連載 田中功起 質問する 13-6:菅原伸也さんから 3

第13回(ゲスト:菅原伸也)――現在の日本で共同体を再考することについて

菅原伸也さんとの往復書簡。締めくくりとなる菅原さんからの手紙は、共同体再考において「ケアの倫理」を掘り下げ、さらにアガンベンのイメージ論も援用して人間の差異/共通点を考えます。

往復書簡 田中功起 目次

件名:あたかも一本のフィルムであるかのように

田中功起さま

お返事ありがとうございます。

始まってみれば早いもので田中さんと僕との往復書簡も僕からのこの返信で最後となります。これは初回に言うべきことだったかもしれませんが、僕は元々は「共同体」という言葉には違和感を持ち続けていた人間でありました。しかし、様々な書籍そして他ならぬ田中さんの作品を通して、「共同体」についていま思考することの必要性、共同体という概念を拡張し現代の状況に対して有効性を持つものへと鍛え直す可能性について思いを巡らし始めていたときにこの往復書簡の機会を頂いたのでした。往復書簡のお話を正式に頂いてからもう一年以上経ちますが、その間ずっと本格的に共同体の問題について思考し続けてきたものの、いまだ決定的な答えにたどり着けたわけではありません。また、今回の往復書簡で現れた問いに関してすべてここで答えて総括することもできませんが、今までのわれわれのやりとりを受けた、共同体に関する現時点での僕の考えを最後に述べてみたいと思います。


上野で見かけた猫

二つのリベラリズムへの対抗言説としての「ケアの倫理」

田中さんからの前回の返信で触れられていた「ケア」について、杉田敦さんとの往復書簡を拝読したときすでに気になっていたこともあり、エヴァ・フェダー・キテイの『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』など今回いくつか文献を読んでみました。まず「ケア」の問題を出発点にしてみましょう。キテイの本はいわゆる「ケアの倫理」という議論に連なるものだと考えられています。「ケアの倫理」はキャロル・ギリガンの『もうひとつの声』という著作から始まったと言ってよいと思いますが、「ケアの倫理」が標的としているものを理解するためにも最初にこの本が上梓されたときの歴史的背景に着目することが必要でしょう。アメリカで『もうひとつの声』が刊行されたのは1982年。1981年に政権についたロナルド・レーガンがネオリベラルな政策を次々に実行しようとしているときでした。つまり、「ケアの倫理」は、社会福祉の削減、減税、規制緩和などを進めるレーガン政権下においてネオリベラリズムに対抗する言説として考えられていたのでした(*1)。さらに、「ケアの倫理」という言説の「仮想敵」はもうひとつあって、それはジョン・ロールズ流のリベラリズムでした。1971年に刊行された『正義論』によってロールズの議論は当時多大な影響力を持ち、政治哲学の分野等においてヘゲモニーを握っていました。そして1982年といえば、その名も『自由主義と正義の限界』というマイケル・サンデルのロールズ批判の書が上梓された年であって、主流派であるリベラリズムに対する批判が強まってきた時でもあります。「ケアの倫理」とコミュニタリアニズムは、リベラリズムに対する同時代的な対抗言説という意味で部分的に共通していると言えるでしょう(*2)。以上のように、「ケアの倫理」という言説は元々ロールズ流のリベラリズムとネオリベラリズムという二つのリベラリズムを標的とした議論として構想されていたのです。

強い主体と弱い主体

今回「ケアの倫理」に関する文献を多少読んでみて「共同体」の問題という観点から僕が興味深く思ったところは、この議論が「弱さ」や「脆弱さ」を前提条件とし、「弱い主体」と呼べるようなものを社会の根本条件として考えていることでした(*3)。それに対して、リベラリズムとネオリベラリズムはあくまでも「強い主体」を前提条件として考えています。換言すれば、リベラリズムは合理的に思考することができる自立した強い主体を、ネオリベラリズムは起業家精神に富み自己責任を取れる能動的な強い主体を前提としています。両者とも他者に依存したり他者と関係を持ったりしなくても生きていくことができる主体なのです。しかし、「ケアの倫理」では、自立するどころか他者に依存せずには生存すら危うい主体が問題となっています。このことは、前回田中さんがケアに関して「自立した個人の能力を資本のひとつであると見立てるのがネオリベラリズム社会だとすれば、人と人の相互依存による関係は個の自立とはほど遠いからこそ、人びとの別のあり方を示しています」と仰っていたことと繋がる話でしょう。

ただ、「ケアの倫理」という議論においては当然のことながら基本的に身近な人や目の前にいる人にしかケアの範囲が及ばないという問題があるので、ケア固有の問題を括弧に括って共同体という観点から考えるならば、前回述べたようにケアの範囲を身近な人々だけでなく異なる時空間にいる人々までもっと拡張して考える必要があります。つまり、すぐ目の前に現前している人たち、言葉などで意思疎通が容易に可能だと思われる人々だけでなく、遠くにいる人々やもう亡くなってしまった人、まだ生まれていない者までも含んだ共同体の概念を考える必要性です。さらに言えば、身近な人々をも、あたかも遠くの人々のように、様々に異なる時と場所から来たかのように扱うべきでしょう(このことも前回、水戸の新作における合宿について述べたことです)。

フィルムのなかの一コマとしてのイメージ

そうした拡張した概念として共同体を構想するために、ここで少々迂回をしてイメージについて考えてみることにしましょう。今回も再びジョルジョ・アガンベンの議論を参照することにします。アガンベンはヴァールブルクの『図像アトラス ムネモシュネー』について次のように述べています。「各部に置かれたそれぞれの図像は、自律的な現実としてというよりはあるフィルムの一コマの写真(フォトグラム)とみなすべきである(ベンヤミンは、弁証法的な像を、運動を与えるためにすばやくページをめくる、映画の先駆をなすあの小手帳に比したことがあるが、少なくともその意味での写真(フォトグラム)として、である)」(*4)。さらには絵画についてもこう述べています。「『ジョコンダ』も、『ラス・メニーナス』も、不動で永遠の形式と見なすのではなく、ある身振りの断片、あるいはまた、ある失われたフィルムの中の一コマの写真(フォトグラム)と見なすことができるのであり、そうしたフィルムだけが、『ジョコンダ』や『ラス・メニーナス』に、その真の意味を取り戻してやることができるのかもしれない」(*5)。ここでアガンベンが言っているのは、本来他と無関係に自立して存在しているとされる絵画などのイメージを、あたかもそれがあるフィルム内の一コマであるかのように他のイメージとの関連性において扱ってみようという提案です。つまり、ひとつのイメージを孤立したものとして思考するのではなく、他のイメージと併置して見ることによってイメージの潜勢力を解放するということです。

フィルムの一コマとしてのイメージというこの考え方をアガンベン自身の論述を超えてもう少し敷衍して考えてみることにします。基本的にあるフィルムにおける一コマ一コマは互いに同一のものではありません。それらはほんの少しずつ異なるイメージから成り立っているのです。つまり、フィルムの各々のコマは互いに似ている。完全に同一ではないが全く異なるのでもないイメージの集まりが一本のフィルムと言えるでしょう。それは、美術史上の傑作とされる《ジョコンダ》(レオナルドの《モナリザ》)が他を寄せ付けない孤絶した輝きを放っているのとは対照的です(もちろん《ジョコンダ》のような自立したイメージをもフィルムの一コマとして扱おうというのがアガンベンの提案なのですが)。

「共通点」と差異

いまイメージに関して論じたことを、人と人との関係、つまり共同体の議論に当てはめて考えることができるでしょう(おそらくイメージの問題と共同体の議論はアガンベンのなかでも繋がっているはずです)。すなわち、人をフィルムの一コマとして思考してみようということ。リベラリズムとネオリベラリズムの「強い主体」は他から孤立していて、比類のない《ジョコンダ》のように自立して存在しています。フィルムのなかの一コマとは違い他の人間と類似しておらず、他を寄せ付けない全く異なるものとして自己充足しています。それに対して、「弱い主体」はまさにフィルムのなかの一コマのように、自立しておらず他の人々と似ている存在として考えることができるでしょう。似た人々がフィルムのコマのように連なっている一本のフィルムとして共同体を考えてみようということです。しかし、ここで類似性について論じる際気をつけておくべきことがいくつかあります。まず、イメージとイメージ、人と人との間に見出される「共通点」はあくまでも遡行的に発見されたものだということです。僕の前回の返信でも触れましたが、キリスト教の伝統のようにアプリオリな共通点としての神という元型があって人間が作り出されるというのではなく、存在するのは「元型のない類似性」であり「人間の肉体はもはや神にも動物にも似ていなくて、他の人間の肉体に似ている」(*6)。イメージとイメージがモンタージュされ、人間と人間が結び付けられたとき初めて後付け的に「共通点」が立ち現れるのです。

もう一点注意すべきは、似ているとは、遡行的に「共通点」が発見されるだけでなく「違い」もまたそこに見出されるということです。あるものとあるものが似ているということは、当然同一ではないということであって、それらの間に差異も存在しているのです。しかし、それはもともと特別なオンリーワンとしてみんな違っていていいという単純な話でも、比較し得ないほど全く異なるということでもありません。そうしたものは孤立した特異なものとなってしまい、もはやフィルムのなかの一コマとはなり得ません。似ているとは、関係を持ち得なかったり「共通点」を遡行的に発見し得なかったりすることがない程度の差異があるということです。そのような差異をもった者として他者を構想しようということなのです。そして、そうした互いの差異においてこそわれわれは、現在の自分とは異なる可能性に開かれます。差異は(偶然的なものであると認識すべきであるものの)決して平準化して消し去るべきものなのではありません。それは自分と似ている他者が体現している別の可能性なのであり、共同体を構成するとは、自分が体現していたかもしれないその別の可能性を他者との違いにおいて知ること、現在の自分の状況の偶然性を認識することであるのです。その別の可能性こそが内部にある外部、すなわち「外の内」であり、それをアガンベンのように「潜勢力」と呼ぶこともできるでしょう。

今回は普通の意味で「抽象的に」語ってしまいましたが、日本の現代美術に関する言説においてこうした対話ができるのはこの「質問する」という企画以外ほとんどない稀有なことだと思っています。このたびは貴重な機会を頂き改めて感謝申し上げます。今回の往復書簡において、僕は田中さんの「質問」に対して逐一答えることはせず、密着しすぎずに相対的な独立性を保ってゆるやかにつながる応答をしようと思ってきました。この往復書簡は、特に「共同体」をテーマとした場合、コンスタティヴに共同体について語るだけではなく、共同体を体現するパフォーマティヴな場でもあります。互いの手紙がフィルムの一コマ一コマのように連なり、「共通点」を遡行的に見出すと同時に「違い」をも発見すること。今回の往復書簡においてわれわれの間でそうした共同体が構築できていたら幸いです。田中さんからの返信を楽しみにしています、ともう書けないことは残念ですが、また別の形で共同体や様々なことについて田中さんと対話ができたらと思っています。ありがとうございました。

菅原伸也
2016年10月 東京にて 


1. ファビエンヌ・ブルジェールは、「ケアの倫理」とレーガン政権下のネオリベラリズム政策との関係について、『ケアの倫理 ネオリベラリズムへの反論』(原山哲・山下りえ子訳、2014年、白水社)で次のように述べている。
「こういった「ケア」の行動は、(中略)人びとの弱さと人びとの関係性とを結合する新しい人間学を創出する。その人間学は、依存と相互依存という二つの面を含んでいる。新しい人間についての概念は、個人主義の問題、その望ましくない前提を明らかにする。だから、「ケア」の倫理の議論が、レーガンが大統領だったときのアメリカで現れたのは偶然ではない。」(p.14)
「具体的な援助関係を基軸とし、反知性的ともいえる「ケア」の論理は、一九八〇年代のレーガン大統領のときのアメリカにおいて生まれた。」(p.20)
2. もちろん「ケアの倫理」とコミュニタリアニズムとの間には大きな違いもある。それについては以下を参照のこと。
エヴァ・フェダー・キテイ『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』岡野八代・牟田和恵監訳、2010年、白澤社、p.247~248
エヴァ・フェダー・キテイ、岡野八代、牟田和恵『ケアの倫理からはじめる正義論』2014年、白澤社、p.80~83
さらに、ロールズに対するキテイの批判に関しては、キテイ『愛の労働』第Ⅱ部を参照のこと。
3. ブルジェールは次のように述べています。「配慮の領域に焦点をおくことで、新たな問題の出現、弱さの出現について解明することができる。「ケア」の倫理は、他の理論とともに、弱さについての新たな人類学的概念を示唆する。人間の生命への配慮は、企業家としての人間のネットワークではなく、根本的な脆弱性の承認である。それは、リベラリズムにおける個々人の承認とは異なるものだ。」(前掲書、p.56)
4. ジョルジョ・アガンベン『人権の彼方に――政治哲学ノート』高桑和巳訳、以文社、2000年、p.59
5. 同上、p.60
6. ジョルジョ・アガンベン『到来する共同体』上村忠男訳、月曜社、2015年、p.65

【今回の往復書簡ゲスト】
すがわら・しんや(美術批評・理論)
1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論修士課程修了。主な論文に「百瀬文論/分裂する空間」、「高橋大輔論/絵画と絵画でないもの」(ともに「北加賀屋クロッシング2013 MOBILIS IN MOBILIー交錯する現在ー」展覧会カタログ)。最近の論考に「クロニクル、クロニクル!」展レビューがある。
https://sugawarashinya.wordpress.com

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