連載 田中功起 質問する 14-3:高橋瑞木さんへ2

第14回(ゲスト:高橋瑞木)――社会的実践とコンテンポラリー・アート

香港で活動するキュレーター、高橋瑞木さんとの往復書簡。彼女からの問い「アーティストの生き方の形式」に、田中さんは自ら出展中のヴェネツィア・ビエンナーレ企画展での体験も引きつつ応じます。

往復書簡 田中功起 目次

件名:予感に促されて

高橋瑞木さま

ずいぶん遅れてしまいました。ぼくはいまミュンスターのカフェでこれを書いています。展示準備の合間に少し時間ができて。内容の骨子は京都で書いていたのですが、そのまま移動することになってしまいました。

さて、ヴェネツィアではちょっとだけですが、お会いできて良かったです。元気そうでしたね。
まずはビエンナーレの雑感からはじめたいと思います。今回のクリスティーヌ・マセルによる企画展「Viva Arte Viva」は、ユートピア思想を土台にして、アーティストという存在あるいはアートそのものを、この暗い時代における希望として位置づけなおそうとするものでした。ぼくはその理想主義的な響きに多少は違和感を覚えつつも、オープンまではむしろその可能性に期待しようと思っていました。


パリにおけるナチス占領期の拠点

善きこと?

展覧会がオープンした後、さまざまな批判的な記事がでていますが、展覧会そのものに内在するキュレトリアルな問題点よりも(それも気になるところですが)、むしろこの書簡で考えるべきはいくつかの参加型プロジェクトの問題かもしれません。とくにオラファー・エリアソンによるプロジェクト「Green Light – An Artistic Workshop」を例にします。現在の移民/難民問題を直接的に扱い、会場はエリアソンのスタジオのようなしつらえで構成され、グリーン・ライトの製作工房であると同時にさまざまなイベントも同時に開催される、というものでした。主な参加者は難民や移民、亡命希望者たちで、彼ら/彼女たちが製作するグリーン・ライトの売上金が難民支援NGOへと寄付される、と説明されていました。会場を訪れるぼくたちは、そこで参加者たちと会話をしつつワークショップ/グリーン・ライトの製作に参加することもでき、現在の難民問題のリアリティを享受する。アーティストがヴェネツィア・ビエンナーレという場をある意味ではチャリティと社会問題の情報交換の場へと変えたと書けば聞こえがいいでしょうか。

おそらく当初の狙いとは違うところで、その少しナイーブな方法論が叩かれているという印象を受けました。会場に入ったとたんに感じる居心地の悪さ。それは難民たちが結果的に見世物になっているという状況です。とくにオープニング・ウィークは高橋さんが書いていたようにパーティの連続で、なおかつVIPと呼ばれる人たち、アートのプロフェッショナルが基本的に訪れ、グリーン・ライトを製作する会場は多くの「関係者」によってごった返していて、その場にいるだけでも疲れてしまいます。まして参加者たちにとってはむしろそれは未知の状況です。そして「関係者」は(もちろんそこにはこのぼくも高橋さんも含まれます)それをアート・プロジェクトとして見ている。ビショップならばこの居心地の悪さに、アート・ワールドに備わる問題の顕在化を見て、その摩擦の発生に評価軸をずらすことでレビューを書くでしょうか。いや、難民問題がアート・ワールドの構造的問題への批評に使われたとすれば、それこそが批判されるべきでしょう。

友人のアメリカ人キュレーターが熱心に参加者のまとめ役になっているエリアソンのスタジオ関係者に話を聞いていました。なるほど、彼女はこうしたプロジェクトに関心があるんだな、と思っていたら事態は逆で、その後確認すると、彼女はむしろそのプロジェクトに疑問を感じ、それがどのような構造になっているかを理解しようとしていたということでした。参加者たちには報酬は支払われているのか、売上金はどの程度が寄付されるのか、何人ぐらいの人びとが関わっているのか。そうした細かい点を聞いていたそうです。相手はそれをある種の問い質しと受け取ったようで一時険悪になったらしいですが。

同様の意見は知り合いのキュレーターが書いたfacebookでの反応にも見られましたし、ART iTのレビューでも、大舘奈津子さんがかなり批判的に取り上げていますね。

ぼくはそれほど熱心に彼の活動を追ってきたわけでもありません。それでも彼が自営のアートスクールを行っていたり、小型ソーラーパネル搭載の自立型照明をデザインして電気の通ってない地域に寄付したり、近年の活動は慈善事業家や社会改良を目指す実践者としての側面が強くなってきていることは知っています。おそらく今回のプロジェクトもその流れに位置づけられるのでしょう。

問いの先

ぼくのこのプロジェクトへの疑問はいったいどこからくるのでしょうか。自分のアート・プロジェクトのために難民/移民を利用しているにもかかわらず、その「利用」の事実に無頓着で、あたかも善きことを行っているという体の、アーティストとしてのナイーブさ。でもこれは他人事ではないのです。ぼくがこのミュンスターで発表しようとしているプロジェクトにも、移民も、シリア難民も参加しているわけなので。もちろんぼくの場合は、善きことをしているというナイーブさもなければ、水戸での経験を踏まえて(無償の参加者とのワークショップをプロジェクトの重要な要素としたことについて、撮影者として関わってもらった藤井光さんに意見をもらいました)、今回の参加者たちには有償の出演者として登場してもらっている。

むしろぼくのエリアソンへの疑問こそがナイーブかもしれません。ぼくは以前、とあるキュレーターにこのようなことを問われたことがあります。「田中さんはAPTに所属していますが、ワリ・ラードによればAPTはどうやら軍事産業に関連があるようです。軍事産業に関係する団体に所属していていいのですか」。この問題は2015年に遠藤水城さんとの書簡の中でも触れています。ぼくはそれを「無限の倫理」の要求と書きました。自身の活動の、あるいは「生」のすみずみまで清くあれ、という要求です。エリアソンのプロジェクトへのぼくの疑問に似ています。もちろん、エリアソンには自身の行為に自覚的であってほしいと思います。もし仮にエリアソンが自身のプロジェクトを善きこととして位置づけるのではなく、もう少し中間的な、もしくは多少は非道な行為として位置づけているとすれば、批判されたにせよ、状況は異なっているでしょう。

もう少しつづければ、ぼくは実際上記のように問われたとき不当だと感じたのです。もちろんそんな大げさな話ではなく、単純に同意するならばAPTをやめてしまえばいいんですが、ぼくはそもそもその相手を心底おこがましい、と思いました。自身への無限の倫理の要求は、ある意味では信仰のようなものです。それは自分が決めることであって、他者に問い質される類いのものではないと。そして問いの性質上、それは自分にも跳ね返ってくるはずです。内面的な要求なわけなので。ただ、そのひとは自身も問われているという自覚がかけらもないようでした。どうしてこのひとは自分がその「無限の倫理」を相手に問う資格があると、つまり自分は潔癖であると思っているのだろうか。

整理すれば、倫理的な問いは自分が問題を自覚しているかどうかにかかっています。自覚があれば(つまり非道さへの自覚があれば)問題は建設的な議論へと導かれるでしょう。自覚がなければ(「善きこと」への陶酔しかないのならば)問題は棚上げされてしまいます。

善きことの先、「踏み絵」を踏む

さて、「踏み絵」です。ぼくは、そこで問われているのはアーティストの生の形式でなく、「私たち」の生の形式だと思います。つまりぼくたちは表面的な信仰の形式も守るのか、それとも実践的に信仰を保つ(形式的には「非道」に見えたとしても内面的に信仰を貫くのか)のか。前者は絵を踏まず、後者は絵を踏む生き方です。スコセッシの映画『沈黙』に即して書けば、モキチは前者であり、ロドリゴは後者です。

この書簡で問われている生の形式、その倫理は、隠れキリシタンの時代のように人びとの生死に関わるものではないかもしれません。そこまで切羽詰まった状況ではない。「踏み絵」を踏まずともぼくたちは殺されない。でもぼくたちは、この社会で生きていくかぎりにおいて、その複雑な社会構造の中に自分がいるとすれば、既に好むと好まざるにかかわらず「踏み絵」を踏んでしまっていると思うのです。だから、「踏み絵」を踏んでいないような振りをすれば、つまり「善きこと」で自身を飾り立てれば、そこには無理が生じる。エリアソンの場合はそうでしょう。だから、ぼくたちが考えるべきは「踏み絵」を踏んだあとの自分たちのことでないでしょうか。それは徹底的に実践的な問いであるはずです。倫理的であろうとすることを自分に問うとき、ぼくたちはもう既にロドリゴであり、フェレイラである。ロドリゴは、その死のときに自身の手の中にイチゾウ(信仰を貫き殺された)が作った木彫りのキリスト像を携えたまま亡くなります。つまり、表面的には転向しているようであっても、実践的には信仰を貫いた。「無限の倫理」の要求もこのように問われるべきです。つまりそれは誰かが誰かを問い質すためにあるのではなく、自身が自身に問いかけるためにある。

例えば「踏み絵」をくり返しながらも赦しと救いを求めて、ロドリゴの側を離れなかったキチジローはどうでしょうか。ぼくは彼にも、ロドリゴと同じ、いやそれ以上の実践者としての側面を見ます。彼は自分の迷いに対して正直です。彼の転向の素早さは喜劇的ですが、それが繰り返されるにつれ悲劇的な様相を呈してきます。そして最後まで、「転んだ」ロドリゴの側を離れず、信仰を捨てない。それでもキチジローは道を踏み外した者でしょう。しかし同時に信仰についての意味をくり返し問いつづけた実践の倫理を持つ者でもあります。その意味では、「踏み絵を形式的なものだから踏めばよい」と迫る「リアリスト」の通史とは違う。キチジローは「踏み絵」を形式的なものとして受け入れていると同時に、棄教をしたことを悔いて信仰を復活させようとする。それが、しかし、くり返されることで形式性を帯びてくる。形式を受け入れ、実践をなす。むしろ実践の形式を構築すること。「踏み絵」という行為が現代に持つ意味はそこにあるのではないでしょうか。

田中功起
2017年5月18日から5月31日頃 京都、ミュンスターにて

近況:展覧会がつづきます。ミュンスター彫刻プロジェクトクンストハウス グラーツクンストハウス チューリッヒfrac シャンパーニュ・アルデンヌ

【今回の往復書簡ゲスト】
たかはし・みずき(MILL6 Foundation 共同ディレクター)
ロンドン大学東洋アフリカ学学院MAを終了後、森美術館開設準備室、水戸芸術館現代美術センターで学芸員を務め、2016年4月から香港のMILL6 Foundation(2018年秋に開館予定)でシニアキュレーターとして勤務後、2017年3月末から共同ディレクター。主な国内外の企画として「Beuys in Japan ボイスがいた8日間」(2009年、水戸芸術館)、「新次元:マンガ表現の現在」(2010年)、「クワイエットアテンションズ:彼女からの出発」(2011年)、「高嶺格のクールジャパン」(2012年)、「拡張するファッション」(2013年)、「Ariadne`s Thread」(2016年)など。アジア、ヨーロッパでの執筆、講義も行っている。
MILL6 Foundation:http://mill6.org.hk/

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