連載 田中功起 質問する 12-6:遠藤水城さんから3

第12回(ゲスト:遠藤水城)――アートの社会的な取り組みとそれによって生じる倫理的な問いについて

キュレーターの遠藤水城さんを迎えた往復書簡。いったんの区切りとなる遠藤さんの最後の手紙は、これまでのやりとりを経た「明日の考察」となりました。

往復書簡 田中功起 目次

件名:風雨強かるべし

田中功起さま

新年早々、ばたばたとした日々を過ごしています。この最後の返信も随分と遅れてしまいました。いま、京都にはジョアン・マリア・グスマンとペドロ・パイヴァというポルトガルの二人組が来ています。「希望の原理」展で僕が一緒に仕事をしたアーティストなのですが、日本が気に入ったらしくて、あれ以来、作品制作のために集中的に日本に来るようになりました。前回は沖縄で作っていたんだけど、その時にできた作品を田中くんはロサンゼルスのREDCATで見たって言っていましたね。僕がオコゼを食べるっていう謎の映像があったでしょ(笑)。彼らの作品数点はタグチ・アートコレクションにも収められています。また日本で発表できる機会があればいいのだけど。


十津川村の「笹の滝」

時代閉塞の現状(管理、現代美術の最期および明日の考察)

1(三)

アートの定義は、すくなくとも日本においては、まだ定まっていないのかもしれない。僕は、自分が欲望する時に、欲望する通りにその言葉を使用すると、誰かに非難されるのではないかと、いつも心配になってしまう。だからおそらく思慮ある人はそういうことはしない。同じ町内に同じ名前の人が五人も十人もいれば、とても不便だよね。その不便さ(これはときに不毛に転じる)を解消するために、アートと呼ばれているものの内実を統一したり、整理したりする必要があるのかもしれない。あるいは、いまのままほっておいてもいいのかもしれない。みながみな、それぞれ勝手なことをアートに感じている現状。

見回してみると、アニメでも漫画でも映画でも演劇でもダンスでも音楽でも建築でもデザインでも、アートはジャンルを超えて侵食しうる。美術館のなかにだけアートがあるというわけでもなさそうだし、アーティストの定義もとても広い。そこに共通性を見い出すのはほとんど不可能で、それぞれがアートの名の下で全く別の競技をしているような気さえする。もちろん、統一されたルールで、一つの価値基準でアートを定義したいわけでもない。それぞれの内容や思想、方法、理念、方向性が全く異なっていようとも、それらは歴史的に固定化したものだから、仕方のないことだと思う。よく言っているのだけれども、カルチャースクールの水彩画教室のあり方に憤ったりしないのと同様に、地域アートの隆盛に立腹することはないし、ただそのようにあればいいと思う(むしろそういったものが存在していることは、素晴らしいとすら思う)。しかし、アートがロマンティックなもの、個人主義的なもの、白樺派的なもの、国家主義的なもの、などを土台としその圏域からいまだに自由ではないことや、まがりなりにも成立した美術館を頂点とする近代美術制度を現代美術にまで拡張すると、過度な欧米追従主義や公共性の喪失、俗情との結託を招いてしまうことを、どう承認したらいいのだろうか。あるいはアートが仮象の自由や、ニヒリズム、底の抜けた欲望の表象の道具となってしまうことや、ときにはある種の「現実への不信」の表徴となってしまうことをどう承認したらいいのだろうか。これらの矛盾は健全に矛盾しているだろうか。こうして「アート」という言葉は、鵺のようなものになってしまっている。「アートとは何か、その中心はどこにあるのか」という問いに「答えること」が、不毛な現実の反復でしかないとするならば、その対応策は問いを変えることなのか、問いに答えないことなのか。そして、僕らの周りでは、みながみな別々の答えを「答えること」をパフォーマティヴに示し続けている。

この混乱はもっと大きな問題につながっていく。Twitterなどをみていると、「アートなんて遊びにすぎない」、「アートの閉鎖性、スノビズム、お高くとまった感じが嫌い」、「なんでもアートで許されると思うなよ」と、アートを肯定しない人たちがいる。それらの人たちのアートの否定は、それ自体である種の社会性の肯定になっている。あるいは、別のアートの言外の肯定によって、ある種の社会性を否定している。否定であれ肯定であれ、アートと社会を同時に定義する作用がそこにはある。その論理と表象の方法が新しくなっただけで、一昔前の文学論争 – 「文学か政治か」式の論争、あるいは芸術的価値論争のような – とほぼ同じような感情の揺れが美術において表面化している。

椹木野衣氏に特有の美術そのものへの言及は、この混乱に対する一つの解釈として、とても優れているように僕には思える。近著の『後美術論』で彼はこのように言っている。

「いま進行しているのは、すべての語の空虚化という意味では、すべてがアート化しつつあるような事態なのだ。その意味で、アートという語は、こうした状況の到来をかなり早い時期から予示していた。にもかかわらず、私たちはこの語をとりあえず「芸術」や「美術」とほぼ同じ内包を持つ意味概念として惰性的に使ってきた。その無理は随所に生じていたのだが、それももう限界にきている。ならばいっそ、この「アートの中空」まで十分に身を入れ、そこから新しい表意概念としての「後美術」論を組み立て直すべきときだろう。たとえ、それが日本語の徹底した虚構化とでも呼ぶべき事態の上に仮設されるしかないのだとしても、そこが私たちの棲んでいる悪しき土壌そのものだということまでは否定できない。そして、そこからいま一度、美術の「後」を探り当てるのだ。」(*1)

確かにこれは、「アート」をめぐる混乱に対する批判と受容、日本特殊論と普遍性への志向がアクロバティックに両立した最適の解答のように思える。しかし、この解答を承認する場合、驚くべきことではないのだが、飽和したような、あるいは熱死しつづけていくような特殊な状況が続いていくことを覚悟しなければならない。なぜなら、美的な表現は、それが美とそれを受容する社会に関するものである限り、必ず多かれ少なかれ「引き裂かれ」と「翻訳作業」の継続的な営みのうちにあるから。もし僕らが「後美術」をそれとして承認すれば、今後永久にいっさいの美的表現を、引き裂かれと翻訳作業の「営み」として行うのではなく、それらを「常態」として表象するような包括的反省性を「後美術」という名前で呼ぶことになるだろう(とはいえ『後美術論』はそのような定義・再定義という機能を過剰に超える批評的「営み」そのものであるという点こそ怖るべきポイントなのだが)。

椹木氏のヴィジョンの卓越は、例えば、彼が「日本美術」発生当時に立ち返って思考していることによる。美術と呼ばれるものは、そもそも純粋な史的展開による発生物ではなく、まずは場当たり的に輸入され、その後国策と実利を兼ね備えた輸出物として構成された、不純な出自をもっている。昨今の地域アートへの懐疑(道具としてのアート、経済目的のためのアートへの懐疑)は、その出自を忘却することによって可能となったに過ぎない。椹木氏の史観においては、日本における「原-美術」が「後美術=アート」と結ばれている。「後美術」という新しき名は、新しく起こったことに与えられたものではなく、既にあった状態との結合であり、そしてこの結合は、MOMAを頂点とする西洋近代美術、および領域の閉鎖性と特権性を所与とする現代美術という明確な敵をもっている。(「明治期」、「大正デモクラシー期」、「50-70年代の前衛」などを原-美術として特権化する思考には明確な敵がいる。)

原-美術は、サブカルチャーでも、政治運動でも、工芸でも、観光物産でも、社会運動でも、国策でも、ありうる。同時にありうる。軋轢は、「純粋なる現代美術」が無遠慮にも、行い、かつ主張するようになって発生している。僕はここで、大きな反省をしようと思っている。僕らの世代は、純粋なる現代美術を擁護しようとしすぎたんじゃないだろうか。僕らが若かった頃、一時的に「現代美術バブル」のような現象があったでしょう? 水戸芸術館、東京都現代美術館、森美術館、横浜トリエンナーレ、商業ギャラリーたち。これらが成立し、定着する時期に、僕らはアートを始め、アートを生業とするに至っている。2000年代半ばの短い一時期に、作品が良く売れていくという現象も経験している。おおよそ1975年から1980年生まれ前後に、ある種の「現代美術作家」たちが集中しているのは偶然ではなくて、その波に乗ることができたという幸運な側面がある。波に乗った作家たちはみな、とても純粋に現代美術的だった。制度論的に言えば、純粋なる現代美術は、美術館とギャラリーを双璧としたシステムだけで事足りる。美術館に比重を置く場合もギャラリーに置く場合もあるけれども、いずれにせよこの両者が純粋なるアートを規定する制度的な保証となる。当たり前のことかもしれない。しかしそれを素直に振り返り、認めたいんだ。僕が幽霊部員的に参加している「基礎芸術」や井上くんの「CAMP」、「アーティスツギルド」や「社会の芸術フォーラム」など。これらはみな、ある同じサークルのなかにある。それはアートを美術館および公共性の側にのみ位置付けようとする志向を共有し、アートが担いうる公共性の喪失を嘆き(例えば地域アートやオリンピックの文化プログラムに宿るポピュリズムを問題化し)、総じてアートが不純になることを抑止しようとしている。しかし、僕も含めて、そのように考えうる者たちがなしているのは、ある種の管理の徹底につながっていないだろうか。社会的にはすでにほぼ完成してしまったものを、美術館というとても遅い制度の中で、再演しようとしているんじゃないだろうか。狂人たちを押し込めておく場所から、多くの人間が自発的に入りたくなる場所へと、美術館の性格を変えようとしているだけなんじゃないだろうか。その際、アーティストが率先してその模範的態度を示しているということはないだろうか。僕らが、「芸術」と「社会」の間の矛盾を調停したいという欲望において、美術館や大学の公共性の名の下で行っている「営み」は、たんにそのような翻訳技術を開発しているだけ、という可能性はないだろうか。田中くんの企画であるこの往復書簡全体を覆っているのは、純粋なる現代美術の精緻化を求めることで必然的に発生する、昏い技術論のトーンじゃないだろうか。ともあれ、本稿で確認したかったのは、純粋なる現代美術と不純なる原-アートが断絶しているという現状までで十分なのだけれど。

2(四)

こうして今の若手アーティストたちには、自己主張の強烈な欲求が残っているように思える(それは周到に隠されることで、かえって露わになる)。現代美術発生当時のバブルの風はもはや吹いておらず、理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い間鬱積してきたその力を一人で持て余している。すでに断絶している「純粋なる現代美術」との結合を今なお意識しかねている。今日の若手アーティストたちが持っている内向的、制度依存的傾向や、痙攣的な反抗、仮設的なユートピアという対抗措置などは、この理想喪失のあるがままの状態をきわめて明瞭に語っている。自己言及を通した「時代閉塞の結果」の説明ばかりが増殖している。結果を説明できるものが勝てるのだ、と言わんばかりじゃない?

僕らはどの方向に進めばいいのだろうか。HAPSに若者がやってきてアーティストになりたいと言う。成功したいという。誠実でありたいという。彼はアートとは、彼がそのいっさいの所有を時代に提供することだと知っている。しかし、今日においてアートはただ部分的な成功、部分的な誠実さしか彼に要求しない。そうして彼は、その部分に自分を適合させるか、その部分を全体と考える詐欺を自分にかけるかしかなくなってしまう。それ以外のことをしようとしたら、それはもうアートと呼ばれなくなってしまう。またある若者は、社会運動に身を捧げようとしている。しかし、社会運動が情報の布置のなかで相対化され、そこに自意識の鏡が差し込まれることによって、いっさいの運動が無価値化されるように感じてしまう。資本という確実な勢力の援助を得ないかぎりは。

時代閉塞の現状はそれら個々の問題にとどまらない。僕らより年配のアーティストの方々は、最近のアーティストはいろいろなところから収入が得られるようになって幸せだ、という。しかし、それらの収入は、アーティストが「部分」を選択せざるを得ないところまで追い込まれてやっと得られるものだ。世の中に文化的な催しがあふれ、アーティストが多少なりとも収入を得られるようになっても、全体としての管理はますます進行している。むしろ、そのような状況が管理を加速度的に促進させている。毎年何百という芸術作品が、アートはこの社会の役に立つのだと、高らかにその安全性を謳歌している。しかし、それらの作品はまだ幸せな方なのかもしれない。その何十倍、何百倍もある小さな表現たちは、そこに「作品」としての適性を認められる以前に消去されていく。中途半端な表現を、中途半端と判断する管理機能ばかりが強化されていく。逆説的にそれは中途半端を生み出してもいる。消去・否定システムは、その持続的回転のために、それを欲している。はっきり書くけど、美術館もアートフェスティバルもギャラリーも、ある種の中途半端さを欲望している。あらゆるものの管理可能性の博覧会のようになっている。アーティストたちはそれに満足してしまう。鑑賞者も中途半端なものを鑑賞する行為に満足してしまう(それは中間管理職の喜びのようなものかもしれない)。いまやどんな僻村に行ってもなんらかのアートの催しがある。その企図は、抵抗の最後の拠点となりうる一次産業を三次産業によって蝕むことと、無駄話によって、なにかが始まることをすでに終わったことにすることだ。結果を説明できるものが勝てるのだ、と言わんばかりじゃない?

僕らを取り囲む空気は、あまりにも早く動き過ぎていて、逆にほとんど動いていないようにしか見えない。管理が世界を覆っている。この侵食が完成に近い程度まで進んでいることは、この管理の破れが自己申告的になされることによって明らかになる。検閲と自己検閲、表現の自由と政治的適正性がその都度「問題化」されることは、なにを表しているのだろう。Twitterの炎上とそれに応対する現実社会は、なにを表しているのだろう。あるいは、盗聴法や風営法改正、青少年健全育成条例や電波法の再解釈など、アドミニストレイティヴな管理が法的な言語で規定されつづけていく現状は、なにを表しているのだろう。

この時代閉塞の現状において、急進的と見られるアーティストたちがどのように主張しているのか、僕らは知っている。彼らは、抑えても抑えきれぬ自己への管理を外在化させ、もっとも管理されるべきところへ、もしくは空隙(現代的管理の欠陥)に向かってまったく盲目的に突進している。危険な表現へ、スキャンダラスな方へ、ショッキングなものへ。アートはそれらを排除すると同時に許容する。許容しながら排除する。それらはすでに管理対象として、あらかじめシステムの側にも、身体のうちにも書き込まれている。アーティストたちは、その事実を確認し、システムと身体を共振させるために、アートに身を捧げている。管理され、なかば管理され、なかば管理されない状態の全体を、結果として説明することを、自由と勘違いしている。

あるいはまた、僕らの業界では、「未来」を奪われた現状に対して、不思議な方法でその敬意と服従を表している。戦後の前衛に対する回顧がそれにあたる。戦後前衛は近代美術と純粋なる現代美術の間にあって、ある特定の方法で、その両者に対して、管理と抵抗の技術を提供している。急進性ではなく、あまりにもずさんで、鈍重かつ素朴な管理と抵抗の方法を示すことによって、前衛はある美しさを発揮している。前衛の特質は、速さではなく、その遅さにある。

こうして僕らは、この自滅の状態から脱出するために、その「敵」の存在を明確に意識しなくてはいけない時期に到達しているんじゃないだろうか。それは僕らの希望や欲望によるのではない。たんなる必然なんだよ。僕らは、一斉に、同時に、この時代閉塞の現状に宣戦しなければならない。純粋なる現代美術という幻想を振りまくのはやめて、盲目的反抗や前衛への回顧に陥ることなく、まったき明日のことを考えなければいけない。現在をゼロ地点として始められる明日のことを。みんなで。

3(五)

明日の考察。これが僕らがいまできる唯一で、またすべてのことであっていいと僕は思う。

その考察を、どの方向に、どのように始めればいいのか。もちろんそれは各位の自由だ。ただ、この場合、僕らが過去いかに「自己」を主張し、いかにそれに失敗してきたかを考えてみれば、だいたいの僕らの今後の方向が予測できるんじゃないだろうか。

田中くんや僕が属する団塊ジュニアの世代が、両親たちの世代がなした高度経済成長の完成のなかで現実感を喪失しながら教育されてきた間に、僕らより少し上の世代のアーティストたちが自発的に自己を主張し始めた。バブル経済下にいた当時のアーティストたちは、欧米のアートシステムを顕在化させ、そこに参加するリアリティを僕らに与えてくれた。いまの現代美術のありかたを先導/扇動したとして皆に認められているように、村上隆氏の欧米マーケット中心主義が一番大きな声だった。(それに対して、僕らは少なくともその「欧米」中心主義に対して第二者としての意識を持たなかった。村上氏はその後、彼の友人たちがサブカルチャーと現代美術との間の和解を試みたように、再導入された日本性と「マーケット」中心主義との圧政結婚を企てている。)

村上氏の欧米マーケット中心主義の破滅の原因は、その思想それ自体の中にあったんじゃないだろうか。すなわち彼は、欧米のアートシステムに対する妄信が過剰に含まれていたとともに、「アートシステム」と若者の間の関係に対する理解が局限的(アートシステム成立以前の日本のアーティストたちの発想が局限的だったように)だった。そして、彼の思想が魔語のように当時の若手アーティストたちを動かしたにもかかわらず、彼がアートシステムの再設定者としてのデュシャンやウォーホルから離れて、その活動を日本性の再定位とマーケットの結合に限定したときに、「未来の権利」をもつ若手アーティストたちの心は、彼の永眠を待つまでもなく、すでに彼を離れ始めている。

この失敗は僕らに何を語っていただろうか。括弧つきの「欧米」あるいは「世界」という架空の基準点を設定した上で(「欧米では…」、「世界的に通用する…」)、現在地とその架空の場所の落差によって利ざやを得るような「マーケットの論理」を温存して、新しいアートを始めるのは不可能だ、ということだったんじゃないだろうか。そこで、当時若かった僕らは第二の方法 – 「欧米」中心主義の延長としてのモダニズムと前衛の再構成 – を試した。欧米と自分たちのリアリティを等価なものとする方法論を作品レベルで模索した。ただの「モノ」。日常。単純な運動法則。造形性の最小値化とコンセプチュアリズムの微分化。構成原理の明示による作品の生成。当時それは、「マーケット」中心主義への反動として現れていた。商業的覇権だけではアートはやっていけないと批判した。しかし、それは正鵠を得ていない。なぜならそれは、方法と目的の場所の違いがあるだけだから。マーケットの原理でアーティストの権威を示すべく自己主張したのに対して、アートセオリーへの信頼によって同じことをしようとした。この第二の方法があまりうまくいっているようには思えない。僕らの作品が、「欧米」のそれと同じものであると感じられることはついになかった。作品を取り巻く制度 – 美術大学、美術批評、商業ギャラリー、そしてとりわけ公共の美術制度があまりにドメスティックだったから。

ここで第三の方法を僕らはいま試しているところだと思う。純粋なる現代美術を保証する制度にまで反省性の射程を広げること。もはや作品だけでは純粋性は担保され得ない。純粋さの砦たる美術館が不純になりつつあるからだ。彼らには純粋になってもらわなければならない。前衛の時代においてアーティストの敵だった美術館を、僕らは味方につけようとしている。この方法は、前の二つの方法よりも重大な教訓を僕に与えている。それはこういうものだ。「マーケットの原理に対するものとして美術館の公共性を再構成する営為は、最終的なところで管理の原理とつながっている。」

そう考えると、僕らの今後の方向性は、上記三つの経験によって限定されている。すなわち僕らの理想は「欧米的公共化」でも「商業的成功」でもない。このようなシステム論的反省性を峻拒して、必然的に、それでも残るものについて考えなければならないと思う。不純なるアートシステムを、必然に基づいて、ゼロから構築することは可能か(これを必然的なアートシステムと呼ぶことにする)。これが、僕が未来に向かって求めるものなんだ。僕はいま、誰よりも厳密に、大胆に、自由に「現代としての今日」を研究して、そこに僕自身にとっての「明日のアートシステム」を発見したいと切実に思う。必然的なアートシステムは「人は誰しも表現してしまう」と「あらゆる人が表現を必要としているわけではない」の双方に立脚しなければならない。この表現の無根拠性だけが最も確実なものだから。

さらに、僕が僕の理想を発見したとして、それをどのように、どんな場所に求めるべきだろうか。アートシステムの内にだろうか。外だろうか。アートシステムをそのままにしてだろうか、改良すれば良いのだろうか。あるいはまた、日本的なものにおいてだろうか、欧米的なものにおいてだろうか。そのどれでもないと僕は思う。ここで別れを告げたいのは、システム論的な反省性と、地理区分に基づくマーケット的な欲望なんだ。欧米の公共美術制度に精通した者も、世界のマーケットで通用した者も、ともに等しく、上から目線で結果を説明することによってその特権性を得るべきではない。僕らは、過去の僕らと別れなくてはならない。これ以上失敗すると、ほんとうにもう後戻りできなくなると思うんだ。

アート – 明治期において、大正デモクラシーの際に、戦時下で、戦後前衛のときに、90年代から00年代に、その「美」の発見と承認とが、「実践」として刺激をもっていた時代が過ぎて、ただのクリエイティヴィティの垂れ流しと、ただの意味のない金儲けと、ただの中途半端な管理システムの徹底化に傾いてきたアートも、ようやくなにか別のものに変わりつつあると僕には思える。僕らや若者たち、これから生を享くる人たちの心が「明日」で満たされたとき、その時「現代性」が初めて最も適切な実践を得る。時代への自己言及は、時代を実践することとは違う。僕がアートに求めるのは、ただ実践でしかなくて、実践が可能にする必然的なアートシステムだけなんだ。

遠藤水城
2016年1月-3月初頭 京都、東京、札幌、十津川村にて。


1. 椹木野衣『後美術論』、美術出版社、2015年、13頁

近況:3月にHAPSではさまざまなレクチャー・シンポジウムを開催します。HAPS PRESSも鋭意、新コンテンツを作成しています。3月はアートマネージメント会議でフィリピン。4月はモンドリアン財団に招かれてオランダ。来年度は集中すべき仕事に集中します。たまには展覧会もやりたい(オファー待ってます)。

【今回の往復書簡ゲスト】
えんどう・みずき(インディペンデント・キュレーター)
1975年札幌市生まれ。京都市在住。国内外で数多くの展覧会を手がけ、地域におけるアートプロジェクトの企画・運営にも積極的に携わる。
2004年、九州大学比較社会文化研究学府博士後期課程満期退学。art space tetra(2004、福岡)、Future Prospects Art Space(2005、マニラ)、遊戯室(2007、水戸)などのアートスペースの設立に携わる。 2004-05年、日本財団APIフェローとしてフィリピンおよびインドネシアに滞在。05年、若手キュレーターに贈られる国際賞「Lorenzo Bonaldi Art Prize」を受賞。「シンガポールビエンナーレ2006」ネットワーキング・キュレーター。2007年、アジア文化基金フェローとして米国に滞在。同年より2010年まで茨城県が主催するアーカス・プロジェクトのディレクターを務める。2011年より「東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS)」代表。他に「第四回福岡アジア美術トリエンナーレ」協力キュレーター(2009)、「CREAM ヨコハマ国際映像祭2009」キュレーター、国東半島芸術祭「希望の原理」展キュレーター。
主著に『アメリカまで』(とんつーレコード、2009)、『Perfect Moment』(月曜社、2011)、『陸の果て、自己への配慮』(PUB、2013)など。
http://haps-kyoto.com/

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