広州のアフリカ人 文/日埜直彦

広州のアフリカ人
文/日埜直彦


Photo: Naohiko Hino

中国南部、香港の西側、内陸に入り込んだ珠江デルタに中国第三の人口を抱える都市、広州がある。北京や上海の国際都市としての発展ぶりと比べると対外的には影が薄く、仕事上の必要でもなければ特に訪れたくなる都市ではないだろう。人口は広州単独では1,700万程度とさほど大きいわけでもないが、香港、マカオ、深圳と結びついた世界有数の巨大都市圏を形成しつつある。北京オリンピック、上海万博、そして広州でアジア大会と、このところ立て続けに国際的イベントが催されたが、こうした序列に広州の位置づけのニュアンスを見て良いだろう。
そんな広州にアフリカ人街区が出来ているという記事を昨年ル・モンド・ディプロマティックが掲載していた(1)。上海などと比べればドメスティックな印象のこの都市に外国人街、しかもアフリカ人街区とはなぜ?と思いつつも、そこでなにが起こっているのか興味をそそられた。
中国の勃興する都市の例に漏れず広州にも超高層ビルの建ち並ぶ新市街がある。珠江新城と呼ばれるその地区には、市中心部を流れる珠江に向かって大げさなビスタを通す公園が広がり、それを挟むように1ダースほどのピカピカの高層ビル、もう1ダースほどが建設中だった。おまけに今をときめくザハ・ハディド設計のオペラハウスとエリック・オーウェン・モスの広東省博物館が添えられている。
ハディドのオペラハウスはなかなかの見物だが、どのみち新市街というのは一通り見てしまえばそれ以上のことはない。高層ビルは結局は高層ビルでしかなく、まだまだ空きフロアの目立つ真新しいガラスカーテンウォールと、そんなものでも見上げては感心する中国人観光客の姿があるばかり。新市街は世界中どこにいっても変わらないマクドナルドの店舗みたいなものだ。

アフリカ人街区についてのル・モンド・ディプロマティークの記事に誇張はなかった。広州駅の北西方向1キロの範囲、東に2キロ離れた小北站周辺、他にもそうしたエリアはあるのかもしれない。単にそこにアフリカ人がたくさんいるというだけではなく、そこでビジネスに励み、彼らなりの生活を組み立て、コミュニティのようなものが形成されている。不法滞在者を含めるとその数15万人を超えると言うから大変なものだ。それもそのはずで広州の外国籍在住者ではアフリカ出身者がもっとも多いのだという。
彼らのビジネスについて簡単にまとめるとこうなる。彼らアフリカ人は基本的に個人で行動している。ほとんどは男性、だが女性の姿がないわけではない。いずれにしても仕事中に連れ立って歩く姿は見かけなかった。一人のバイヤーとして、おそらくは母国であろう輸出先の好みに合う商品を求めて広州中心部の問屋街をひたすら渉猟している。濃淡はあるが混雑した道ですれ違う顔の半分がアフリカ系という場所もあった。東アフリカの顔、西アフリカの顔、背格好もさまざまで、出身国はアフリカ全域と見受けられる。彼らがそこで仕入れている商品は衣類、雑貨、化粧品などで、偽ブランド品を含む安価なものがほとんどだ。広州周辺の値段で勝負するしかない工場からこうした商品が集まってくるのだろう。ともかくそういう商品をコンテナ一杯分かき集めてごたまぜのまま母国に輸出し、倍ほどの値段で売りさばく。そういった雑多な交易にとって広州の通関は都合が良いらしい。
中国人と彼らアフリカ系のバイヤーが仲良くやっているようには見えない。ただひたすらビジネス上の関係で、中国人の店員はあの手この手で商品を売り込み、バイヤーは値切りの交渉をしている。ひたすらあやしげな英語のネゴシエーションが繰り広げられ、そこに笑いはない。例えばパリのアフリカ人に比べると広州の彼らは驚くほど勤勉で、朝から晩まで精力的に歩き回り、ひたすら働いている。品定めする目は真剣そのもの、商談が成立すればそそくさと大きな黒いビニール袋に突っ込む。仕入れた商品が持ちきれなくなると通りで暇つぶししている中国人人夫を呼びつける。滞在しているアパートに届けさせ、また次の店に向かって歩きはじめる。彼らアフリカ人が道ばたにたむろし時間をつぶす姿は一度も見なかった。仕事中に知り合いに出会っても手を挙げて挨拶する程度で、ひたすら歩いている。彼らの上には北アフリカか中東のイスラム系の元締めがいて、夕刻になると彼らが集まるレストランでは一種のマイクロクレジット的な金融が行われているようだった。そうしたレストランが小北站周辺にいくつかあり、そこでは完全にイスラム式の食事が提供されている。店員の顔つきからするとレストランは中国のイスラム系、たぶんウイグル自治区あたりの人脈による家族経営だろう。こうした店を開くためには中国社会の閉鎖的な制度との擦り合わせのためいくつかのクッションとなる仕組みが必要になるのかもしれない。夜もふけるとこうしたレストランはバイヤー同士の情報交換の場となり、何語ともつかない言葉で話し込むグループがあちらこちらのテーブルを囲む。訪れた時期はちょうど北アフリカの民主化革命が盛り上がっていた頃で、そんなグループのいくつかがアル・ジャジーラを映す店内のテレビを食い入るように見ていた。彼らの生活をサポートするさまざまな業態がこうした周辺に派生している。コンゴやナイジェリアあたりの料理を出すレストランがいくつかあったし、アフリカへの安価な国際電話を提供する小店舗、携帯電話ブローカー、独特の髪型に仕上げる理髪店、アフリカ音楽のテープやCDを売る露店などなど、数は少ないがオーダーメードもこなすアフリカ人経営の中間問屋もアフリカ系で占有されたビルにはあった。既にアフリカ出身者と中国人の結婚も珍らしくないらしく、こうしたごった煮的な状況は今後ますます進展するだろう。

広州のアフリカ人街区は、簡単に言うならばグローバル化の所産である。安い商品を求めて彼らはアフリカから世界の工場と呼ばれる中国にやってきた。グローバル化は一般にどこに行っても同じ情景を作り出し、広州の新市街のような「世界のマクドナルド化」を引き起こしていると言われるが、広州のアフリカ人街はあきらかにそれとは異なるグローバル化の実例だ。人種がぶつかり合い、しのぎを削る混交的な状況、軋轢と交渉の緊張下でそれをフォローするさまざまな社会的営みが派生し、全体として特有の都市的生態系と言って良いようなものが形成されている。アフリカ人街区のすぐそばには悪名高い九龍城さながらのきわめて閉鎖的な中国人密集街区があるのだが、アフリカ人はそこにはまず立ち入らない。相互の融和的な雰囲気などかけらもなく、それぞれが混じり合わないままにただひたすら自分のメリットを追求している。いわゆるネオ・リベラリズムなどここにはなんの関係なく、ひたすら商品経済が文脈を飛び越えて結びつける赤裸々な併存があるだけだ。
マクドナルド化の退屈な均質化と、広州のアフリカ人街区の過激な混交の、どちらがグローバル化の真実だというわけではない。一方に流動化した資本が儲け話を求めて世界の隅々に目を光らせるようなグローバル化がある。その実体化した表現が「マクドナルド化」であり、ダース単位の高層ビルである。そして他方に広州のアフリカ人街区のグローバル化があり、特異な都市生態系を形成しているとき、我々はこの重層性をそれと受け止めた上で、グローバル化とローカリティの関係をどう考えたら良いだろうか。
例えばウルリッヒ・ベックは『グローバル化の社会学』において、グローバル化の「マクドナルド化」とは異なる様相について次のような指摘をしている。第一に我々は近代の社会単位としての国民国家とは異なるレベルで組織された社会的関係と権力関係に巻き込まれている。第二にそうした国家単位のボーダーを越えて生活し行動する現実の経験が日常において実際にある。国民という範疇が国土という領域と一致させた近代の国民国家という社会システムは、多国籍企業やNGO、グローバルなメディアのような国境を乗り越える組織にルールを課すことが出来ないし、他方で国家間を移動するヒト・財・資本の流動性が我々の身の回りに現に存在し、彼らと出会い、それを消費し、例えば再開発のような具体的なかたちで我々の生活環境が改変される。そうして我々の現実は多かれ少なかれグローバル化したというわけだ。もちろんそうだろう。しかし文化的領域に関心が高いであろう読者にとって、こうした説明はむしろ保守的で当然のことに聞こえるのではないだろうか。単に国家単位の社会が国際的になったわけではないし、単に国籍を異にするものが隣に住んでいるというだけのことではない。よりデリケートな生活体験の深部に浸透し、社会関係を複雑化させ、文化的障壁に隔てられつつコミュニケーションすることを強いる、そういうグローバル化が我々にとってリアルな問題のはずだ。

広州のアフリカ人街区に見えているのは、そうした現実のやや誇張されたヴァージョンと言えるだろう。そこでは多国籍的な状況が固有の秩序を形成している。単に隣人として出会うだけでなく、グローバル化した現実に蹴り出され、異質な他者と顔を突き合わせざるを得ない状況が生まれている。そしてその軋轢のもとで関係を安定させるようその場のローカルな条件に規定された固有の生態系が編み上げられている。この独特の適応は他の場所で同じように通用するわけではなく、またおそらく広州においてすら永続的なものではないだろう。パリのアフリカ人は広州のアフリカ人とは全く違う生活を送っているし、東南アジアのアフリカ人はもっとあからさまな蔑視にさらされている。広州で行われている一匹狼的業態は遅かれ早かれ大規模化するだろうし、インフォーマル経済に依存したビジネスは制度的な圧迫にさらされるだろう。そもそもこの状況自体が中国がアフリカとの関係を強めている現在の国際的な力学下で生じた一過性のものに過ぎないのかもしれない。しかし変化する趨勢に応じて創意工夫を重ね次第に形成されてきたプロセスが現在の状況を生んでおり、ここまで大規模で複雑に絡み合った現実は動かしがたい痕跡として将来に影響を残すに違いない。その意味でグローバル化はむしろ現在のローカリティを産出する条件の一つとなっているのだ。両者の関係は疎外によって説明されるものではなく、前者が後者を条件付け、後者が前者の前提となり、そうして互いを変容させるような相互作用的なものだ。
広州の興味深いアフリカ人街区は特殊な事例に見えるかもしれないが、我々の日常とそれはどちらも同じ大きなグラデーション上にあるはずだ。日曜日の香港中心部に繰り出しペデストリアンデッキで数千人規模のピクニックを楽しむフィリピン人、香港返還を前にして大挙してトロントに移民しそこに新しい中華街を突如作り上げた香港人。あるいは群馬県の無名の町の人口の15%を占め、その町の製造業に従事し世界経済の動揺に揉まれつつ地域社会とコミットし始めた日系ブラジル人、アメリカに住んだことなど一度もないのに黒い肌がそれらしく見えるからと渋谷のヒップホップ系のショップで売り子をするアフリカ出身者、我々はこうした現実を日常においてそれぞれバラバラの現象と考えがちだが、実際にはかなり同時代的で一貫性のある現象である。そうして世界中の多くの場所でグローバル化は生々しい現実を形成している。遥か遡れば中国人自身が世界中にチャイナタウンを形成してきたように、自国を離れ外国での生活を送るディアスポラは歴史上枚挙にいとまがないが、グローバル化はそれを量的に加速させ、国籍の幅を拡げつつあらゆる場所に潜在し、時に特異なかたちで露頭する。そのようにして生まれる新たな固有性があるのだ。しばしばそこには広い意味でクレオール化した生活文化が形成され、再帰的にそれぞれの場の個性に合流してそのローカリティーの一部となっていくだろう。このような意味において、グローバル化は画一化とは程遠く、多様性をかき混ぜてなお一層のハイブリッドなローカリティを派生させている。ローカリティとはなにか?グローバル化とはなにか?こうした問いはもはや二項対立的な捉え方を許さない複雑な様相を来たしている。むしろすくなくとも幾分は、我々はたとえ出身国にいるままであっても既にディアスポラとなっていないだろうか。そういう現実は、グローバル化という遠景よりも切実な、我々のローカリティではないだろうか。

  1. http://www.diplo.jp/articles10/1005.html
    http://mondediplo.com/2010/05/02africansinchina(英語ただし購読必要)
    http://www.monde-diplomatique.fr/2010/05/COLOMA/19133(フランス語)

Copyrighted Image