連載 田中功起 質問する 11-3:星野太さんへ2

第11回(ゲスト:星野太)——参加が目指すところはいったいどこなのだろうか

美学/表象文化論の星野さんをゲストに迎えた今回。この往復書簡すらも対象に、「参加」に潜むある種の権力関係を示唆した星野さんに応え、田中さんは自らが考える可能性を綴ります。

往復書簡 田中功起 目次

件名:善きことから遠く離れて、不誠実さを称揚する?

星野太さま

お返事ありがとうございました。
ぼくは現在、ベルリンにあるドイツ銀行クンストハレでの個展に向けての準備と、京都でのPARASOPHIAという国際展のための準備(ともに同じ新しいプロジェクトを見せるのですが、ドイツ銀行ではより広範に過去のプロジェクトたちも組み合わせて見せる予定)、それに伴って出版される個展のカタログの制作をしています。いままでつくった本の中で、もっとも大きな本になるので(内容も大きさも重さも)、スリリングなのですが、その分、作業量も多くなかなか大変です。でもそれらが少し一段落し、こうしてやっと書き始めています。


日本人と日系人のためのマンザナー強制収容所跡。アルコール類が禁止だったため、桃の缶詰を使って、内緒でワインをつくったらしい。

「参加」をめぐる問いが、ここにきて少し自己言及な様相を呈してきたこと、実はうれしくもあります。そうですね、確かにこの場がまさに「参加」をめぐる場であるわけです。ぼくが「参加」についての問いを立てているのも、その行為が持ちうるある種の胡散臭さに引っかかりがあるとも言えます。「参加」はある可能性を秘めたものであるにもかかわらず、単なる「善きこと」と片付けてしまっては、その可能性さえも覆い隠してしまうと思うからです。そして星野さんが書いた、権力関係、その応答した相手を従属化してしまう暴力を考えることにこそ、ぼくはむしろ「参加」の可能性を見るのです。

参加をしないこと

その前に、少しだけ「参加」というものが含みうる範囲を広げておきたいと思います。
ぼくがここ数年取り組んでいる「不安定なタスク」というシリーズでは、ぼくは「参加」をひとつのフォーマットにしつつも、むしろ考えているのは「参加しない」もしくは「参加できない」という状況です。例えば「不安定なタスク#7」ではデモへの参加を扱っています。デモの現場に行きたくとも行けない状況があったとして(どうしても避けられない用事があるときなど)、実際の現場に行かずとも、それでも「参加する」ということはできないだろうか。「参加」が意識を変える行為だとすれば、ここではむしろ、非日常的な現場から離れた、日々の生活の中で精神的に参加し、問題を意識しつづける方法を提案しています。身体的に、物理的に出向くことでの参加に対して、遠隔での精神的な参加のあり方も十分に「参加」なのではないか。

ぼくたちの意識は、それでも日々の雑事に気をそらされるので、意識的になるためには、日常の中に自動的に自分がその問題に気づける印をつくるべきだと考えました。例えば黄色が反原発の象徴的な色であるのならば、それを身につける、あるいは目にするときに思い出す、というインストラクションを自らに課す。それでも十分に意識は変わるし、「参加」をしていることになる。だから「不安定なタスク#7」は青山目黒というギャラリーで行われたものだったけれども、その場所に実際に来なくとも「参加」できた。ひとつの場所に集まることは、ここではそれほど重要ではありませんでした。そして、この提案はデモがどこかで行われていることが前提でもあります。デモに多くの人が集まり、それが目に見える意思表示となり人びとを文字通り示威する行為であるのならば、それが非日常的な出来事として(さらにひとつの場所に紐付けられたものとして)一方にあり、それに付け加えて、日々の生活に遍在化させた意識化の契機もありえる、と考えた。

「参加する」ということがデフォルトになって考えられている「参加型」のプロジェクトに、ぼくはずっと疑問にもってきました。例えば積極的なコミットを求められる参加ではなくとも、「靴を脱いで寝転んで天井に映写された映像を見る」というような作品があったとして、鑑賞者はそのとき靴を脱いで会場に入り、さらに寝転がらなければ作品を体験できないようにしつらえてあるわけです。ぼくはときどきにそうした「体験」を拒否したくなります。ではもし望まれた形で鑑賞をしなかった場合、この「作品」は「体験」されたことにならいのだろうか。そのアーティストは「体験」したことにならない、と主張するでしょう、そのアーティストが制作した映像を寝転がって見ていないわけですから。でもぼくはそれでもこの「作品」は十分に「体験」されたと思います。ぼくたちをそのような鑑賞体験に限定することで「鑑賞者」にそれを強要する、その作り手の傲慢さを「体験」したわけですから。

ひとつの状況、場所が設定されている。そのフレームを受け入れてこそ、「参加」が可能になる。とすれば、そのフレームを受け入れない、という反応も実は素直なものです。上記のふたつの例は、ともに同じ問題を扱っています。「参加しない」ということも、出来事の経験のあり方のひとつだと認めること。「参加しない」という積極的な反応は、参加と同じくらいの反応をその行為の中にもっているはずです。ぼくは「反応すること」そのものを、あるいはもっとささやかに「気にとめること」をひとつの「参加」のかたちとして付け加えたいと思っています。なぜならその時点で意識はすでに反応し、「参加」しているわけですから。

展覧会という場にもそれは同様に敷衍されます。展覧会は、告知された時点で、その告知を受け取った時点で、観客はそれに参加したことになるのかもしれない。見に行かないという反応も、ひとつの鑑賞体験と呼ぶ。

ただ、このような拡張された参加のあり方でさえも、従属化はより暴力的に行われているとも言うことができます。不参加でさえも、意識を捕らえられているという事態なわけですから。

「教える−学ぶ」と「質問する−される」

「参加」に含まれる微細な権力関係は、固定されたままでしょうか。つまり「不参加」を含む参加の場を、それでもぼくが「共に学ぶ場」と呼ぶとして、「場を作り出したもの−参加するもの」という非対称性はゆるがないのだろうか。

「質問する−される」という非対称的な関係に内在する政治性を考えるために、「教える−学ぶ」という非対称的なコミュニケーションのあり方へと少し語りをシフトさせてみます。非対称的なコミュニケーションによって、人ははじめて理解しがたい「他者」に出会い、その関係(共通の規則を持たない関係)こそを「対話」と呼ぶ、と柄谷行人が書いた、とぼくが書くとなんだか懐かしいひびきがありますね。例えば他者との会話であっても共通のコードをお互いに持ち合わせている場合、会話は比較的スムースに進み、齟齬がない。このとき、これはお互いにお互いの考えを伝えるために「教える−学ぶ」の関係を相互に持つ必要がなく、柄谷はこれを「対話」とは呼びません。アートにおける「参加」と書いて、「最近のアレね」とそのまま理解できれば、ぼくたちは「対話」をしているのではなく、ほとんど自分自身に語りかけているような自己内対話/内省をしているだけである。だから「対話篇」として書かれているにもかかわらず、プラトンによるソクラテスは、この文脈では「対話」ではないのです。それは共通の規則を理解し合っている者同士の会話でしかないわけだから。

奇しくも、ランシエールも同じことを書いていますね。ランシエールにおいても、ソクラテス(プラトン)は無知を標榜しているにもかかわらず、「無知なる教師」ではない。すべてのひとに備わる知性の平等をソクラテスは信じていません。ぼくたちはあくまでもソクラテスによって、無知であることを気付かされなければならない。対話者であるぼくたちは、共通の規則を理解し、ソクラテスの語りを理解し、自己の無知に到達しなければならない、とされる。ランシエールは一貫して、「される」側の人びとを受動的なものとしてではなく、能動的なものとして再解釈してきました。

この「質問する」という企画による「質問する−される」という非対称的な関係には、お互いに理解しえない問題を、あるいは相手の語りを、自分の言葉で語り直し、意味を翻訳し返さなければならない契機が含まれます。ひとつ前の小林晴夫さんとのやりとりがまさにそうでした。ぼくの中にはどこかで、小林さんに期待している彼からの言葉があって、でもそれは毎回まったく違う方角から投げ返されてきました。ぼくはそれを自分なりに解釈し、翻訳し直し、質問という形式をとらずに投げ返しています。このとき二人の関係は微妙に変化していきます。対話とは、お互いの関係が固定せず、つねに揺れ動く場として考えられています。いまこうして星野さんに伝えていることも、星野さんにははじめからわかりきっていることなのかもしれない、とぼくが常に不安定な状態に置かれながら書いている。問いかけられているのはいずれの立場なのか。

もちろんそれでもこの全体のフレームを形作っているのはぼくからの呼びかけであるし、その関係は固定化されていると言えるかもしれない。でもそれは壊しえないのだろうか。

立場の固定化は揺らぎうるか

マーカス・ミーセンは『参加の悪夢』(The Nightmare of Participation, Sternberg Press, 2010)の中で、リスクと失敗について短いテキストを書いています。そこでは、成功を常に期待されるような社会の中でのアーティスティックな創造プロセスにおいては、むしろ失敗によって驚きが生じ、結果よりも、そのプロセスによって、新しい発見が生み出されると指摘しています。そして、失敗によって驚きが生じるとすれば、「失敗が生じてしまうプロセス——つまり対立的な関係や不誠実な参加の発生——を意識的に受け入れることこそが、驚きの扉を開き、新しい知識や政治的な政治を生じさせるだろう」と書いています。だから沈黙や参加に距離を置く行為も、ひとつの可能性であり、それによって何か新たなものが、新たな関係性が生み出されるかもしれない。

参加をめぐる二つの立場は、実はそれほど容易に分けられるわけではない。ぼくたちはその二つの、または複数の立場を同時に合わせもつ。その立場を固定化することにひとまずは抗うこと、それによっておそらくそのマイクロポリティカルな非対称性は、その暴力は、揺らぎうるのではないでしょうか。ぼくははたして楽観的に過ぎるでしょうか。

田中功起
2015年2月 ロサンゼルスと川崎から

近況:Art Sonje Centerでの『Discordant Harmony』展、京都市美術館ほかでの『PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭』が始まっています。続いて、ドイツ銀行クンストハレでも個展『A Vulnerable Narrator』(脆弱なナレーター)が始まります。

【今回の往復書簡ゲスト】
ほしの・ふとし(美学/表象文化論)
1983年生まれ。共著に『人文学と制度』(西山雄二編、未來社、2013年)など。現代美術に関わる著作に『奥村雄樹――ジュン・ヤン』(美学出版、2013年)、「Relational Aesthetics and After|ブリオー×ランシエール論争を読む」を寄せた共著『コンテンポラリー・アート・セオリー』(筒井宏樹編、EOS ArtBooks、2013年)、『拡張される網膜』(編著、BAMBA BOOKS、2012年)などがある。東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」特任助教、高崎経済大学経済学部非常勤講師も務める。
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