連載 田中功起 質問する 14- 1:高橋瑞木さんへ1

第14回(ゲスト:高橋瑞木)――社会的実践とコンテンポラリー・アート

今回のゲストは香港在住のキュレーター、高橋瑞木さん。田中さんは昨年の帰国後に抱いた違和感を起点に、アートの地域的/領域的な二分法を再考しつつ、ある「引き裂かれ」の感覚を高橋さんへ投げかけます。

往復書簡 田中功起 目次


 

件名: 引き裂かれから始まる

 

高橋瑞木さま

お久しぶりです。もっと早く書簡をはじめるつもりが、ずいぶんと待たせてしまいました。

さて、ぼくは日本に帰ってきてだいたい一年が過ぎました。ぼくがロサンゼルスに住んでいたのはちょうどオバマ政権の時期だったんだなあ、と思い返しています。帰ってきて、なんだかずっとばたばたしていて、あまり落ち着いて日本に住んでいる感じがしていなかったのですが、自宅の改装も少しずつ進み、最近やっと帰ってきた実感が出てきました。この間に高橋さんは香港に移住されましたね。最近はどんな様子で過ごしていますか。以前ロンドンで会ったときは、日本の現代美術を紹介する書籍の準備の話をしていました。ぼくは思うところがあって参加を見合わせたけれども、その書籍の話自体が出版の事情が変わり流れてしまいました。でもそのとき、日本の現代美術を海外で紹介していくときの難しさ(だからこのような書籍が必要だって話にもなりましたね)や、アーティストが自分のベースとしている国以外での活動をどうしていけばいいのかなど、さまざまに意見交換をしたことを覚えています。


オーストリアにある原発、しかし一度も稼働してはいない。
現在はトレーニングセンターやイベント会場になっている。

 

日本か海外かという二分法をはなれて

 

日本に帰ってきて、なんというか違和感のようなものがあって、それを高橋さんとやりとりしてみたいと思っていました。この当初の案は、アートにおけるある種の日本特殊論、あるいは国内と海外という二分法をどう捉えなおせるかってことだったのですが、少し方向性を変えようと思っています。というのも、この件については、ある程度の処方箋が既にありますよね。例えば国内と海外という二分法は、そのような思考の枠組み(内と外)があるのは分かるけど、現状認識としては問題があります。むしろ二つではなく、複数で考える方が現実に即していると言えます。例えばアジアの各都市との、複数の都市間での関係として東京や京都を見てみる。そうすると、東京と京都の違いよりも、台北と東京の近さが見えてきたり、ソウルと北京の共通性と香港の違いが見えてきたりする。複数の都市間の関係性の中に自分がいる場所をマッピングしていけば、日本か海外かという二分法の無理に気付きます。

同様に、ヨーロッパやアメリカにその見方を拡大していくこともできる。海外で活躍している、と書くとすごく雑ですが、ドイツとイギリスで主に仕事をしていると書くともう少し複雑な事態が見えてきます。これはぼくのケースですが、自分が長期で滞在していた自分にとってのローカルな場所といえる、東京(10年ぐらい)とロサンゼルス(7年)では仕事がほとんどなく、長期滞在経験のない、ドイツとイギリスで主に仕事が回っている。逆にいえば、ぼくの実践の方向性がその土地のアートシーンと親和性がある、という単純な話です。「海外での仕事が多い」と書くとグローバルに仕事をしているように見えるけど、実は、その本人の実践の方向性がフィットしたいくつかのローカリティの中で仕事をしているに過ぎない。例えば味噌ラーメンを好んで食べる地域と、醤油ラーメンを好んで食べる地域があって、塩ラーメンを好んで食べる地域があって、自分のラーメンがどこだと受け入れられるかって話と似ています。「国内/海外」二分法を複数の都市間の問題へとスライドさせてみること。これはそのまま日本特殊論への反論にもなります。日本だけが特殊なのではなく、それぞれの地域にそれぞれ固有の問題と文脈がある。もちろんそこには複数の地域にまたがる類似や共有できることもあるから、それを繋いでいくこともできる。

 

社会的実践としてのコンテンポラリー・アート

 

上記の点についても、高橋さんの考えとは違うところもあると思います。もちろんそれも聞いてみたいですが、もう少し別のところから考えてみたいことがあります。社会的実践としてのコンテンポラリー・アートの問題です。まず単純化してアート・ワールドを概観すると、そこにはアート・フェア/ギャラリーなどを中心とする市場と、ビエンナーレやテーマのあるグループ展および美術館/アートセンターなどを中心としたキュレトリアルな場があります。傾向としては、ものをベースにした表現は前者で見ることが多く、後者は政治的な表現を行うアーティストが多く取り上げられます。ただ、この二分法も実はそれほど有効ではありません。まずいわゆる政治的な表現を行うアートというよりも政治的実践そのものでもあるもの、例えばソーシャリー・エンゲイジド・アートは、美術館よりも実際の社会をそのフィールドにするためむしろオルタナティブ・スペースや、上記の二分法からは外れていくような機関とより長期的なプロジェクトを行う傾向があります。これを第三の場所と考えてもいいかもしれません。

また市場とキュレトリアルな場も現在は相互浸透してきていて、例えばいままではキュレトリアルな場をその中心的な発表の場にしてきた、コンセプチュアルなものも、パフォーマティブなものも、政治的なものでさえも、アート・フェアが大型化するなかで、プログラムのひとつとして取り入れられてきています。現在の流行を市場が取り入れている。あるいは資金力のあるギャラリーが資金力の乏しい美術館よりも、むしろ公共的な試みを行う美術館化していたりもする。アメリカを例にすれば、大きなギャラリーがキュレーターと手を組み、販売しない作品までも借りてきて、いままでならば美術館で行われていたような規模のテーマ展を行ったり、カタログを出版したり、教育プログラムまでも行うようになっています。

その意味ではプライベートなものとパブリックなものをそれぞれに代表していた市場とキュレトリアルなものの境界がかなり揺らいできている。いや、むしろアメリカではすべてが市場化しているとも言えます。ぼくの経験で言えば、多くの美術館は資金難から制作費の一部しか負担できず、不足分をアーティストがギャラリーなどからサポートしてもらわないと機能しない。ヨーロッパでも例えばドイツやオランダの美術館等の機関はまだアメリカほどではないけれども、それでも同様の流れは起きていて、例えばイギリスはそうだし、ビエンナーレ等(ヴェネチア・ビエンナーレでも企画展はそうですね)でも、ギャラリーのサポートを当初から見込んで依頼がきていたりする。

日本においても、市民による自由な議論を担うべきパブリックな場である美術館は、むしろ自由な議論が難しい場になってしまっている。むしろ民間の場でこそ自由な議論は確保されています(例えば東浩紀さんのゲンロンカフェはそうした場だと思います)。もちろん、日本におけるパブリックとヨーロッパにおけるパブリックでは意味合いが違う。ヨーロッパにおけるパブリックのイメージ(市民が広場に集まって自由に社会政治状況について議論を交わす)は、日本におけるパブリックのイメージの真逆かもしれません。日本においては「公共」とはむしろオフィシャルなものや、公的な権力の及ぶ場所を指しているように思います。むしろそこでは個人の自由は制限される。あるいはそういう空気感がある。

 

相互浸透のなかで生じる「引き裂かれ」について

 

このような現状認識を経てぼくが考えたいのは、この状況において、コンテンポラリー・アートをどのように考えてみたらいいのだろうかということです。上記のパブリックとプライベートの相互浸透、もしくは闘争と呼んでもいいかもしれませんが、その視点に立てば少なくとも一部のアーティストは自主的な企画を行うことで自由を確保しようとしている(例えばChim↑Pomは歌舞伎町のビルで展覧会やイベントをしましたよね)。それを政治的実践としてのコンテンポラリー・アートと呼んでいいと思います。ここでぼくがコンテンポラリー・アートと断りを入れて書いているのは、アートの中のひとつのジャンルとして、コンテンポラリー・アートを捉えてみたいからです。アート自体はもちろんもっと広いものですが、コンテンポラリー・アートの現在地は政治的/社会的実践として捉えられていると思うからです。

トランプ政権が始動する日にはアート・ストライキがありました。右派ポピュリストに対抗するための活動「ハンズ・オフ・アワー・レボリューション」も組織されています。この中には先に書いたいわゆる市場をベースとするアーティストも多数含まれています。ここにも市場とキュレトリアルの相互浸透を見ることができます。コンテンポラリー・アートは大きく政治(活動)へとシフトしている。同じように感じる人が多いかもしれないけど、ぼくにはこれらの行動がアート・ワールドのエスタブリッシュメントによる表層的なリベラルな態度表明でしかないようにも見えるし(ハンズ・オフ・アワー・レボリューションのリストにある多くの名前はアート・ワールドの成功者、強者たちですし)、それでもそこで語られている、右派ポピュリストへの抵抗の言葉には共感もします。この微妙な、引き裂かれの感覚から今回の書簡はスタートしたいと思います。政治は個別的、ローカルな問題に対応していて、アートにはもっと広範な、普遍的な問題系が含まれる。政治性をもつ、社会的実践としてのコンテンポラリー・アートは、この双方を含む場所だと思います。ここにも、ローカルな政治的課題と普遍的なものの間での引き裂かれがあります。

 

田中功起
2017年3月 東京、京都、ニューヨークにて

近況:今年はヴェネチア・ビエンナーレのアルセナーレでの展示に参加し、ミュンスター彫刻プロジェクトにも参加します。


【今回の往復書簡ゲスト】
たかはし・みずき(MILL6 Foundation シニアキュレーター)
ロンドン大学東洋アフリカ学学院MAを終了後、森美術館開設準備室、水戸芸術館現代美術センターで学芸員を務め、2016年4月から香港のMILL6 Foundation(2018年秋に開館予定)でシニアキュレーターとして勤務。主な国内外の企画として「Beuys in Japan ボイスがいた8日間」(2009年、水戸芸術館)、「新次元:マンガ表現の現在」(2010年)、「クワイエットアテンションズ:彼女からの出発」(2011年)、「高嶺格のクールジャパン」(2012年)、「拡張するファッション」(2013年)、「Ariadne`s Thread」(2016年)など。アジア、ヨーロッパでの執筆、講義も行っている。
MILL6 Foundation:http://mill6.org.hk/

 

往復書簡 田中功起 目次

 

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