連載 田中功起 質問する 3-2:保坂健二朗さんから 1

件名:孤独であること

田中さんの第1信はこちら往復書簡 田中功起 目次

田中さん。 

LAでのんびりだなんてウラヤマシイ。東京は寒暖の差が激しくって体調を崩しそうですが、なんとか展覧会準備を進めています。『建築はどこにあるの? 7つのインスタレーション』(*1)というタイトルは、田中さんにテキストを寄せてもらった『建築がうまれるとき ペーター・メルクリと青木淳』展(*2)にちょっと似ていますね。自分でも時々間違います。


自宅で原稿を書くときに見える風景。つまり僕にとって、もっとも「身近」なもの。

田中さんも知っての通り、僕は建築の研究者ではありません。といって、長谷川祐子さんの『Space for Your Future』のように、アートとの境界が曖昧になった建築(あるいはその逆)に興味があるわけでもなく、またオブリストとハンルゥの『Cities on the Move』のように、都市という観点から建築に興味があるわけでもない。そうではなくって、「つくることとはなにか」を教えてくれるひとつの事例として興味があるんです。それと同じような観点からでずっと興味を持ち続けているのがアウトサイダー・アート(以下OAと略記)です。

OAはつくり手の属性によって他から区画されているという点で、ちょっと特殊なジャンルです。知的障害者、精神障害者、幻視者、正規の美術教育を受けていない人、犯罪者、社会不適格者、高齢者がつくったものが「OA」として紹介されるわけで、作品の特性があったとしても(実際あるんですが)それについてはほとんど触れられることがなく、とにかく「つくり手の属性」が判断基準となっている。

それじゃいけないと思って、OAについての本(*3)に収める鼎談をやりませんかと言われたときに、奈良美智さんと高嶺格さんに声をかけて3人で話をしました。プロのつくり手であれば感じであるだろう、同じつくり手としての共感と違和感とを聞いてみたかったんです。
出版時には削ってしまったんですが、そのとき、中原浩大さんについて話が及びました。削った部分の内容はふたりにチェックをお願いしていないのでここで詳らかにするわけにはいかないのですが(「公開」書簡ですしね!)、燕の作品は人間が誰でも持ってる核みたいなものに触れてる気がするとか、ロールシャッハの作品はほんとに偶然性でできたものを見てきれいと思う瞬間の感情を作品にできないか試みている気がするとか、そんな感じの発言が出たように記憶しています。

このふたりの意見にもにじみ出ていると思うのですが、中原さんのこの時期の作品は、「つくる」前提に「見せる」ことが含まれていないように感じられて、そこが面白いと僕は思っています。
もしそうだとすると、その態度は、OAのつくり手の多くに当てはまるわけです。彼らの多くは、依頼もなければ展示の機会もないところでただつくる。しかも気が向かなくなったらやめちゃう。うまくなろうともほとんどしない、しかも場合によってはつくったものを自ら破り捨ててしまう。つくられたものへの執着がないかわりに、つくるという行為が純粋に抽出されているとすら言いたくなる。

「つくる」という行為の根源を考えたいと思う僕にとってなかなかなじめないのは、成相さんから田中さんに宛てられた書簡にもあったような「作品」をめぐる受容美学的な思考方法です。成相さん曰く、『誰も見ていない段階で作品が成立するとはぼくには思えません。物理的な「完成」であっても、作品の「成立」は見る人がいて初めて起きるのではないですか。 物質の方ではなくて関係の方を「作品」と呼ぶのではないでしょうか』。
もしお酒が入っているときに聞いた話であれば、「そんな言い方が許される状況になっているから、作品が、作家が弱々しくなっていくんだ」と息巻くかもしれません。あるいは、「つくることの意味をないがしろにするな!」と叫び出すかもしれない。もちろん、声には出さずにね。

いわゆる受容美学の理論は、見る側にも、つくる側にも、優しいです。解釈にはいろいろあっていいんだよと見る側を励まし、大丈夫、作品を決定づけるのは鑑賞者なんだから、とつくる側を励ます。誰も間違いを犯すことがなく、孤独な人もいないハッピーな世界。そんな世界の存続を支えてきたのが、展覧会あるいは美術館という制度であるのは、言うまでもありません。
昔、川端龍子という日本画家が「会場芸術」「展覧会芸術」なる概念を打ち出したことはよく知られていますが、彼をそう否定できないのは、多くの現代芸術が(川端のケースとは別のファクターが助長されているとはいえ)まさにそういうものになってしまっているからです。作品のスケールが、物理的にも精神的にも「展覧会」という制度に、あるいは「見る」という行為に寄り添いすぎてしまっている。そして、ある大事な感覚が、どんどん忘れ去られつつある。

僕が「大事な感覚」に目覚めたのは、おそらく18歳の時だったと思います。中沢新一の愛読者だった僕は、『バルセロナ、秘数3』に痺れて、バルセロナからそう遠くないところにあるモンセラートに行ったんです。黒いマリア像があることで有名な巡礼地なんですが、僕も行列に並んで、マリア像へと歩みを進めました。前にたどりついたとき、僕は、これを見るだけで帰るのは嘘だと、それはしちゃいけないと思った。でも洗礼を受けてないこともあって、他の人がしているように聖母が持つ球体(グローブ)に口づけることはためらわれてしまった。
最終的にとった行為、それはいわゆる間接キスです。指先を唇にあててから、球体に触れ、その指をもう一度唇に戻す。そのときに覚えた不思議な感覚は、今でもよく覚えています。……「巡礼」という行為について考えさせられたこの体験は、僕にとって、「アートとはなにか」あるいは「見たいと思う気持ちはいったいなんなのか」を考えるときの基盤になっています。

展覧会は「見る」という行為に支えられて成立しています。極言すると、そのとき「作品」は、オブジェクトというよりは作者のメッセージを伝えるメディウムとなっている。媒介することが本義となった作品に対して、いろんなところに出張するのを期待するようになるのは、必然の結果です。
それに対して、巡礼の場合は、同じ「見る」でも、「触れる」や「(こちらが)赴く」という行為に支えられている。このとき「作品」は「そこに」+「在る」ものとなる。ある場所にいけば、あの作品に出会え、そして触れられる。それを信じることが生きる糧にすらなる。言い換えれば、見えなくたって、見たことがなくたって、そうした作品がこの世の中にあることを信じられれば充分なわけです。アートには、あるいは人間がつくりだしたものには、そうした力が宿ることもあるのだという事実を、僕らは今一度確認しておく必要があると思います。

宗教彫刻だと説得力がないかもしれないので、もうひとつ事例を挙げておきましょう。
ペーター・メルクリがハンス・ヨゼフソンという彫刻家の作品のために設計した美術館が、南スイスのジョルニコという小さな村にあります。『すばる』(*4)という文芸誌に書いたことがあるので詳細はそちらで見ていただけると嬉しいのですが、その美術館には、基本的に誰もいません。入り口を開ける鍵は村のカフェで借ります。言ってみれば、作品のためにつくられた空間に入ることを、束の間、許されるだけなのです。

僕は、こんな施設をつくったふたりを心から尊敬しています(建設途中でお金が尽きて、屋根がない状態が数年続いたりもしたそうで)。あのヨゼフソンの作品は、誰も見ていないところで、絶妙な比例関係を保ちながら佇んでいる。その毅然とした在り方を生み出すことができたのは、ヨゼフソンという人のつくるという態度にも拠っているはずです。彼は、ただただ孤独に、彫刻をつくり続けてきました。1920年に生まれた彼にギャラリーがついたのはほんのこの数年の出来事です(今でこそHauser & Wirthの扱いですが!)。
メルクリという、弟子であると同時によき理解者である人物がいたとはいうものの、基本的にヨゼフソンは、誰が見なくてもかまわないという態度において、ひたすらに悩み、つくり、そしてそれらが集まる場所を、おそらくは作品そのもののためにつくったわけです。そういう制作態度は、どこかアウトサイダー・アートとの類似性も見せつつ、僕たちに、アートの、あるいはアーティストのあるべき姿を考えさせてくれるように思えてなりません。

森美術館では「芸術は可能か?」という副題を持つ『六本木クロッシング2010展』が始まりました。まだ見に行っていませんが、「アート」ではなく「芸術」という言葉にちょっと新鮮な響きを聞き取りながら、僕が信じる作品の在り方は、果たしてなんと呼ぶべきなのかしらと思うのです。

  1. 『建築はどこにあるの? 7つのインスタレーション』東京国立近代美術館、2010年
    http://www.momat.go.jp/Honkan/where_is_architecture

  2. 『建築がうまれるとき ペーター・メルクリと青木淳』東京国立近代美術館、2008年
    http://www.momat.go.jp/Honkan/Maerkli_Aoki

  3. 『アウトサイダー・アートの作家たち』(監修:代島治彦)、角川学芸出版、2010年
    http://www.kadokawa.co.jp/book/bk_detail.php?pcd=200912000356

  4. 「ヨゼフソンの彫刻を見た者は」『すばる』5月号、集英社、2008年
    http://subaru.shueisha.co.jp/html/art/a0805_1.html

ほさか・けんじろう(東京国立近代美術館研究員)
1976年生まれ。専門は近現代芸術およびフランシス・ベーコン。主な共著に『戦争と美術 1937-1945』『キュレーターになる アートを世に出す表現者』など。担当した企画展は本文を参照のこと。

近況
4月29日から開催される建築展の準備中。アーティストとはつくり方=つきあい方がやっぱり変わってくるのでなかなか楽しいです。そんな建築家たちの制作状況を特設サイトでブログ風にアップしているので、是非みてください。
http://www.momat.go.jp/Honkan/where_is_architecture/work_in_progress/

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