連載 田中功起 質問する 12-1:遠藤水城さんへ1

2015年7月31日
第12回(ゲスト:遠藤水城)――アートの社会的な取り組みとそれによって生じる倫理的な問いについて

今回から12人目のゲスト、キュレーターの遠藤水城さんを迎えた回が始まります。田中さんの第一信は、ふたりが知り合ってからの年月の回想に始まり、いま改めて考えている「アートとその社会への影響」「アーティストの倫理」について語ります。

往復書簡 田中功起 目次


件名:そこで目指されている世界とはどのような世界なのだろうか

遠藤水城さま

今回はこの企画に参加してくれてありがとう。ぼくがはじめて遠藤くんに会ったのは確かパリ。2006年にパレ・ド・トーキョーの向かいの広場で、オープニングか何かでたくさんひとがいて、そこで会ったんだと思うけど、覚えているだろうか。あれから10年ぐらいがたったということだね。その10年の間にお互いにさまざまなことがあったけれど、その中で何かひとつを書くとすれば何があるだろうか。

ぼくにとって一番大きなことはその10年の約半分を異国の土地で過ごしているということ。こんなに長くいるつもりはなかったけど、結果的にある程度の期間を過ごすことになった。そこで得たことを簡潔に書けば、周囲を気にしなくなったということかもしれない。遠慮がない分、無礼にもなったと思うけど。


ミュンスター市中心にいまでも残る核戦争のためのシェルター。通常は駐車場として使われている。

今回は、まずぼく自身の最近の関心ごとを書いてみます。それらに直接的に反応してもらってもいいし、遠藤くん自身の興味を知りたい気もします。だからあくまできっかけ程度にとらえてもらってもいいかも。

アートの役割?

とくにここ最近気になっていることは「アートとその社会への影響」について。例えばアート・アクティヴィズムという傾向があるけど、そうした表現が社会に与える影響っていったいどんなものだろうか、ということ。ひとつにはアート・プロジェクトや作品を通して、表面化されていない社会の問題の所在に観客を気付かせる、というタイプのもの。でもそれによって何かを知らされた僕たちはいったいどんな行動を取るだろうか。いや、そもそもそこで顕在化した社会問題っていったい何を意味するのだろうか。

アート・アクティヴィズムに対する反応として、アートの自律性を擁護し、アーティストはそんなこととは別に自分の制作をし、もし社会を変えたいのならばむしろアクティヴィズムに移行するべきだ、という意見もあるだろう。同様の問題はACT UP(アクティヴィズム)とGroup Material(アート・アクティヴィズム)の活動を比較すると見えてくるかもしれない。結局のところアート・アクティヴィズムは、アクティヴィズムと比べれば、問題に対して直接的ではないし、むしろ単なるアートでしかない。もっと直接的な行動が必要だ、と言うこともできるだろう。

Creative Timeのナト・トンプソン(Nato Thompson)は、アートは実用的にではなく象徴的に社会に影響を与えるのだと言う(*1)。確かにアートの力はときに詩的でパワフルだし、問題を別の側面から照射しその本質を暴き出す場合もあるだろう。ナトが上げている二つの例を見てみる。ペドロ・レイエス(Pedro Reyes)によるプロジェクト「Palas por Pistols(ピストルをシャベルに)」(2008年)。メキシコ市の西、クリアカン(Culiacan)は麻薬戦争の中心地で、銃撃戦は日常的に起きている場所らしい。その地域でTVを使って銃器のドネーションが呼びかけられる。結果的に1527の銃が集まり、彼ら/彼女たちには地元の電気屋で使えるクーポンが代わりに手渡された。それらをすべて軍施設で金属に変え、1527のシャベルが製作される。それらのシャベルはその地域に緑を植えるために使われた。

もうひとつは「Women on Waves(波の上の女性たち)」(2001年から)。このプロジェクトは内科医のレベッカ・ゴンペルツ(Rebecca Gmperts)によって始められ、法的に中絶のできない国でいかに中絶を受け入れるか、という問題を扱っている。その国の港から12マイル離れると、その船を登録した国の法律が適応される、という事実を利用し、中絶が法的に認められているオランダで登録された船を使って、世界各地の中絶が法的に認められていない国を訪れ、中絶希望者を受け入れようというのがこのプロジェクトの目的である。ナトは上記の二つの例を挙げつつ、実際的に中絶を行った女性は少ないし、麻薬戦争が大きく改善されたわけではないと言う。しかし、そこで重要なのは、象徴的な社会への働きかけてあり、実際的な効果よりも、そうした象徴的な働きかけはときに社会を変える、と言う。

僕たち、コンテンポラリー・アートに関係している人びとはこのようにすぐさま、アートの短期的で直接的ではなく、長期的で象徴的な社会への影響について話す。だとすれば、その長期的な影響の先に期待されるべき、来たるべき社会とはどんなものなのだろうか。

ぼくはこの間ミュンスター・クンスト・アカデミーでの学生とのワークショップに参加したんだけど、他のスピーカーとして参加していたジェレミー・ディラーのトークを聞きながら同様のことを考えていた。バグダッドで自爆テロによって大破した車を牽引してアメリカ大陸を横断するというプロジェクト(「It Is What It Is(これはこれである)」(2009年)(*2)を彼が行ったとき(これもCreative Timeが関係しているプロジェクトだ)、それに反発を唱えたのは他でもないアンチ・ウォーのアクティヴィストだったらしい。その牽引車にはイラク市民とアメリカ軍ソルジャーの二人が同行し、各地方都市のパーキングロットなどで地元の人びととの対話を試みるというこの行為は、とても象徴的で、なおかつ曖昧だ。いわば中間的な位置にあるもの。でも彼は、仮にそれを直接的な戦争反対の行為として行っても、時期的に遅すぎただろうと話していた。だからそこでできることは、より複雑な状況を直接的な対話を通して、ランダムな観客と交換することである、と説明していた。

ぼくはこれらの行為にとても惹かれるけれども、つまりそれらは確かに別の道筋や別の可能性や別の思考を促す。そしてそうしたことはアートのひとつの醍醐味でもあると思う。上記の例は、ぼくたちに、これらの知らないことを知るべきであると押しつけがましく示してくるものではない。むしろぼくたちのよく知っていることについて、さらに考えつづけるためのわずかなきっかけを与えてくれるようなプロジェクトであると思う。ぼくたちは世界が複雑であることを知っている。そしてきっとその問題も複雑であるだろう。そうした同語反復的な状況は、アートの弱さであると同時に、ぼくには魅力にも思える。その上で、そこで本当に目指されていることっていったいなんなんだろう。

無限の倫理?

もうひとつは、最近気になってワリッド・ラード(Walid Raad)のArtist Pension Trust(*3)についてのテキストを読み返したこと。以前、とあるキュレーターに「田中さんはAPTに所属していますが、ワリ・ラードによればAPTはどうやら軍事産業に関連があるようです。軍事産業に関係する団体に所属していていいのですか」と言われたことがある。ワリ・ラードのテキストが真実であるのかどうかは別にして、ぼくがここで気になったのは、そうしたいわば無限の倫理に対してどうぼくたちは対処すべきだろうか、ということ。なぜいまさらそれを思い出したのかというと、ドイツ銀行のクンストハレで個展を行ったとき、こんな匿名の英語メールをもらったから。「ドイツ銀行がグローバルな不正取引によって裁判を抱えていることは知っていますか。そうしたドイツ銀行のスポンサーを受けて、あなたのような社会性をもった表現者がその問題に触れなくていいのだろうか」。ここにも同じ倫理的な問いがあります。

ぼくがまずはそこで思ったのは、ぼくたちは果たして100パーセント潔癖でありえるのだろうか、ということ。ぼくらは全くピュアではいられないと思うけど、それは逃げなのだろうか。

ちょっとこの倫理について話がそれるかもしれないけど、ジジェクのインタビューをもとにした面白いアニメーション「First as Tragedy, Then as Farce」があって(*4)。ここではいわゆる経済的な格差に対して、昔の(68年以前の)システムの中では直接的な慈善事業などが行われていたけど、現在の文化資本主義による経済システムの中では「倫理的な振る舞い」こそが消費サイクルの中に取り込まれている、ということを話している。例に挙げているのはスターバックスのコーヒー。フェアトレードのコーヒーは一杯飲むごとに経済的に困窮している別の社会に「フェア」な賃金を提供している、つまり、ぼくたち消費者はその倫理性を買っている(それによって救済されている)、とジジェクは説明してます。でももちろんグローバル企業によって地元の小さな喫茶店はつぶれてしまうかもしれず、僕たちが買っている「倫理」は、果たして本当に倫理的に正しいのかと言えば軸足をどこに置くかによって変わってしまう。

この二つのことがらにおける、倫理を求める振る舞いは似ていると思う。ぼくたちは日々の生活の中で、その細部まで倫理的に正しく振る舞うべく試されている、仮に自分がその倫理的な不正によって恩恵を受けているのだとしても。

田中功起
2015年6月 ロサンゼルスにて


1. Nato Thompson “Living As Form” in Living As Form: Socially Engaged Art From 1991 - 2011, Creative Time Books, The MIT Press、2012, p.16-33
2. http://www.jeremydeller.org/ItIsWhatItIs/ItIsWhatItIs.php
http://creativetime.org/programs/archive/2009/deller/
3. Walid Raad “Walkthrough, Part I” in e-flux Journal, #48, 2013
http://www.e-flux.com/journal/walkthrough-part-i/
4. Slavoj Zizek First as Tragedy, Then as Farce
https://www.youtube.com/watch?v=hpAMbpQ8J7g



近況:現在、秋口のローマのMACROへの巡回展、来年の水戸芸術館の個展とロンドンのShowroomでの個展に向けた準備を少しずつしています。


【今回の往復書簡ゲスト】
えんどう・みずき(インディペンデント・キュレーター)
1975年札幌市生まれ。京都市在住。国内外で数多くの展覧会を手がけ、地域におけるアートプロジェクトの企画・運営にも積極的に携わる。
2004年、九州大学比較社会文化研究学府博士後期課程満期退学。art space tetra(2004、福岡)、Future Prospects Art Space(2005、マニラ)、遊戯室(2007、水戸)などのアートスペースの設立に携わる。 2004-05年、日本財団APIフェローとしてフィリピンおよびインドネシアに滞在。05年、若手キュレーターに贈られる国際賞「Lorenzo Bonaldi Art Prize」を受賞。「シンガポールビエンナーレ2006」ネットワーキング・キュレーター。2007年、アジア文化基金フェローとして米国に滞在。同年より2010年まで茨城県が主催するアーカス・プロジェクトのディレクターを務める。2011年より「東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS)」代表。他に「第四回福岡アジア美術トリエンナーレ」協力キュレーター(2009)、「CREAM ヨコハマ国際映像祭2009」キュレーター、国東半島芸術祭「希望の原理」展キュレーター。
主著に『アメリカまで』(とんつーレコード、2009)、『Perfect Moment』(月曜社、2011)、『陸の果て、自己への配慮』(PUB、2013)など。
http://haps-kyoto.com/

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