田中功起 質問する 15-2:藤田直哉さんから1

第15回(ゲスト:藤田直哉)― 展覧会の「公共性」はどこにあるのか

批評家の藤田直哉さんとの往復書簡。藤田さんの最初の手紙は、「新しい公共」を考える前提について、ネット空間や社会運動、無意識の宗教性等に言及しつつ応答します。

往復書簡 田中功起 目次


 

件名:芸術祭と公共性

 

田中功起さま

ご無沙汰しております。
いきなり、痛いところを突かれる内容で、なかなか返答に窮しておりました。
ぼくは、美術についても、公共についても、専門家ではない、素人に過ぎません。まぁしかし、素人なりに考えたり何かを言ったりすることも、民主主義の世界では許されているし、何がしか意味があるだろう、と思い、こうして筆を執らせていただいています。


丹羽良徳さんと見に行った新国立競技場の建設現場のすぐ横にあるラーメン屋。

 

「芸術祭」と「インターネット」の公共性

 

丹羽良徳さん、F.アツミさん、丸山美佳さんと、NADiff a/p/a/r/tで開催した「芸術祭の公共圏―敵対と居心地の悪さは超えられるか?」にお越しくださり、ありがとうございました。

ちょうどここ数日、そのシンポジウムを文字起こしした原稿を眺めて、書き直したり考え直したりしていました。近いうちに公開されると思います。
「芸術祭」と「公共圏」をタイトルにしつつ、「炎上」の話もすることにならざるを得ない回でした。両方の話題になるだろうと、打ち合わせの時点で分かっていたので、事前にこんなことを考えていました。

「芸術祭」と「SNS」は、ともに、互いに違う文脈の人たちを接続させてしまう効果がある。その「接続」の効果が、ポジティヴに働くならば、他者の理解なり、多文化主義的な感覚を養成するのに役に立つだろう。ネガティヴに働くならば、SNSの「炎上」のように、異質な世界観・倫理を持つ人たちが、自分自身の価値観を再強化しながら相手をひたすら叩き、リンチすることになる。現実の空間で身体を伴った接続か、インターネット上での仮想的なデータでの接続かの差はあれど、両者は異質な世界観、価値観、美学の人々を強引に接続するという点で似ている。

単身いきなり旧社会主義圏に行ってドキュメンタリーを撮ってしまうような丹羽さんの作品の魅力は、その「接続」の齎すギャップの感覚にあるのです。シュールリアリズムがよく引き合いに出したロートレアモンの「解剖台の上のミシンと傘の偶然の出会い」のようなもので、80年代生まれの日本育ちの青年が、いきなり旧社会主義圏に飛行機のチケットを買って行って、妙な文脈で接続されてしまうことの組み合わせの意外性から作品の価値の一部が生産されている。そのギャップは、芸術的価値を生むと同時に、炎上をも生みかねない、両義性を持ったもので、裏表なんじゃないか(この手法がデペイズマン、すなわち、「故郷から離す」と呼ばれていることは、示唆的だと思います)。

本来つながっていなかったつなぎかたをして、ほっといたら出会わない物事が出会う。そのギャップが何がしかの価値を生産する。
「芸術祭」と「インターネット」、これは裏表のように考えなくてはいけないものなのではないか、とそのときには考えていました。どちらも、「新しい公共」のためのプラットフォームになっているのは間違いがないのですから。
このことは、もう少し説明がいるかもしれません。

 

リアルスペースとインターネットの「公共性」

 

前回の、高橋瑞木さんからの書簡の末尾で「インターネットやツイッターが発明されたとき、これらのテクノロジーは新しい公共性を開拓し、所属を問わず、民主的な意見交換が可能になるというポジティヴな意見がありました。しかし現実が必ずしもそうなっていないのは自明のことです」と書かれているのを見て、賛同するとともに、違和感がありました。

確かに、炎上やフェイクニュースなどの事例を調べていると、そう言いたくなる。ヘイトスピーチやデマなどは、ある人の自由が、他者の自由を脅かす現象にもつながっています。しかし、インターネットが「新しい公共性」のプラットフォームになりつつあるのは否定できません。

というのも、アレントやハーバーマスが言った、「共通の関心のもとで議論する場所」を「公共圏」(=公共性)と看做す場合、それはカフェやサロンなどのリアルスペースだけではなくて、書籍とか新聞とかのメディアスペースもまた「公共圏」だったわけですよ。字を書き、出版に関わる人間として、メディアテクノロジーの発展で「公共圏」が拡大すること自体は否定できない。

同様に、現状では問題だらけだけど、インターネットも「新しい公共圏」の場であることは否定できない。具体的なその中身がどのようなものになるべきなのかについては、ちょうど議論や運動が盛り上がっている最中で、政府が規制したり、テクノロジーを用いて技術的に解決したり、様々な方法でインターネット上の言論空間を良いものに変えようとしています。

現実の空間において、身体を伴う他者と作る「公共圏」も、インターネットのヴァーチャルな「公共圏」から自由でもないし、切り離されてもいない。互いに影響しているし、相補的なので、切り離すことはできない。そう考える根拠は、パブロ・エルゲラの考えや、公共圏の提唱者であるハーバーマスの思想そのものの中にあります。

パブロ・エルゲラは『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門』の中でこう言っています。「『ソーシャル・プラクティス』という言葉が、新しいオンライン・ソーシャル・メディアとまったく同時期に登場し、使われるようになったのは、今日的意味がある。この並行関係はさまざまに解釈できる――新型のSEA(社会関与型の芸術、引用者註)が次々生まれているのは、おそらくコミュニケーションの新たな流動性から触発されたものだが、別の見方をすれば、ヴァーチャルな出会いの希薄な特性への反発、つまりパーソナルでローカルなものが支持された結果ともいえそうだ」(*1)。以下、いろいろ書いてあるんですが、「ソーシャル・ネットワークが社会的なアクションを引き起こす有効な手段である」(*2)とし、フェイスブックやTwitterが有効に機能した「アラブの春」の例を挙げています。

ソーシャリー・エンゲイジド・アートの流行の起源として、インターネットでの「つながり方」のモデルが影響を与えていることと、「ヴァーチャル」への反発をエルゲラが挙げているのが興味深いことで、それは対立するというよりは、相互に影響を与え合っていると考えられています。

エルゲラはハーバーマスを引用して「公共圏」についての話をその手前でしていますから、おそらくハーバーマスの議論の影響を受けたと推定されます。
ハーバーマスは、リアルスペースでの議論である「カフェ」「サロン」のような「公共圏」と、メディアスペースである「出版」「新聞」などの「公共圏」について、前者で人々が習得した態度なり形式が、後者に影響を与えたというような言い方をしています。

やっと本題に戻ってくるのですが、ぼくがあの場で「新しい公共」という言葉を使ったのは、そのようなインターネットの動向と、リアルスペースでの人間の行動とが、互いに影響を与え合うものとして見るパースペクティヴの中においての発言でした。

現在の社会運動などは、むしろインターネットが作り出した「公共圏」的なものありかたのイメージが、現実の空間に持ち込まれた側面があります。かつては「カフェ」→「出版」と影響したのが、「ネット」→「路上」に影響したわけですね。そう考えると、それらはバラバラに捉えるわけにはいかなくなるのではないかと思います。

 

社会運動との関係

 

もう少し、遠回りとして、社会運動の話もさせてください。というのは、ぼくのパースペクティヴでは、全世界的に、「新しい公共」なり、「真の民主主義」を模索する運動が起こっていて、そのような巨大なパラダイム変化の中に、現在の現代アートもあると思っているからです。

エルゲラは、「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」にたずさわるアーティストのほとんどは、「公共圏に影響を与えるような共同制作アート」を「奥深く意味のある方法でつくりだすことに関心を持っている」「多くのSEAプロジェクトは、熟議民主主義や討議倫理学と同じ目標をもって」(*3)いるとしています。

これを読んで、ぼくは思うわけです。たとえば、デヴィッド・グレーバーが『デモクラシー・プロジェクト』の中で活写しているように、広場を占拠してそこに図書館を設営したり、直接民主主義を実現するための意思決定の仕方や意思表示の仕方(手で行うようなものです)を発明した、NYのオキュパイウォールストリートで人々が行っていたことと、このアートの内容は似ていないかと。あるいは、「真の民主主義」を目指し、代議制すら否定しようとしたスペインの15M運動と似ていないか。民主主義や公共圏そのものを発明し、時にユートピア主義的でもある情熱でもって、それを実現し、生きようとし、今ある社会そのものを変えようとするという点において、共通する関心がないと看做すのは難しい。

日本の場合は、国会前のデモや、国会前でデモをしていた若者の集団SEALDs、その後継団体「未来のための公共」、あるいはシェアハウスブームなどが、このような「実験」の同時代的な関心を共有していた運動だと思われます。

 

「新しい公共」を考える前提

 

「新しい公共」を考えるときに、いくつか切り分けなければいけないことがあると思います。まずは、事実と当為。今どのようにあるのかと、どうあるべきなのか、について。

前者についても、実態と概念の両方から考えなくてはいけない。かつてはカフェや新聞が支えていた「公共圏」は、今や違うメディアが支えるものになっている。メディアテクノロジーや法などが目まぐるしく展開していく中で、「公共圏」の物質的な基盤が変化していく、これが実態。それに応じて、「公共圏」についての考え方もアップデートしなくてはならない。これが概念ですね。

またややこしいのは、「当為」が「事実」を変えるダイナミズムがあることで。「こうあるべき」という世論が盛り上がると、フェイスブックは実装したりする(フェイクニュースやヘイトスピーチなどへの対応がそれです)。「新しい公共」を考えるとは、事実と当為が循環していく中で、実態の再把握と概念の更新を絶えず行い、なおかつ、当為を提示し、事実性として存在している何かを変えていく作業である……と言えるだろうと思われます。

その前提の上で、ランシエールの考え方についても、色々と思うところがあります。これも、素人考えなので、ランシエール研究者からはお叱りを受ける覚悟で記すわけですが。

感性的・認識的に均された状態をコンセンサスと呼び、そうではないディセンサス状態を良いという判断は、新左翼運動をやっていたランシエールの生き方にも関わっているかもしれません。抑圧・排除されている者が「異議申し立て」の声を挙げたのが60年代のラディカリズムだとしたら、その精神を継続しているようにも思えます。

ぼくはこの精神に共感する部分が大きいです。しかし、難問はこの先にあります。
「「政治は、感性的世界に混乱を持ち込み、そこですべきこと、見るべきこと、計算すべきことの空間を描き直すことによって、分け前や当事者の配分を狂わせ」ることであると。「合意」による一定の感覚を共有した世界を揺るがすのは、そもそもその感覚を共有していない人びと、ある意味では非当事者(ランシエールの言葉で言えば「分け前なきものたち」)です」と田中さんは書かれました。

最近、自分たちを「分け前なきもの」とみなし、「エスタブリッシュたち」の支配的理念であるポリコレなどの「コンセンサス」を破壊し、「分け前や当事者の配分」を壊そうとしたのは、アメリカのトランプ支持者だったのではないでしょうか。池田純一さんの『〈ポスト・トゥルース〉アメリカの誕生』では、これを、インターネットに大統領選がハッキングされたと表現しています。

これは、インターネットが可能にした「自由」や、「直接民主主義的」に声を発することができるメディア環境が起こしたことだと言えると思います。ある意味で、ランシエール的な行為が、簒奪され、行われているようにも見える。

「当事者/非当事者という配分の感覚が共有されていない、混乱している空間の中で、本来ならば話すべきでない人びとが、「分け前」の配当からは最初からのぞかれている人びとが、気にせず語り出すような場所。ぼくはそうした空間をパブリック・スペースと呼び、それを「公共性」としてまずは考えたいと思っています」とするなら、匿名掲示板とか、SNSでの炎上は、「公共圏」であると考えなければいけなくなってしまう。

たとえば、非モテの人たちの「女をあてがえ」というフェミニストから顰蹙を買い捲っている発言だって、「分け前」から除かれている人の発言ではある。それも肯定しなくてはいけないのか。

あるいは、強めの精神疾患を抱えている人が一日中書き込むことはどう考えるか。田中 辰雄、山口真一の『ネット炎上の研究』などによると、誹謗中傷で検挙される人の中にはそういう人が少なくない。たとえば「妄想」によって、ある民族が日本を侵略してきていると考えている人がヘイトスピーチを書き続けるのをどう考えるのか。彼らは、これまでは言説空間などから排除されがちだった人たちで、「話すべきでない」とされてきた人たちだったかもしれない。

田中さんが記されているように、ヘイトスピーチ問題は、(専門家ではないので、勝手な誤読かもしれないということは自覚した上で言うならば)ランシエール的なヴィジョンに対するクリティカルポイントの一つだと思います。

これは大変厄介な事態で、ランシエールに責任があるわけではなくて、時代の変化とともに、メディアテクノロジーや情勢が変化してしまったので、かつての理想や理念が反転してしまう現象が起こったと理解するべきなのだと思います(あるいは、ランシエールなら、この現状を否定的に評価せず、ディセンサスとして肯定するのかもしれませんが)。

これは一例ですが、「公共」なり「民主主義」なりの、実態と概念の両方をアップデートしなくてはならないと多くの人が考えるようになる原因の一端は、かつての民主主義と出版公共圏を前提としていたものが、インターネット公共圏とでも言えるものの出現によって前提からひっくり返されてきていることにあるのだと思います。
インターネットで起きていることは、人々のその外での行動や思考方法に影響を与えますからね。

 

芸術祭の公共性

 

で、ぼくが「芸術祭の公共性」と言ったときに考えていたのは、インターネットがその震源地のひとつであるような、大きな全世界的な運動の日本における現われとして、多少強引でもいいので、日本の芸術祭や地域アートを捉えてみてもいいのではないか、ということでした。

それは最初っからそうだっただろう、と言われるかもしれません。では何が変わったのかを知るために、「前衛のゾンビたち――地域アートの諸問題」で書いたことを、もう一度おさらいしてみてもいいかもしれません。

「前衛のゾンビたち」や書籍『地域アート』で懸念を示したのは、それぞれの地域で行われている地域アートが、その実、地域性も固有性も尊重しているようでありながら、形式や内容や価値判断などにおいて一様の美学に染め上げられているのではないか、という点でした。成功例が模倣されるからか、行政の性質なのかはわかりませんが、あちこちの芸術祭がワンパターンになってしまう現象が観察されました。ランシエール風にいえば、(日本流の?)「コンセンサス」を志向してしまっていて、固有性や地域性を失っているように思ったんですよ。共有可能で均質な味付けにされた「固有性」「地域性」に過ぎないものが流通しているだけではないか。観光客が好きそうな、素敵な自然とか、宗教とか、田舎とか、既存のイメージに留まってはいないか……そんなことを思っていました。

日本の歴史の中で、ローカルで失われるものを尊重しようとすることが、なぜかウルトラ・ナショナリズムに繋がってしまう事態が発生したことを想起しながら、批判の文章を書いていたことを思い出します。その懸念はいまだに変わっていません。

たとえば、民俗学の創始者である柳田國男の場合。日本の近代化で失われていく「地方」の物事を収集しようとした彼の営みは立派ですが、文芸評論家である井口時男さんの指摘によると、(柳田は)「村落的秩序を破壊する急激な近代化へのルサンチマンを動機にしながら、しかし実際には近代国民国家のナショナリズムを根底から支える役割を担った」「『右傾化の武器』として利用された」(『柳田国男と近代文学』)という側面があります。これは「民俗学的転回」(福住廉)をしていると言われる現代の日本美術に関わる人は常に念頭においておくべき事柄だと思いますが。

なぜこういうことが起きるのかは、よくわかりません。自然とか、ローカルな神仏が、天皇に回収されて考えられてしまうような思考方法が広まったからかもしれません。田中さんが言及されている、「国体」なる思想の存在が、ローカルなものをローカルに留めさせてくれない抵抗として存在しているのかもしれません。

「前衛のゾンビたち」の論考のひとつの肝はここでした。これを克服しないと、ローカルを称揚する行為は、逆のものを生み出してしまう。「多様性」や「差異」を回収してしまう装置の作動をまず問題化し克服しなければならない。
たぶん、ここでは「公共性」のもっと手前の問題があるんだと思います。

端的にいうと、ぼくはそれを「宗教」の問題と考えています。
宗教と言っても、いわゆるカルトというよりは、生活感情や、無意識レベルでの、「自身の存在意義」や「人間のあり方」「集団のあり方」の理解に関わるものを想定しています。「先祖は大事」とか、「目上は敬おう」とか、無意識に人間や集団の規範として作動している何か。「公」「公共」と聞くとすぐに「お上」を想定してしまう思考の背景にある何か。

そこのレベルまで降りた上で、「公共性」の問題を扱うような試みは、危険だけれど、可能性もあるような気がする。神話や、神社や、信仰などに介入するパターンの作品が地域アートで随分多くありますが――リボーンアート・フェスティバルや、カオス*ラウンジ新芸術祭などがその顕著な例ですが、それを「公共性」を、そのもっと基底の部分の感性や根拠の部分から作り直し、考え直そうとしている試みと見てもいいんじゃないかと思うんです。

「神」や「神話」や「死者」や「自然」を扱い、無意識的な宗教性の部分をいじらないとどうにもならない、ということを繰り込んだ上で、「国家神道」などのコンセンサスを要求する無意識的な文化的誘惑に徹底して抗することを、意識的に行わなければダメなんです。それを行い得ている人たちのチャレンジや、形式・手法の発明や実験の中に、初めて「新しい公共性」の可能性が見出し得るのだと思います。

いくつかの質問には直接的には答えられていませんが、字数も多くなってきたので、いったんこの辺りで。

 

藤田直哉 2018年2月 東京にて

 

近況:被災した当事者に書いてもらう「震災後文芸」のプロジェクトを本格始動させます。「地域アート」や「アートプロジェクト」で学んだ手法を、「文学」「出版」に移植してみようという試みです。うまくいくかどうか……。


1. パブロ・エルゲラ『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門 アートが社会と深く関わるための10のポイント』(翻訳:アート&ソサイエティ研究センター SEA研究会)、フィルムアート社、東京、2015年、p. 54
2. 上掲書、p. 55
3. 上掲書、pp. 36-37


【今回の往復書簡ゲスト】
ふじた・なおや(批評家)
1983年、札幌生まれ。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』(作品社)、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)、編著に『地域アート 美学/制度/日本』(堀之内出版)、『3・11の未来 日本・SF・創造力』(作品社)、『東日本大震災後文学論』(南雲堂)など。

 

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