2009年を回顧する|清水穣

文:清水穣

2008年9月のリーマンショックの影響下、お金が動かない不景気の時代に合わせて保守化した美術界にとって、09年は色々な意味で内向き後ろ向きの1年であった。日本のバブル景気は1986年から91年と言われている。90年前後に登場したダムタイプや日本のネオポップは、否定的な意味ではなくバブル社会の雰囲気の産物と言って良いだろう。90年代半ばから頭角を現すいわゆる昭和40年会の作家たちは、ネオポップ=ネオジオ的な国際性とは対照的に、むしろローカルで貧しい日本の足下の現実を見つめる感性を持っていたが、それはバブル崩壊とそれに続く「失われた10年」にいち早く反応していたのだと言える。2000年を跨ぐ形で通称ITバブルが興り、不景気が02年1月に底を打って、そこから07年10月頃までは、社会の構造改革(リストラクチャリング)を伴いつつも緩やかな景気回復期である、と(第14循環の「だらだら陽炎景気」)。

ローカルな感性がそのまま同時代の国際性へとつながる、昭和40年会的感覚は、この時期一種の具象性と結びついて、95年の奈良美智以降、松井みどり氏の言う「マイクロポップ」世代の作家へ、さらにかつて美術手帖が特集した「ゼロゼロ世代」の作家へつながっていくが、それはこのリストラ+景気回復と並行した現象だろう。同氏の企画による07年『『夏への扉―マイクロポップの時代』展(水戸芸術館)は、過去10年間の日本現代美術の優れたドキュメントでもあった。

その1年後の金融恐慌から1年たった現在、その世代の作家たちの何名かはギャラリーを失い所属先を変え、スタジオボイスもエスクァイアも廃刊、アートフェアでは保守化したコレクターが90年代のブランド作家に安定投資し(それがバーゼルアートフェアの売買が最高額を記録したつまらない理由)、中途半端に値が上がった00年代作家を顕著に買い控えている。そういう環境の中、初夏に開催された『neoteny japan』(上野の森)や『ウィンターガーデン:日本現代美術におけるマイクロポップ的想像力の展開』(原美術館)が、奇妙に古めかしく見えたのも当然かも知れない。


田中功起 水戸芸術館現代美術ギャラリーでの展示風景
『夏への扉-マイクロポップの時代』2007年
Courtesy: Tanaka Koki and Aoyama | Meguro 
写真提供:水戸芸術館現代美術センター

「内向き後ろ向き」の眼差しは、すでにエスタブリッシュされた国内作家へ、そして(館蔵品+借出品による)美術史の啓蒙へ向かう。国内作家への注目 — 例えば、杉本博司『歴史の歴史』(国立国際;金沢21世紀よりは展示が成功していた、のは作家のおかげ)、池田亮司『+/−』(都現美;80年代で時計が止まったかのように古くダサい美意識)、北島敬三『1975-1991』(写美;沖縄返還後からソ連崩壊まで「リアル」を追う形式主義者の首尾一貫)、長澤英俊『オーロラの向かうところ』(国立国際;観客をサル扱いする、歯の浮くような「ですます」調作品解説)、東松照明『色相と肌触り』(長崎県美;筆者別項参照)など。日本人中堅作家の展覧会はつねに少なすぎても多すぎることはないから、歓迎すべき傾向だが、結局、企画自体が —すべてではないが— 内向き後ろ向きで、作品の検証と検討を欠き、作家の新たな評価でもなく再評価でもない、ただ漫然とした作家紹介に終始している。無論、多数の作品を見渡せばそれなりに作家の本質は現れ出るので、企画の物足りなさは見る側が補えばよいのだが。そして美術史の復習と教育普及。『コラージュ-切断と再構築による創造』(東近美)、『ヴィデオを待ちながら 映像、60年代から今日へ』(同)が典型的だろう。これらもまた、いま現在見て本当に面白いのか、面白いとすればどこが面白いのかという批判的な問いが、展示作品の歴史的・制度的権威にまで届いていないので、平均点アカデミズムのつまらなさから自由ではない。


左:東松照明『町歩き』シリーズ 長崎市館内町 1982年
右:長崎県美術館『東松照明展-色相と肌触り 長崎-』展示風景 2009年

「内向き後ろ向き」は展覧会のみならず、新人とベテランを問わず、作家たちの作風にも妥当する言葉でもあり、それは必ずしも批判すべき傾向ではない。一言で言えば「現代美術史の再編」、すなわち現代美術の歴史を複数化する傾向、過去の美術のうちから、ありえたはずだが未展開に終わった潜在的可能性を新しく展開する傾向である。アプロプリエーションが、エスタブリッシュされた美術史のアイデンティティを前提とするのとは異なり、この傾向はまずそのような同一性からこぼれ落ちた部分に接続して、古典の新しさを独自に発見する自由を本質とするので、基本的に何も前提としない。たしかに「モダニズムのハードコア」を権威的に啓蒙する大きなお世話、美術史家の徒な饒舌を招く危険、あるいは最悪のアナクロ・モダンアートと紙一重であるが、基本的にそれらと無縁であるのは作品を見れば明らかだ。例えば、目立つ傾向として 「コラージュ」がある(上記企画展は時宜を得ていたわけである)。ウィリアム・ケントリッジ『歩きながら歴史を考える―そしてドローイングは動き始めた』(京都;従来のイメージを払拭し、デジタル時代のコラージュという新たな問題圏に導いた)、ヴァルダ・カイヴァーノ『The Inner Me』(小山登美夫ギャラリー京都;多くの画家が賞味期間切れの様相を呈している現在、絵画はやっぱり面白いと言わせる内容)、木村友紀『1940年は月曜日から始まる閏年』(タカイシイギャラリー;近年調子を上げている作家の写真インスタレーションは、なんとまだ始まったばかり!)、特集展示岡崎乾二郎(東京都現代美術館;回顧展のフレームではなく、現在のこの傾向の文脈で理解すべき)など。


『ウィリアム・ケントリッジ—歩きながら歴史を考える
そしてドローイングは動き始めた…』
京都国立近代美術館ほか、2009〜2010年

2009年を特徴付ける最後の要素が「中国」である。年頭の『アヴァンギャルド・チャイナ<中国当代美術>二十年』(国立国際美術館)、『アイ・ウェイウェイ展—何に因って?』(森美術館)、インフラとオーガニゼーションの点でアートフェア東京を超えたShContemporary上海アートフェアを見れば、中国現代美術は、日本で言えば、バブル期を過ぎ昭和40年会から奈良美智あたりを反復している。リーマンショックの影響をあまり受けずいまだに上昇中の中国アートは、じきに中華風マイクロポップ(?)を生み出し、その段階からようやく本当に面白くなるはずの中国現代美術は、そのときインフラの強さを背景に日本現代美術を強烈に相対化するだろう。


艾未未(アイ・ウェイウェイ)「シャンデリア」2009年
クリスタルガラス、電球、金属 600 × 450 × 225cm
森美術館『アイ・ウェイウェイ展—何に因って?』展示風景
撮影:渡邉 修 写真提供:森美術館

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連載 清水穣 批評のフィールドワーク

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