芽吹かせることになる要素が潜んでいる。ところでラスキンは、克明に岩石を描いた画家としても知られている。一方、東京にある賀川の資料館には、彼の趣味だったという岩石の標本が遺されている。一体彼らは、鉱物の彼方に何を見ていたのだろうか。

 


賀川豊彦記念、松沢資料館の岩石標本

 

ブラウン神父シリーズで知られるギルバート・チェスタトンは、優生学に反対していたことでも知られている。もちろん当時も、優生学に反対する人がいなかったわけではないのだ。進化論を擁護するもののなかにもアルフレッド・ラッセル・ウォレスやトマス・ヘンリー・ハクスリーのような反対論者がいた。とりわけ、進化論者のなかに、そうした人々がいたことの意味は大きい。優生学を基礎づける社会ダーウィニズムは、進化論を社会に応用しようとしたものだが、同質な機構が有意味である場合と、誤用しているものを正確に見抜いているのは驚くべきことでもある。とりわけ、自然選択をチャールズ・ダーウィンと同時期に発見したとされるウォレスの場合は、優生学にとどまらず、女性参政権に対しても早い段階で理解を示すなど、優生学以外の対象に対しても今日に近い価値観を抱いていた。その慧眼には驚かされる。

しかし、そうしたウォレスだが、彼のキャリアは心霊主義への傾倒によって汚されていくことになる。心霊主義はここでの議論とは関係ないように思われるかもしれないが、当時の、優生思想に対する受容にとっては無関係ではない。19世紀末、交霊会はある種の社交の場でもあり、チャールズ・ダーウィンや、優生学の祖、フランシス・ゴルトンがそうした場所に出入りしていたことは広く知られている。少女アリスを生んだ数学者チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(ルイス・キャロル)や、ベーカー街のコカイン中毒者を生んだアーサー・コナン・ドイルらもまたそうだった。先に触れたラスキンも同様で、心霊主義のための研究会にも名を連ねている。そうつまり、心霊実験と悪魔主義を同列に並べるのは乱暴すぎるかもしれないが、保守系の日刊紙の連載だったために非難を浴びたジョリス=カルル・ユイスマンスの『彼方』の最後に描かれた黒ミサの世界も、あながち、まったくありえない話ではなかったのだ。心霊主義や神秘主義が、ある種の可能性のひとつとして、充満していた状態を想像してみなくてはならない。しかし、ウォレスの場合は、心霊実験の真偽を巡る裁判にも関わるなど、その傾倒は度を越したものだった。正統でないとされる対象を擁護して可能性を見出そうとする、一貫する彼の姿勢を考えれば、心霊主義もまたそうした対象のひとつに過ぎないと考えることもできなくはない。けれども、自然科学の研究に打ち込む周囲の人間にとっては、心霊主義という対象はその根幹を揺るがすものでもあり、次第に彼は疎んじられるようになってしまう。ひょっとするとそこには、彼が専門教育を受けていないということも呼応していたのかもしれない。

 


エルムグリーン&ドラッグセット「Powerless Structures fig.55 – Cruising Pavilion」

 

優生思想との関連を考えるとき、ウォレスの問題は、先見の明がある人物が、心霊主義のようなものに惑わされ判断を誤ることがあるというように、表層的に理解するだけでは不十分だ。むしろ問題は、ウォレスを批判することができた側から見出されるべきなのだ。つまり、心霊主義に対しては疑いの視線を送ることができた人々が、優生思想に対して同様なことができなかったのはなぜなのかという問題だ。ウォレスやハクスリーなどの抵抗にも関わらず、人類はそうした思想を制度化するという、後に後悔することにしかならない路を歩んでいくことになる。そうした愚を犯していくことになる人間と比較したとき、ウォレスには、それ以上の落ち度があったと言えるのだろうか。

ウォレスと比較すると、賀川の場合は、その姿勢には一貫性がない。例えば戦時下、最初は戦争反対を主張していた賀川だが、末期には戦意高揚を推進する立場に立っている。貧者研究にしても、その背景には、社会主義的な意識とユートピズムの融合があると考えられるが、優生思想に影響されてハンセン病者の根絶に傾いたり、ウォレスとは反対に、娼婦に対して女性差別とも受け取られかねない発言をしている。そうした姿勢は、貧者研究の背景にある思想とはそぐわない。ところで彼の宗教観には、少し変わったところがあり、神との一体化という神秘体験に支えられていたと言われている。超越的存在との一体化自体は、例えばスーフィズムの回旋舞踏のように、宗教においてはことさら珍しいことではないが、そこから心霊主義との距離は近い。超心理学の創始者とも言われるジョゼフ・バンクス・ラインとの親交は、それを裏付けるものでもあるだろう。両者の関係は、日本の心霊研究に大きな影響を与えたと言われている。初期の日本の心霊研究の対象といえば、賀川よりふた回りほど年長で、ほぼ同時代を生きた福来友吉がまず思い浮かぶ。オカルト映画のモチーフにもなり、二重三重に偏った視線の背後に遠のいてしまった福来だが、彼の周囲に充満していたものについては、まだまだ再考しなくてはならないものがたくさんある。彼が師事した日本の実験心理学の祖、元良勇次郎に優生思想的な論文があることはそのひとつだ。一方、東大助教授の職を追われることになる福来に対する社会の視線も、ウォレスに対するそれを思い起こさせる。配置こそ微妙にずれているものの、ウォレスの周囲に生起した出来事のすべてがここにもある。一体、ウォレスと賀川の行く先を分けることになったのは何だったのだろうか。

 


カタリーナ・グロッセ「Untitled」。オープン1ヶ月足らずで、ストロベリーとバニラのアイスクリームは溶けてしまった?

 

19世紀末、神秘主義への関心は、今日からは想像できないほど大きく、当時の人々の思考や行動にさまざまな影響を与えていた。もちろん、これまで述べてきた進化論や優生学から交霊会まで、ほとんどがヴィクトリア期のイギリスを舞台とするものであり、奇想の時代にありがちな光景のひとつだとして片付けることもできなくはない。けれども微かな可能性であっても、動因や影響を及ぼしたものがあるのであれば考えてみることは無駄なことではないはずだ。人類が犯した大きな愚行のひとつとして記銘されていくはずの出来事の原因は、可能な限り、さまざまな角度から究明される必要がある。例えば、心霊や神秘などの気配が充満している環境は、厳密さのいかんに関わりなく、科学的であろうとする試みや、そう擬態しようとするものの生育を促したということは考えられないことではない。自然科学的精神が勃興してくるこの時代、おそらくそうした機運を後押ししたのは、元々はそれを体現しようと努めていた自然主義に対して、ある種の反動として生まれたサンボリズム的な世界観だったのかもしれない。ウォレスや福来を遠ざけようとする一方で、科学性や実証性を帯びている、あるいはそう思われるものが、さほど検証されることなく認知されていったということはありえないことではない。形成された反動こそが、むしろ生育を促したという皮肉な構図は、決して可能性のないことではないのだ。

あるいは、心霊主義が霊魂を幻視し、可能であればそれを顕現させようとするとき、物理的な身体を超えたところで人間に共通する部分を見出すという意味で、ユートピズムを経由して、ある種の社会主義的な観念とも共鳴し合っていたことは十分に考えられる。神智主義、ユートピズム、アナーキズムと、多少、構成要素に違いはあるものの、20世紀初頭、アスコナに生まれた奇跡のコミューン、モンテ・ヴェリタには、類似した要素が相互作用しつつ混在していた。モンテ・ヴェリタは、東西思想の融合点としてのエラノス会議の開催に象徴されるように、寛容の場としての性格を熟成させていくことになるが、経由地であるユートピズム自体は、ある種の衛生観念と結びつくことで、選別や排除を助長するという対極の作用を及ぼすことになる。プラトンの『国家』にはすでに優生的な世界と理想主義との密接な関係がみられるし、先に触れたハクスリーの孫、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』には、より明快に両者の関係が描かれている。神秘主義と心霊主義、交霊会や黒ミサ、そしてサンボリズムまでを一括して扱うのは乱暴が過ぎるが、けれどもそうした一群と、ユートピズム、社会主義、自然科学的精神、そして優生思想とが、相互に影響していたということはそんなに無謀な想像ではない。自然科学的な世界観にしても、それが迷いなく選択されたというよりは、種々の要素との間に働くさまざまな力学のなかで、幸運にもその台頭が可能になったと考えた方が自然だろう。そう考えると、その亜流でもある社会ダーウィニズムが、ある一定の引力圏を形成したのだとしても、一向に不思議なことではない。いずれにしても、怪しげな実験に傾倒したウォレスや福来を遠ざけ、ユイスマンの描いた世界に眉をしかめることはできても、優生思想のグロテスクさに対する感情は、驚くほど鈍いものだったことは確かだろう。

 


ニルス・ポウルスゴーとヨハン・ギューゼの「The Infinite Bridge」

 

優生思想に関連することについて少し長く触れてきたのには理由がないわけではない。それは、ある意味で今日の世界の基層にも関係していると思われるからだ。ミュンスターにもカッセルにもその徴のあったT4作戦は、ナチスという特殊な組織による問題として片付けてしまいがちだが、少なくともそれと優生思想との間には密接な結びつきが認められるし、もちろん今日の遺伝子スクリーニングにとっても無関係ではない。さらには同じ組織が手を染めた民族浄化を経由して、今日の民族間、宗教間の対立や、難民問題にも連続してくことになるはずだ。あるいは、都市部を覆い尽くそうとしているジェントリフィケーションの奥底にも、似たような意識を見出すことは不可能ではないだろう。明らかにその問題は、時間を隔てた過去に、隔絶された孤島を形成しているわけではないのだ。地続きで現在へと連続し、人々はその上に生きているのだ。

デンマークにとっても、当然それは無視できない問題のひとつなのだが、ここまで述べてきたのとは少し異なる要因があったことにも注意しておきたい。それは、とりわけ今日の水面下の優生学的な趨勢を支えているものでもあるように思われる。これまで考察してきた優生学、心霊主義、社会主義の舞台はヴィクトリア期のイギリスだったが、心霊主義や神秘主義に関しては、デンマークの場合、その気配や影響が希薄だった。稀代の霊能者、エマヌエル・スウェーデンボリを輩出した隣国のスウェーデンとは対照的に、デンマークにはむしろ強固な現実主義的な性格が見出せる。例えばそれは、デンマークが輩出した傑出した天文学者、ティコ・ブラーエと、彼の弟子、ヨハネス・ケプラーの対比を考えてみてもよいのかもしれない。16世紀に緻密で膨大な天文学的な観測を行ったブラーエは、もともとの動機は占星術の精度を高めるためだったと言われているが、莫大なエネルギーを精密で粘り強い観測に注ぎ込んでいく。一方ケプラーは、ブラーエの観測データに基づいて地動説を裏付ける研究成果を手にすることに成功するが、もともと彼は数的秩序が世界の根底にあるとするピタゴラス主義者であったことが知られている。結果として科学的な成果を手にしたケプラーだが、その動機は神秘主義でもあったのだ。それに対してブラーエの場合は、確かに占星術のためという意味では、ケプラー同様に科学とは相容れない領域に立脚していたのかもしれないが、占星術と天文学が明確に区分できず、むしろ連続していたその時代、どちらかと言うとそれは、高踏な主義に基づくものというよりは、占星術、あるいは天文学の精度を向上させるという、どこか職業意識に近いものだったと理解することができる。

ブラーエの、ある意味で現実的、実証主義的な姿勢は、数世紀を経て同じデンマークの自然科学者によって再び繰り返されることになる。原子模型で知られるニールス・ボーアは、量子力学の確立にも多大な貢献をしているが、波動性と粒子性という相反する性質が相互に補い合ってひとつの系を記述するという相補性や、彼と、彼の名を冠した研究所を中心に提出され、アルバート・アインシュタインとの間で激しい論争を引き起こした、空間的な広がりを持つ波動関数が観測によって収縮するというコペンハーゲン解釈にみられるように、矛盾した現状をそのままのかたちで事実として受け入れようとする、頑なな現実主義が特徴でもあった。一方、彼の論争相手、アインシュタインの隠れた変数に対する期待は、先の例を想起してみれば、明らかにケプラーのピタゴラス主義に近いものだ。こうした現実こそを凝視しようとする認識は、19世紀のゲオルグ・ヘーゲルの観念論に対する、実存主義の萌芽を導いたセーレン・キェルケゴールの思想を考えてみれば分かりやすい。この、デンマーク出身の早逝の思想家は、抽象的かつ観念論的な人間を排して、現実の人間を凝視し、弁証法という思弁的な解決法則ではなく、現実の問題との対面、現実の人間におけるその解消という、きわめて現実的な処し方を説いてみせた。ブラーエ、ボーア、キェルケゴール。もちろん、思弁的、理想的、抽象的なものを遠ざけようというこうした性質を、デンマーク人に特有のものとして決めつけることは性急過ぎるが、ひとつの特質として考慮してみる必要はあるだろう。

また、愚直なまでに現実に拘る姿勢は、数世紀前の思想家たちに登場してもらうまでもなく、内戦のため参加禁止の制裁を受けたユーゴスラビアの代わりに出場し、目ぼしいスター選手を擁することもないまま、面白味のない試合運びで、まんまと優勝してしまった1992年のユーロ(UEFA欧州選手権)におけるデンマークのサッカーを考えてみてもよいのかもしれない。いずれにしても、思弁的であったり抽象的であったり、あるいは理想的であったりするものよりも、きわめて現実的な基準を優先させようという傾向を、もしもデンマークの基底に認めることができるのであれば、第三帝国がある種の蒸留された純粋な理念の下に愚行を重ねたのとは違う動因が、その国にはあったのかもしれない。事実、デンマークの場合、断種法が念頭においていたのは犯罪対策や、精神に疾患を持つ人に対す社会の負荷の軽減だった。誤解のないように断っておかなくてはならないが、そうした理由だから首肯できる部分もあるということを言いたいのではない。優生学的な実践を選択するにはいく通りも道筋があり、特定の分かりやすい理路だけを見つめていては、再び繰り返す恐れがあるということに注意しておきたいのだ。しかも、デンマークの現実的な対処方法は、目的にこそずれがあるものの、今日の遺伝子スクリーニングに連続する部分がある。デンマークの断種法は、第三帝国の恐るべき振る舞いだけでなく、優生思想の今日的な形態や、あるいはさらなる未来の管理医療を先取りしたものとして想起しなくてはならないのだ。それらに潜在する問題を指摘するためには、その根幹にある、現実を優先させる思想に対する視線が欠かせないはずだ。

 


デンマークの国境警察

 

デンマークの優生政策は、当然、今日の難民政策との関連でも考察されるべきだろう。反イスラムを掲げる右翼政党、デンマーク国民党の閣外協力を仰ぐ少数与党政権が2016年に施行した法律は、難民たちの所有物を、ある基準以上の場合接収できるという驚くべきものだった。しかもその基準は、1万デンマーク・クローネ(約17万円)と、大学出身者の初任給並にかなり低く設定されていて、富裕層をターゲットにしているというよりは、むしろ、その基準を完全にクリアすることの方が難しい。基準を越えるものは、仕事のための情報機器である場合もあるだろうし、あるいは大切な人から託された思い出の品である場合もあるだろう。特別な贈答品に関しては除外されるともされているが、その基準は曖昧で、どのような解釈が横行しても不思議ではない。そもそもその限度額にしても、当初は3分の1程度に設定されており、批判を受けて変更されたのだという。しかし、こうした難民政策は、実際にその施行によって金品を得ることが目的ではなく、そうした姿勢を表明することによって難民が敬遠することを狙っていることは見え透いている。同じような制度は移民国家として知られるスイスにもあるものの、スイスの場合は検査によるものではなくあくまでも申告に基づくものであり、多少その意味は希釈して考えることができるかもしれない。しかしいずれにしても、ここでもあの忌まわしき第三帝国が、ユダヤ人たちから金品を巻き上げようとした恥ずべき行為を想起させることは間違いない。こうしたデンマーク政府の姿勢に対し、抗議の姿勢を示したのはアイ・ウェイウェイだった。今回のトリエンナーレの中心は、あのエリアソンのカラフルな透明回廊を頭上に戴くARoSオーフス美術館だが、アイ・ウェイウェイはそこでの常設から作品を撤収している。難民問題に積極的に取り組んできた彼であれば当然のことだろう。

ところでもちろん、ここでのこうした発言自体も問題を含んでいるということも確認しておく必要があるだろう。そもそも、難民問題そのものを理解できていないとしか思えない極東の島国の人間にどのような批判が可能だというのだろうか。自分自身の国の難民に対する姿勢を棚上げにしたまま語ることは欺瞞にしかならないだろう。日本の難民受け入れ実績が、世界的にみて著しく乏しいものでしかないのは、地理的な条件だけでない事情が原因している証左でもある。認定数だけをみても、件のデンマークの1000分の1程度に過ぎない。乱暴に概観しても、日本のおよそ半分の人口のドイツが2015年には100万人以上を認定しているのに対し、日本はわずかに20数人を認定したに過ぎない。こうした国情を考えれば、どれだけ難民に対する非寛容政策を採用する国に対しても、発言すること自体、許されるものではない。けれども、どのような対象であれ、寛容さに欠ける姿勢に対して批評的な言説を差し向けることが、結局は自身に対するものに帰着するということは、微かな口実を与えてくれるのかもしれない。これまでデンマークに対して述べてきた、そしてまたこれから述べていくことは、おそらく何倍もの強度となって自身に対して戻ってくることになるはずだ。こうした視点を意識することで、発言が許されると考えるのは虫がよすぎるのかもしれないが、あくまでもそれはデンマークについて何かを指摘しようとするものではなく、結局、自身についての問題を洗い出すためなのだ。

ところで、デンマークが難民に対して採用している政策は、実際にその地を旅しているだけではあまり感じることもないだろうと考えていた。けれども、これまで注意してきたことだが、その地にはその地の問題があるにもかかわらず、何らかの目的でそこを訪れたものたちはそれに目をくれることもなく通り過ぎてしまうのだ。アテネのシンタグマ広場、ミュンスターの聖ランベルティ教会、そしてカッセルの躓きの石、そしてハリット広場駅……。冒頭で、電車の乗り継ぎに失敗したと書いたが、そのため立ち寄らざるをえなくなったのが、ドイツのデンマーク国境の町、フレンスブルクだった。ヒトラーの死後、その遺書により大統領に指名されたUボート作戦の指揮で知られるカール・デーニッツが降伏処理のための政府を一時的においた町だ。フレンスブルク政府は処理の実行後、解散となるが、次に国境の町が直面したのは難民問題だった。強制労働させられていた東欧からの人々に加え、敗戦国の人間として、隣国から追放されたドイツ人たちがその町に流入してきたのだ。そのかつての難民の町の駅舎が、数年前、再び難民で埋め尽くされた。シリアなどからの難民のアジールでもあったスウェーデンへの途上、デンマークの入国制限によって足止めされた人々を支援するための拠点が駅舎に設けられたのだ。また冒頭、車内でのパスポート・チェックについて触れたが、それはこのフレンスブルグの隣、デンマークの国境の町、パドボーに入ってからのことだった。やる気のなさそうな職員の態度に、なんて形骸化された検査なんだと思っていたが、別の事情があったのだ。彼らの目的はシリアや中東からの難民で、明らかに相貌や身なりの異なるアジア人の旅行者に対しては、さほど興味がなかっただけのことなのだ。ちなみに、難民問題がピークを迎えた2015年には、デンマーク国営鉄道はドイツからの列車を一時的に運行停止にして難民の流入を阻止している。フレンスブルグ-パドボー間は閉鎖されていたのだ。ドイツ鉄道のもたつきは、そんないわくつきの場所に導くためのものだったのだろうか。

 


ダグ・エイケン「The Garden」

 

優生政策、難民に対する拒絶、抗ナチ運動、性差別への積極的取り組み、幸福の国……。これらの矛盾する要素を並べただけでもデンマークに対する理解は難しい。しかし、にもかかわらず、デンマークだけでなく、世界の諸問題を棚上げしたままの展示が続いている。展示構成は、過去、現在、未来と分けられ、ARoSオーフス美術館では「過去」を、また美術館を含め市内に点在するように「現在」が、そして市の南東に伸びる沿岸地帯に「未来」が広がっていた。展示自体は、個々の完成度が高く、これまで足を運んだ国際展と比較すると、どこか懐かしい感じのするものだった。実験的で未完成なものまでを取り込もうとする今日の趨勢とは異なり、しっかりと仕上げられ、言及される問題も環境問題ぐらいに限定されている。もっとも、デンマークの環境対策は、先進国のなかでも進んでいるとされている。酸性雨被害を受けた経験に基づくもので、年金などの福祉の充実、男女間格差の低減などとともに、幸福度評価を上げる要因のひとつとも言われている。意地の悪い言い方をすれば、最初のふたつには「難民以外の」という但し書きが必要だが、自然環境の場合はそれが必要ない。沿岸地帯に広がる「未来」の展示をのんびりと散歩しながら辿っていると、越後妻有アートトリエンナーレや瀬戸内国際芸術祭の印象も重なってくる。それらの地にいるとき同様、自然環境そのものには注意が向くものの、どこか意図的に視線をはぐらかされているような想いは拭うことができない。環境問題が提示されている場合でさえ、そうした問題に視線を凝集させようとすることが、どこか罪深いもののように思えてしまう。難民問題には積極性を欠くが、どこよりも積極的に取り組んでいる問題もある。そうした姿勢を自覚することで、多少なりとも胸を撫で下ろすことができるということだろうか。

 

確かに、美術館のトーマス・シュトルートの作品にしても、ランドスケープはあまねく社会を反映していると考えれば深淵な意味を孕み始めることになる。けれどもそのことで、デンマーク自体の姿は見えてこない。どこかでやはり、別の問題に摩り替えているという印象を拭うことができないのだ。日本からの唯一の参加者、中谷宇吉郎を父に持つ中谷芙二子の霧の作品が皮肉な想いにさせる。本来、視えているものを不可視にし、逆に、風のように視えるはずのないものを可視化する。エリアソンの空中回廊を包み込む彼女の作品は、他の美術館でのプロジェクト同様、印象的なもので来場者の人気を集めていたが、彼女の作品よろしく、トリエンナーレの作品群はどこか、デンマークの置かれている現状を覆い隠すもののように見えてしまう。

もちろん、まったく種々の問題への言及がないと言うわけではなかった。沿岸部の倉庫内に設置されたダグ・エイケンの作品は、管理された人工的な自然に囲まれた室内が荒らされていて、人間こそが問題を構成していることを示していた。あるいはその、トリエンナーレと同名のタイトルは、ここまで述べてきたことを象徴的に示しているようにも感じられたし、どこかミュンスターのピエール・ユイグやジェレミー・デラーの作品を感じさせるものでもあった。ユイグやデラーの作品に見られる、人為性があまねく入りこんでしまう宿命を扱おうとしている作家はその他にもいたが、ひょっとするとそれが、難民問題にとどまらず、優生思想的なものまでを含んでいるということを示唆しているものは少なかった。エイケンの作品は、そうしたなかでは際立っていた。エルムグリーン&ドラッグセットの「Powerless structures」のシリーズのひとつとして出展されたものも興味深かった。シリーズの別の作品、トラファルガー広場の第四の台座に選ばれた槍を手にしていない少年のモニュメントは、どこか白川昌生の「敗北のモニュメント」を思い起こさせるが、オーフスでは公園のなかに「Cruising Pavilion」というタイトルでシンプルなコンテナ状の作品を設置していた。ゲイのセックス・パートナー探しを意味する言葉と、中産階級の情事を意味する言葉を結びつけることで、はじかれるものと正常とされるものを問おうとする作品は、特別な仕掛けは何もないが考えさせられるものだった。当然、はじかれるものに対して働いている力は、優生思想の根底にあるものと同質なものだ。トリエンナーレのテーマを、自然と人間の営為を問うものだと解釈すれば、そこに種々の社会的な力学が入ってくるのは当然のことだろう。人為性のなかに、人間の流動を制御しようとする、優生思想や難民問題などを感じられるかどうかは、微妙な加減によるものに違いないし、ある意味では観衆に委ねられてもいる。個人的には、ミュンスターにはそれがあり、オーフスにはそれが感じられなかった。オーフスではむしろ、テーマを額面通りに扱おうとする姿勢ばかりが印象に残った。中谷の霧よろしく、何かを不可視にしようとしているようにしか思えなかった。高潔を装う人物が、一瞬、垣間見せてしまった残酷な表情を知っているために、そのようにしか感じられなかったのだろうか。

 


オーフス市庁舎階段ホール


市庁舎をバックにしたネイサン・コリーの「THE SAME FOR EVERYONE」

 

オーフス市は、EUの文化首都の予算を利用して、トリエンナーレとは別に“Coast to coast”という別のアート・プロジェクトを行っている。ジェニー・ホルツァーやドクメンタにも参加していたマリア・ハッサビなど、9人のアーティストによるもので、パフォーマンスやインスタレーションなど形態もそれぞれで、期日も個別に設定されていた。またしてもマリア・ハッサビのパフォーマンスにはタイミングが合わなかったが、舞台となった市庁舎には足を運んでみた。第二次世界大戦下、アーネ・ヤコブセンとイーレク・ムラの設計によって建てられた美しい建物は、レジスタンスの出版に加担した疑いで、みせしめとして二度も空爆されたという。しかも、驚くべきことにヤコブセンはユダヤ人だ。ドクメンタのハッサビのパフォーマンスを行った会場には、そこに訪れた人が主体なのだと突きつけるものがあった。市庁舎にはピンクのカーペットは敷かれていなかったが、けれどもその記憶が、同じことを求めているように感じられた。市庁舎の傍には、“THE SAME FOR EVERYONE(誰にも同じように)”と書かれたネオンサインがあった。ネイサン・コリーの作品だ。彼もまた9人のアーティストのひとりなのだが、そのストレートな言及は、ここまで会場を巡りながら、一方で優生思想やレーベンスボルン、ユートピズムや高福祉社会を考えながら、もやもやしていた想いを晴らしてくれた。コリーの作品は、オーフスを中心に10箇所に設置されている。もちろんその明滅は、断種法はもちろん、優生思想や、先に触れた難民対策に対する姿勢を、市民たち一人ひとりに問いかけることになるだろう。

結局、むしろトリエンナーレの以外のものが、いろいろな想いを育ててくれたように思う。いま述べたもの以外にも、ARoSにあるエリアソンの空中回廊や、バルト海に突き出した円環状のボード・ウォークがある。エリアソンのそれは、単にヴィジュアルとしても目を引くものだが、自国の性差別に対する公平性を誇ると同時に、眼下の町に対してその姿勢を遍く抱いているのかと問いかけるように感じられるものだった。またそれと呼応するようにバルト海上に突き出すように設置された、建築家、ニルス・ポウルスゴーとヨハン・ギューゼ設計による円環状のボード・ウォークもまた、その穏やかな佇まいとは裏腹に、自身の街を客観的に眺めるように促し、しかもどこにも特権的な場所がないということを象徴的に示していた。そして、前述したコリーのサインが静かに点ることで、エリアソンの空中回廊を覆い尽くしてしまう中谷の霧のように、街全体を静かに疑念の靄が覆っていくことになる。あるいは、ハッサビの気配が、再び、問われているの自身なのだということを突きつけてくるのだ。

トリエンナーレがそれらのものとの関係を明示していないのは残念だが、もともと、美術館から街中へ、街中から海岸線へと広がる構成は、街そのものを、あるいはそれを取り囲む自然環境こそを見せようとするものだったのかもしれない。考えてみれば、そのための仕掛けがなかったわけではない。トリエンナーレには予約制のランチ・ボックスがあり、恐らくそれを手にして沿岸部を歩きなさいということなのだろう。けれども、行き先は自由なはずだ。海岸線でひときわ目立つ、ビャルケ・インゲレス・グループのバブル状のモバイル建築のカフェでそれを受け取り、シャンパンの小瓶を奮発して、展示が広がるのとは逆の方向に歩いてみる。個人所有の小舟が綺麗に並べられ、傍には船具や漁具の入っていると思しき物置が置かれ、それをテーブルに見立てるようにそれぞれにベンチや椅子が置かれている。どこか、デラーのクラインガルテンを思い起こさせる。そのひとつを借りて、ランチ・ボックスを広げてみる。生の野菜がゴロゴロ転がっているような大胆な昼食だ。シャンパンの泡越しに、バルト海を眺めてみる。確かにトリエンナーレという枠組みを強固に考え過ぎていたのはこちらなのかもしれない。街自体に、そしてその周囲に目を向けてみれば、決して何か問題を包み隠そうとしているわけではないのかもしれない。しかし、どうしても釈然としない想いは残ってしまう。本当にそれで十分なのだろうか。

 


予約制のランチボックス


KASKEDEのジェローム・ベル「ディスエイブル・シアター」

 

ほろ酔いの意識のなかを、とりとめなくいろいろなものが行き来していく。オーフスに来てからずっと気にかかっていたのは、ジェローム・ベルとチューリッヒのシアターHORA共同名義の作品「ディスエイブル・シアター」だった。その作品は、シムジックのドクメンタで問題になった、オル・オギュイベのオベリスクが立つケーニッヒ広場にあった。オギュイベの作品は、マタイによる福音書の一節、御国へ招かれる条件のひとつを四ヶ国語で刻んだもので、曰く、「他所者のわたしを、招き入れてくれた」。地元の人で賑わうカレーブリュスト屋からも眺めることができるそれは、マリア・ミヌヒンのアクロポリスと並ぶ、ドクメンタのアイコンのひとつだった。カッセル市は彼にアーノルド・ボーデ賞を授与し、順調にいけばそのまま買い上げとなるところだったが、極右政党AfDの市議会議員がクレームをつけ、結局、作家によれば市側からの連絡は途絶えてしまったという。そんな広場の一角に、アーノルド・ボーデの弟、ポール・ボーデによってデザインされた映画館、KASKEDEがあった。金色の美しい天井と、重厚な吸い込まれるような真紅のビロードの引き幕は、どこかデヴィッド・リンチの世界に通じる雰囲気を湛えている。現在は使われていないが、ドクメンタ13の際に、一時的にベルらの作品のために利用された。900席ほどの広大な館内にまばらに散らばるわずかな来場者のために、共同名義の劇団のダウン症者のメンバーによる渾身のソロ・ダンスの映像が上映された。心が締め付けられるような美しさだった。障害者プロレス「ドッグレッグス」(※公式ウェブサイトの表記に倣う)を初めて見たときにも似た感動だった。彼らもわたしたちと同じなのだという理解が、どれだけ思い上がったものだったかを思い知らされたのを記憶している。その文章は、わたしたちも、から始まるものに書き換えなくてはならない。エヴァ・フェダー・キテイが、介護に関する論考のなかで、介護するものもされるものも、お互いに相手を傷つけると述べていたことも想起された。傷つけるという行為によって、初めて両者の対等性が意識される。人間の人生の大半は、介護するか介護されるかのどちらかの立場で、結局はその大半を他者と関係しながら過ごしていくことになる。近代社会が前提とするような自立した個でいられる時間は限られている。差別の意識は、そこここに根を下ろしている。ABBAの「ダンシング・クイーン」に合わせた、満面の笑みのエネルギッシュな踊りが奇跡のように思えてくる。ABBAのヴォーカルのひとり、アンニ=フリッド・リングスタッドの母親はノルウェー人だが、父親はナチスの兵士だった。レーベンスボルンの子供のひとりだったのだ。T4作戦が実行された場所で、戦後ノルウェーを追われた彼女の歌声に合わせて、作戦の標的となったはずの女性が踊る姿は希望を感じさせるものだった。そんな彼女と同じダウン症の子供たちが、アイスランドやデンマークで激減しているという。遺伝子スクリーニングを推進する政治家のひとりは、決して根絶を目指すものではないという弁明を繰り返している。招き入れないものは、招き入れられることもまたないだろう。すでに触れたように、足下はあの時代と地続きなのだ。先ほどの釈然としない想いは、いつしか、確信に変わることになる。そう、やはりそれでは充分ではないのだ……。

 

 


 

ナノソート2017
no.1「シンタグマ広場に向かう前に……」
no.2「アテネ、喪失と抵抗の……」
no.3「ミュンスター、ライオンの咆哮の記憶……」
no.4「愚者の船はどこに向かうのか……」
no.5「幸せの国のトリエンナーレ」
no.6「拒絶、寛容、必ずしもそればかりでなく」
no.7「不機嫌なバー、あるいは、政治的なものに抗するための政治」
no.8「南、それは世界でもある」

 

 


 

杉田敦|Atsushi Sugita
美術批評、女子美術大学芸術文化専攻教授。主な著書に『ナノ・ソート』(彩流社)、『リヒター、グールド、ベルンハルト』(みすず書房)、『inter-views』(美学出版)など。オルタナティヴ・スペース art & river bank を運営するとともに、『critics coast』(越後妻有アートトリエンナーレ)、『Picnic』(増本泰斗との協働)など、プロジェクトも多く手がける。4月から1年間、リスボン大学美術学部の招きでリスボンに滞在。ポルトガル関連の著書に、『白い街へ』『アソーレス、孤独の群島』『静穏の書』(以上、彩流社)がある。

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