連載 椹木野衣 美術と時評:5

アーネスト・フェノロサ

——このシミュレーショニズムの未知なる起源?

日本の近代美術の成り立ちに関心がある人にとって、アーネスト・フェノロサの名は特になじみ深いものだろう。とりわけ岡倉天心を従えて日本画の復興と革新にあたり、廃仏毀釈で損なわれた仏像の価値などに新たな光(信仰の対象ならぬ「文化財」)を当てたことの意義は強調してしすぎることはない。要は、フェノロサ=天心によって日本美術は近代化され(近代以前に「日本」も「美術」もない)、初めて固有の歴史を持った(歴史とは常に近代から過去への遡及である)とすら言えるのである。

反面、フェノロサによって形作られた「日本美術」が国政のなかで制度的に固着し、近代の渦中ではなく永い時の経過を僭称するようになると、自由を疎外し思考を淀ませる不穏な「伝統」と化す。フランスから帰国した岡本太郎が戦後、正面から戦闘を宣言したのは、そのような意味での近代的伝統だった。またその背後から頭角を現した前衛と称される一連のムーヴメントが闘ったのも、同様の新しき伝統だった(ゆえに日本の前衛は近代以前の習俗とはむしろ相性がよい)。


アーネスト・フェノロサ(1853 – 1908)

だが、である。もしもこれらの諸前衛が主要な武器とした多様な近代攻撃の手法そのものが、アーネスト・フェノロサに敵対するどころか、彼が遺した近代以後(ポストモダン)の思考に由来するものであったとしたら、どうだろうか? 20世紀の言語・イメージのラディカルな組み替えを行おうとするすべての冒険者たちが知らず由来しているのが、日本における悪伝統の創始者=アーネスト・フェノロサその人にほかならないとしたら?

こんなことを考えたのは、先日、髙田美一氏による『フェノロサ遺稿とエズラ・パウンド』(近代文藝社、1995年)を手にしたからだ。日本文化をめぐるフェノロサ晩年の遺稿が彼の死後、未亡人を経てロンドンでエズラ・パウンドの手に渡り、大きなインスピレーションとなったことは知っていた。が、そのことの意味についてここまで詳細に論じたテキストを読むのは初めてで、強い関心を惹かれた。主張の骨子は、「イマジズム」「ヴォーティシズム」などで知られるパウンドの近代文学上での革新的な実験は、フェノロサ遺稿の支配的な影響下に形成されたものであり、なかでも最重要視すべきは「詩の言語としての漢字考」だというものだ。とりわけ「『ヴォーティシズム運動とE・パウンド』序説−−−パウンドの芸術論の背景に関する考察、フェノロサ vs. パウンド」なる冒頭の論考は、パウンドによるフェノロサ遺稿の入手をそれまでの通説よりも早く見る立場から、そこに決定的な影響があったことを実証しようとする。そのうえで、両者のテキストの類似を詳細に検討していく刺激的な論文である。

いま従来の通説と書いたが、本書を通じてわたしは、パウンドに対するフェノロサの影響について、英米文学の研究ではいくつかの説があることを併せて知った。したがって純粋に文学研究の上では、この見方に斬新なものはない。が、そのフェノロサが「日本美術」の創始者でもあったという観点に立ったときには、どうだろう。誤解を恐れずに言えば、日本美術を刷新するようなフェノロサの視点のなかに、もともと、20世紀の芸術上で冒険を切り開く端緒となるような着想が、すでに備わっていたのではないか。そのような着想があったからこそ、フェノロサは日本美術を革新することができたのではないか。更に言えばフェノロサの日本文化論こそが、パウンドを経てT・S・エリオットやジェイムズ・ジョイスへと流れ、アレン・ギンズバーグらのビート・ジェネレーションへの影響下、後に誕生したポストモダン文化全般を導く、ひとつの無視すべからざる端緒となっていたのではないか。

というのも、髙田氏の論考を読むと、フェノロサが漢字(日本文学)について考えていた可能性が、想像以上に大胆なものであったことに気付かされるからだ。たとえばフェノロサは、天と地の間に引かれる稲光のようなものも原始的な「文形」として捉えており、究極的にはこうした自然現象と言語とのあいだの差異を撤廃しようとしている。つまりフェノロサが文というとき、それは同時に自然界に内在する現象や物でもあって、一般的に理解されているように、自然を人工的に意味に置き換えたのが言語というわけではない。となると、文に内在する自然は絶え間なき運動そのものでもあるから、そこには常に具体的な動きが存在する。ここまで来ればヴォーティシズムまで紙一重だ。もともとヴォーティシズムは「渦巻き(ヴォルテックス)」から来る形容で、その運動の広がりは詩のみならず絵画や彫刻をも呑み込む総合的なものであった。が、そこで共通して自然に由来する形象の具現化が見られたのも、直接には「文字=自然現象」という非意味論的な着想に由来すると考えられる。

フェノロサのこうしたラディカルな文字観が、詩作のみならず、水墨画のような絵画制作にも共通していた可能性は高いだろう。なんとなれば、水墨画は墨を水に滲ますことを利用した用法ゆえに、描いた図像は結果的に多くの自然(制御不可能な偶然)を孕んでいる。こうした発想は尖筆(=仮設としての幅ゼロの線)で描き、可能なかぎり偶然を排して自然と対立しようとした西洋の筆法とは真っ向から対立する。フェノロサの志向した「日本画」とは、ありていに言えば狩野派の西洋絵画化とでも言うべきものだが、フェノロサが米国でヘーゲルの哲学とスペンサーの進化論を習得したことから予測されるように、理念的には両者(毛筆と尖筆)の相矛盾する性質を弁証法的に止揚したところに「日本画」の目標を置いていたと考えてよい。

自然と人為、西洋と東洋とのあいだの矛盾・対立を、世界史の次元でヘーゲル的に終焉(歴史の終わり)させようとしたフェノロサの着想は、日本画のみならず、20世紀の絵=文をめぐる実験全般に影響を及ぼしていたかもしれない。だとするなら、まったくの荒唐無稽とも言われかねないパウンドの代表作『キャントーズ』が、彼が保護したジョイスの複雑怪奇な言語実験(そういえば、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』には雷の描写が数回に渡り見られるが、そのなかには日本語 kaminari も含まれていた)や後のウィリアム・S・バロウズのカットアップ文学にも増して文学の体裁をなさず、ほとんど広大無辺な宇宙と一体化するような多種多様性を抱き込んだまま、まるで一大星雲のように広がっている様を、稲妻をも文字と見なしたフェノロサに由来するヴォーティシズムの最果てと見ても不合理はない。

我が身に引き寄せれば、J・G・バラードの濃縮小説やバロウズのカットアップ・メソッドを経由して、『キャントーズ』の遠い末裔と位置づけられうる「シミュレーショニズム」の非歴史主義的アナーキズムは、紆余曲折を経ながらも、それを生み出したアーネスト・フェノロサを、知らずして仮想敵(父殺し)に据えていたのかもしれない。しかし、極論すれば、悪しき伝統の媒介者たるアーネスト・フェノロサこそが、実際にはシミュレーショニズムの未知なる起源であるかもしれないのだ。

連載 椹木野衣 美術と時評 目次
第4回 美術史概念から単独者へと——『躍動する魂のきらめき—日本の表現主義』展を見て
第3回 ‘文化’資源としての〈外地〉——豊田市美のアジア展
第2回 文化行政の「事業仕分け」について
第1回 大竹伸朗の現在はどこにあるのか

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