連載 編集長対談7:小池一子(前編)

日本的アートとは:西武セゾンカルチャーの影響

西武セゾン文化の担い手のひとりとして広告の世界で活躍し、さらにはオルタナティブスペースの先駆けとなった「佐賀町エキジビットスペース」を創設。ジャンルフリーな活動を通して日本から世界に文化を発信するアートディレクターが考える「日本」の表現とは?

構成:編集部

後編はこちら編集長対談 目次

創作はその時代の社会と人々の空気の中で生まれる

小崎:この連続対談のテーマは「非欧米的アート」あるいは「日本的アート」とは何かというものです。それに先立つ企画として、1970年代末から80年代のいわゆる西武セゾンカルチャーが日本のアートやデザインに大きな影響を与えたのではないかという仮説を立て、『ART iT』2号の特集「アートとデザインの境界線」で椹木野衣さん、伊藤ガビンさん、佐藤直樹さんと4人で座談会をしたことがあります。今回はまず、無印良品のみならず、西武セゾンカルチャーのコンセプトや戦略を練る中核にいらっしゃった小池さんに、当時の雰囲気や現在の日本のアートへの影響があるのかどうかを伺いたいと思います。

小池:西武美術館は75年に西武池袋店内に設立されましたが(89年にセゾン美術館と改称)、いま生まれているものをきちんと評価しようという方向性が根底にありました。それまでの百貨店の展覧会にはお客様がなるべく長く滞在し、展示を楽しんだ後、買い物してもらいたいという動機がありましたが、単に欧米の著名な作家の展覧会を招聘するだけではなく、日本の作家を育てるような展覧会を作りたいと思っていました。

小崎:西武百貨店としては61年に、代表の堤清二さんがパウル・クレー展を池袋店8階ホールで開催していますね。

小池:そうです。堤さんの妹邦子さんがパリの画壇に近かったこともあり、クレーなどお客さんを単に楽しませるだけではない展覧会をやっていました。それを敢行したのは、意志を持って新しい美術を紹介するんだということを知らしめるための前哨戦だったと思います。

当時セゾングループのオーナーだった堤清二さんを始め、森口陽さんや紀国憲一さんといった優秀な企画者がいて、私はアソシエイトキュレーターとして働いていたのですが、初めてファッションの展覧会をやったのも西武美術館でした。一方で江戸時代から見られる生活の美学や、用の美を備えた伝統的なデザインにもみんな関心がありましたので、デザイン展に対しても門はまったく閉ざされておらず、提案するといろいろなことができました。三宅一生の展覧会をやったり、私は東西の文化交流に興味があったので、スコットランドの建築家でデザイナーのチャールズ・レニー・マッキントッシュを取り上げた展覧会を企画したりしました。


『ISSEY MIYAKE in MUSEUM』1976年、西武美術館
『マッキントッシュのデザイン展 現代に問う先駆者の造型—家具・建築・装飾』1979年、西武美術館
© Ikko Tanaka Memorial Archives 写真提供:DNP文化振興財団

小崎:堤さん自身が辻井喬の名で文筆活動をしていたつながりで、73年にできた西武劇場のこけら落としでは、現代音楽祭『ミュージック・トゥデイ』の音楽監督を武満徹がやったり、小説家の安部公房は安部スタジオとして劇団ごと深く関わって作・演出を続けたり、銀座セゾン劇場(1987-99)のオープンには演出家のピーター・ブルックが大作『マハーバーラタ』を上演したりと、様々なジャンルの優れた才能が西武セゾングループの企画に集まっていましたね。

小池:やっぱり創作はその時代の社会と人々の空気の中で生まれるわけだし、コンテンポラリーアートというものを考える場合に、なんか難しいことじゃなくていま生きている感覚、いま作りたいというものが生まれていくということに対して非常に眼を開かれました。ひとつのジャンルに留まらず、常に様々なジャンルの人が何かを作り続けていて、それらの活動の輪の総体としてセゾン文化というものが作られていたと思います。クリエイティブディレクターで、無印良品のアートディレクターでもあった田中一光さんとは最初から一緒に仕事をしていて、非常に影響を受けました。

小崎:美術専門書店のナディッフは、もともと西武美術館の隣にあった「アール・ヴィヴァン」という日本初の本格的美術専門書店が前身ですが、そこの芦野公昭社長によると、当時西武の広報を担当していた紀国さんが、広告宣伝費の1割を文化戦略に使うという方針を立てていたそうです。いまではなかなかできないことだなあという感じがします。

小池:そうですね、文化助成の理想のひとつの姿とも言えます。でも経済が傾けばその10パーセントが難しくなってくるというリスクを初めから負っていたわけですが、バブル崩壊に至るまでの時代にいちばん良いお金の使い方をしたのではないかと思います。見事な肥やしとして表現の領域を豊かにしたと言えると思います。

小崎:日本の場合、いまでこそ企業メセナが定着しつつありますが、美術や演劇は国や自治体に頼っている印象がありました。アメリカでは国がほとんど支援せず、個人や企業の寄付が文化事業を支えていますよね。あの時代に日本の企業が文化支援を行ったというのは希有なことだったように思えます。

小池:あの時期はちょうど、ソニー、西武、資生堂にサントリーを加えて4Sと言われた、文化のサポートをできる企業が登場したころでした。そして重要なのは個人の寄付も含めて、アメリカ型の寄付が日本でできないのは税制の問題ですから、ちょっと事情が違うと思います。いまは不況でどこも厳しいと思いますが、企業ができる限り支援するということは絶対に止めてほしくないですね。

小崎:ベネッセの福武さん、資生堂の福原さんなどが支援活動を続けていらっしゃいますね。一方では、若い起業家たちにインテリジェンスがあるかどうかという問題も気になりますが(笑)。

小池:興味の対象がいまは拡散しているから、どの部分を助成・サポートするかという焦点が定まってない気がします。ばらまく人もいるかもしれないけれども、起業人の意志の問題。決断の大きさなどがちょっと下り坂で心配な部分がありますね。

後編はこちら編集長対談 目次

2009年12月15日にDAY STUDIO★100(Vantan渋谷校)にて行われた対談を収録しました。

こいけ・かずこ
東京生まれ。早稲田大学文学部卒業。西武百貨店宣伝部に勤務し、パルコの広告戦略にクリエイティブディレクターとして参加。80年の「無印良品」の創設に携わり、以来アドバイザリーボードを務める。76年に株式会社キチンを立ち上げ、『現代衣服の源流展』(75年、京都国立近代美術館)、ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展 日本館『少女都市』(2000年)などの展覧会を企画。83年に佐賀町にあった食糧ビル内に日本初のオルタナティブスペース「佐賀町エキジビットスペース」(〜00年)を設け、森村泰昌や杉本博司らを紹介した。編著書に『三宅一生の発想と展開』『空間のアウラ』など。武蔵野美術大学名誉教授。

Copyrighted Image