田中功起 質問する 14-5:高橋瑞木さんへ3

第14回(ゲスト:高橋瑞木)――社会的実践とコンテンポラリー・アート

香港拠点のキュレーター、高橋さんとの往復書簡。田中さんからの一旦の最終書簡は、アートの普遍性と社会的実効性の関係について、個人と集産主義の視点も重ねながら考察します。

往復書簡 田中功起 目次

件名:いくつかの循環について

高橋瑞木さま

返信がまた遅れてしまいました。
ところで、実はぼくも7月1日に香港にいました。現在進めている小さなプロジェクトのリサーチだったのですが、短い期間の中で多くのミーティングがセッティングされていて、高橋さんに連絡することができませんでした。香港はすごく久しぶりでした。前回訪れたときは、確か香港のアート・フェアがアート・バーゼル香港になる前だったので、ずいぶん前のはずです。街はそれほど変わったようには思わなかったのですが、多少きれいになったのかな。雨傘運動のあとの香港がどういう状況にあるのか、それも確認したかったのですが、ある意味ではとてもはっきりと体感することができました。

例えばLiber Research Community(本土研究社)を訪れました。そこで行われていた講座シリーズ「民間学院」はハンナ・アーレントやアンリ・ルフェーベルの思想の紹介から、中国市場の発展史、アメリカの帝国主義についての研究まで、幅広く扱い、いま香港で必要な知識とは何かをさぐる、オルタナティヴな教育プログラムだったようですが、教育機関としての認可がないため当局から閉鎖に追い込まれたようです。Liber Research Communityはそもそも土地問題についてのアーカイヴを行うグループで、この講座シリーズは認可が必要な「学校」ではなく、自主的な勉強会のようなものだったようですが。つまり小さな抵抗の目であっても、法的な根拠を理由に摘んでいこうという当局の思惑です。


ミュンスター大学にあったボイス。

個と社会

前回のぼくの書簡の中で書こうとしていたのは、高橋さんによる「政治的な実践をおこなうコンテンポラリー・アートでは、アーティストの生き方の形式も問われるべきなのか」という問いかけが、どうして「アーティスト」にだけ向けられているのだろうか、ということへの違和感でした。「政治的な実践をおこなうコンテンポラリー・アートでは、アーティストやキュレーターの生き方の形式も問われるべきなのか」というように、なぜそこに「キュレーター」が含まれなかったのでしょうか。ぼくは「キュレーター」である高橋さんはどのようにこの問いを考えているのか、と逆に問いかけたかったんですね。ぼくはそもそもアーティストの実践もキュレーターの実践も、実務的な違いはあっても、実質的には同じだろうと考えているからです。つまりそれはアーティストであるぼくへの問いであると同時に、キュレーターである高橋さん自身への問いでもあるはずだと。もちろんその後のやりとりでは高橋さんは「芸術に関わる私たちの生の形式」と書き換えられていたので、ぼくが感じた違和感は解消されてしまったわけですが。

でもこのすれ違いの中でぼくが書いたことをもう少し引き取ってみたいと思います。他者に問われるのか、自らが問いかけるのか、という違いについてです。「踏み絵」(そこでは現実の問題を解決するためには自身の生活さえも投げ打って実行すべきであるという「信仰」の態度が問われていました)というメタファーによって語られる、「アーティストの生き方の形式」への投げかけに対して、ぼくは「“私たち”の生き方の形式」が問われるべきだと書きました。そして、それは誰かによって投げかけられるものではなく、自らによって問いかけるべきであると。

「踏み絵」はひとりひとりへの倫理を問いかけます。同時に、形だけでも踏めば心の内までは問われない。この形式性は社会の側からの要請であり、建前です(もちろん信仰を共有する共同体においては、形式的に踏み絵を行っただけでそれが棄教を意味するのだとしても)。そして、ひとは、個人の倫理と社会的形式性に引き裂かれます。この議論はあとでもう一度ふり返りましょう。

整理

さて、ここからはこれまでの書簡をふり返って少し整理してみたいと思っています。前回、高橋さんがオラファー・エリアソンのプロジェクトに対して、あり得る評価基準としてあげた内容(元金融界の友人視点)にひっかかりを覚えたからです。論点を整理して、もう少し一般化してみたいと思います。気にするべきは「実践的な解決策があるかないか」、そして「芸術固有の言語と形式を持つかどうか(これをアートの普遍性とひとまず解釈します)」の二点です。それは以下のように整理されます。

A) アートとしての普遍性をもつが社会的実効性がない
「芸術は芸術特有の言語と形式を尊重すべき」(ドクメンタを見た元金融関係者)

B) アートしての普遍性がなく社会的実効性がある
アート・アクティヴィズムはこのようによく批判されます。

C) アートしての普遍性がなく社会的実効性もない
「ナイーブで現実の二流な写しや告発にしか見えない」(ドクメンタを見た元金融関係者)

D) アートとしての普遍性をもち、社会的実効性もある

ぼくは、少し厳しいかもですがエリアソンのプロジェクトをCと判断します。例えばアート・アクティヴィズムもしくはソーシャリー・エンゲイジド・アートの問題を考えるとき(実効性のあるなし/芸術性のあるなしという基準での評価の仕方もありますが)、実効性がなくとも問題を明るみに出した、もしくはその行為自体の象徴的な意味やその理念は評価すべきだと擁護することがあります。そうした判断もありえるでしょう。しかしそれらの「質」も問われるべきです。象徴的な行為としての強度、理念の質、そうしたもうひとつの評価軸も必要です。その点から考えたとき、エリアソンによる実践的な解決策は弱いとぼくは判断しました。高橋さんは以下のような評価基準を仮設し、こうした観点にたつ人びとは、あの試みを「現実的な問題に対してアーティストが与えた一つの回答」として歓迎するだろうと書いていましたね。

1.実際の難民の姿を可視化している
2.参加者と直接対話ができる場を用意している
3.アーティストがデザインしたグリーン・ランプの売り上げを寄付することで難民支援ができている
4.コンテンポラリー・アートの展覧会が社会貢献の場所としても機能する

個別の項目を「質」という点で見ていきます。まず2と3ですが、参加者である難民と来場者の対話はどのくらいの頻度で、どのくらいの深さあるいは質で行われているのでしょうか。また売上金による難民支援はどのくらいの規模で行われているのでしょうか。2は現場での調査をしないかぎり見えてきません。3は今後公開されるのかもしれないからそれを待ちましょう(現時点では展覧会/プロジェクトは継続中)。1については両義的です。可視化は成功しているかもしれない。しかしそこにいる「難民」はどういった人びとなのでしょうか。可視化の質も考えるべきです。4は確かに評価できるポイントであると思います、機能しているかどうかは別として。つまりヴェネチア・ビエンナーレという場をそのような可能性に向けて開いたという意味では評価すべきです。

いくつかの点が、実際の現場で継続中であるため(ある意味ではオープン・エンドであるため)、その「質」や内実が評価しづらい。こうした見方はクレア・ビショップが参加型アートを批判するときに使う方法論と同じですが。でも実際に、完結していないものを評価するのは難しい。だからこそ最初に掲げられた理念を評価することになるわけです。4はまさに理念の評価です。1と2は実質がわからない。3はお金の流れが公開されないかぎりわからない。

ぼくがこの書簡の中で考えてみたいと思っていたのはDのラインです。つまり社会的実効性がありアートしての普遍性(もしくは強度と言ってもいいかもですが)を持つ。ちなみに自己評価ではぼくはおそらくAのラインにまだ留まっていると思います。例えばミュンスターのプロジェクトは「人びとが理解しあうための具体的な解決策の提示」というよりは、それを見た人びとに「他者理解の可能性」もしくは「共生」についての思考を促すことしかできていない。仮にぼくが行ったプログラムをワークショップとしてパッケージにしても他の場所ではおそらく機能しないと思います。むしろそれはある種の映画/作品を見たあとに得られる、同型の問題を考えるための材料を提供することに似ています。

普遍

と、ここまできて、ABCDの軸の中で「アートの普遍性」とぼくが書いていることがいったいなんなのかという疑問があがるでしょう。ぼくは、それこそが高橋さんが例示していたコンテンポラリー・アート批判の類型、すなわち「周回遅れの問いを投げつづける」ことに繋がると思います。「切迫したこの(社会の)状態に対して」、表面的には意味を持たない問いかけ。でもそれこそが普遍性ではないでしょうか。普遍性というのはつまりはどの時代でも、どの状況にでも当てはまることなわけで、いま・ここの現実の問題への実効性を持ちません。しかしそれは答えを単純化しないために考えつづける矜持を持つことでもあります。その意味において、社会的実効性と普遍性は相容れません。真逆のものです。双方を持とうとするDのラインは論理的にはありえない。でもぼくは、社会的実践としてのコンテンポラリー・アートを構想するならばその双方を持ちうる形式を考えてもいいんじゃないか、と思うのです。社会的な問題を解決する実効性があり、なおかつ普遍的な問いも実装する。言葉で書くのは簡単ですね。でも難しい。

有用性のはじまり

ここで社会的実効性をめぐる歴史的なポイントを導入しておきます。孫引きになってしまいますが、クレア・ビショップ『人工地獄』の中で語られている「有用性」の始まりについてみてみましょう。それは1920年代、ロシア革命(1917年)直後の議論に関係します。ビショップは批評家のアレクセイ・ガンの以下のテキストを引用します。

「社会的有用性の時代が始まった。ただ実用的で有為であるものが、全民に受容されうるかたちで採択されるであろう。(…)我々の思索的な活動[芸術]に別れを告げて、現実の活動への道を見出し、我々の知識と技術を真の生きた功利的な営為へと用立てよう。(…)現実を熟考するのではなく、再現するのでも解釈するのでもない。あらたな階級、プロレタリアートの体系的指名を現実に打ち立て、表すのだ」(*1)

そして彼女はここに、アートの実効性についての議論の始まりを見ています。この書簡でぼくたちがやりとりしていることも同型の議論の伝統に含まれるでしょう。ただ一点だけ付け加えるとすれば、1920年代の議論には個人かコレクティヴィズム(集産主義)かという問題系があります。そこでは個々の「情動」の集合的有用化が考えられている(*2)

。上記の引用にも書かれている個々の「思索的活動[芸術]」との決別と、社会的「有用性」への変化。つまり個を捨て、個人の情動をコミュニティのために使う態度が求められているんですね。アートによって個人の情動は集められ、社会のために役立てられるべきだという主張があります。

これを先の議論に接続すると、「アートの普遍性」が個の情動に対応し、「社会的実効性」が集団のために使われる情動群に対応すると思うのですが、いや、ちょっとここにはねじれがありますね。普遍性と個人はむしろ相対するもののように見えます。普遍性が個の情動に対応するなんてことはありえない、と思うかもしれない。でも「普遍性」はまさに個人の「思索的活動[芸術]」によって生み出されるものです。普遍性は、集団によって生み出されるものではなく、個人の思索を通して獲得される/到達されるものなんじゃないかと。小説でも、絵画でも、音楽でも、あるいは哲学でもいいですが、そこにある普遍性は個人の思索と追究の果てに生み出されたものです。歴史の、あるいは先人たちの知の遺産を引き継いでいるとしても。

個・普遍性/社会・実効性

社会的実践としてのコンテンポラリー・アート。それは社会的な問題を解決する実効性があり、普遍的な問いも実装する、ことを理想とすると書きました。社会的実効性についてはその質が問われるべきだから、そうして個別の社会問題を考えていくとどうしても普遍性から遠のいていく。しかし個人の「思索的活動」は普遍に到達できる。とすれば、そこには二者択一があるのではなく、むしろ循環がある。個人の倫理を考えることと、社会的形式性を受け入れること。踏み絵をめぐる問題も循環している。今年の二都市開催によるドクメンタ14も、高橋さんの言うような「ギリシャの経済問題に対する直接的な介入」になっていると同時にファシズム、ポピュリズム政治に対する普遍的な抵抗のヒントを導き出そうともしている。ぼくはその意味では「高次の議論」も手放さず、現実的な問題へと繋げていく循環の回路を模索するべきだとも思います。ローカルな社会問題を考えることが普遍的な問いを導き出すこともある。そうやってぐるぐると巡りつづけること。なんだかひどくまじめな着地だし、なにしろあたり前のことかもしれません。

と、ここまで書いて、今回のドクメンタ14がぎりぎり破産を免れたというニュースとそれに反論するディレクター/キュレーター・チームのステイトメントも読みました。もしかすると「実効性」についてはドクメンタのケースについて考えるべきだったかもしれません。経済面での実効的な介入という点に深入りするのではなく、現実の問題に対する、アートによる方法論の模索と提示をこそ今回のドクメンタは評価した方がいいのではないか、と思っていたので。

今回はいつもより少し長くなってしまいました。次回のお返事おまちしています。

田中功起
2017年9月16日 京都、そして少し肌寒いアルルにて


1. 『人工地獄 現代アートと観客の政治学』クレア・ビショップ著、大森俊克訳、フィルムアート、2016年、p92
2. コレクティヴィズムが芸術の社会的有用化を進めるのだとすれば、それは個々の情動の産業化とも言えます。社会的実効性をめぐる議論は(アート・)マーケットとはほど遠い印象を持つけれども、なぜならそれは社会変革へと結びついているように思えるから、でも、そのはじまりには情動の産業化という考え方があった。でもこれはSEAが公的資金を受けやすいことにも関係します。社会変革という大義があるからですね。裏側には情動の有用化/産業化があるのだとしても。

近況:引きつづきヴェネチア・ビエンナーレミュンスター彫刻プロジェクトに参加してます。

【今回の往復書簡ゲスト】
たかはし・みずき(MILL6 Foundation 共同ディレクター)
ロンドン大学東洋アフリカ学学院MAを終了後、森美術館開設準備室、水戸芸術館現代美術センターで学芸員を務め、2016年4月から香港のMILL6 Foundation(2018年秋に開館予定)でシニアキュレーターとして勤務後、2017年3月末から共同ディレクター。主な国内外の企画として「Beuys in Japan ボイスがいた8日間」(2009年、水戸芸術館)、「新次元:マンガ表現の現在」(2010年)、「クワイエットアテンションズ:彼女からの出発」(2011年)、「高嶺格のクールジャパン」(2012年)、「拡張するファッション」(2013年)、「Ariadne`s Thread」(2016年)など。アジア、ヨーロッパでの執筆、講義も行っている。
MILL6 Foundation:http://mill6.org.hk/

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