連載 田中功起 質問する 13-5:菅原伸也さんへ3

第13回(ゲスト:菅原伸也)――現在の日本で共同体を再考することについて

菅原伸也さんとの往復書簡。田中さんからの最後の手紙は、菅原さんの挙げた「類似性を基にした共同体」という言葉を、自らの考える「抽象」と関連づけて語ります。

往復書簡 田中功起 目次

件名:類似と抽象と、人間と人間の間

菅原伸也さま

返事がまた遅れてすみません。
そろそろ来年の発表に向けた仕事が佳境に入ってきています。

ここ数年仕事量が増えたこともあって、それに対応するためにどうするべきかをずっと考えています。人を雇って会社のようにしてより大きく仕事を展開する方法もあるし、逆に自分で手に負える範囲に仕事を絞るという方法もあります。現状では仕事を絞ることでぼくの仕事量を押さえ、加えて外注で短期仕事を頼むことでなんとか維持してきたんですが、そろそろ絞るにも絞りきれない感じになってきてます。仕事の方法論は、それがそのまま制作や実践にも影響を与えるので、慎重にならざるをえないんですが、自分の体力面や対応できる数も考えると、このあたりで根本的に見直さないといけないかもしれません。近年のぼく自身の関心が制度面にも及んでいるので、結果的に自分の仕事量を自分で増やしている部分もありますから。展示キャプションや出版物だけではなく、複数のイベントやワークショップを考える作業は、むしろエデュケイショナル・キュレーターの仕事に似ていますね。


アリゾナで思いがけず出会ったホームタウンの名前。

参加から類似へ

前回の菅原さんの返事の中で、ぼくの水戸芸術館でのプロジェクトについてのひとつの解釈が示されました。それは展覧会という場で生成される観客を含めた「共にいる」人びとを、類似によって、時空間的に遠く離れているもの同士を繋げる共同体として捉え直したのでした。場所や歴史という隔たりをもった他者を、菅原さんは類似によって関連づけます。そのとき、六日間のワークショップへの参加者も、観客も、あるいはワークショップの中で扱われたかつての社会運動に参加した人びとも、社会状況の類似(平塚らいてうが生きていた時代と現在は似ているかもしれない)、置かれている立場の類似(観客の誰かは、参加者の誰かと普段の生活の中で似ている立場にあるかもしれない)、あるいは、そもそも「人」であるという類似によって、関係づけてしまう。菅原さんは「展示会場内における共同体において、ただ無関係にバラバラに存在しているのではなく、差異を孕みつつ互いは互いに似ているのです。それは敵対でも調和でもない共同体のあり方です」と書きました。類似というのはいいですね。「同じである」と捉えると違いがかえって目立ってしまいますが、「似ている」というとき、そこには曖昧さが含まれます。この余剰によって無関係なものが、その無関係さのままで緩やかに関連づけられる。この思弁的な繋がりによって、思いがけないもの同士が類似することに気付かされることもあるかもしれません。

そしてこの「類似」は、ぼくがここ数年ずっと考えつづけている「抽象」と関連づけて語れるのではないか、という提案がありました。抽象を類似の観点から語り直す前に、前々回のぼくの問いを(菅原さんはそれに触れなかったので)、ぼくなりに、回収してみます。

少しふり返ります。「参加」の問題を考えるときに、単に受動的な参加者を能動的にするという議論では、市場化された世界の論理に絡めとられてしまう。なぜなら起業家精神に満ちた能動的なあり方が目標とされ、すべては個人の能力の差として査定されているからです。能動・受動をめぐる問題設定をもつ「参加」の要請はこの社会を覆っている。この構造に疑問をもち、「参加しない」という選択をしたとして、それは集団としての力を持ち得ず(なぜなら個々の能力問題へとこの社会は解体されているため、そもそも連帯をすることが難しい)、能動的に参加しない人びとは能力のないものたちとして社会から排除されてしまう、もしくは生活が立ちゆかなくなってしまう。少なくとも、どのような立場にあるにせよ、スキルを磨かないかぎり(能動的でないかぎり)、生きていくことが苦しくなる。世界を覆う能動性の要請の外に出るためには、「受動性を能動性に変える」というタイプの議論をやめなければならない。

ここでぼくが疑問に思ったのは、果たしてその問いの外に出ることはそもそも可能なのかということでした。そこで菅原さんはアガンベンを引きつつ、内/外という二項対立ではなく、「外の内」として、問いの外部を人間と人間の間に見出すことを提案されました。人間と人間の間とは、まさに共同体のことであると。ここには、しかし、飛躍があると思います。能動/受動の問いから外に出るための方策と、人と人の関係に生じる共同体はどう繋がるのか。この展開をぼくなりに考えてみます。「能動か受動か」という二項対立の問いを立てていたのは「われわれ」の方でした。市場化された社会の側はむしろ「能力の差」ですべてを判断しているのだから、そこには二項対立が存在しません。このとき、人びとは個体としてフラットに扱われ、その上で能動性を軸に、できるひとからできないひとまでが大きなグラデーションの中に納められてしまいます。人びとはそのときに誰かと共にいることではなく、個々に競争の中に置かれ、分断されます。震災後の状況を敷衍すれば、被災の経験の差によって、人びとのまとまりがばらばらに分断されてしまったことにも対応しますね。微細な経験の差が、お互いへの配慮ではなく、競い合いになってしまう。

このような人びとの間にある場所を問いの外として見出したとしても、そこにある人びとの間はとてもぎすぎすしたものかもしれません。しかし、すくなくともそのぎすぎすした空間も、人と人が織りなす様々な「関係」のうちのひとつです。競い合い、さげすみあう関係と同列に、相互に影響し合う関係、あるいは相互に依存し合う関係をここに持ってきてみましょう。ぼくたちは、個別に自立し能力を競う関係とは別の、共に支え合う関係も知っています。だれしも子どもであったとき、親のケアを受けることで育ってきました。極端な例かもしれませんが、育児や介護などによる二者関係を人間と人間の間にある「問いの外」として考えてみてはどうでしょうか。自立した個人の能力を資本のひとつであると見立てるのがネオリベラリズム社会だとすれば、人と人の相互依存による関係は個の自立とはほど遠いからこそ、人びとの別のあり方を示しています。もちろん自立した個というのも、そもそも幻想かもしれません。ぼくたちは純粋にひとりで生きることはできません。この問題は杉田敦さんとの議論の中でも触れられています。相互依存のネットワークの中で人びとが生きているのだとすれば、人と人の間にある場所に、人びとの別の関係性を見出すことは必然でもあります。能力主義、市場化、個人主義などの問題の「外の内」としての場所、共同体がそこに見いだせるのも納得ができます。市場化され、個別化された個人同士の関係に世界は覆われている。同時に、その個々人の関係を相互依存のネットワークとして反転的に見出すこともできる。

こうしてやっとぼくなりに菅原さんの議論の展開を理解しました。相互依存における個の問題は、さらに作品の自律性や作者性の問題にも接続できるかもしれません。なぜならこの視点に立つとき、ひとりの強い作者ではなく、弱い共同制作者たちによる緩やかなネットワークを作者論/作品論として考えることができるからです。今回はここに立ち入らず、抽象へとさらに話を繋げてみましょう。

類似から抽象へ

ぼくが「抽象」として考えているのは、何か具体的なものから一般的なものを抽出するという意味での抽象ではありませんでした。むしろ具体的なものが集まることによって生じる不確かさ/曖昧さを指して抽象と呼んだのでした。例えば全く異なる意見を持つ人びとが集められた会議をイメージしてください。個々には明確な主張があります。しかしそれらが多数集まると議論がまとまらず収集がつきません。その議論の総体を指して抽象的なものになってしまった、という言うことがあります。しかしそこでは具体的で明確な議論が展開されていたわけです。ここには具体と抽象の二項対立ではなく、抽象の中に具体的なものが含まれる、そんな見方をしています。

一方でこの考えかたを類似から書き換えると、また違った見方ができます。もうひとつの「抽象化」が考えられます。例えば複数の具体的な現実の状況を思い浮かべましょう。シリア難民やイギリスの脱EU問題、アメリカの大統領選、日本での若年者の自殺、こうして集まると、問題がそれぞれ複雑すぎて不確かでつかみ所がありません。悲惨さや不穏さを認識する以外ぼくたちには、どこから手を付けて良いかわからない。しかしそうした複数の事態を貫く、類似する項が存在するかもしれません。それはある意味では類似する形式のようなものです。例えば過去に起きた出来事を現在の事象との関係で見たときに、類似したものを見出すことがあります。ぼくがリバプールで行ったプロジェクトはまさにそれです。過去と現在の類似する形式があったからこそ、過去のストライキがもう一度召喚される必然性がありました。現在の問題を考えるために過去の出来事がもう一度呼び起こされる。そこで呼び戻されているのは過去に対するノスタルジアではなく、現在の問題を考えるためのアクチュアリティです。再行為をするとき使われたプラカードには、過去のストライキで使われたスローガンが書かれています。しかし、そこでは、過去のスローガンのうち、当時の問題やサッチャー政権を批判したテキストは使っていません。現在の若年者労働問題に関連する過去のスローガンだけが再現されています。二つの具体的な出来事が、類似の形式という抽象的な操作によって同列に扱われる。つまり過去と現在が抽象化されることで繋げられる。

「具体的なものが集まることによって生じる不確かさ/曖昧さ」としての「抽象」と、類似の形式による複数の出来事を繋ぐ操作としての「抽象」。類似する形式に着目するとき、複数の出来事は、時間や空間と関係なく、それらを貫く糸を見出し、まとめ上げることができる。歴史や地域の問題をサイトスペシフィックなものとして、特定の場所や時空間に閉じ込めるのではなく、類似のネットワークによる、相互浸透の問題として扱う。そのとき、ぼくたちは当事者問題の呪縛からも少しだけ解放されます。自分が関係しない過去の出来事も、自分が関係しない別の場所で起きている現在の問題も、共に自分が関係することとも、あるいは関係しないこととも繋げられ、それは時空間を超えた類似の共同体をつくりうる。そのときだれであっても、現在の(自分の)問題として、遠い出来事を、それが過去のことであったとしても捉えることができる。言語や人種や宗教やジャンダーや個々の信条・思想や立場をも超えて。

最後の返信、楽しみにしています。

田中功起
2016年9月 ミュンスターにて

近況: 来年の複数の展覧会に向けた準備をしています。

【今回の往復書簡ゲスト】
すがわら・しんや(美術批評・理論)
1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論修士課程修了。主な論文に「百瀬文論/分裂する空間」、「高橋大輔論/絵画と絵画でないもの」(ともに「北加賀屋クロッシング2013 MOBILIS IN MOBILIー交錯する現在ー」展覧会カタログ)。最近の論考に「クロニクル、クロニクル!」展レビューがある。 https://sugawarashinya.wordpress.com

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