連載 田中功起 質問する 11-2:星野太さんから1

第11回(ゲスト:星野太)——参加が目指すところはいったいどこなのだろうか

美学/表象文化論の星野さんを迎えた今回。引き続き「参加」について問う田中さんの第一信に対し、星野さんの応答は「参加」の曖昧さや広がりに着目しつつ、その陰陽両面を示唆するところから始まります。

往復書簡 田中功起 目次

件名:「参加」をめぐるいくつかのメモ

田中功起さま

あけましておめでとうございます。昨年、田中さんにこの往復書簡へのお誘いをいただいてから、もう半年ほどになるでしょうか。ここでのテーマが「参加」になるだろうということはその後のやりとりで何となく伺っていたので、この半年ほど、折に触れて「参加」という主題について(ぼんやりと)考えながら日々を過ごしていました。

そこで、この間わたしが抱えていたある考えをお伝えするところから、このお返事を書きはじめたいと思います。これからわたしたちのあいだで交わされるのは、(昨今の芸術実践における)「参加」をめぐる議論です。しかしそもそも、わたしは田中さんにこの往復書簡への「参加」を依頼され、その呼びかけに応じたからこそ、いまこうして田中さんにお返事を書いています。だとすれば、この場で「参加」について何らかの考えを差し出すことは、田中さんからの「参加」への呼びかけに応じた自分自身の反応について反省的に考察するという契機を、少なからず含むことになります(そうでなければ、本当の意味で「参加」について考えたことにはならないでしょう)。

したがって、このお返事を書くにあたってわたしが直面していたもっとも大きな課題とは、「参加」をめぐる対話に自分が「参加」しているというこの入れ子状の構造の中で、あらためて「参加」という問題について考えることでした。


インドである人から貰った本。『ロサンゼルスから東京へ』というタイトルを見て、
この田中さんとの書簡のことを連想しました。

「参加」の過去と現在

いきなり自己言及的な話から始めてしまいましたが、前回の田中さんのお便りに応じるかたちで、少しずつ具体的な話に移っていきたいと思います。田中さんからのお便りの中では、ボリス・グロイス、クレア・ビショップ、ジャック・ランシエールなど、近年、芸術(および政治)における「参加(participation)」の問題について、何らかの見解を提示している人たちの名前を挙げていただきました。その中から、ビショップが編集した「参加」をめぐるアンソロジーを取り上げて、そこで重要だと思われるいくつかのポイントをあらためて確認しておきたいと思います。

クレア・ビショップが2006年に刊行した『参加(Participation)』というアンソロジーは、過去半世紀のあいだに発表された哲学者・作家・キュレーターなどのテクストをもとに編まれたものです(*1)。ご存知のように、これはホワイトチャペル・ギャラリーが刊行している「現代美術のドキュメント」の一冊をなすものですが、まずはその事実そのものの中に、少なからず考えるべき問題が含まれていると言えるでしょう。これまでに同シリーズから刊行された著作をざっと見てみると、そこでは「教育(education)」や「記憶(memory)」といった一般的なテーマを扱ったものと、「失敗(failure)」や「ユートピア(utopia)」といった同時代の関心ないし動向を強く反映したものとがあります(*2)。そして、仮にこのシリーズに上記のような二つの方向性をみとめるとすれば、「参加」というテーマは、明らかに後者に属するものです。同書に収録されているテクストの多く(バルト、ドゥボール、カプロー、ボイスらのそれ)は20世紀半ばに発表されたものですが、それが一定のアクチュアリティとともに読み直されるようになった背景には、明らかに1990年代から今日までの同時代的な状況が存在しているように思えるからです。具体的に言えば、同書にもその要旨が収録されている「ユートピア・ステーション」のようなプロジェクトの隆盛によって、芸術における「参加」の歴史をあらためて振り返る必要が生じたということですね。ビショップが編集したこの本にしても、明らかにそうした同時代的な関心のもとに編まれたものでしょう。

さて、前回のお便りで田中さんから投げかけられた問いは次のようなものでした(便宜的に番号をふります)――すなわち、(1)「参加」にはどのような歴史的背景があり、(2)現在なぜそれが重要な方法論と見なされているのか。(1)まず、前者の問いにもっともシンプルに答えるなら、少なくともそれはダダやフルクサスをはじめとする20世紀のさまざまな芸術的実践に遡ることができる、と言えるでしょう。とはいえ、それはあくまでも教科書的な言い方であって、ここでより深く踏み込むべきは、むしろ後者の問いなのだと思います。(2)なぜいま「参加」が問題なのか。それが「方法論」であるかどうかは留保をつけておきたいと思うので、以下ではさしあたり田中さんからの問いかけを次のように理解することにします。すなわち、なぜいま「参加」が重要な問題だとみなされているのか。それが、仮に過去の前衛芸術における「参加」と異なるものであるのなら、それはいったいいかなる意味においてそのように言えるのか。

「参加」において何が隠されているか

この問題をより原理的に考えるために、さきほどのビショップの編著にもう少しとどまってみたいと思います。その編者序文で明記されていることですが、同書が想定している「参加」が、インスタレーションやインタラクティヴ・アートを前にした個々の鑑賞者のそれではなく、その「社会的な次元(social dimension)」にある、と述べられていることは重要です(*3)。とはいえ、目下の議論において注目したいのは、ビショップが言っている「社会的」云々の内実のことではなく、ここに見られる微妙な言い回しの方です。そのまま引用はしませんが、以上のことを述べるにあたって、彼女は「社会的な(social)」という形容詞をわざわざイタリックで強調しています。これは何を意味するのでしょうか。このビショップの強調が(結果的に)示しているのは、「参加(participation)」という言葉が実に曖昧な言葉であり、それを社会的な文脈に制限するには、しばしばある種の限定や強調が必要になるということです。今、わたしがこの些細な言い回しにこだわる理由は、このような「参加」という言葉の広がりこそ、まさしくそれに重きを置く今日の芸術的実践に賭けられている当のものなのではないか、と思われるからです。

具体的に敷衍するとこういうことです。日本語の「参加」にしても、英語の「participation」にしても、それじたいとしてはきわめて曖昧な言葉であり、その言葉が抱えている重さがどれほどのものかは、その発話者が置かれた個々の文脈や状況に規定されるほかありません。この点において、「参加」という言葉は、より法的、政治的なニュアンスの強い「社会参加(engagement)」や「コミットメント(commitment)」とは決定的に異なります。実際、みずからの仕事の一環としてある集団制作に携わることも、あるいは特定の政治運動に継続的に関わることも、ひいてはあるトークイベントを聞くために一度だけ特定の場へ足を運ぶことも、等しく「参加」という言葉によって言い表すことができる。「participation」は、文字通りには「部分をなす」ということですから、自分がそこで担うべき「部分(part)」は、文脈や状況に応じて大きくもなったり、小さくもなったりするわけです。

ごく当たり前の話をしていると思われるかもしれません。ですが、今しがた見たような「参加」という言葉の曖昧さ、ないし広がりこそ、実は今日のさまざまな実践において賭けられている当のものなのではないかと思うのです。そのひとつのポジティヴな可能性として、あるプロジェクトに「参加」する人々の役割に(明確なヒエラルキーではなく)グラデーションの差異だけをみとめることで、(少なくとも理念的には)上下左右にとらわれない関係を立ち上げることもできるのかもしれません。前回、田中さんが小林晴夫さんとの往復書簡のなかで「共に考え作る場」と呼んでいたのも、おそらくこれに近いものであると想像しています。

とはいえ、わたしとしては、複数の人々の「参加」によって織り成される状況の設定が重要なものであることをみとめつつも、そのようなかたちで立ち上げられた関係のあり方にこそ、たえず注意深いまなざしを注いでおきたいと思うのです。なぜなら、それがいかなる状況であれ、人々の「参加」によって成立する場には、個々の関与の程度に応じた力関係が必然的に生じると思うからです。あるいは、より根本的な問題として、そもそもある状況への「参加」を呼びかけた人間と、それに応じた人間のあいだには、どうあっても越えがたい非対称性が生じる。やや大げさに言えば、複数の人々の「参加」によって立ち上げられた場は、たとえどれほど民主的な姿をまとっていたとしても、必ずや大小さまざまな権力関係をともなっています(たとえそれが反転可能であるにせよ)。その意味で、「参加」という言葉を過度に好意的に捉えることは、むしろそうした権力構造を隠蔽してしまうおそれすらあると思います。

――と、ここまで書いてきて、かつてわたしが田中さんに(間接的に)寄せた問いかけの意図を、自分でもはっきりと理解できた気がします。2013年7月20日、東京都内で行なわれた田中さんのヴェネツィア・ビエンナーレ凱旋パーティのときに、わたしはギャラリーの壁に貼られたポスターへの寄せ書きにひとつの「問い」のようなものを書きつけました。それは、ほかならぬ「質問する」という行為にともなう政治性についての問いでした。


2013年7月20日の写真

そのときの意図を少し補足します。「質問する」という行為は、一見なんということのない、ニュートラルな行為であるようにも見えますが、そこには一定の非対称的な関係が存在します。ごく単純なケースで考えてみても、Aさんが「質問する」という行為によって、Bさんに呼びかけを行なうとする。それは、場合によっては相手に「何かを尋ねる」以上の関係を意図したものかもしれません。他方のBさんは、Aさんの問いに対して真剣に応答するかもしれないし、あるいは適当にやり過ごすかもしれない。あるいはAさんの隠された意図を読み取って、別の応答のかたちを考えるかもしれない。その関係の内実はそのつど異なるものであるにせよ、ここで「質問する」側と「質問される」側のあいだに何らかの微細な関係が生じていることは確かです。先の寄せ書きの中で、わたしは「政治性」という言葉をそのような意味で用いていました。いま思えば、そのときちょうど刊行されたばかりの『質問する その1(2009-2013)』(アートイット、2013年)を読んでいたこともあり、「質問する/される」といったごく日常的な関係にひそむミクロな政治性の問題に、ずっと引っかかるものを感じてきたのだと思います。

ここで話を戻します。何らかの行為や状況に「参加」するというごく素朴な場面を考えるにしても、やはりそこには大小さまざまな政治性が存在している。たとえその「参加」に対する動機づけが主体的なものであったとしても、そのはじまりには誰かの「呼びかけ」とそれに対する「応答」があった。これは、ある意味でアルチュセールが定式化したような「呼びかけ」による従属=主体化(subjection)の典型例であり、必ずしも無批判に称揚されるべきものだとは思いません。むろん、すべてをそのような政治的な議論に回収して満足するだけではまったく生産的ではないわけですが、ひとまず「参加」という言葉のもつポジティヴな面とネガティヴな面を、あらためて確認しておきたいと思った次第です。

最初から長いお便りになってしまいました。ここまでの話は、田中さんにとってはむしろ話の「前提」に属することかもしれませんが、以上のことをあらためて確認したうえで、これから対話を重ねていければ幸いです。まだまだ助走に近い段階ですが、引き続きよろしくお願いいたします。

星野 太
2015年1月 トリシュールにて

近況:少し前に書いていたテクストが年末にいくつか刊行されました。愛知県美術館で開催された「これからの写真」の展評(『REAR』33号、2014年12月)、2013年に柏のTSCAで開催された「生成のヴィジュアル」というグループ展に寄せた小論(「生成と消滅の秩序」『生成のヴィジュアル――触発のつらなり』2014年12月)、昨今の「思弁的実在論」の中心人物であるグレアム・ハーマンについて書いた論文(「第一哲学としての美学」『現代思想』2015年1月号)などです。今は、インドのケーララ州で開催されている国際演劇祭に来ています。


1. Claire Bishop (ed.), Participation, Whitechapel Gallery and The MIT Press, 2006.
2. もちろん以上はわたしの恣意的な分類にすぎませんが、他にもいくつか例を挙げていけば、「美(beauty)」や「崇高(sublime)」は前者の系列、「偶然(chance)」や「日常(everyday)」は後者の系列に属するでしょう。
http://mitpress.mit.edu/books/series/whitechapel-documents-contemporary-art
3. Claire Bishop, “Introduction / Viewers as Producers,” in Participation, op. cit., p. 10.

【今回の往復書簡ゲスト】
ほしの・ふとし(美学/表象文化論)
1983年生まれ。共著に『人文学と制度』(西山雄二編、未來社、2013年)など。現代美術に関わる著作に『奥村雄樹――ジュン・ヤン』(美学出版、2013年)、「Relational Aesthetics and After|ブリオー×ランシエール論争を読む」を寄せた共著『コンテンポラリー・アート・セオリー』(筒井宏樹編、EOS ArtBooks、2013年)、『拡張される網膜』(編著、BAMBA BOOKS、2012年)などがある。東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」特任助教、高崎経済大学経済学部非常勤講師も務める。
http://starfield.petit.cc/

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