連載 田中功起 質問する 3-3:保坂健二朗さんへ 2

件名:つくることを確保し、見せることを確保し、さて、しかし。

保坂さんの第1信はこちら往復書簡 田中功起 目次

保坂健二朗さま

返信ありがとうございます。
細田守監督版『時をかける少女』(2006)を見ているうちに、そういえばと、大林宣彦監督版『時をかける少女』(1983)が気になってビデオレンタル屋に行ってみると、意外とこういうものが置いてあって。LAの少し郊外に行くと、日本の地方にあるような、ひと昔前の内装のショッピングセンターがあって、フードコートには「山頭火」のラーメン屋があったり、催し物コーナーでは「沖縄フェア」をやっていたり、日本のテレビドラマやバラエティを中心にしたビデオ屋があったりします。そこには英語で会話をしている日本人のおじいちゃんやおばあちゃんが佇んでいたりする。風景は宇都宮みたいな、だけどアメリカ、なんだかパラレルワールドに迷い込んでしまったそんな気分になります。言ってみれば文化的囲い込みのなかにじぶんが閉ざされてしまうような感覚。それは本当に日本なんだろうか。なんて考えさせられます。


たまには制作に関係する写真を。Case Study House #21での野外彫刻設置準備中。

と余談はそのくらいにして、本題に入りましょう。
保坂さんにとってメルクリによるヨゼフソンのための美術館での経験は、とても大切なものなんですね。モンセラートのマリア像の経験とともに、自身の作品体験のもとになっているようなことなんでしょう。以前、『すばる』のテキストを読んだときにもその迫真性を感じました。それを通して、なるほど保坂さんの理想とするアーティストのあるべき姿というものが確認できます。「つくる」前提のなかに「見せること」をできるだけ持ち込まない態度。そしてこの態度が導く作品は、作品そのものとして自律しているもの、展覧会・時代・文化といった短期的な文脈から解き放たれているようなものとして「ある」もの。
ヨゼフソンの彫刻が制作年もばらばらに同じ空間に展示されている様を見て、保坂さんは次のように書いてます。
「実際には違う時代に作られた作品が並べられているのに、空間が壊れていないということは、どの作品も古びてもいなければ新しくもないからだとわかり始める。」
つまり作品は自律的で、だからこそ普遍的なものへと向かおうとしている。
そしてこう続けています。
「普遍性はそもそもいかに追求されるべきか、自らの人生をもって証明しようとしている」

通常、ひとりのアーティストの異なる時期の作品を同じ空間に集めると、すこし不思議なことになります。たとえばジャクソン・ポロックの初期作品と円熟期が同室に展示してあるMOMAでは、奇妙なねじれを感じる。ベクトルがバラバラに見える。だからきっとヨゼフソンのあり方はより根源的なように思われます。

おそらく「つくること」の強さを確保する、ということかもしれませんね。かといって「見せること」に反対しているわけでもない。おそらくヨゼフソンのなかでは作品を「見せる-見せない」ということは強く意識されていない。言うまでもなく「見せない」という態度は「見せること」の裏返しでもあるから。たぶん、こうです。「つくること」の強さが確保されていれば、「見せる-見せない」はこの際、二の次であると。そこには無頓着であることで、短期的な反応・文脈の推移とは距離を置いた制作ができる。

この無頓着さは、だからといって、閉じているわけではない。いわば未来に開かれている態度ですね。昨今のテレビ産業の変化についてデーブ・スペクター(*1)が話していたんですが、もはや短期的な効果を計る視聴率には意味がないと。番組がネット上にアーカイヴされていく限り、それがどのようなタイミングで見られるかを予想する・計測することができない、ってかなりぼくの言葉に直してしまってますが、だいたいそのようなことを話していました。長いスパンで考えるならば視聴者は無限にいる、だからコンテンツの質が問われている、ということです。無限の時間を相手にすれば、作品を見るひとも無限にいることになる。と、ヨゼフソンの作品のあり方は、まさに普遍とはなにか、時間とはなにか、作品とはなにかについて考えさせられます。ただ、「見せること」が「つくる」において無頓着なものであるとしても、「つくること」に意識的・自覚的である限り、アウトサイダー・アートとはわずかながら距離を感じます。ここにぼくは注目したい。ぼくらが自覚的に「つくる」限り、問いは「見せること」とどうつき合うかということになる。ヨゼフソンはそれに無頓着であることで、「つくること」に普遍的な時間を手に入れる。

ぼくは、しかし、一見それとは真逆に見える態度においても、実は同じようなところに到達できるんじゃないかとも思ってしまいます。つまり徹底して「見せること」に自覚的な制作。たとえば次のような例について。

徹底して「見せる-見られる」ことを意識して作られたもの。テレビの世界はまさに「見せること」が前提で成り立っています。「ダウンタウンのごっつええ感じ」(*2)というコント番組が以前ありました。少数のグループ制作(放送作家+ダウンタウン)、毎週放送という追い込まれた緊張感のなかで、「つくること」と「見せること」がほとんど等価なものとしてある現場。強制的に見せることに自覚的な場所での制作は、もちろん「展覧会」という文脈よりも過剰です。作ったそばから見られ・消費されていく。極端には、そのスピードのなかで「見せること」に無頓着になっていく。だからこそ、そこでは「現場」がおそらくもっとも重要であり、その閉じたスタジオのなかでの自己(=チーム)完結することで制作の強度が保たれていたとも言えるかもしれない。ここではつくり手は見る側に寄り添うというよりは、いわばそれに挑戦するような態度であったのでしょう。

受容美学との関係で興味深いのが、ダウンタウンの例に一見反する、萩本欽一の活動です。欽ちゃんは、言ってみれば、キュレイター(もしくは批評家)的な立場でテレビに存在します。素人を壇上に登らせ、解釈することで笑いをえようとする。芸のない素人に笑いを見出す技術に長けていたのが欽ちゃんですね。芸がないことに芸を見出す。素人を出演させ、それを欽ちゃん自らの表情や言葉でもって解釈する。素人と欽ちゃんの間には受容美学的な関係がありますが、その関係そのものがテレビを通して公開される。見ているぼくらは欽ちゃんの視点に立ってものごとを見るようになる。受容美学が多様な解釈を許容するのと違って、ここではいわば欽ちゃんの視点が強く提示される。なので、これは「強い鑑賞者」の例のひとつとも言えます。

欽ちゃんがあるテレビ番組(*3)で語っていたのは、視聴者のハガキを、「笑えるように読む」「笑わないように読む」というふたつの読み方の使い分けです。収録スタジオではそこにいる観客が「笑えるように」読み、収録VTRのなかでは「笑えないように読む」。おもしろいのは「笑えないように読んだ」ときのそれを聞かされたひとの表情です。彼ら・彼女らはなにがおもしろいのかわからずに困惑する、しかしそれを見たぼくらは笑ってしまいます。「笑わない」ことがおもしろいという発見。解釈の方法論そのものが作品として提示される。解釈することがそのまま「つくる」営みになる。たぶん、ぼくが成相さんとのやりとりのなかで可能性を感じたのはこの関係性です。それはつくり手からすれば「見る=解釈する」ということが「つくる」ことになる可能性であり、見る側からすれば「見る=解釈する=言葉にする」ことが「つくる」に関わることです。ただ、それがだらっと「お互いに優しい関係」になってしまうことにはぼくも抵抗があります。テレビという過剰さのなかではお互い断絶せざるをえないので成り立つ関係なのかもしれない(いまのテレビは見ていないのでよくわかりませんが)。つまり一方的に与える側と受け取る側という関係には絶対的な溝があります。「展覧会」の難しさはもともとそこにあった溝を無理に埋めようとしすぎたために、つくり手と見る側の優しすぎる関係を求めたことに、無理があったのかもしれない。

アーティストはアウトサイダーとして孤独に引きこもることもできなければ、過剰に「見せる-見られる」関係のなかに身を置くこともできない、いわば中途半端なポジションにいます。無限の時間を対象にしてつくることの強さを保つことも、刹那にフローして見せることの強さを保つこともなかなかできない。でもぼくはその極端な例を灯台にしながらも、ここでやれることもあるんじゃないかとも思っています。そのためにさらに極端な例を考えます。アウトサイダー・アートに惹かれるぼくらは、誤解を恐れずに言えば、究極的には自然に惹かれているんじゃないかと思うのです。ひとつ分かっていることはぼくらは自然にはなりえないということです。つまり、自然を極点に置くとき、ヨゼフソンもアウトサイダーも中間のグレーゾーンのどこかに位置づけられます。自然は自然の法則において、ぼくらの期待に関係なく蠢いている。そして自然はぼくらの自由な解釈を受け入れ、見届けられる存在です。たとえば、モグラが穴を掘ってその土が地面に無数に盛り上がっているのを発見する。その連なりに彫刻的なものを感じることもできる。自然はつくることにも見られることにもまったく無頓着に(それ自身のきまりのみに依存して)存在する。なのでぼくらが「つくる」とき、担保にするべきは意図的・自覚的なものであるかどうかということだと思います。こうしてもう一度話を一回転(?)させて、話はかなり当たり前のことに近づいてきました。

ぼくも考えあぐねていますが、もうしばらくおつきあい下さい。お返事よろしくお願いします。

田中功起
2010年4月16日 相変わらず晴天のLAより

  1. 「博士の異常な鼎談」(2009年6月25日第13回、2009年7月2日第14回放送)
    http://www.sonymusic.co.jp/etv/hakase-teidan

  2. 「ダウンタウンのごっつええ感じ」(1991年~1997年放送)
    wikiに詳細が載ってます。検索してください。
    http://ja.wikipedia.org

  3. 「悪いのはみんな萩本欽一である」(2010年3月17日放送)
    http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2010/100317-048.html

    *ちなみにそれぞれyoutubeを検索すると見れる場合もあります。

近況:
Jeppe Hein企画「Circus Hein」(http://www.circushein.com/)がArt CologneのOPEN SPACEというセクションで開催、これにビデオを、LAではソウルのOne and J GalleryとGabriel Ritter共同企画のグループ展(http://www.oneandj.com/koenig/)に野外彫刻を、ロンドンのsomerset houseでのビデオスクリーニング「pick me up」(http://www.somersethouse.org.uk/visual_arts/pick_me_up/)にもビデオを出してます。ポッドキャスト「言葉にする」では南川史門さんに登場していただき、一回目をアップ中(http://kktnk.com/alter/)。

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質問する 3-1:保坂健二朗さんへ 1
質問する 3-2:保坂健二朗さんから 1

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